尾野 益大
斎部広成が平安時代に著した「古語拾遺」を考証,注釈した研究書「古語拾遺新註(8巻)」の著者が徳島にいた。その名は池辺真榛(いけべまはり)。阿波を代表する国学者であり,幕末に尊皇攘夷の立場で国事を論じた志士である。徳島藩士・樋口藤佐衛門の家臣・池辺武右衛門の長男として1830(天保元)年に生まれた。
古語拾遺新註は20歳のとき志し26歳で完成させた。内容について,古語拾遺には古事記や日本書紀に漏れた珍しく貴重な事柄があり,わが国の祭事・政治・経済などの大本と上代の歴史・思想を研究する上で古事記,日本書紀に次ぐ大事な書物と位置づけている。古語拾遺新註は後世に「本居宣長の『古事記伝』,鹿持雅澄の『万葉集古義』,鈴木重胤の『祝詞講義』に匹敵する価値がある」との評価もあった。また日本浪曼派の保田興重郎を若いころ感動させた名著でもあるという。
やはり徳島出身の国学者・小杉榲邨が「池辺真榛は歴史上の真実について言えない事情があった」との意味深い発言をしたとされる。真榛は,忌部と忌部にまつわる古代阿波の役割について重要な事実を知っていて,藩の命令で隠さざるを得なかったのではないかと推測できる。事実,真榛は藩政を非難した罪で藩邸に幽閉され赤痢のため34歳の若さで亡くなった。幽閉は幕府の志士弾圧の余波だったとされるが,それだけが理由だったのだろうか。
真榛が各地で集めた貴重な資料集である真榛直筆の「古文書集(5冊)」も存在する。この中には阿波国最初の国絵図「新島荘図」(758年)も筆写されており,小杉榲邨が「阿波国徴古雑抄」で公表する以前に真榛はその存在を知っていたことを証明した。真榛の実証的態度は既に現代の科学的な資料収集・保存の方法論に通じるものがあった。
その古文書集は小松島市金磯の名家・多田家に伝えられていた。多田家は真榛を擁護した家として知られ,榲邨の「阿波国徴古雑抄」の発刊を支えた家であった。そして阿波忌部の末裔である旧木屋平村の三木家,旧美郷村の後藤田家と親戚である。
0 件のコメント:
コメントを投稿