2023年8月26日土曜日

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 忌部神社遷座考(4)

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 忌部神社遷座考(4)

忌部神社遷座考(4)

忌部神社遷座考(1)


前回までの記事をお読みでない方は上の記事からどうぞ。


前回はどうも先を急ぎすぎて、説明が少なすぎたようでした。
いくらか、追加しておきます。

小杉 榲邨(こすぎ すぎむら)
天保5年12月30日(1835年1月28日) - 明治43年(1910年)3月29日)国学者。
徳島の人。藩校で漢学経史を学び、古典の研究に専念し、本居内遠の門人である池辺真榛に
師事。
安政元年(1854年)、江戸に出て、村田春野、小中村清矩と交わった。
文久ころ、勤王論を唱えて幽閉された。
明治2年(1869年)、藩から地誌の編集、典籍の講義を命じられた。
廃藩ののち、名東県に出任した。
明治7年(1874年)、教部省に出仕し、明治10年(1877年)に文部省で修史館掌記として
『古事類苑』の編集に従った。
明治15年(1882年)、東京大学古典講習科で国文を講じ、さらに文科大学講師、
その間、帝室博物館監査掛評議員として古社寺の建築、国宝の調査に従事し、
明治32年(1899年)、美術学校教授、御歌所参候を兼ねた。
明治34年(1901年)、文学博士。「徴古雑抄」の著がある  Wikipedia より

池辺 真榛(いけべ まおり)
文政13年(1830)6月6日~文久3年(1863)9月8日 〔享年〕34

徳島藩士、国学者。池辺光友の長子として生まれる。
安政6年、藩主蜂須賀斉裕に召されて江戸に行き、政道の諮詢に答えたが、他に任用を
妨害され、空しく帰郷。
文久元年、南佐古町の某家に寄寓して著述に従事し、また志士と交わって国事を談じた。
3年春、小杉榲邨とともに藩政を非議した罪で、7ヶ月余藩邸に幽閉。
9月8日、急病のため歿した。
はじめ郷人の井上春城・吉成芳介に就いて学び、のち難波に遊学して、萩原広道に
国学・和歌を学んだ。
弘化5年、本居内遠に入門。その高弟となった。
『古語拾遺新註』『活語略図説』『栄華物語略註』など27部211巻を著わし、内遠に
賞賛されたが、現存しているものはわずか6部のみに止まっている。
うち『古語拾遺新註』は、昭和3年に明治聖徳記念学会の校訂により刊行された。
国学者伝記集成. 続編、 阿波人物誌より

と、まあ引用してみましたが、こんな紋切り型の説明じゃピンときませんよね。
でも、ここらを書き出すと一向に話が進みませんので。

そして、もひとつ追記ですが


>そして、孝義(たかよし)の養子となった正親は文政九年(1826)名を佐渡とします。
>そうです、
>「後、文政九年(1826)二宮佐渡が山崎村の神主として迎えられた」
>と書いた「二宮佐渡」はこの正親です。



と、書きましたが、なんで麻生から二宮かといいますと、美馬郡猪尻村八幡神社神主の
二宮出羽守が勝太夫の親戚で正親はその弟とあります。
神職の免許自体は麻生佐渡正で取ってるようですが、もともとが二宮姓ですし、二宮佐渡と
記載してある資料もありましたので、わたくしめも二宮佐渡としました。



えーと、先に進んじゃいます。前回で

1815年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足し、神社改めが
行われました。
徳島県では忌部神社が国幣中社として扱われる事となったのですが、前回まで
にも書いたように正式には所在が不明です。
候補としては川田種穂神社・宮島村(川島町)八幡宮・西麻植村中内明神・上浦村斎明神・
牛島村大宮等が挙げられていましたが、阿波藩より国の官吏となっていた
小杉榲邨(こすぎすぎむら)は明治七年二月二日、建言書において山崎忌部
神社が妥当であるとしました。
まで書きました。
で、この建言書の中で小杉 榲邨(こすぎ すぎむら)は、木屋平村三ツ木三木貞太郎所有の
古文書。正慶元年(1332)十一月氏人十三名の契約書を、重要な証拠の一つとして挙げて
います。転記します。

御衣御殿人(みそみあらかんど)契約状
契約 阿波国御衣御殿人子細事
右件衆者御代最初御衣御殿人たるうゑは 相互に御殿人中自然事あらば是を実放聞放べから
す候。此上者衆中ひやう定をかけ其可有儀者也。但十人あらば七八人儀につき 五人あらば
三人儀につくべきものなり。但強盗山賊海賊夜討におき候ては、更に相いろうべからず候
上者 不可に入及。そのほかのこと一座見放べからず候。但 この中にいぎをも申しいらん
がましきこと申物あらば、衆中をいだし候べきものなり。此上は一年に二度よりあいをくわ
へてひやうぢやうあるべく候。会合二月二十三日やまさきのいち九月二十三日いちを可定者
也。仍契約如件
正慶元年十一月





明治四年の調査のとき、阿波藩の役人はこの文書を見ていませんでしたが、小杉榲邨

が明治六年(1873)国の命令で調査した時

この文書を見て、上記文書中「やまさきのいち」とあるので忌部の正蹟を確信したと

いうことですが、この調査を行ったのは「野口年長」。

1850年から調査に入り、明治四年にも調査している「野口年長」がこの文書を見ていない!

「四至立石(しいしたていし)」をも調査発見している「野口年長」がです。

確かに「山崎村忌部神社考」を見ても「阿波国続風土記」を全部ひっくり返してみても

その記述は見つけられませんでした。














ただ、含みがある部分として

「阿波国続風土記」の第五巻87ページ左の部分です。

「是より下次の巻に......日鷲神裔孫の成行木を記したるに......」

どこかに眠ってるのかもしれませんが、行方は知れません。



そして、この建言に基づいて、明治七年五月九日付けで、国は実地調査のため、官員を


名東県(今の徳島県)に出張させると小杉に口達しました。

明治七年五月十日付国から実地検査のため大沢清臣・清水重華が出張し、この時小杉榲邨

は名東県(徳島県)の役人でしたが、立ち会うよう命ぜられました。

その結果、明治七年(1874)十二月二十二日山崎忌部神社は国幣中社と決定されました。

こうして山崎村、国幣中社忌部神社の宮司は蜂須賀隆芳、同権宮司加茂百十が任命され

明治八年二月十三日祭典が行われましたが、

国幣中社に決定の上はそれに相応しい社殿の建造も必要なので、明治十一年より

度々営繕願を政府に出していましたが承認されず数年が過ぎていきました。


それは、明治七年(1874)十二月二十二日山崎村の忌部神社が国幣中社に決定されると、

それまで沈黙を守っていた貞光村が忌部神社は当方が正蹟であると言い出していたからです。


明治八年(1875)一月田村神社宮司細谷庸雄は「忌部神社鎮座考」及び

「忌部神社正蹟」三冊を著し、忌部神社正蹟は貞光村であると主張しました。

この田村神社って何?といいますと、香川県高松市にある田村神社のことです。

なぜ高松市の宮司が出張って来るのでしょうか。

小杉榲邨によるとこの細谷庸雄はもと種穂忌部神社の宮司で香川に栄転した人だそうです。

これに対して当時国の官吏となっていた小杉榲邨も「鎮座考辨妄」一冊を著してこれを

弁駁します。

明治九年三月には細谷庸雄は「正蹟補考」を出し前著を補正した所、小杉榲邨また

「正蹟補考辨」を出し両者が対面して討論に及んだ事もあったということです。


で、前回は山崎村側の主旨を出しましたので。貞光村側の言い分も挙げますと



1貞光村には忌部に関わる史跡、旧跡が多数残る

2貞光村村田国蔵所蔵の永禄の棟札がある。 この棟札には「天日鷲命四国一宮」と

あるので、真の忌部神社であるとする

3麻植氏系図、三好康長の願文、忌部市のあったこと。


などです。

さて、争いは、いよいよ泥沼化してきました。

いよいよと言えば松本伊代(ふっる〜)。

次回で両村の争いは一つのクライマックスを迎えます。


いや、ほんとに先を書きたいんですが、まだひと山ふた山ございます。

今日はこの辺でおやすみなさい。

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