2023年8月26日土曜日

『徴古雑抄』 に記録された土御門帝 (2) | つちみかど上皇ものがたり

『徴古雑抄』 に記録された土御門帝 (2) | つちみかど上皇ものがたり

『徴古雑抄』 に記録された土御門帝 (2)

 (1) からの続きです:

   見残し
鍋倉ノ局、長倉局は後を慕ってきたのを見残し
(帝がご覧になっていた?)になった場所で、御楯場より下を「みぞうけ」と言います。

 

打ち置け
兵士たちが里に敵が見えると申し上げたところ、天皇が「うちおけ
(放っておけ)、うちおけ」とおっしゃった場所です。

 

もみがた尾
天皇お一人が馬上にてモミニモンデウタセ
(敵兵をけ散らして倒された?)た場所。

 

一立
兵士たちが遅れて駆けつけてきたので、御馬を止め、お一人で立たれた場所。

 

膳が丸
御膳を差し上げた場所です。

 

御所谷
天皇が隠れられた場所。この谷に御馬の足跡が岩に残りました。また 御腹石 として血に染まった大岩が谷の中にありました。
さまざまな病人や作物に害虫がついたとき、この御水をかけるとたちまち治まることが、人々によく知られていました。

 

盆餅の原、鍋倉谷、長倉谷
鍋倉ノ局、長倉ノ局のお二人が帝王にお餅を差し上げようとして盆にお餅を盛って、きこりに行き合い、天皇はどちらにおられるかと尋ねたところ、亡くなられたと答えたので、盆を地面に投げ捨てて、二人の局が自害した場所です。
このきこりの子孫でしょうか、宮川内では餅をつかない家がありました。

 

注進の段
陣ががけはここにありました。

 

 
御陵
西原彦太夫が谷口で防戦していたとき、天皇が自害なされたと聞いて、追って切腹しようと思ったのですが、都におられる女御様のことを思い出して切腹は思い止まり、小笠原弥太郎を呼んで共に御尊骸を15日寅の刻(午前3~5時)に御所の南に葬って 「大墓御陵」 としました。

 

昌仙塚
西原彦太夫はなお敵を追ってゆき、池ノ谷で深手を負って戻ってきましたが、18日に死去し、大法寺 に葬られました。後世になって子孫が護成昌仙大居士という法名をつけたのでしょう、我が家で毎朝お祀りしてきました。このため、この塚のあたりの字を昌仙塚といいます。

 

山野王子 嵯峨原
西原彦太夫が死ぬとき、新太郎を呼び、におられる女御様が
(帝の)御身の上のことをご存じないのでお前はすぐに行って来いと言うので、急いで嵯峨に帰り、詳しくお伝え申し上げたところ、女御様のお嘆きは深く、すぐに剃髪されて、私は 嵯峨の尼 である、早く阿州へ下って帝に香華を捧げなくてはならないと仰いましたので、新太郎はお供をして阿州に帰って、原の御所の御遊屋敷にお隠れになりましたが、敵方に知られてはいけないので、宮川内の東の山にお隠れになりました。

この場所を 山王子嵯峨原 と言います。

嵯峨原という地名は2カ所あるので、御所屋敷の西北のほうの地名を 山下 と言います。

 

そのほか、遊塚、姫塚、御花塚、乳母塚、尼塚、御立石、女夫塚というような地名がみんなこの近くにあります。
昔はこの近辺の地名はみんな高井とかスカ井とか言い、井戸がありました。先祖から神棚で毎朝 「御所天皇・嵯峨尼大明神」 とお祀りしてきたのです。 

  

ほととぎす ふりむく空は あさぼらけ
           高井の松に 残る月かも

住み慣れて またたち戻る ほととぎす
           すか井の森の 松のこずえに

 

この古い書は「帝王略記」とともに別紙で代々書き伝えられてきたものです。

                                    苗孫(子孫の意味?) 同姓 勇造
                                                      俊(花押) 

 

"澁谷美那文書"ここまで

***

土御門帝が薨去されたときの執権は第3代の 北条泰時 (ほうじょう やすとき)。

在任は 1224年 - 1242年、承久の変のときは総大将として後鳥羽軍を蹴散らした人物です。

でも武闘派というより、初めての武家法 「御成敗式目」 を制定したり集合統治体制を作るなど、政治手腕が評価されています。

Wikipedeia に興味深い記述があります。

仁治3(1242)年に四条天皇が崩御したため、順徳天皇 の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていたが、泰時は父の順徳天皇がかつて 承久の乱 を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対し、忠成王の即位が実現するならば退位を強行させるという態度を取り、貴族達の不満と反対を押し切って 後嵯峨天皇 を推戴、新たな天皇として即位させた。

この強引な措置により、九条道家や西園寺公経ら、京都の公家衆の一部から反感を抱かれ、彼らとの関係が後々悪化した。

新天皇の外戚(叔父)である 土御門定通 は泰時の妹である竹殿を妻としていたため、以後泰時は定通を通じて朝廷内部にも勢力を浸透させていくことになる。

   

それにしても、上皇がご自害されたということに違和感をぬぐえません(単に時代劇で貴族の自害という場面を見たことがないからですが・・・)。

その現場を誰も見ていないようだし、お一人でおられたという記載が多く、ご自害を局たちに伝えたのがきこりというのも妙でしょう。

中心人物の西原彦太夫も、敵を追って池ノ谷で深手を負って帰ってきたとか、切腹を思い止まって(女御に使いを出した)という流れも、少し妙です。

この時代、泰時の息子や娘と孫を失う悲劇が、承久の乱で王家に刃を向けた報いと考えられたはずですし。


***


付記 1

承久の乱 について

Wikipedia の記事の最後にある一項を加えておきます。

 

承久の「乱」と「変」  
安田元久「歴史事象の呼称について」によると、本事件について大正中期までは 「承久の乱」 の表記が主流だったが、皇国史観 の立場から「承久の変」の表記を使わせるようになった。

これは、上皇が「反乱」を起こすはずがないという思想的立場を優先させたものである。

しかし、「変」は主に不意の 政治的・社会的事件 に、「乱」は主に 武力を伴う事件 に使われていることから、戦乱の発生した本事件に「変」の表記は無理があるとしている。
 
第二次世界大戦後は 「乱」表記が主流 になっている。

しかし、田中 卓の 『教養日本史』 を始め、明成社の高等学校用教科書 『最新日本史』、新しい歴史教科書をつくる会の中学校用教科書 『新しい歴史教科書』などでは「変」を用いている。

付記 2

小杉榲邨について

阿波古事記研究会のサイト内、「波阿波」(第58号)に尾野益大さんの小論文が掲載されています:

『忌部の話』三十一 

「小杉榲邨」  

明治初年,式内社・忌部神社の所在地を特定する論争がわき起こった時,重要な役割を果たしたのが徳島出身の歴史家・小杉榲邨(すぎむら)だった。

 

1834(天保5)年,徳島藩中老である西尾家の家臣,小杉家に生まれ,国学 を池辺真榛らに学んだ。

榲邨は忌部神社論争で,旧木屋平村三ツ木に住む阿波忌部の末裔三木家に伝わる 「忌部の契約」文書 などを根拠に挙げ,旧山川町山崎の忌部神社と比定考証したことで知られる。


榲邨は東北から九州までの寺社,旧家などを調査,筆写した古文書集「徴古雑抄
(ちょうこざっしょう)」(正編138冊,続編51冊)をまとめた。

この中で三木家文書など阿波徳島の古代から近世までの史料を 「阿波国徴古雑抄」 として別に著した。今でも徳島の郷土史を学ぶ人々のバイブルである。

発刊にあたり,「古語拾遺新註」 の著者・池辺真榛を庇護した小松島市金磯の多田家が支援したことが,阿波国徴古雑抄の冒頭に記されている。


発刊が計画された際,榲邨は病床に臥しており,発刊のめどが立ったことを大いに喜んだという。しかし残念ながら榲邨はこの書を見ることはなかった。3年前に亡くなっていた。

榲邨は1874(明治7)年に東京に移り,文部省や東京大学,東京国立博物館に勤務。正倉院 の調査研究でも活躍した。

徳島出身の後輩学者の鳥居龍蔵や喜田貞吉とも親交を結び,鳥居夫妻の結婚の媒酌人を務めた。

榲邨は忌部に関する史料も多く集めたほか,鳥居の著書「ある老学徒の手記」に記した榲邨自筆の和歌に 「忌部宿祢」 の印を押しており,阿波忌部を深く意識していたことが分かる。

阿波国徴古雑抄は喜田が代表者だった日本歴史地理学会が発刊。榲邨が日本書紀に基づいて提唱した「法隆寺再建論」を継承したのも喜田だった。
歴史を振り返ると,阿波忌部を通じてつながった大きな輪が見えてくる。

謎を解く楽しみを遺してくださった、偉大な先人に感謝して本稿を閉じます。

合掌

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