(資料)<日本の真相 1~8><神々の真相 1~6>リンク 古代物部王国と籠神社、秦氏の起源、大和朝廷、人類創世神話とシュメール、ほか 『MILLENNIUM』日本という国の意味がこれで明らかになった、八咫烏の関係者曰く、真名井神社、伊雑宮の復活が意味するところ
<日本の真相>古代日本には、物部王朝があった。そこへ、原始キリスト教の流れを汲む秦氏が来日した。そして、ある目的のために国中をカッバーラで封印し、今日に至る。それには、日本固有と思われている神道(しんとう)が大きく関わっている。その神道を理解するためには、<ユダヤ教>と<キリスト教>の内容をしっかり把握しておく必要がある。勿論、日本神話を踏まえた上で。
これらの情報は、飛鳥昭雄・著「学研ネオ・パラダイム ASKA シリーズ」を集大成し、小生の考えを加筆したものである。このシリーズは以前から知っていた。しかし、天照大神はイエス・キリストである、なんてよくあるこじつけ話だし、中には漫画形式のものもあるので、気にも掛けていなかった。それに、飛鳥氏はサイエンス・エンターテイナーなので、このシリーズでは UFO などの著書が本命である。それを読むと、ちょっとこれは…というのもある。
しかし、最近の日本古代史研究などを読むと、古代の天皇は朝鮮半島から渡来した大王であることが書かれている。それなりに妥当性はあるが、新たに疑問が生じた。ならば、何故、朝鮮半島から来なければならなかったのか?万世一系が必要な本当の理由とは?それ以前の天皇や日本はどうだったのか?と。
それで、飛鳥氏の一連のシリーズを思い出し、書店で手にしたところ、天皇家は朝鮮半島から来た騎馬民族の大王であり、当時の半島も高句麗、新羅、百済、(任那ではなく)伽耶と正しい国名が記されていた。それで、一気呵成に読み進めたのである。
飛鳥氏はモルモン教徒であるから、聖書には詳しい。そして、モルモン教は三位三体の教えである。しかし、それは三位で唯一絶対神を表す考えではないし、また、モルモン教は米国から救世主が誕生するなどと言っており、米国カルト系キリスト教の根源でもある。それに、宇宙論や超常現象解釈から、彼はWeb 上でもいろいろ言われている。
しかし、彼が神道の奥義を司る「八咫烏」と直接対談して得た情報であること、そして、論理的に一本筋が通っていることから、「八咫烏」と直接対談したことも、そこから得た情報というのも、"正しい"と判断した、いや、判断せざるを得ないのである。とても、空想や思いつきで書けるような代物ではないのである。特に、内容が皇室や神道、伊勢神宮の根幹に関わることなので、一度発行しても、不敬罪などで回収されて発禁となるだろう。しかし、再版もされているのである。著書の中に、漫画で皇室関係者が「この件について皇室は無関係である」と言っている場面があるが、おそらく、そうなのであろう。なお、「八咫烏」については後で詳細説明するが、特別な伝(つて)が無いと会うことすら不可能。対談できても、相手に深い知識と理解が無いと判断されれば、即座に対談は打ち切られ、以後二度と神道の奥義に近づくことは許されない。昔は、目、耳、口を潰され、手を切られ、闇に葬られたそうだ。そこまでしても守るべき「奥義」とは?以下、その内容をまとめたので、紹介する。
(1)古代物部王国と籠神社
古代日本は、物部王国であった。彼らは、海のシルクロードを渡ってきたイスラエルの失われた十支族の中の一部の者たちである。日本の建国は BC660 年であり、失われた十支族が建国したと考えても良い年代である。(北朝が滅亡したのは BC722 年。物部氏については未知の部分が多く、現在、調査中である。)
最も勢力を誇っていたのは、東海地方から畿内まで治めていた尾張氏(尾張地方の名の由来)と、畿内から丹後付近までを治めていた海部(あまべ)氏である。尾張氏は代々熱田神宮の宮司の家系であり、別姓が海部氏である。つまり、尾張氏と海部氏は同族の物部氏である。よって、愛知県西部に海部(あま)郡があり、海部(かいふ)なる姓がある。
海部氏こそ、代々、京都の天橋立の袂にある籠神社の宮司の家系である。籠神社の謂われには、次のようにある。
"神代と呼ばれる遠く遙かな昔から奥宮真名井原に豊受大神(トヨウケノオオカミ)をお祀りしてきましたが、その御縁故によって人皇 10 代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からお遷りになって、之を吉佐宮(よさのみや)と申して一緒にお祀り致しました。
その後、天照大神は 11 代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は 21 代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。
両大神が伊勢にお遷りの後、天孫・彦火明命(ヒコホアカリノミコト)を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めてきました。
極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祀られているとも伝えられます。尚、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいます。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。又別の古伝に依れば、十種神宝(天祖から賜った剣などの十種類の御神宝のことで、物部氏の長が持つ印)を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に又大汝命の御子であると云い、一に丹波道主王とも云う。"
最初に祀られていたのは豊受大神という神で、奥宮真名井(まない)原であった。奥宮真名井原は真名井稲荷神社のことであり、祭神は宇迦御魂(ウカノミタマ、保食神、豊受比売、天孫降臨でお供として降りた食べ物の神である登由宇気神)であるから、豊受大神=宇迦御魂である。(「ウケ」と「ウカ」は同じ。)いわゆる"お稲荷さん"である。お稲荷さんは保食と五穀豊穣を願う神である。豊受大神が、伊勢神宮の外宮で天照大神へ食を捧げる神として祀られているのは、そのためである。つまり、ここの神社は天照大神信仰ではなく、元はお稲荷さんだったのである。
ここで言う極秘伝とは、表に出せる「公式な極秘伝」であり、裏の極秘伝によると、本来の主神は「天之御中主神」であり、古事記で最初に現れた神である。すなわち、豊受大神=天之御中主神である。
また、天照大神が大和の笠縫邑から移動してきて、それを吉佐宮(よさのみや)=与謝宮として祀り上げた。そして、天照大神は伊勢の内宮に、豊受大神は外宮に移動した。天照大神の御神体は何箇所か移動し、ようやく伊勢に落ち着いたのである。つまり、伊勢神宮内宮の原型は移動式の幕屋で、ヘブライの移動式神殿と同じなのである!実は、神社とイスラエルの神殿の構造は、まったく同じである。
多くの囲いに囲まれ、2 本の門がある。内部には、神社では手を清める手水舎(てみずや、ちょうずや)が、神殿では洗盤がある。そして、神社では拍手を打って祈りを捧げる拝殿、御神体と祭壇が安置されている本殿の二重構造であり、神殿では拝殿である聖所、本殿である至聖所の二重構造である。また、拝殿の前には幕が下がり、至聖所の入り口には大きな垂れ幕が下がっていた。そして、ソロモンの第一神殿はレバノン杉などの木製であり(第二神殿は石)、神社も木製である。
更に、神社の拝殿の上には大きな注連縄(神界との結界を表す)があり、そこには稲妻の形を模した紙垂(かみしで)が下げられている。つまり、注連縄は雷雲なのである。となると、お祈りする前にガラガラと鈴を鳴らすのは、雷鳴である。そして、その下には(賽銭)箱がある。これは、ヤハウェが「契約の箱アーク」の上に降臨する時の情景そのものである!
すなわち、神社とは、古代イスラエルの神殿そのものである。であれば、豊受大神=天之御中主神=ヤハウェか?
ひとまず先へ進もう。籠神社には海神がワタツミノカミ(「海幸彦と山幸彦」で登場)として祀られているが、宮司によると、実は先祖は海神ではなく天之御中主神であることから、"海で生活していた人"ではなく、"海を渡ってきた人"である。同系統の物部氏としては、三重県志摩地方の的矢氏があるが、この付近は海女さんが有名で、やはり"海女=あま=海部"である。
他にも天照皇神社(天照大神の和魂(にぎたま)または荒魂(あらたま))、猿田彦神社、蛭子(えびす)神社がある。蛭子の前に"水"を付けたら水蛭子、ヒルコだ。ということで、古事記の有名どころが大体揃っている。
ところで、現在の籠神社の主祭神は、彦火明命=賀茂別雷神=天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、別名天火明命天照御魂神天照国照彦火明命饒速日命であり、古事記の天孫降臨も合わせると=天津日高日子番能邇邇芸命となる。<日本神話>では賀茂別雷命=神武天皇=神武天皇の皇后であり、「海幸彦と山幸彦」では火照命が兄、火遠理命が弟であったのにも関わらず、ここでは火火出見(ホホデミノミコト)命の弟である火明命=火照命となっている。ホホデミとは山幸彦=火遠理命のことだから、兄と弟の立場が逆転している。
このような事実、そして、矛盾する神々の名前や性質に着目し、ある法則を見つけたのが、第 82 代宮司、海部光彦氏である。それを「多次元同時存在の法則」と言う。その法則は、次の通りである。
・神のみに適用される。"原則として"実在の人間には適用不可。
・神の世界故、時間と空間を超越する。
・神は分身を造ることができる。
・その分身は別名として表現される。
・同じ名前の神(同じ「読み」を含む神)は、同一神である。
この法則に従い、神話の神々、籠神社に祀られている他の神々なども合わせれば、
「天之御中主神」=「豊受大神」=宇迦御魂=彦火明命=火火出見=賀茂別雷神=天照国照彦天火明櫛玉饒速日命=天火明命天照御魂神天照国照彦火明命饒速日命=天照国照彦火明命=天火明命=天照御魂神=天照国照彦=火明命=饒速日命=「天照大神」=「猿田彦」=「素戔鳴尊」=……=「神武天皇」
という図式が出来上がる。つまり、「八百万(やおよろず)の神々」と言われている日本神話の神々は、(天孫の系統は)すべて、天之御中主神=豊受大神=天照大神に収斂する、唯一絶対神崇拝なのである!(天宇受売命、天太玉命、天児屋根命のような単発の神はこの系統ではない。)
このように、1 人の神を、名前を変えて分けることを「分魂(わけみたま)」と言う。
失われた十支族は背教=多神教崇拝が原因で滅びた北朝の末裔なので、それに懲りたかどうかは知らないが、信仰としては唯一絶対神=ヤハウェを忘れてはいなかった。そのため、各物部の部族が(物部一族は全国に広がっていた)、それぞれに都合の良い名前で、自分たちの先祖に絡めて唯一神ヤハウェを祀り上げ、更に自然信仰まで加えていたのが、古代物部王国の実態である。つまり、ヤハウェの大元の日本名が、天之御中主神である!
モーゼの預言(申命記 28 章 46 節)に、"主は地の果てから果てに至るまで、すべての民の間にあなたを散らされる。あなたも先祖も知らなかった、木や石で造られた他の神々に仕えるようになり…"とあり、多神教になることが預言されており、しかも、神道では木や石にも神が宿るとする。しかし、それらは仏像などの偶像ではなく、依代(よりしろ)である。そして、神社の形式は臨在の幕屋形式である。偶像が無く、臨在の幕屋(形式の神社)に宿るのはヤハウェである!
天之御中主神=豊受大神=ヤハウェの証拠が他にもある。豊受大神は伊勢神宮の外宮でも祀られているので、籠神社は外宮の「元伊勢」という。その豊受大神は内宮の天照大神に食事を作る神なので、食料の神である。名前からしてそうである。"豊かな実りを受ける(授ける)"ということである。
さて、モーゼがヘブライの民を率いて"約束の地"へ向かっていた時、ヤハウェは食料として天からマナを降らせた。つまり、ヤハウェも食料に関係がある。(マナは"マンマ"の語源でもある。)
また、豊受大神=宇迦御魂であり、お稲荷さんである。"いなり"には"稲"という字がある。稲は、雷がよく鳴る年には豊作になるという言い伝えがある。それ故、雷は"稲の妻"、稲妻なのである。また、ヤハウェが降臨する時は、必ず雷雲と稲妻を伴った。稲の中は白い米であり、ヤハウェが授けたマナは白いウェハースのようなものであった。
そして、決定的なのが、籠神社の御神体である。これも極秘伝であるが、その御神体は純金でできたイスラエルの三種の神器の 1 つ、「マナの壺」である!これが、奥宮真名井原、すなわち、奥宮である真名井稲荷神社に祀られていた。真名井とは、勿論「マナの壺」に由来するものである。代々、宮司を継承すると、純金の壺を僅かばかり削り、それを飲むことが継承の顕しだったらしい。今は"神隠し"にあって壺は存在しない。御神体が神隠しにあうというのは、裏がある。そう、伊勢神宮外宮の"本物の御神体"として祀られているのである。これで、外宮の神が食料の神であることが物的にも納得できる。
よって、外宮の表向きの御神体は壺と一体となった勾玉、すなわち「八尺瓊勾玉」である。(山幸彦の首飾りの珠=勾玉が壺にくっついて取れなくなったことを思い出そう。これで、海神が海部氏の象徴であることが解る。)「八尺瓊勾玉」は現在、皇居にある。
籠神社は天橋立の袂にある。天孫降臨となった場所は、全国にいろいろあるが、天橋立を伴うものはここしかない。天橋立は、天浮橋が倒れたもの。似たようなものにヤコブの階段(梯子)がある。アブラハムの孫ヤコブ(後のイスラエル)は、旅の途中、野宿して夢を見た。先端が天まで達する階段が地に立てられ、天使たちが昇り降りしていた。そして、天橋立も同様に神が昇り降りしていた。故に、天橋立のモデルはヤコブの階段(梯子)である。
このように、海部=尾張氏が失われた十支族であることは、間違いない。そして、御神体「マナの壺」があった真名井稲荷神社の社紋は六芒星、ダビデの星だったのである!(現在は、「八咫烏」から圧力が掛かって、通常の三つ巴紋に変更されている。)
よって、これらのことから、ヤハウェ=天之御中主神であると言える。
ヤハウェ=天之御中主神=豊受大神=天照大神=猿田彦(=……=神武天皇)で、イエスは御子=ヤハウェ=イエスということを明らかにしたから、
イエス=天之御中主神=豊受大神=天照大神=猿田彦(=……=神武天皇)
としたいところであるが、物部王朝の段階ではできない。何故なら、彼らは北朝、失われた十支族の末裔であるから、イエスが誕生する以前に極東まで来ており、肉体を持ったイエスの存在は知らないからである。
海部氏がこれほどの御神宝を持っている以上、同族の尾張氏もそれに匹敵するものを持っているのが筋というもの。ならば、残りの「アロンの杖」(「アーク」は南朝が持っていた)である。これが日本の三種の神器の 1 つ、「草薙の剣」として熱田神宮で祀られているのである!「アロンの杖」と「草薙の剣」は共に蛇に関係があり、両方とも善が悪に勝ったところも似ている。更に、"薙"という言葉自体が"蛇"を表しているが、それについては後述する。
「草薙の剣」は安徳天皇が瀬戸内海に没した時、共に沈んだ。しかし、その後、源氏の兵が浜に漂っているのを見つけ、それが熱田に戻された。いくら御神宝といえども、鉄や銅の剣ではそんなことはあり得ないし、錆びてしまう。
浮いてきたのは、「木の杖」だったからである。また、江戸時代にこっそり盗み見た僧侶は、切腹を命じられた。天皇陛下といえども、御神宝を直接見ることは禁じられているのである。何故か?
なお、前述の十種神宝は物部氏の長が持つ印であるが、物部氏が失われた十支族ならば、各族長の印と見なすことができる。つまり、物部氏が失われた十支族であることを、十種神宝として象徴しているのである。
(2)秦氏の起源
古代物部氏は、海のシルクロードを渡ってきた、失われた十支族の中の一部の者たちであった。これと同じく、陸のシルクロードを渡ってきた者たちもいる。それが秦氏である。
秦氏は朝鮮半島からの渡来人であり、土木工事や鉄器製造、機織りなどに優れた殖産豪族であることは知られている。例えば、京都の嵐山は秦氏の拠点の 1つであり、桂川の治水工事や有名な渡月橋の建造は、その例である。それだけでなく、彼らは芸術的センスにも優れ、秦氏の氏寺、広隆寺にある新羅様式の弥勒菩薩半跏思惟像は国宝第 1 号に指定されたほどのものである。
秦氏は弓月君(ゆづきのきみ)に率いられて渡来したと言われている。そのためか、彼らが関係するところは、"月"に関する名前が多く見受けられる。例えば、先ほどの渡月橋。桂川の"桂"は月に生えている伝説の木であると言われる。また、月読命を祀る月読神社は秦氏の創建である。さて、秦氏とは何者なのか、見ていこう。
北朝イスラエルが滅亡後、北朝十支族は歴史から消えた。聖書には、失われた支族は東で膨大な数になっている、とある。そして、彼らは「マナの壺」と「アロンの杖」を携えていた。
エルサレムから見て東側、大陸には多くの遊牧民が生活していた。スキタイ族、サルマタイ族、匈奴、鮮卑、烏桓などである。ユダヤ民族は元々遊牧民の血統であるから、いつしか遊牧民と同化した。遊牧民は宗教に対しては寛容であるので、彼らが何を信仰していても問題なかった。そして、次第に極東方面までに達していた。このような騎馬民族が、大国中国をして、戦々恐々とさせていたのである。その防衛手段として造られたのが、万里の長城である。
BC2 世紀ごろには、東北アジアにツングース系騎馬民族「扶余、夫余」が出現した。その大王の名が「解夫婁(ヘブル)」であり、当然ヘブライのことである!従って、扶余族こそ、失われた十支族の流れなのである。
彼らは朝鮮半島に達し、高句麗を建国した。更に南下し、元々あった馬韓(農耕民族)に加え、辰(秦)韓、弁韓を建国した。(辰韓と弁韓はそれぞれ 12 カ国に分かれていた。つまり、同じ扶余族でも、様々な部族から構成されていたことを意味する。)これらは、後にそれぞれ百済、新羅、伽耶になった。これを裏付ける資料が、古代朝鮮の歴史を記した「三国史記」の中の「百済本記」である。
「百済本記」には、百済の歴史が記されている。その建国神話では、解夫婁の息子、朱蒙(シュモウ)には 2 人の息子がおり、兄が沸流(フル)、弟が温祚(オンソ)と言った。彼らは一族を率いて南下し、フルは海側に、オンソは内陸に国を造った。オンソの国は百済へと発展したが、フルの方は土地がやせて衰退。これを恥じ、フルは自殺した。だが「百済本記」の序文には、始祖はフルであるとも記されている。しかし、フルの行方がまったく解らないのである。
そして、古代の半島では、死んだことになっているのは、他の国へ行ってしまった場合が多い。(天智天皇や天武天皇もそうである!)
さて、百済王家の姓は解氏と真氏であり、出自は扶余族とある!つまり、百済王家は高句麗から分かれたツングース系騎馬民族、扶余族の流れなのである。当時、東北アジアに広がっていた騎馬民族はまとめて"秦人=流浪の民"と中国から呼ばれていた。つまり秦氏である。解氏は繁栄したのだが、真氏は滅びた。よって、解氏=オンソであり、真氏=フルである。そして、解氏の"解"は、解夫婁の"解"である。
ここで、真氏=フルの行方を追う前に、もう一方のイスラエルの支族、南朝の行方を追ってみよう。
当時、中国ですら、神が住む国として崇めていた場所がある。それは、西王母伝説に見られるような不可侵地域で、名が示す通りの天の山、天山山脈の麓の弓月王(ゆんず)国=新月王国=三日月王国であり、弓月城(くるじゃ)とも言った。他に亀慈(くちゃ)とも書く。この国は、夜も製鉄の火の明かりが消えないハイテク国であった。製鉄はシュメールからヒッタイトへと受け継がれた。当時、夜に光があることは滅多に無かったことから、神の国と見なされ、それ故に"天山"である。また、ここの地名はヘブライ語で"ヤマトゥ"と呼ばれており、"神の民"の意味であり、イスラエルの十二支族を象徴するのである!そして、"やまと"の語源でもあるのだ!どうも、ここに原始キリスト教徒が来たようなのである。
ついに南朝ユダ王国も滅亡寸前になると、異教徒の手に落ちる前に、原始キリスト教徒の祭司(レビ)一族は密かにアークを持ち出していた。原始キリスト教徒は祭司一族と共に、失われた十支族の後を追ってシルクロードを東征したのである。「契約の箱アーク」とイエスに関する物を持ち出して。
何故、彼らを追ったのか?1 つには、彼らは「マナの壺」と「アロンの杖」を持っている。そして、もう 1 つはイエスの教えである。イエスは、ユダヤ人のみに対して伝道したが、"イスラエルの家の失われた子羊"にも伝道しなければならないとしていた。子羊とは神の生贄であり、神の僕のことである。それは、神と契約を交わした、失われた十支族のことに他ならない。そして、聖書には、失われた支族は東で膨大な数になっている、とある。そこで、ユーフラテス川を越え、シルクロードを東征していくと、ヤマトゥの地に当たる。そこで彼らは、元々いたシュメール~ヒッタイトの末裔と同化し、鉄器製造、土木工事、芸術などの高度な技術を受け継いだ。
彼らが更にシルクロードを東征して中国へやって来た時、中国式の名前、すなわち、漢字で姓と名が必要とされた。ユダヤ人は姓が無かったので、何か姓を付けなければならない。中国は彼らの姓を"秦氏"とした。"秦"とは"秦の始皇帝"の"秦(シン、チン)"ではない。当時、中国ではローマ帝国のことを大秦と書いた。この頃のエルサレムは、ローマ帝国領であった。大秦から字を採って"秦氏"、また先ほどのように"秦人"で"流浪の民"の意味がある。彼らが、放浪の民だったからである。更に、彼らが自分たちのことをアラム語で"イエフダー(ユダヤ)"と言っており、「フダー」から「ふた」「はた」としたのである。(中国や朝鮮半島の非ユダヤ系秦氏は「チン」と読む。)
よって、南朝の原始キリスト教エルサレム教団の彼らこそが、本当の秦氏なのである。
彼らは中国と戦ったり牽制したりすることなく、失われた十支族の後を追った。そして朝鮮半島に達し、とうとう失われた十支族の流れを汲む扶余族と合流した。そして、更に南下して伽耶に達した。(伽耶の元は弁韓であり、辰韓と弁韓はそれぞれ 12 カ国に分かれていたことから、伽耶はエルサレム教団の秦氏が建国したのではなく、伽耶の中の一国が彼らの国だった、と推測するのが妥当だろう。)そして、文化的には新羅(辰韓)の様式を継承していた。
しかし、4 世紀頃に中国が台頭すると、高句麗がそれに抵抗。そして半島全体が動乱に巻き込まれた。この頃の伽耶は新羅と百済に挟まれた小国だったので、海を隔てた九州物部王国と同盟を結んでいた。
この動乱を機に、伽耶に居た十支族の流れを汲む騎馬民族が、東シナ海を渡って九州物部王朝に渡来した。その頃の遺跡に、突如として馬具が多く見られるのは、そのためである。その大王こそが、伝説上で海側に国を造ったが衰退し、自殺したと言われている、フル、真沸流なのである!
秦氏は弓月君に率いられて来日したとあるが、それが真沸流ではない。真沸流は失われた十支族の流れを汲む騎馬民族の大王であり、"秦人"と呼ばれていた秦氏である。エルサレム教団の秦氏ではない。しかし、外から見れば、同じユダヤ系の区別のつかない秦氏なのである。
また、弓月君なる人物は存在せず、"秦氏を表す象徴"である。これは、当然、先の弓月王国に由来するものである。(京都・太秦、広隆寺の側にある大酒神社では、秦氏の首長として、秦酒公、秦の始皇帝と共に弓月君が祀られている。ここでは"ゆんずのきみ"と読ませており、弓月王国に由来していることが解る。しかし、秦の始皇帝とは関係無い。カモフラージュである。)
また、騎馬民族は宗教に寛容といえども、エルサレム教団系の秦氏が保有する、何かと曰く付きの「契約の箱アーク」の存在は知っており、自分たちの祖先もアークに降臨するヤハウェを信仰していた。そして、アークこそが王権の中の王権の印である、と。そのため、エルサレム教団系の秦氏は、大王からも一目置かれる存在であった。
つまり、朝鮮半島から渡来した秦氏とは、最初が失われた十支族の末裔の騎馬民族であり、後の日本の根幹を形成することになる中核の秦氏は、原始キリスト教エルサレム教団(特に祭司一族)だったのである。
(3)大和朝廷
失われた十支族の流れを汲む騎馬民族の大王、真沸流が東シナ海を渡って九州物部王朝に渡来した。そこで、真沸流は婿入りし、物部王朝の大王となった。
すなわち、絶対神ヤハウェ=天之御中主神信仰となったのである。この時、何故、すんなり婿入りして大王になれたのか?それは、同族ということもあるが、ユダヤの三種の神器の 1 つを持っていたからである。
古代物部王朝で、海部氏と尾張氏の勢力が強かったのは、彼らが「マナの壺」と「アロンの杖」のどちらか、あるいは両方を持っていたためと思われる。そこへ、真沸流がもう 1 つの三種の神器を持ってきた。アークだとしたら、エルサレム教団の秦氏から譲り受けなければならず、原始キリスト教徒に改宗する必要がある。しかし、物部氏に婿入りするとなると、また改宗しなければならない。もともと、失われた十支族の流れを汲む騎馬民族は信仰心が薄く、宗教にはこだわらなかった。そもそも、背教が原因で北朝は滅びたのである。よって、渡来する前は異教崇拝だった、もしくは特定の信仰は無かった。しかし、自らの出自であるヤハウェ信仰のことだけは忘れていなかったと考えると、原始キリスト教徒に改宗することなく、ヤハウェ信仰の物部氏にそのまま婿入りできる。
よって、尾張氏が「アロンの杖」を持っており、そこに真沸流が「マナの壺」を持ってきたと考えるのが自然である。そして、婿入りの印として、もう 1 つの尾張氏である海部氏に「マナの壺」を託したのであろう。
また、「マナの壺」は失われた十支族の中のガド族が継承した、という言い伝えがある。ガド族に、ヘブライ語で~出身という意味である「ミ」を付けると、「ミガド」すなわち「ミカド=帝」であり、天皇のことである。
よって、真沸流はガド族出身であり、「マナの壺」を持っていたので騎馬民族の大王たることができた。そして、古代物部王朝に婿入りし、最初の天皇"応神天皇"となったである!それ故、応神に続く天皇陵は、巨大な「マナの壺」の形をしているのである。日本の氏族の出自を記した「新選姓氏録」の序文には、"真人は是、皇別の上氏なり"とあり、天皇の姓は"真氏"であるとしている!天皇家にも姓があったのである。また、真氏の筆頭は息長真人(オキナガノマヒト)であり、"誉田(ホムダ)天皇より出づ"とある。誉田天皇とは、第15 代応神天皇のことである。つまり、応神天皇は真氏であり、それ以前の天皇は架空ということになる。
神武天皇の東征を思い出してみると、豊国の宇沙(大分県宇佐市)を経て筑紫へ。それから瀬戸内海沿いに東上して、安芸の国(広島県辺り)と吉備(岡山県)、浪速(なみはや=難波)と進み、河内国(大阪府)の青雲の白肩津(しらかたつ)という川原に停泊した。九州生まれの第 15 代応神天皇も、まったく同じ経路を辿って畿内に入り、大和朝廷を開くのである。神話に於ける"生まれ"とは、"その国に初めて登場した"という意味もある。応神天皇が九州生まれなのは、九州に来てから天皇となった、ということを意味する。
また、神武天皇の倭風諡号は始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)であった。それと同名の倭風諡号を持つ天皇として、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)=崇神天皇(第 10 代)=御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)が居る。崇神天皇は、応神天皇と同じ伽耶(加羅、伽羅)から渡来したとある。記紀では半島の任那から渡来したことになっているが、任那という国は存在せず、実は伽耶のことを記紀では任那と言っているに過ぎない。任=大王、那=国、キ=城であり、「ミマキイリ=大王の城から来た」という意味である。
そして、神々の名前の漢字は当て字であるが故に、ほとんど意味は無い。よって、"読み"が重要となる。神武や崇神の話はあまりにも神話的であるから、神と見なして「多次元同時存在の法則」を適用すると、神武と崇神は同一人物となる。そして、漢風諡号でも、「神」という字が共通で使われていることからも、"神話として扱って良い"ということである。応神天皇にも「神」があるが、応神は最初の天皇で「現人神(あらひとがみ)」、すなわち、半分は神であるから例外として扱うことができ、神武、崇神と同一視することができる。
また、神武が熊野で救われた神剣「布都(フツ)御魂」は石上神宮に「布都御魂大神」として祀られている。そして、石上神宮には、天孫一族ニギハヤヒが携えてきた十種神宝が「布留(フル)御魂大神」として祀られている。「多次元同時存在の法則」より、神武=フツ=ニギハヤヒ=フル=沸流=応神となる。
実際、神武は天皇になるまでの話し、崇神は天皇になってからの話ししか無いと言って良く、2 人合わせて 1 人の天皇、といった感がある。そして、神武-崇神-応神の 3 天皇は、古代天皇の中で、別格的に扱われているのである。
では、何故、沸流が天皇となり得たのか。婿入りしてヤハウェ信仰となった真沸流大王は、アークを持っていた秦氏を呼び寄せた。ヤハウェ信仰とあらば、アークが必要だからである。秦氏の渡来は一度だけではなく、数回にわたった。真沸流は現在の大分県、宇佐にあたる地方に「豊国」という秦氏の王国を造り、そこに宇佐八幡宮を建立した。"八幡"とは"やはた"とも読み、やはた=イヤハダ=イエフダー=ユダヤであり、ヤハウェなのである。そして、そこから東征して行った。その途中(か最初かは未確定であるが)、真沸流の前に、何と、イエスが降臨し、「私は在りて在る者」と言われたのである!ヤハウェが降臨する際に言っていたのと同じ、あの言葉である。(「八咫烏」がそう言っているわけだから、とりあえず、それに準じる現象が起きた、と考えよう。)
真沸流は、ヤハウェとエルサレム教団の秦氏が信仰していたイエスが同一神であることが解ったのである。そして、イエスがこの大王の前に降臨して王権を授けた。それ以来、大王は秦氏から洗礼(バプテスマ)を受けて原始キリスト教徒となり、応神天皇となった。応神とは、神=イエスに応じる、ということである。天皇とは、正式には"天皇陛下"であり、天の皇帝=神の預言を梯子の下で聴く預言者、という意味である。
実は、これは聖書で預言されていたことである!ヨハネによる福音書第 10 章15~16 節に、次のようなイエスの言葉がある。
"私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊も導かねばならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして羊は 1 人の羊飼いに導かれて 1 つの群れになる。"
"この囲いに入っていない他の羊"とは、失われた十支族のことである。"その羊も私の声を聞き分ける"とは、イエスが降臨した際に、イエスであることを認めることである。"1 人の羊飼い"とはガド族出身の天皇のことであり、それに"導かれて 1 つの群れになる"とは、天皇を中心とした国家を形成するということである。
また、真沸流が洗礼を受けた証拠が、宇佐神宮社伝にある。"三角(みすみ)池の笹の上に光り輝く 3 歳の童子が現れ、我は 16 代誉田天皇広幡麿(ホムダスメラミコトヒロハタマロ)と名乗り、黄金の鷹となった"とある。三角池とは薦(こも)八幡宮境内にある薦池(こものいけ)のことで、三角形の池である。角=コルン=光という意味があり、3 つの角の池とは、3 本の光り輝く柱のある池、という意味になり、「生命の樹」の 3 本の柱(=絶対三神)が存在する池となる。「生命の樹」の奥義はイエスが示した。実際、池の中に鳥居が建っているが、故あって、2 本の柱である。
実は、3 本柱の鳥居、三柱(みはしら)鳥居を有する神社が京都の太秦の近くにある。「木嶋坐天照御魂(このしまにいますあまてるみたま)神社」、通称「蚕の社」と言われている神社であり、主祭神は天之御中主神=ヤハウェである!ここは、秦氏が創建した。蚕は絹の原料、秦氏は織物の「機(はた)」だと言われるぐらい、機織りが有名だった。(「服部」という姓は、「機織り」に由来する。)そして、三柱鳥居は、「元糺の森」と言われている小さな森の中、水の中に建っているのである!「元」なのだから、現在は別の場所に「糺の森」はある。
それは、裏神道の総本山、すべての神社の総元締めである下鴨神社である!境内には御手洗(みたらし)の池がある。土用の丑の日に御手洗池の中に足をひたせば、罪、穢れを祓い、疫病、安産にも効き目があると言われており、毎年、土用の丑の日に御手洗池に祀られている御手洗社で「足つけ神事」が行われる。つまり、現在のバプテスマである。なお、ここには三柱鳥居は無いが、代わりに"3 本足の八咫烏の神=賀茂建角身命"が主祭神である。(近くには、「御手洗」由来の「賀茂みたらし団子」を売っている店がある。)
さて、"上に光り輝く 3 歳の童子が現れ、我は 16 代誉田天皇広幡麿(ホムダスメラミコトヒロハタマロ)と名乗り、黄金の鷹となった"のであるが、16 代誉田天皇広幡麿は 15 代応神天皇の諡号"誉田天皇"のことである。広幡=幡=幡=八幡=応神である。そして、八幡神の象徴は鳩である。イエスが洗礼された場面を思い出すと、"聖霊が鳩のように舞い降りて祝福した。"故に、鳩が八幡神の象徴である。(「八」は鳩が向かい合っている形。)
そして、宇佐八幡宮に関する最も古い資料「太政官符」には"八幡大神が鷹の姿をして現れた。ところが、御心が大変荒々しかった。人が 5 人行けば 3 人を殺し、10 人行けば 5 人を殺した"とある。これは、"黄金の鷹となった"に対応しており、このような荒々しい神は、契約を守らなかった者に必ず罰を与えたヤハウェであるから、ヤハウェ=八幡神である。ヤハウェの「ヤ」が八幡(やはた)の「や」で、「神」を表す。
このように、宇佐八幡宮は"本当の初代天皇"が建立したことから、皇室の第二の祖廟なのである。
こうしてイエスから王権を授かり、洗礼を受けた時点で、応神天皇は秦氏の携えているアークを手中に収めた。そして、婿入り先の物部氏は応神天皇に従った。イエスが各地に現れ、応神天皇に聖霊が降るのを見たからである。
しかし、畿内の物部氏(海部氏=尾張氏支配下)は"自分たちは裏切られた"と思い込み、信仰を捨てた応神天皇に対して反乱を企てた。三種の神器の内の 2つを保持する畿内では(おそらくこの時点で、「マナの壺」は籠神社にあったのだろう)、旧約の神ヤハウェを唯一の神とする強い信仰があったからである。
しかし、戦闘の最中に、天からイエス=ヤハウェが光り輝きながら降臨した為、古い旧約の神は新しい新約の神に全権を譲ることになった。
すなわち、神武東征伝説に於ける「八咫烏」の導きとは、真沸流を原始キリスト教に改宗させたエルサレム教団の秦氏のことであり、勝利をもたらした、光り輝く「金鵄」とは、光り輝きながら降臨したイエス=ヤハウェのことである。
こうして応神天皇は「契約の箱アークと十戒石板」「マナの壺」「アロンの杖」を手中に収め、イスラエル十二支族を象徴するヘブライ語"ヤマトゥ"に因んで、大和朝廷を開いたのである。よって、応神以前は架空の天皇であり、応神天皇=天皇家は祭司一族ではないから、三種の神器を直接扱うことはできないのである。
これで、ヤハウェ=イエス=天之御中主神=天照大神となった。つまり、神道とは、天照大神=イエス・キリストを唯一神とする絶対神崇拝なのである!
以後、天皇家は代々天孫降臨の奥義を伝えるために大嘗(だいじょう)祭を行ってきた。大嘗祭とは、新しく天皇となる儀式であり、即位の礼が表向きの儀式に対して、大嘗祭は天皇家秘伝の裏の儀式である。毎年、勤労感謝の日に行われているのが新嘗(にいなめ)祭であり、その年の収穫に感謝する儀式であるが、大嘗祭は、その特別なものである。
大嘗祭では、まず天皇となる前の皇太子が禊ぎ=バプテスマを行う。その後、麁服(あらたえ)という白装束、すなわち"死に装束"を着用して儀式を進行する。(麁服は、代々、阿波の忌部氏が制作することになっている。阿波忌部氏の家系で有名なのが、三木元総理である。)そして、天照大神と共に食事をし、御襖(おふすま)と言われる寝床に横になり、また起き上がる。
すなわち、大嘗祭とは"最後の晩餐""死""復活"を再現することによりイエス・キリストの霊と一体となり、正式に王権を継承する儀式である!そして、天照大神は男神であるから、天皇は男性でなければならないのであり、これこそが"男系万世一系"の真相である。
天皇陛下は、勿論これらのことをご承知である。しかし、イエスの国仕掛けの命により、日本の存在を世界の目から隠すため、すべてを封印したのである。秦氏によって。(以後、秦氏とは、純系エルサレム教団の事を指す。)
ただし、聖書の使徒言行録第 1 章 11 節では、イエスが昇天する際に傍らに居た天使はこう言った。
"ガリラヤの人たち、何故、天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。"
と、イエスの再臨を預言している!そして、磔刑後に復活したイエスは弟子たちに言った。
"私について、モーゼの律法と預言者の書と詩篇に書かれていることは、すべて実現する。"
よって、成された封印は、イエス再臨の時=最後の審判が近づけば、解かれるのである。
(続き)
<日本の真相 2>
(1)神宮の御紋
式年遷宮の寄付をした際、神宮で特別参拝券を頂いたが、そこには神宮の御紋が描かれていた。
向かって左が紙袋に描かれていた御紋で、花菱の中心に○と白抜きの十字がある。これは、武田信玄の家紋と同じである!
日光東照宮と静岡・久能山の東照宮を結ぶ直線上に霊峰・富士があり、更に、徳川発祥の地と言われている世良田(せらだ)東照宮がある。ここの本殿は、江戸時代には大名すら入ることができなかった禁制の場所であるが、そこには、この花菱で囲まれた徳川の三つ葉葵が描かれている!つまり、武田信玄と家康の深い繋がりが記されているため、江戸時代は禁制の場所だったのである。
家康は秦氏の中の秦氏、賀茂氏であることは<日本の真相>で述べたが、世良田東照宮のホームページの扉には、三つ葉葵と共に双葉葵も描かれている。双葉葵は賀茂神社の社紋であるから、家康が賀茂氏であることを象徴している!この東照宮には、家康の命日に因む葵祭(4 月 17 日)があるが、時期的にも賀茂の葵祭(5 月 15 日、関連する松尾大社の松尾祭は 4 月 22 日、23 日、5 月14 日で、籠神社の葵祭は 4 月 24 日)を象徴していることは、言うまでもない。つまり、家康が賀茂氏である証拠が、この世良田東照宮にある!
(世良田東照宮は旧名で新田郡小島町、現在の群馬県太田市にある。群馬は羊太夫のいた所で、京都よりも古くから送り火を行っていた。太田は上賀茂にある大田神社に通じ、上賀茂神社の境外摂社で古くは恩多社と呼ばれており、天鈿女命と猿田彦命が祀られている。ここは、大田多根子と縁がある。三輪山の大物主神の曾孫が建甕槌命であり、その子が大田多根子である。賀茂建角身命の娘である玉依姫の夫は建御雷神(=建甕槌命)だったとも言われ〔<日本の真相>の神話では火雷神だった〕、大物主神を祀ったことで知られる大田田根子は、三輪氏と賀茂氏の祖先とも言われている。つまり、大田多根子は秦氏の中の秦氏である賀茂氏と深い関わりがあるということ。その大田に因んで太田市とした、と考えるのは出来過ぎか。)
(続き)
<日本の真相 3>
学研ムー(2009 年版)の 7 月号と 10 月号に興味深い記事が掲載されていた。
・7 月号:封印された物部神道 秦の始皇帝とユダヤの秘儀。
・9 月号:日本の古墳はピラミッドだった!
7月号は飛鳥昭雄氏が八咫烏から直接聞いた話を基にしており、籠神社宮司の談話を交えながら、物部氏の正体について言及している。9 月号は飛鳥氏の著ではなく、有賀訓氏の著であるが、謎の多い忌部氏について言及されていた。これらは謎が多い物部氏について知るための極めて重要な資料なので、これらを基に、物部氏について考察する。
1:物部氏の真相
(1)今までのまとめ
<日本の真相 1><日本の真相 2>では秦氏と物部氏について記したが、それをまとめる。
・基本的に秦氏は失われていない二氏族(ユダ、ベニヤミン)の原始キリスト教徒で、物部氏は失われた十支族のユダヤ教徒である。
・二氏族と十支族という分け方ではなく、原始キリスト教とユダヤ教という分け方で言えば、原始キリスト教徒が秦氏、ユダヤ教徒が物部氏である。また、原始キリスト教に改宗した物部氏は秦氏となった。
・物部氏は最終的に原始キリスト教に改宗し、天皇を中心とした日本国が成立した。
・秦氏と物部氏の区別は上述の通りであるが、例えば秦氏と共に渡来したガド族の大王フルは九州物部王朝に婿入りしたが、改宗して秦氏の大王たる応神=神武天皇となった。この場合、フルは十支族系故に、また物部氏に婿入りしたので物部氏であるが、歴史的な扱いとしては秦氏の大王たる応神天皇ということになる。つまり、秦氏渡来以前(=イエス誕生以前)に日本の国土に渡来していたイスラエルの支族が物部氏である。
・物部氏のトップ=王族は尾張氏(熱田神宮)=海部氏(籠神社)であり、エフライム族である。それは、尾張氏が族長の印たるアロンの杖=草薙神剣を保有することが証である。アロンの杖は、失われた十支族の中の王族たるエフライム族が保有していたからである。また、フルが九州物部王朝に婿入りした証として持ってきたマナの壺は、尾張氏と同族である海部氏の手に渡り、勾玉の原型となった。
・籠神社の海部宮司に依ると、古代の日本で最大勢力を誇っていたのは尾張氏=海部氏であり、最後まで秦氏に抵抗した。彼らの拠点は近畿を中心とした広い範囲であったが、秦氏に権力を移譲した後、尾張氏は美濃を通って現在の尾張地方に辿り着いた。(海部宮司から直接教えて頂いた。)
(2)秦の始皇帝と徐福
飛鳥氏は再び八咫烏と面会し、物部氏の真相について聞き出した。それは、"物部氏は徐福と共に来た"ということである!伝説として、徐福は秦の始皇帝に命じられ、不老不死の妙薬を求め、東の海の国に向かったとされている。支那の地から見て東の海の国というのは、日本に他ならない。そして、日本各地には徐福渡来の伝説が残されており、富士山が不老不死の国にあると言われている蓬莱山であるなど、枚挙にいとまが無い。そのため、徐福伝説はかなり信憑性が高いと考えている人たちがいるが、今回の八咫烏に依る衝撃的告白により、徐福の渡来は真実であるということが判明したのである。
さて、飛鳥氏は秦の始皇帝がペルシャ系ユダヤ人だったと述べている。その根拠は、次の通りである。
・始皇帝の墓からペルシャ系の人骨が発見された。
・秦と同じ支配体制を持った国がかつて存在し、それはアケメネス朝ペルシャである。アケメネス朝ペルシャの勢力はエジプトからインドまで及んだ広範囲であり、支那の最も西に位置していた秦は大きな影響を受けている。
・ユダヤ人はバビロン捕囚で囚われたが、そのバビロニア王国を打倒してユダヤ人を解放したのは、アケメネス朝ペルシャである。
・後に始皇帝となる政(せい)を見出したのは、宰相にまで昇り詰めた呂不韋(りょふい)である。呂不韋は一商人に過ぎなかったが、荘襄王に取り入り、自らの愛人だった趙姫を愛妾として差し出し、政治の中枢へと食い込んだ。王亡き後、幼い始皇帝をバックアップし、絶大な権力を手にした。そのため、司馬遷の歴史書「史記」には、呂不韋が始皇帝の実父であると記されている。呂不韋が商人ならば、シルクロードでの交易はユダヤ人が担ってきたので、ユダヤ人の可能性がある。そして、呂不韋という読みは"レビ"に繋がる。また、始皇帝の容貌や性格について、「史記」には"鼻が高く、目は切れ長で"とあり、鉤鼻の青目という伝説もあり、ユダヤ人の容貌である。
・秦は元々支那の西域にあり、当然のことながら、ユダヤ商人が活発に往き来していた。"秦"とは"柵外の人"という意味だけではなく、古代ローマ帝国を含む西域を指していた。(「支那」という名称は、王朝名の「秦」が西方に伝わって変化したものとされている。)
確かに、このような論点からすれば、始皇帝がペルシャ系ユダヤ人である、という説も支持できよう。西域の秦の建国は、周の孝王が大丘にいた非子に牧畜をさせ、秦の地を与え、嬴(エイ)氏を名乗らせたことが始まりである。襄公は周の内乱に際して平王を助けたので初めて諸侯に任じ、岐山以西の地を与えて「秦公」とした。この時に犠牲を用いて上帝を祀ったが、これは西戎の習俗に由来する。(以上、Wikipedia より。)犠牲を用いるのは、ユダヤの習俗に他ならない。
それに、何と言っても日本に於けるカッバーラは支那の道教を基本としており、支那の地域に陰陽道の使い手がいたことは確実である。陰陽道の使い手とは、すなわち、ユダヤ神秘主義カッバーラの使い手に他ならない。
また、始皇帝は度量衡、貨幣、車の幅を統一し、それまで地方ごとに異なる字体が使用されていた漢字を改め、秦の字体を標準字体として採用した。漢字はカッバーラであり、秦氏の創作であるから、秦氏の祖先と始皇帝との関係が伺える。それに、始皇帝は万里の長城のような大土木事業を行っているが、平安京建設など、土木事業は秦氏の得意とするところであり、ここからも秦氏の祖先と始皇帝との関係が伺える。
他にも、法隆寺は世界最古の木造建築であり、イエスがモデルとなっている聖徳太子縁の寺である。この寺を建築したのは勿論秦氏であるが、建築に携わった者の名が残されており、彼らの名は支那語やヒンズー語では意味を成さず、ペルシャ語なら意味を成す名であるという。
詳細については更なる議論が必要であろうが、ここでは、秦の始皇帝がペルシャ系ユダヤ人だったという説を妥当性のある説として採用しても問題無いと考える。では、徐福については、どのような伝承があるのか。
"始皇帝は幼少より虚弱な体質であったため、中国統一の頃から不老不死を求めて方士(神仙術の使い手)を重用するようになった。2 度目の巡幸で始皇帝は斉に滞在し、徐福に対して東方にあるという蓬莱国に向い、仙人を連れて来るよう命じた。"
実は、徐福も始皇帝と同族である。伝説の黄帝に繋がる大費(伯翳、ハクエイ)が舜帝の時代に禹の治水工事に協力し、舜帝から黒い軍旗と嬴姓を賜った。始皇帝は、その伯翳の血統である。一方の徐福は「史記」に依ると、斉の国、琅邪(ろうや)の人と記されているが、最近の調査で、その系図は伯翳に至ることが判明した。つまり、始皇帝も徐福も、姓は"嬴"で同族なのである。この"嬴"という姓は注目すべきで、古代支那の奇書「山海経(せんがいきょう)」に依ると、嬴の民は鳥の足を持っていたという。しかも、始皇帝の血統である伯翳が黒い軍旗を賜っていた。つまり、"黒い鳥"ということなり、これは烏である。日本で一切を取り仕切ってきたのは"八咫烏"である。
さて、徐福は神仙術に長けていたとされる。神仙術はインドのヨーガと同様に誤解されているが、実はカッバーラに他ならない。つまり、徐福もカッバーラの使い手だったのである。だからこそ、始皇帝の命を受け、不老不死の妙薬を探しに出掛けたのである。その渡来の際に引き連れた一団が、物部氏となったのである。(不老不死の妙薬を求めた徐福の話は、田道間守(タジマモリ)の話として伝えられている。)そのため、飛鳥氏は"不老不死"などはどうでもよく、実は東の海を渡った地に新たなユダヤ王国を築くことを徐福は始皇帝から命令された、としている。しかし、それはどうなのか?
*田道間守(Wikipedia 参照)
第 11 代・垂仁天皇の時代、常世の国に不老不死の妙薬である非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を探しに行った田道間守は、10 年掛けて葉付きの枝と果実付きの枝を日本に持ち帰ってきたが、垂仁天皇は既に崩御していた。田道間守は半分を垂仁天皇の皇后に献上し、残りを垂仁天皇の御陵に捧げ、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなったという。
なお、田道間守が持ち帰った非時香果は橘のこととされている。"たちばな"という名称は、田道間花が転じたとする説もある。また、菓子の「菓」は果物のことであるが、この話から、田道間守は菓子の祖とされている。
(3)海部宮司の発言
飛鳥氏の推理が正しいとすれば、また、八咫烏の言葉を文字通り受け止めるのならば、徐福渡来以前に物部氏は日本の地にいなかったことになる。そして、海部氏=尾張氏は物部氏の王族=エフライム族だから、徐福並びにその側近がエフライム族ということになり、アロンの杖を持って来たことになる。
アロンの杖は族長の印であり、権威=王権の象徴でもある。それを支那の地域で徐福が持っていたとは考えにくく、持っていたとすれば、権威と権力を手中にしていた始皇帝に他ならない。徐福は伝説上、支那には戻っていないから、徐福はアロンの杖を始皇帝から譲り受けたことになる。しかし、アロンの杖は王権の象徴だから、いくら同族と言えど、始皇帝が徐福に渡した時点で始皇帝は皇帝ではなくなり、徐福が新たな皇帝となる。これは、どう考えても辻褄が合わない。では、海部氏=尾張氏とアロンの杖、徐福との関係はどう考えたら良いのか?
籠神社の海部宮司は、海部氏=尾張氏は物部氏とは格が違う、と言われている。これは、物部氏は基本的に失われた十支族であり、海部氏=尾張氏が失われた十支族の中の王族たるエフライム族であるからに他ならない。だからこそ、他の物部氏とは格が違うのである。
ここで着目すべき点は、"格が違う"という点である。これを素直に解釈すると、"海部氏=尾張氏と物部氏は別だ"ということである。海部氏=尾張氏は秦氏に最後まで抵抗し続けた物部氏のトップであるはずだが、どう解釈したら良いのか?
そこで、八咫烏の言葉を思い出すと、徐福と共に渡来した集団が物部氏である。ならば、海部氏=尾張氏は彼らとは別に渡来したのではないか。先に王族のエフライム族が渡来していれば、そこに王権の象徴たるアロンの杖があるが故、徐福に率いられた集団が失われた十支族として容易にまとまり、物部氏という 1 つの集団と成り得る。
また、東の海に不老不死の国があるというのも、そこに某かの民族がおり、その伝承が大陸まで伝わっていたからに他ならない。失われた十支族の王族たるエフライム族=海部氏=尾張氏が徐福よりも先に日本列島に渡来していたのなら、神器の 1 つ、アロンの杖がある以上、儀式を執り行うレビ族も共に渡来していたに違いない。レビ族は南北両イスラエルに存在し、カッバーラを扱うことができる。そして、"不老不死"とは「生命の樹」の奥義を知ることに他ならない。つまり、"不老不死の国"とは"「生命の樹」を基にしたカッバーラを駆使する国"のことに他ならない。飛鳥氏が言うように、"不老不死"などはどうでもよく、東の海を渡った地に新たなユダヤ王国を築くことを徐福は始皇帝から命令された、のではないのである。
つまり、エフライム族=海部氏=尾張氏が徐福率いる他の物部氏に先駆けて日本の地に渡来していたと考えるのが妥当である。そして、"不老不死"として象徴されるカッバーラを駆使していた。なお、"不老不死"と古代日本については、更に後述する。
(4)邪馬台国と物部氏
古代日本といってまず思い浮かぶのは邪馬台国である。邪馬台国は女王、卑弥呼がいたとされるが、秦が統一されたのは紀元前 221 年、滅んだのが紀元前207 年であり、卑弥呼よりも遙か以前に徐福一団は渡来したのである。その時代、既に日本の地に"不老不死の国"があるという伝説があったわけだから、日本列島には何らかの民族がいたことは確実である。
海部宮司の実父、林兼明氏の著書「神に関する古語の研究」に依ると、かつて邪馬台国の"邪馬台"は"ヤマト"と読んでいた。つまり、邪馬台国とはヤマト国であり、籠神社の極秘伝では邪馬台国が近畿にあったという。
古事記では、近畿地方を治めていた那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)の妹、登美夜毘売(トミヤヒメ)にニギハヤヒが婿入りしたことになっており、ニギハヤヒは物部氏の祖とされている。(籠神社が保有する国宝の系図からも明らか。対して、秦氏の祖はニニギである。)そして、海部宮司に依ると、先住民とは平和的友好が持たれたという。ならば、近畿の物部氏=尾張氏=海部氏が後の邪馬台国となる国に婿入りして和平が保たれた、ということである。それが、ナガスネヒコの妹にニギハヤヒが婿入りした、という神話として語られているのである。そして、後に婿入りした秦氏が物部氏を抑えて現在の日本の根幹を形成したように、邪馬台国となった大きな国で物部氏が権力を振るっていたのであろう。(丹波を中心にして、近江や出雲を含む広大な地域を支配していたのが、魏志倭人伝に記された投馬(とうま)国であるという。)ならば、後の邪馬台国の女王となる卑弥呼は、物部氏の血統ということになる!
"ヤマト"は天山山脈の麓の弓月王(ゆんず)国=新月王国=三日月王国であり、弓月城(くるじゃ)、亀慈(くちゃ)とも言われた国に由来することは、<日本の真相>で記した。そして、この地名はヘブライ語で"ヤマトゥ"と呼ばれており、"神の民"の意味であり、イスラエルの十二支族を象徴していた。だから、邪馬台国をヤマト国と読む以上、そこにはイスラエルの支族が存在していなければならない。
古事記や日本書紀は天武天皇~持統天皇の時代に編纂されたが、その際、物部氏は伝承資料をすべて没収された。その物部氏の伝承を基に、秦氏の歴史観を絡めて創り上げられたのが、古事記や日本書紀の記紀である。故に、記紀には物部氏の歴史が隠されているのである。
*投馬国
"投馬"というのは当て字の可能性もあるが、文字通り解釈すると"馬を投げる"ことである。馬を投げると言えば、高天原で天照大神と侍女が機織をしていた時、スサノオが皮を剥いだ馬を投げ込んだ話が思い出される。これが原因で侍女(場合によっては天照大神自身)がホト(女陰)を傷つけ、怒りとショックから、天照大神が天の岩戸の奥に隠れたという高天原での最大の事件、"天の岩戸隠れ"が起きた。つまり、"投馬"はスサノオを象徴する。スサノオの象徴は八岐大蛇の尾から取り出した天叢雲剣=草薙神剣=アロンの杖であり、物部氏の象徴であるから、"投馬"は物部氏を象徴するのである。そして、物部氏はユダヤ教徒、秦氏は原始キリスト教徒だから、スサノオの狼藉によって天照大神が岩戸に隠れたことは、ユダヤ教徒によってイエスが十字架に掛けられたことを象徴しており、矛盾しない。
天照大神は秦氏の持ち込んだ神であり、スサノオと天照大神は対立する場面が多々見受けられるが、これは秦氏に抵抗する物部氏を象徴している。
(5)ナガスネヒコについての推定
イスラエルの支族が渡来する以前の日本には、ナガスネヒコに代表される民族が日本の国土にいた。では、それはどのような民族なのか。
ナガスネヒコという名前は文字通り解釈すると、スネが長い、ということである。中南米では、大柄の人骨が発見されている。中南米のインディオと古代日本人は共通の風習、例えば刺青の風習などがあり、共通の祖先ではないか、とも言われている。それに、環太平洋地域の民族は風習などが似ており、かつて一大王国が存在したのではないか、という説もある。
<神々の真相 1>で記したように、中南米はカ・インの流刑地だが、最初にニヌルタが連れて行った。後には、ニンギシュジッダがケツァルコアトルとして渡った。ニヌルタやニンギシュジッダがシュメールから中南米に行く途中、後に日本となる地にも立ち寄っていたこと、またカ・インの子孫たちが洪水後に舟で移動した、あるいはニンギシュジッダが後の日本となる地へ連れて行ったことなどは十分考えられる。
つまり、海部氏=尾張氏が渡来する以前の日本には、おそらくカ・インの血を引く子孫がおり、様々な小国を形成していたと考えられる。それが、ナガスネヒコで象徴される民族である。徐福率いる物部氏あるいは秦氏渡来後は、そのような先住民は列島周辺部、つまり沖縄や北海道へ追いやられたのであろう。そのため、そのような地で、古代の風習が色濃く残っているのである。
また、皇太子が天皇へと即位する大嘗祭では、新穀を供える祭殿が 2 つあり、西側が主基(すき)殿、東側が悠紀(ゆき)殿で、御神事は悠紀殿から行われる。これを、物部氏と秦氏の象徴と見る向きもあるが(西日本が秦氏、東日本が物部氏ということから、主基殿が秦氏で悠紀殿が物部氏)、それだけではないだろう。
シュメールで初物の祝福は、カ・インによる農業の捧げものとアバエルによる牧畜の捧げもので成された。主エンキはエンリルがカ・インを祝福した後に、カ・インの捧げものを祝福することなく、アバエルの子羊を祝福した。これが発端となり、カ・インによるアバエルの殺人、人類初の殺人が起きた。カ・インの象徴がイスラエルの支族渡来以前の民族だとしたら、アバエルの象徴は羊飼いの子孫たるイスラエルの支族となる。つまり、カ・インとアバエルの統一(赦しと和平)が象徴されているとも考えられる。
カ・インは中南米に流刑にされたから、シュメールから見れば東側であり、アバエルはマルドゥクの領地(エジプト)で牧畜を教えられたから、シュメールから見れば西側である。そして、最初にエンリルがカ・インを、続いて主エンキがアバエルを祝福した。つまり、優先される東の悠紀殿はカ・インに相当し、主基殿はアバエルに相当すると考えられる。また、神宮では先に外宮、後から重要な内宮での御神事が執り行われることからも、重要なのは後から御神事が執り行われる主基殿である。それは、"主"という文字が象徴している。そして、天皇陛下並びに現日本人はイスラエルの支族で"神の子羊"だから、象徴的には羊に関係するアバエルの系統と見なすことができ(実際にはサティの系統)、アバエルを象徴する主基殿での御神事がカ・インを象徴する悠紀殿の後になる、ということである。
このように、海部氏=尾張氏を含めた物部氏渡来以前の日本には、カ・インの子孫が住んでいたと考えられる。
(6)卑弥呼について
①卑弥呼と物部氏の関係
(中略)
②徐福と不老不死の関係
では、不老不死を求めて渡来した徐福との関係はどうなのか?実は、"徐福上陸の土地"という碑が、若狭湾西端の伊根にある。そして、若狭から紀伊半島へと南下すると、"徐福終焉の地"とされる熊野となる。また、お水送りの遠敷とお水取りの東大寺、空海縁の高野山もこの南北ラインに沿っている。つまり、徐福と不老不死の話は、日本国内で見事に繋がっているのである。しかし、東大寺や高野山の建造は徐福ではなく秦氏が行ったから、不老不死を象徴するお水送りとお水取りは徐福ではなく、徐福よりも遙か後に渡来した秦氏が始めたものである。それは、徐福が不老不死の妙薬を求めて渡来したという"史実"に基づき、イエスのカッバーラを駆使して始めたものである。
硫化水銀は支那で不老不死の妙薬とされていたものであり、支那の道教では丹田に気=生命のエネルギーが宿るとし、それを体内に巡らせることにより、不死の肉体になるという。この丹田に由来して"丹生"であり、徐福は支那のカッバーラ=道教の使い手だったので、不老不死の妙薬"丹生"は徐福を象徴している。そして、徐福上陸の土地は"丹後"にある。なお、"永遠の若さ"や"白石"はイエスに由来していることは、前述の通りである。
日本列島には当初、カ・インの子孫が住んでいた。そこに、フェニキアから海のシルクロードを通ってエフライム族が渡来して和平を結び、カッバーラによる不老不死伝説ができた。その後、不老不死伝説を聞きつけた徐福一団が始皇帝の命により渡来し、先に渡来していたエフライム族とまとまり、物部氏となったのである。
"不老不死の妙薬"伝説の大元はギルガメッシュが求めた長寿、不老不死であり、ジウスドラが長寿の植物を教えたが、結局は手に入れることができなかったことである。(<神々の真相 1>参照。)始皇帝や徐福が不老不死伝説の真意を知っていたのか、あるいは単に伝説に聞く物質としての妙薬を求めたのかは定かではない。しかし、いずれにしろ徐福は方士=カッバーラの使い手だったので、渡来して不老不死の真相を知ることとなった。そして、徐福が率いて来た一団は物部氏となり、全国に広がっていった。故に、日本各地で見られる不老不死伝説には徐福が関係している場合が多いのである。
このように、不老不死のカッバーラに徐福が関わっていたとなれば、方士たる徐福もレビ族だったのである。(3)ではエフライム族と共にレビ族も渡来したと記したが、これは神器の 1 つ、アロンの杖に関わるレビ族である。北イスラエルが持っていたもう 1 つの神器、マナの壺はガド族が継承し、秦氏と共にフルが持って来て応神天皇となった。ならば、エフライム族とは異なり、海のシルクロードではなく陸のシルクロードを経由して分かれた支族側にも神器がある以上、そちらにもレビ族はいたと考えるのが妥当である。そのレビ族の流れを汲むのが徐福だと考えられる。徐福は始皇帝と同じ嬴姓であり、始皇帝は西域のユダヤ人であるから、海路ではなく、陸路を経由した支族側であろう。
なお、「史記」には"徐福は五穀の種を持って東方に船出し、平原広沢を得て王となり、戻らなかった"との記述がある。徐福上陸の土地"伊根"は"稲"に繋がり、徐福が日本に渡来した時期と日本で稲作が普及し始めた時期は重なるので、徐福が現在の稲作技術をもたらした可能性が高い。
2:忌部氏
忌部氏は阿波忌部氏が大嘗祭の麁服(あらたえ)を献上するという重要な役割を果たしていることから、今までの飛鳥氏の著書に依ると、八咫烏は忌部氏の子孫であり、忌部氏の中の忌部氏が賀茂氏ということである。つまり、忌部氏は秦氏の中の秦氏ということである。確かにそれは正しいであろうが、1:で見たように、忌部氏を御神事を執り行うレビ族と見なすと、北イスラエルの失われた十支族側にもレビ族はいたはずであり、それは物部系のレビ族である。その謎を解く鍵が、冒頭の有賀訓氏の著である。
(1)忌部氏と方墳
一般的に古墳と言えば、前方後円墳が有名である。しかし、前方後円墳は一時的な流行であり、その前後の時代は四角い方墳が圧倒的である。その方墳の多くが三段のジグラット型で、代表的なのは奈良の枡山古墳(崇神天皇の皇子、倭彦命の墓とされている)である。ジグラットはシュメールやエジプト、中南米などのピラミッドとの関係を伺わせる。また、枡山古墳の北西約 800 メートルの地点に、人工的な山を思わせる忌部山がある。"忌部山"の名称は忌部氏との関係を伺わせるが、この忌部山は大和三山と極めて興味深い配置にある。
<神々の真相 2>で記したように、大和三山は人工の山である。その中の耳成山はエジプトのピラミッドを原型とした春日神社を結ぶことにより奈良盆地に浮かび上がる巨人像の頭部に相当するが、畝傍山を頂点と見ると、畝傍山-天香具山、畝傍山-耳成山の長さがほぼ等しく、二等辺三角形を形成する。そして、頂点の畝傍山から底辺(耳成山-天香具山)へ垂線(垂直二等分線)を引いて延長すると、西側が忌部山、東側が三輪山に突き当たる。(ここでは、三輪山は図示されていない。)特に、忌部山と畝傍山の距離は、この垂直二等分線の正確に 1/3 である。
三輪山には大物主神が祀られており(大神神社)、この神の息子が神武天皇であり、大物主神=火雷神=ウガエフキアエズノミコトは、ユダヤの系図ではエフライムに相当した。大神神社は最古の神社とも言われ、本殿は無く、三輪山を御神体とし、鳥居も 2 本の柱に縄を掛けた古代エルサレムの神殿と同じ様式である。そして、籠神社の海部宮司の極秘伝からすれば、物部氏の王族=エフライム族が元々いたのは近畿地方だったので、最古とも言われる大神神社はエフライム族の神殿だったのである!それが、大物主神とユダヤの系図との関係で象徴されているのであり、これも海部氏=尾張氏がエフライム族であるという重要な証拠である。
何よりも、籠神社の奥宮の名称、与謝(よさの)宮がそれを端的に裏付けている。これは"ヨシュアの宮"という意味であるが、ヨシュアはモーゼ亡き後、その後を引き継いでヘブライの民を約束の地カナンへ導いたエフライム族出身の指導者である。(預言者とは呼ばれていないが、主の言葉を取り次いだ預言者的存在である。)つまり、最終的な"約束の地"日本へ最初に到着したエフライム族=海部氏(=尾張氏)が、後に渡来した他の失われた十支族、すなわち徐福一団と共に物部王国=ユダヤ王国を築いたことは、象徴的にはヨシュアの物語と同義である。それ故、海部氏の最重要神殿である奥宮を"ヨシュアの宮=与謝宮"とすることにより、海部氏=尾張氏がエフライム族であることを象徴しているのである。
さて、もう一方の山で今回の話題の中心たる忌部山であるが、この線を更に延長すると四国の阿波があり、阿波忌部氏がこの忌部山に関わることが暗示されている。四国と近畿の地名は一致しているものが多く、往き来があったことを示唆する。
忌部山は三段の階段式ピラミッド=ジグラットであり、ジグラットはシュメールでは神が降臨する場所である。忌部=イムベの"イム"をそのまま漢字にすると「仏」となる。仏は蓮華に坐すから、陰(蓮)陽(仏)の合一を象徴するのと同時に、"復活(蓮)"する神(仏)の予型でもある。そして、現在の日本の墓は「仏式」で、方墳を受け継いだ三段の石の上に石の柱が乗っている。三段は「生命の樹」の三界に相当し、柱は神である。つまり、墓石は「生命の樹」に神が降臨することを象徴している。また"忌=蛇の御心"で、この上なく清浄、という意味であるが、普通は死に関わる意味である。だから、死に関わる墓の根本は、忌部氏の三段式ジグラット=方墳と言える。
古事記には、阿波忌部氏は天皇の命令で関東に行き、一大王国を築いたとある。「新説・歴史ミステリー」では、関東に大きな古代文明があったこと、そこでは青銅器が発掘されていること、三種の神器に相当する鏡、剣、勾玉が出土していることが紹介されていた。秦氏は鉄器、青銅器は物部氏だから、この王国は物部氏の王国ということになる。この王国は利根川流域にあり、その河口には香取神宮と鹿島神宮がある。両神宮は<神々の真相 2>で記したように、香取はマナの壺で籠神社=海部氏、鹿島は剣で象徴される熱田神宮=尾張氏に関係する。ならば、物部氏の象徴として鹿島と香取を配置し、そこに物部氏の中の忌部氏である阿波忌部氏が行って祭祀を執り行ったと考えられる。香取、鹿島は春日大社の原型でエジプトに関係し、春日神社を結ぶと奈良盆地に巨大なオリオン像が出現した。そして、忌部山と大和三山の関係は前述のように象徴的であり、忌部氏がエジプト、とりわけ"神の山ピラミッド"に関係することを象徴しているとも見なせる。そのピラミッドの大元は、シュメールの階段状ピラミッド、ジグラットであり、日本では方墳となっている。
著者は、"忌部=忌+部"で"指導者層の「忌」とその配下たる「部民」"とし、"忌"は実は"イム"であり、エジプトの宰相イム・ホテップに因むと類推している。イム・ホテップは初の石造ピラミッドであるジュセル王墓を設計・建設したと伝えられている。この場合の"ホテップ"とは神々と王族の尊称で、宰相イムが賢神として崇められた結果として与えられた名称である、としている。そして、エジプトのピラミッドがメソポタミアで発達したマスタバ墳墓をベースに発展したものという事情を考慮すると、イム・ホテップとは必ずしも固有名詞ではなく、焼成煉瓦あるいは石材ブロックの方形ユニットを階段状に積み上げる、マスタバ墳墓の建造技術者を総称していた、と著者は類推している。つまり、"忌=イム"は方墳の建造技術者と解釈している。
確かに、このように解釈すれば、神事に携わることのできるレビ族=忌部氏が方墳の建造を指導したことは納得できるものである。
これまで、秦氏が土木事業や工芸などに秀でた技術集団としていた。この場合の秦氏とは、応神天皇渡来後、朝鮮半島経由で渡来した一団のことであり、必ずしも失われていない二氏族(ユダ、ベニヤミン)のことだけではない。応神天皇は失われた十支族の中のガド族であり、応神天皇渡来後、朝鮮半島経由で渡来した一団の秦氏は、原始キリスト教に改宗した失われた十支族系のユダヤ人が多数を占め、彼らを物部氏と見なすならば、土木事業や工芸の大部分は純粋な秦氏(失われていない二氏族)ではなく、物部氏が担っていたということになる。だから、全国的に分布していた物部氏を阿波忌部氏が指導することにより、古代王国を建設することができるのである。
なお、抵抗していた物部氏=ユダヤ教徒も後にすべて改宗して原始キリスト教徒になったから、表向きはすべて秦氏になったと言える。
(2)籠神社の極秘伝
①忌部氏
このように見てくると、阿波忌部氏は北イスラエル王国=失われた十支族系のレビ族であると考えるのが妥当である。籠神社の海部宮司に依ると、四国が重要であるという。言われた時には、単に大嘗祭の麁服を献上する阿波忌部氏と、剣山でノアの箱舟がアララト山に到着した日に行われる祭り(7 月 17 日の神輿渡御)の重要性を指しているのかと思った。しかし、物部氏のトップが重要と言うからには、四国の阿波で象徴される阿波忌部氏のことであり、阿波忌部氏も物部氏に属するということである。
阿波忌部氏は大嘗祭に於いて麁服という白装束を献上する。大嘗祭では皇太子殿下の"最後の晩餐""死"、そして天皇陛下となって"復活"することを再現しており、イエス・キリストの御魂と一体となり、正式に王権を継承する御神事である。だから、この麁服は"死に装束"である。そして、このような御神事に関われるのはレビ族のみである。ただし、中核を成す、失われていない二氏族系=原始キリスト教徒(純粋秦氏)のレビ族が御神事を取り仕切るが、これは賀茂氏である。対して、失われた十支族系=ユダヤ教徒(物部氏)のレビ族は取り仕切らずに関わるのみである。これが阿波忌部氏であり、阿波忌部氏は物部系故に、直接御神事を取り仕切るのではなく、麁服を献上するのみとなったのであろう。そういう意味で、忌部氏を"レビ族"と言い換えると、神道を裏から取り仕切る秦氏系のレビ族が賀茂氏=八咫烏、物部系のレビ族が忌部氏と言える。中でも、エフライム族=海部氏=尾張氏と共に渡来したレビ族が阿波忌部氏である。
また、イエスの磔刑を見守ったのが原始キリスト教徒=秦氏のレビ族である。イエスを十字架に掛けるよう要求したのは原始キリスト教徒ではないユダヤ人=ユダヤ教徒である。麁服という"死に装束"を差し出すことは、死を要求していることと同じである。つまり、イエスの"死"と"復活"を象徴する大嘗祭に於いて、"死に装束"である麁服を献上する阿波忌部氏はユダヤ教徒の象徴であり、物部氏はユダヤ教徒だから、阿波忌部氏は物部氏ということになる。
著者は、古代メソポタミアに於いて、天界へ旅立つ死者を導くイム・ドクトという鳥獣神を挙げ、"忌"の読みと掛け、メソポタミアとの関連性を指摘し、今後の研究課題としている。この鳥獣は、フェニックスに他ならない。方墳に関係する阿波忌部氏の忌=イミ=イムには、フェニックスという意味も込められているのである!確かに、フェニックスは死者の"復活"に関わり、大嘗祭で麁服を献上する忌部氏に最も相応しく、また、死者に関わることができるレビ族たる忌部氏に相応しい。
そして、フェニックスは沖縄に関わりが深く、沖縄は古代物部氏、とりわけフェニックス=フェニキアと関係が深いエフライム族=海部氏=尾張氏と繋がる。このことからも阿波忌部氏は物部氏であり、特にエフライム族、アロンの杖と共に渡来した物部氏(レビ族)と言える。"エフライム"にも"イム"が含まれていることは、それを暗示している。
②大山祇(おおやまつみ)神社
A:籠神社との関係
海部宮司に依ると、四国の大山祇神社も重要であるという。大山祇神社は愛媛にあり、大山祇神を祀る。"祇"は"地の神"という意味であり、大山祇神は"大いなる山の神"という意味である。別名は和多志大神であるが、"ワタ"は籠神社の祭神、海神ワタツミノカミの"ワタ"と同じで海の古語であり、海神ということである。つまり、山と海の両方を司る神である。
籠神社の表向きの祭神は彦火明命で、多次元同時存在の法則から彦火明命=火遠理命=山幸彦である。山幸彦は海神ワタツミノカミの娘、トヨタマヒメと結婚した。つまり、山の神と海の神が1つになっており、大山祇神と同じ構造である。(2 人の間に生まれたのがナギサタケウガヤフキアエズノミコトであり、その子の内の 1 人が初代天皇、神武天皇となった。)
大山祇神はイザナギとイザナミとの間に生まれ、野の神である鹿屋野比売神(カヤノヒメノカミ)との間に次の四対八神の神を産んでいる。
・天之狭土神、国之狭土神。
・天之狭霧神、国之狭霧神。
・天之闇戸神、国之闇戸神。
・大戸惑子神、大戸惑女神。
最初の二柱のうち、国之狭土神は日本書紀に記載されている原初の三柱の内の一柱と同じ読みである。
・国常立尊→国狭槌尊(クニノサヅチノミコト)→豊狭槌尊。
尊=神であり、読みが同一で同じ文字の"国狭"を用いている以上、(狭い意味での)多次元同時存在の法則から両神は同一である。(広い意味ではすべて同一。)古事記では高御産巣日神に相当し、「生命の樹」では慈悲の柱に相当する。つまり、古事記に於いて天之御中主神が高御産巣日神の父神に相当すると見なすと、大山祇神は国之狭土神の父神だから、天之御中主神に相当することが解る。籠神社の裏の極秘伝に依れば、籠神社の本来の主神は天之御中主神であるから、ここでも籠神社の祭神の構造と同じである。つまり、祭神の別名と子の名称から、大山祇神社は籠神社の別形態と見なして良く、物部氏の最重要拠点の 1 つということである。だから、愛媛の大山祇神社は重要なのである。
大山祇神社は愛媛県今治市大三島町にあり、確かに伊予国一の宮で、重要であることを示唆している。そして、全国の三島神社・大祇神社の総本社でもある。また、日子火々出見命(ヒコホホデミノミコト)の坐像があるが、ヒコホホデミノミコトは籠神社の祭神ホノヒアカリノミコトと同じである。そして、境内社として稲荷神社と宇迦神社があり、お稲荷さん=ウカノミタマ=豊受大神だから、これも籠神社と一致する。
なお、天孫ニニギは大山祇神の娘であるコノハナノサクヤヒメと結婚した。ニニギは秦氏、大山祇神は物部氏の象徴であるから、これは実質の初代天皇、秦氏の大王たる応神天皇が物部王朝に婿入りしたことを象徴している。
B:スサノオとの関係
スサノオの妻であるクシナダヒメの父母、アシナヅチノミコト、テナヅチノミコトは大山祇神の子である。スサノオとクシナダヒメとの子ヤシマジヌミは大山祇神の娘のコノハナチルヒメと結婚し、フハノモヂクヌスヌを産んでいるが、その子孫が大国主である。
また、大山祇神の娘であるカムオホイチヒメとスサノオの間に大歳神とウカノミタマが生まれている。ウカノミタマ=豊受大神である。
このように、大山祇神はスサノオと非常に関係が深い。つまり、1:(4)でも記した通り、スサノオの系統は物部氏の系統を象徴しているのである。スサノオは秦氏が持ってきた天照大神に反逆したが、後に従った。これは、渡来した秦氏に抵抗していた尾張氏=海部氏が最終的には従ったことを象徴している。
スサノオの最たる象徴は、八岐大蛇の尾から取り出した天叢雲剣=草薙神剣=アロンの杖であり、物部氏最高の宝である。スサノオは天叢雲剣を和解の印として天照大神に献上したが、これはユダヤの三種の神器のうちの 1 つを秦氏に献上したことに他ならない。現在は、"その時"が来るまで、本来の持ち主である尾張氏の神殿、熱田神宮に安置されている。
スサノオが関係する神社で有名なのは八坂神社である。読みは"弥栄"でもあり、"永劫の繁栄"を表すが、"ヤーサカ"でもある。"ヤー"はヤハウェで物部氏の主神である。そして、大山祇神社の祖霊社(神宮寺)の横には八坂神社がある。
C:一人角力(ひとりずもう)
毎年春の御田植祭(旧暦 5 月 5 日)の御田植神事の前と、秋の抜穂祭(旧暦 9月 9 日)の抜穂神事の後に、御淺敷殿と神饌田の間に設けられた土俵で行われる相撲神事である。稲の精霊と一力山(力士名=四股名)による 3 本勝負で行われ、稲の精霊が 2 勝 1 敗で勝つ。稲の精霊が勝つことにより、春には豊作が約束され、秋には収穫を感謝するという神事である。
ここでは「一人相撲」ではなく「一人角力」と書くが、広義の力比べである「角力」の文字を用いて、一般の相撲とは違うこと、神との力比べであることを表す。これは、次の旧約の一節(創世記 32 章)、"ペヌエルでの格闘"が原型である。
"ヤコブは独り後に残った。その時、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節が外れた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福して下さるまでは離しません」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と言った。
「どうか、あなたのお名前を教えて下さい」とヤコブが尋ねると、「どうして、私の名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。"
この話は、「イスラエル」の語源となっている極めて重要な内容である。それ故、旧約の神を崇める物部系の神社、とりわけトップの海部氏と関係が深い大山祇神社で行われるのである。
ここでヤコブと闘い、祝福したのは神の遣いである天使とされている。それは、神を直接見ると死ぬと言われており、ヤコブは直接顔を見たのにも関わらず、生きていたからである。一般的に天使は目に見えないので、稲の精霊はこの天使に相当し、力士はヤコブである。御神事では力士は負けることになっているが、それはあくまでも表向きの話で、裏はこのようなことなのである。(なお、相撲の原型はアヌとアラルの格闘であることは<神々の真相 1>参照。)
「一力山」という四股名は藤原百千氏の命名によるが、"百千"という名前は"多くの"という意味である。そして、"一力"とは"一人の力"という意味で、一人で相撲を取るためであるが、"「万」の字を「一」と「力」に分けたもの"という意味もある。そうすると、"百千"と続けて"百千万=未来永劫、永遠"となる。
また、「角力」は"ツノのチカラ"であるが、ヘブライ語で"ツノ"は"カーラン"と言い、ラテン語では"コルン(コルヌ)"となる。この"カーラン"には他に"光"という意味もあるが、聖書が様々な言語に訳される際に、誤訳を生じた。ギリシャ語経由の訳書ならば"光"として訳されているが、直接ラテン語に訳されたものの中には"角"と誤訳されたものもある。(ウルガタ訳など。)有名なミケランジェロはモーゼの像を作製しているが、それには角が生えている。これは、モーゼの顔が光り輝いていたことを、モーゼの顔に角が生えていたと勘違いしたためである。この場合の「角力」も実は「光の力」であり、"神の力"という意味になる。なお、イスラム教の"コーラン"も、ヘブライ語の"カーラン=光"が語源であることは、想像に難くない。コーランの「光の章」(35 節~46 節)には、"神は天と地の光なり"とあり、神は光とされている。
D:阿波忌部氏との関係
"大山祇"を文字通り解釈すると、大きな山を積む、ということで、石を積んで大きな山となるピラミッドやジグラットのことであり、阿波忌部氏を象徴している。つまり、阿波忌部氏は籠神社と表裏一体を成す大山祇神社とも繋がりがあり、ここからも阿波忌部氏はエフライム族と共に渡来した物部氏のレビ族と言える。
E:伊勢の内宮との関係
伊勢神宮内宮の境内には、何故か、大山祇神社と子安神社がある。子安神社はコノハナサクヤヒメを祀り、縁結び、子授け、安産、子育ての御利益があるとされるが、大山祇神社の祭神はコノハナサクヤヒメの父神、という程度しか紹介されていない。
しかし、内宮の境内にわざわざ御鎮座しているということは、大変重要であることを示唆する。それは、ここまでに述べてきたような理由のためである。何よりも A:で記したように、秦氏の象徴である天孫ニニギは物部氏の象徴である大山祇神の娘、コノハナノサクヤヒメと結婚し、これは実質の初代天皇、秦氏の大王たる応神天皇が物部王朝に婿入りしたことを象徴している。
伊勢神宮は秦氏の最重要神社である。そこに物部氏、とりわけトップの海部氏の象徴たる大山祇神と娘のコノハナサクヤヒメを祀ることにより、物部氏と秦氏の関係を象徴し、謎を解く鍵としているのである。何よりも、外宮から内宮に続く参道には、菊の御紋と共に籠神社の裏社紋である六芒星が刻まれた灯篭が並んでいることは、象徴的である。
3:<日本の真相>との違い
<日本の真相>では飛鳥氏の一連の著書をまとめ、次のように記載した。
・八咫烏の中のトップ 3 人が大烏であり、大烏で裏天皇たる金鵄を形成する。
・弓月君なる人物は存在せず、"秦氏を表す象徴"である。これは、弓月王国に由来するものである。京都・太秦、広隆寺の側にある大酒神社では、秦氏の首長として、秦酒公、秦の始皇帝と共に弓月君が祀られている。ここでは"ゆんずのきみ"と読ませており、弓月王国に由来していることが解る。しかし、秦の始皇帝とは関係無い。カモフラージュである。
まず、大烏についてである。最新の著書では、70 人近くいる八咫烏の中の 12人が大烏であり、その中の 3 人が金鵄であるとしている。3 人の大烏が金鵄を形成するということは変わっていないが、どちらが真実なのだろうか。
また、今回の一連の結果から、物部氏と秦の始皇帝は深い関わりがあることが判明した。例えば、漢字のカッバーラは秦氏の創作とされているが、漢字の字体を統一した始皇帝の時代にイエスはいないので、この場合の秦氏とは原始キリスト教徒のことではなく、支那の西域にいたユダヤ教徒のことである。つまり、物部氏ということである。始皇帝もペルシャ系ユダヤ人ならば、それはユダヤ教徒、すなわち、物部氏に他ならない。だから、徐福の一団=物部氏の中には、始皇帝の血縁もいたことは想像に難くない。そして、支那の「義楚六帖」には"徐福の子孫は秦氏を名乗っている"とある。徐福は秦の始皇帝と同族であるから、その子孫が"秦"を名乗ることは自然の成り行きであり、また、徐福が率いてきた一団は物部氏であるが、後に原始キリスト教に改宗して秦氏となったのである。
4:かごめ歌
飛鳥氏は今回、籠神社の海部宮司から、かごめ歌の秘密の一部を明かされた。
本来、かごめ歌は籠神社の隠し歌で、日本の国家成立に関わる重大な秘密が暗
号として隠されているという。その極秘伝が記された紙には、かごめ歌に登場
する鶴は伊雑宮であり、亀は籠神社のことであると記されていたという。
飛鳥氏は、心御柱が最初に到着した地点が籠神社であり"阿"、伊雑宮が最後の到着地点であり"吽"で、両者で"阿吽"を成すことから、鶴は伊雑宮の伝承に登場する真鶴、亀は籠神社の伝承に登場する倭宿彌命の乗っている亀と推理し、"後ろの正面"とは伊勢神宮の内宮と外宮から見てそれぞれ後ろの正面、すなわち、伊雑宮と籠神社を示すと類推している。
更に、かごめ歌の最大の焦点として"鳥"を挙げている。鳥は陰陽道の中では天と地を繋ぐもので、八咫烏も鳥であり、彼らを象徴する天狗にも翼が描かれている。聖書では天狗は天使に相当する。よって、鳥を天使、ヘブライ語でケルビムと言い換えると、翼を広げた一対のケルビムが玉座を形成する契約の箱アークとなる。現在は激動の世で真っ暗闇であり、物部氏の正体が明らかとなった今、光り輝く朝を迎える夜明けの晩に伊勢神宮から契約の箱アークが現れる、その日は遠くない、としている。
しかし、飛鳥氏は肝心な"後ろの正面"の解釈を間違えており、"鳥"としての象徴も間違えている。そこで再度、かごめ歌について記す。かごめ歌の解釈は<日本の真相>で示した。
<かごめ歌>
かごめ かごめ
籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀がすべった
後ろの正面 だあれ
"かごめ=籠目"とは、竹で編んだ籠にできる隙間で、六角形で六芒星の象徴である。六芒星はユダヤ教の象徴で、物部氏を象徴している。籠目紋は古代史の謎を紐解く籠神社と伊雑宮の御紋でもあり、ここでも物部氏を象徴している。(伊雑宮の場所は、物部氏の領地だった。)
"鳥"は精霊で、秦氏の象徴である。籠は物部氏の象徴だから、"籠の中の鳥"とは、物部氏が秦氏を取り囲む形、すなわち、十支族が二支族を取り囲む構造となる。これは、物部系の源氏の象徴たる白が、秦氏系の平家の象徴たる赤を取り囲んでいる日の丸=日本の象徴である。
そうすると、"籠の中の鳥は いついつ出やる"とは、日本の真実はいつ公開されるのか、ということになる。鳥は秦氏であり、秦氏が守り抜いてきた日本の秘密はイエスの奥義であるから、イエスの奥義・御神体がいつ公開されるのか、ということである。
"夜明け"とは、太陽が現れる=光の神イエスが再臨する=世界に真実が公開される、ということであるから、"夜明けの晩"とは、イエスが再臨する前、世界に真実が公開される前、ということである。
"鶴と亀がすべった"の鶴は鳥で秦氏=失われていない二支族、亀は六芒星で物部氏=失われた十支族の象徴である。特に、鶴は伊雑宮の由来に登場する、稲穂をくわえながら鳴いている真鶴に通じる。そして、"すべる"は"滑る"ではなく"統べる"である。つまり、秦氏と物部氏が 1 つになる=日本で真実が公開されるということである。
"後ろの正面 だあれ"とは、後ろ向きの人が正面を向くと誰なのか、ということである。"後ろ"と言えば、カッバーラでは後ろ向きのアダム・カドモンの象徴であり、「神」は顔を見せなかったので後ろ向きである。そして、アダム・カドモンは「生命の樹」と「神」の象徴である。それが正面を向くとは、実際に「神」が降りてきて姿を見せることに他ならない。この場合のアダム・カドモンは、人間に関わる唯一絶対神イエスである。
以上のことから、かごめ歌は次のように解釈される。
"奥義を守り抜いてきた日本の真実はいつ公開されるのか。世界に公開される前に、まず日本で事実が公開され、日本が真に 1 つとなる。その後、世界にも公開される。その時、天照大神=イエスが降臨し、誰もがその御姿を拝見することとなる。"
<日本の真相>ではこのように解釈したが、ここで更に補足する。"鳥"は秦氏の象徴であるが、秦氏が最も重要視しているのは心御柱であるから、"鳥"は心御柱の象徴でもある。これは、古事記で示唆されている。古事記に於ける日本の国造りは、イザナギとイザナミが天御柱=心御柱の周りを回って行った。つまり、現在の日本の根幹は、心御柱を中心にして秦氏によって行われたということである。
"日本の真実"とはユダヤ教とイエスの奥義・御神体であり、三種の神器と心御柱であるが、これらが公開されても、信じられない人は多いだろう。特に、心御柱は柱に過ぎず、何故、そのようなものが日本にあるのか?ヨーロッパには多くの聖十字架教会があって、本物の十字架はそちらにあり、日本のものこそ偽物であると主張されたら、神宮の心御柱こそ本物の聖十字架である、という物的証拠が必要となる。それこそが、天照大神の名が記されている"心御柱の首"、すなわち、聖十字架の罪状板に他ならない。それが封印されている場所こそが、真鶴で象徴され、裏社紋が籠神社と同じ籠目紋の伊雑宮である。その真鶴は日本で最も重要な作物である稲穂をくわえているから、稲穂こそ最も重要な罪状板の象徴に他ならず、籠目紋の宮に封印されているのである。これが、"籠の中の鳥"の真意である。
<日本の真相>では、かごめ歌の解釈に先駆け、エゼキエル書にある次の重要預言を解釈した。
"見よ、私はエフライムの手にあるヨセフと、その友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、1 つの木と成す。これらは私の手で 1つとなる。"
1 つの木と成すのは「私」であり、「私」はイエスである。ならば、ここでいう「ユダ」は「イエス」のことではない。そして、"ユダの木"とはユダヤの王たるイエスが掛けられた聖十字架、つまり心御柱のことであり、秦氏=失われていない二支族の象徴でもある。"エフライムの手にあるヨセフの木=エフライムの木"とはエフライム族を王族とした失われた十支族=物部氏の象徴で王権の象徴たるアロンの杖のことであり、これを保有しているのはエフライム族の王族たる尾張氏で、草薙神剣のことである。
八咫烏に依ると、草薙神剣が伊勢神宮に戻され、伊雑宮の心御柱となった時、すべての準備が整った印となり、天照大神が降臨するという。ならば、"ユダの木"とは心御柱の中でも最も重要な天照大神の名が記されている"首"=罪状板であり、それが封印されているのは伊雑宮だから、伊雑宮の心御柱となる草薙神剣が"エフライムの木"となる。エゼキエル書の預言は、このことを象徴している。
そうすると、"鶴と亀がすべる"ことは秦氏と物部氏が 1 つになる=日本で真実が公開されるということであるが、より正確に言うならば、草薙神剣(物部氏が保有する最高の御神宝)が伊雑宮(罪状板は秦氏が保有する最大にして最高の御神宝)に戻されて心御柱となることである。<日本の真相>では、何度もこの預言を提示してきたので、半ば当たり前のように理解できるはずとしていたが、詳しく述べるとこのような意味なのである。
結局、かごめ歌の真意は<日本の真相>と同じであるが、より端的には次のようになる。
"奥義を守り抜いてきた日本の真実はいつ公開されるのか。その最たるものは、天照大神=イエスの名が記された罪状板であり、聖十字架並びにユダヤの三種の神器がすべて日本に存在し、それを守り抜いてきたのが日本という国である。そして、物部氏(=失われた十支族)の御神宝である草薙神剣が秦氏(失われていない二氏族)の最大にして最高の御神宝が封印されている伊雑宮の心御柱となって三種の神器がすべて伊勢神宮に揃った時、それが印となり、天照大神が降臨する。その時、誰もがその御姿を拝見することとなる。"
要は、八咫烏が預言している天照大神の御降臨が、かごめ歌として象徴されているのである。そして、この解釈は籠神社の解釈とも矛盾しない。では、何故、かごめ歌が籠神社の隠し歌なのか?もう言うまでも無いだろうが、この国に於いて、秦氏の(人類にとっても)最高にして最大の御神宝たる心御柱=聖十字架が日本で最初に到着した地が、物部氏の王族たる海部氏=尾張氏の籠神社だからである。そして、心御柱は天照大神に関わる御神宝なので天の象徴、籠神社は(その文字が示す通り)籠目紋=六芒星で人間=地の象徴となるから、心御柱が籠神社に到着したことで、天と地を結ぶ架け橋ができたことになる。それにより、籠神社の側にある巨大な砂州を天橋立と見立てる神話が創られたのである。これはまた、物部氏=失われた十支族と秦氏=失われていない二支族の統合、つまり、"神の僕"たるイスラエルの支族の再統合に他ならない。
よって、"籠の中の鳥"とは、籠神社に到着した心御柱のことも象徴している。その後、心御柱並びに八咫鏡と勾玉で象徴される御神器は伊勢神宮に、草薙神剣で象徴される御神器は熱田神宮に移され、現在の日本の根幹が形成された。(御神器的には、"その時"が来るまで物部氏と秦氏が別れたことになる。)故
に、かごめ歌は国家成立の重大な秘密に関わった籠神社の隠し歌と成り得る。言い換えれば、籠神社が封印している日本国家成立の秘密、ということである。
天照大神の御降臨時期に関しては<神々の真相 5>で詳細に推定したが、平成25 年=2013 年は神宮式年遷宮、熱田神宮創祀 1900 年祭、出雲大社御遷座が行われる最重要の年であり、他にも多くの神社がこの年に向けて大改修などを進めている。そして、世界を裏から支配している三百人委員会の世界統一共産化政府樹立予定は 2012 年であり、「神」の真相への導き者ニンギシュジッダの作成したマヤ暦は 2012 年の冬至で 1 つの時代の区切りとなっている。
こうして物部氏の真相が明らかになった以上、"その時"は目前に迫っているのである。
<日本の真相 3>
<日本の真相 4>
2010 年 4 月 30 日に、三度目の籠神社訪問をすることができた。これは前年に、これまでにまとめた資料を持参したところ、幸運にも宮司様が出てこられ、名刺まで頂戴し、ご縁ができたからである。今回は、これまでの資料をどこまで読まれているのか、また、海部氏・尾張氏の真相と卑弥呼の真相などについて確認できたら、と思い、事前に電話で連絡してご都合をお聞きし、それに合わせて訪問したのである。
電話ではお顔を拝見できない上、礼を失しては二度とお会いして頂けないと思うと、とても緊張した。何しろ物部氏のトップだから、歴史の歯車がちょっとずれていたら、この方々が天皇家となっていたのである!しかし、こちらも名刺を渡してあり、今年に入ってからも資料をお送りしたことから覚えておいでで、まずは一安心。何と、それから 20 分ほどもお話しした。その中で、今年の 11 月にイスラエルのアミシャブが来日するが、そのような組織のことを知っているか、と尋ねられた。その組織はエルサレムに第三神殿を建造しようとしている連中で、世界中に散った十支族を探し回っていること、そのためには手段を選ばない危険な連中であることを申し上げた。その来日の目的は、日本とイスラエルの関係を論じるセミナーであり、海部宮司に参加の要請がきているとのこと。しかし、宮司様は、気が進まない、と言われたので、でしたら止められた方がよろしいのでは、と申し上げておいた。
(続き)
<日本の真相 5>
<日本の真相 4>では、籠神社の海部宮司にお会いしてお教え頂いたことから、古代の様々な真相が見えてきた。特に、天照大神=神宮の本質に関わる問題に関しては、本来の主神、祀る側と祀られる側の関係、そして系図(皇統)の改竄が大きく影響して真相解明が極めて困難な状態とされていることが解ってきた。前回、これらも合わせてまとめる予定だったが、あまりにも膨大になるので、今回<日本の真相 5>としてまとめることとした。
系図の改竄は多次元同時存在の法則の本質に関わる問題であり、これまでに示してきた"同一"というカラクリを解くものである。また、祀る側と祀られる側の関係は"女帝"問題に大きく関わっており、外宮先祭や天照大神が女神とされてしまった本当の意味もそこに隠されているようである。その根底には、卑弥呼・トヨと天照大神の関係がある。
1:前回の概要
<日本の真相 4>の内容と密接に関わるので、その概要をまとめる。
(続き)
<日本の真相 6>
<日本の真相 5>では古代日本に於ける祭祀の真相をまとめ、古代大王家の系図を明らかにした。また、一部、神社や古墳などが何らかの意味があるかのように配置されている聖定について記した。
今回、古代ヤマトの中心地だった奈良盆地に点在する神社群・古墳群の配置が何を意味しているのか、古代祭祀の真相を基に明らかにする。
また、古代ヤマトに大きく関わるフェニキアについての資料を入手したので、その内容をまとめる。
(続き)
<日本の真相 7>
<日本の真相 6>をまとめ終わり、その真偽のほどを海部宮司にお伺いしようと思い、2012 年 4 月 14 日と 5 月 4 日にお電話差し上げた。両日とも、女性が応対され、宮司様は忙しいので会えないし、電話にもなかなか出られない、とのことだった。更に、著書をご執筆中、ということなので、忙しさに拍車をかけているご様子である。ならば、真相公開もいよいよなのだろう。そこで、また連休明けにお電話差し上げることを告げた。
最新資料は持参する予定だったが、5 月の連休中にその概要をしたためた手紙を直筆し、資料と共に送付した。そして、再び 5 月 10 日に電話した。この日は午前中に式年遷宮行事のお白石持ち行事の応募があり、幸運にも、内宮にご奉仕することが決まった。この日ならば可能性があるかもしれないと思い、お電話差し上げたのである。最初は若手の神職が出られ、今は手が離せないから 20~30 分後に電話して欲しい、と言われた。また断られるだろう、と思いつつ、40 分後ぐらいに電話すると、宮司様が出られた。結局、1 時間ほどの電話対談となり、宮司様は終始、ご機嫌の御様子だった。どうやら、手紙が功を奏したようであり、神宮の御加護もあろう。(手紙には卑弥呼の邪馬台国やトヨの大邪馬台国のことだけではなく、諏訪大社での出会いなどもしたためておいた。)以下、その概要である。
なお、宮司様は一度言われたことを言っていないかの如く、また繰り返されたりする。これは、以前に直接対談した時にもそうだった。あまりにも多くの解らぬ人に対応されているので、無意識のうちにそうされているのだろう。だから、1 時間の対談と言えど、実質は 30 分ほどだろうか。
なお、電話対談のお礼と宮司様との御縁を感謝しに、2012 年 5 月 23 日に籠神社へお神楽を奉納しに行った。その際、多少の期待を抱いてはいたものの、運良くお会いすることができ、その上、対談することまでできた。その内容も併せて記す。
(続き)
<日本の真相 8>
海部宮司との対談では、しきりにある著書について勧められた。それは、四国・大山祇神社の宮司、三島敦雄氏が書かれた「天孫人種六千年史の研究(スメル學會)」という著書である。シュメールと日本との関係について書かれているという。いろいろ調べ、また、東京・神田の古書店に出向いたりもしたのだが、見つけることはできなかった。
しかし、2013 年の年明け、幸運にも手にすることができた。知り合いが海部宮司と対談した時、やはりこの著書を勧められ、四国まで出向いて何とか手に入れることができたという。その伝手で今回、入手することができた。何と、この著書のほとんどは、戦後、GHQ によって焚書されたらしい。それほど、彼ら(並びにその裏にいる国際銀行家)にとっては大変危険な著書、ということである。今回入手することができたのは幸運以外の何物でもなく、お導きなのだろう。
著書は約 500 ページにも及ぶ大作であり、昭和 2 年(1927 年)の発行なので、書体も現代から見ればかなり古い体裁のもので、なかなか読みづらい。ここでは、重要と思われた部分について抜粋して記す。と言うのも、主張は以下のように首尾一貫していたので、枝葉末節なことまでは記す必要性が無いからである。
・基本的には記紀に基づき、皇統は万世一系である。
・皇室の祖はシュメールである。
・古代は海神、日神、火神を祀るのが通例で、日神は海神の子、火神は日神の子だから格は海神が最高で、次いで日神、そして火神である。これは、古代バビロニアに準じている。
しかし、よくぞこの時代にここまで書けたもので、道理で、焚書の対象となるわけである。後書きには、(当時の)バビロン学会の原田敬吾氏から依頼された、とあり、三島氏は原田氏の研究を基に、神社方面からの考察を頼まれたわけである。以下、その概要を記し、これまでの考察と合わせて再考察する。
なお、単語は解りやすくするために基本的には現代語表記とし、特にシュメールの「神々」の神名については、著者の記述名ではなく、既出の記述表記とした。また、私見は*以下に記す。
(続き)
<神々の真相 1>
1:人類創世神話とシュメール
BC3800 年ごろ、突如して高度なシュメール文明が花開き、後の文明や世界中の神話の根源となった。そのシュメールから発掘された粘土板を解読したと言われているのが、パレスチナ生まれの考古学者ゼカリア・シッチンである。彼は世界を裏から牛耳る三百人委員会の配下であり、人類は人類を創造した神=地球外知的生命体には逆らえないという意識を植え付けるためのプロパガンダである、という説もある。しかし、「ユダの福音書」による宇宙創造の秘密や、改竄される前の旧約原本である「死海文書」やいくつかの偽典・外典には、地球外知的生命体である「神々」と人類の交配などについての記述がある。そして、シュメール文明が開化した BC3800 年頃と、アダムのエデン追放(地上への降臨)を BC4000 頃と見なすことは、年代的に合っている。つまり、日本神話も含め、あらゆる宗教の根源もシュメールである可能性が極めて高い。
そこで、まずはシュメールの粘土板についてゼカリア・シッチンの解読概要を紹介し、それについて妥当性を考察する。(「人類を創成した宇宙人」、ゼカリア・シッチン著、徳間書店。)
<神々の真相 2>
<神々の真相 1>では 14 のタブレットから成る「エンキ神の御言葉」を基に、シュメール及び「神々」の真相を述べた。その中で、エジプトの真相に関わる事項もあったが、ここでは、エジプト文明の真髄であるピラミッドとスフィンクスのカッバーラについて考察する。更に、日本とエジプトの関係についても考察する。
<神々の真相 3>
シュメール文明が開化してから 500 年後にエジプト文明、更にその 500 年後にインダス文明が開化した。両文明はシュメールから派生した文明である。また<神々の真相 1>でも見たように、太古に人類を巻き込んだ「神々」の権力闘争があり、その主原因はマルドゥクとイナンナであった。そのイナンナこそ、インダス文明発祥の女神である。そこで、インダス文明についてカッバーラとシュメールの観点から考察する。更に、インドの二大叙事詩から、古代核戦争を考察する。
<神々の真相 4>
<神々の真相 1~3>では、すべてはマルドゥクの野望が原因で、核戦争を含むあらゆる災いが発生したことが判明した。特に、婚約者をマルドゥクの奸計により失ったイナンナとの確執は凄まじい。他にも、マルドゥクが偶像崇拝の根源であり、イナンナと共にサタン(ルシファー)の原型であることも述べた。そして、核戦争後にマルドゥクは全アヌンナキに君臨する「神」となり、あらゆる神話・伝承を自分にとって都合が良いように改竄した。当然、人類の「神々」に対する理解は混乱して様々な誤解が発生し、現在まで引き継がれる偶像崇拝、サタン崇拝の原因となってしまった。
そこで、ここでは偶像崇拝、サタン崇拝について詳しく検討する。それが、アトランティスなどの超古代文明やイエスの真相を解く鍵にもなるからである。
<神々の真相 5>
これまでの一連の話は、日本の真相に始まり、シュメールこそがすべての文明・宗教の根源であることが判明した。そして、あらゆる宗教に於ける「神々」の原型は惑星ニビルの住人アヌンナキであり、彼らの"実話"が基となって神話・伝承が創造され、現在に至ることが明らかとなった。中でも重要なヤハウェ、アッラーについては言及したが、最も重要なイエス=天照大神については言及していない。特に<神々の真相 4>では偶像崇拝について検討したが、そこではイナンナがイエスに大きく関わっていることが判明した。イナンナとドゥムジの話にはイエスの象徴が満載であるが、イエスとは「神々」の中の誰なのか、あるいは別の存在なのか、ということについては触れていない。
そこで、総まとめとして、イエスの真相に迫る。イエスは天照大神として日本で封印されているわけだから、まずは日本とシュメールの関係についてまとめる。その後、ヤハウェ、アッラーとシュメールの「神々」の対応について再確認し、最後にイエスの真相と降臨の時期について検討する。
<神々の真相 6>
これまでの一連の資料で「神々」やイエスの真相、降臨時期などについて検討し、真相を解く鍵はカッバーラとシュメールにあることが解った。特に重要なイエス=天照大神に関する象徴としては、以下のものが挙げられる。
MILLENNIUM
日本という国の意味がこれで明らかになった
1.
籠神社の神主海部氏は「ここのご祭神はユダヤの神だ」と言われた。
そのとおり。
海部氏は、物部氏の中核であり、物部氏の祖先は徐福である。
徐福は嬴族であり、秦の始皇帝と同族である。
そして、秦の始皇帝の父親呂不偉はレビ。
秦の統治形態がペルシャのそれと酷似しているから、秦とはペルシャ系ユダヤ人が建てた国だと推測できる。
ということは、籠神社のご祭神がユダヤの神であるというのも、うなずける。
ペルシャによってバビロン捕囚から解放されたユダヤ人たちが中国に移動して建国した秦から、物部氏はやってきた。
物部王国はユダヤ王国であり、物部神道とは旧約聖書のキリスト教(俗にユダヤ教と呼ばれるが、ユダヤ教は現在タルムード教、つまり、ルシファー教を意味しており別物)なのである。
同じくバビロン捕囚から解放されたユダヤ人がバルハシ湖付近に弓月国を作り、原始キリスト教を信じていた。
故佐伯好郎早大教授曰く:
「私見によれば、弓月の民(秦氏)は、使徒時代以後のキリスト教徒であったに相違ないし、又、大多数がユダヤ人改宗者であった原始教会のキリスト教徒であったかも知れない。」
つまり、弓月国からやってきた秦氏は、原始キリスト教を信じていたユダヤ人であった。
物部氏は秦氏と同じ璽を持つことを確認し、秦氏に国を譲った。
ここに、現代に続く大和王朝が成立した。
つまり、日本は、ユダヤ系キリスト教国なのである。
これこそが、籠神社の「カゴメ歌」の意味である。
カゴメとは六芒星であり、すなわち、ユダヤ。
六芒星は亀の甲羅の文様であり、それゆえ、ユダヤは亀によって象徴される。
籠の中の鳥とは、鶴のこと。
なぜならば、籠神社の浦島太郎伝説において、浦島太郎は最後、鶴になって飛んで行ったことになっているから。
籠の中の鳥=鶴亀である。
籠神社の象徴の一つであるヒョウタンは、キャップの部分を「つる」と言い、ボトルの部分を「かめ」という。
籠神社の極秘伝によると、亀は籠神社を、鶴は伊雑宮を表す。
八咫烏は、籠神社と伊雑宮は「阿吽」であると飛鳥氏に言った。
「阿吽(あうん)」とは「あ」と「ん」であり、ギリシャ語のアルファベットでいうと「アルファ」と「オメガ」。
イエス・キリストはご自身のことを「わたしはアルファであり、オメガである」と言われた。
つまり次のようになる。
亀と鶴=籠神社と伊雑宮=阿吽=アルファとオメガ=イエス・キリスト
伊勢神宮は、その本宮である籠神社から五十鈴川のほとりにある現在の位置に移動した。
伊雑宮は伊勢神宮の奥宮であるから、伊勢神宮は籠神社から伊雑宮に移動したことになる。
これで伊勢神宮の本質が明らかになった。
伊勢神宮は、イエス・キリストの神社なのである。
浦島太郎の物語は、亀で始まり、鶴で終わる。
浦島太郎は、イエス・キリストを示している。
亀(イスラエル)を助け、竜宮城(黄泉)に下り、復活して地上に戻り、最後鶴になって昇天した。
鶴になってどこに行ったかというと、富士山である。
浦島太郎伝説は、富士山で終わる。
つまり、富士山はパラダイスなのである。
これでなぜ徐福が富士山と関係するのか明らかである。
富士山は別名蓬莱山であり、不老不死の薬があるところとされてきた。
古来より、富士山周辺には不老不死伝説が多く存在しています。 太古の人達も不老不死の秘薬を求めて、富士山にやってきました。かぐや姫の持っていた不老長寿の秘薬を携え富士山に来た帝、 始皇帝の命を受けて不老不死の秘薬を求めてやってきた徐福。
http://www.fgo.jp/~fuimi/frame/fuji.html
富士山とは「不死山」と呼ばれており、現在の名称になったのは鎌倉時代。
皆さんご存知の「竹取物語」、この中に富士山の謂れと不老長寿の記述があります。
竹取物語の舞台は、駿河の国、大綱の里(現在の富士市)に、竹かごを作って暮らしている老夫婦が竹薮で、赤ん坊を見つける場面から始まります。
やがて、その赤ん坊は成長し、「かぐや姫」と呼ばれるようになり、うわさを聞いた都の帝をはじめ様々な男性から求婚を受けます。
そして、物語後半、かぐや姫は月へと帰るわけですが、かぐや姫は帝の下を去るときに、帝に不老不死の秘薬を預けます。
その後の帝は、生きる希望を失い富士山にやってきて、不老不死の秘薬を焼きました。
この古事から富士山は不老不死と結びつき、不死山=不二山から、鎌倉時代に富士山になりました。
http://www.fgo.jp/~fuimi/frame/fuji.html
以上から推測すると、ペルシャ系ユダヤ人は、日本を不死の国、つまり、パラダイスと考えていたのだろう。
そして、浦島太郎の伝説を通じて、日本はイエス・キリストの国であり、大和朝廷は永遠不滅の王朝であると示しているのであろう。
2.
バビロン捕囚にあい、ペルシャによって解放され、日本にやってきた物部氏は、自らの歴史をイエス・キリストのそれに重ね合わせていたのかもしれない。
聖書において、解放したペルシャ王クロス(紀元前600年頃 - 紀元前529年)は、その名前が二百年前にイザヤ書(紀元前8世紀)においてすでに預言されており、イエス・キリストの型なのである。
わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」
主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。(イザヤ44・28、45・1)
浦島太郎伝説は、このことを象徴している。
亀である物部氏(イスラエル)は、浦島太郎(クロス=イエス・キリスト)によって救われ、自らイエス・キリストとともに竜宮城(黄泉)に下り、復活して地上に戻り、鶴となって富士山(パラダイス)に上った。
彼らにとって、富士山のある日本とはパラダイスであり、永遠の安息を得られる場所だったのだ。
日本という国の意味がこれで明らかになった。
八咫烏の関係者曰く
YouTubeに非常に興味深い内容のビデオがあったので、要点をメモしました。
1.秦氏の子孫が企業経営者になっていて、八咫烏と接触している。
2.八咫烏はイエスの12使徒の末裔。
3.12人で構成され、トップは裏天皇であり、三羽烏とか金鵄と呼ばれている。
4.表の天皇になにかあれば、裏天皇が機能する。
5.その下に五龍会(5人から成る)があり、その下に大烏が4人いる。つまり、3-5-4のシステム。
6.五龍会は、黄龍会・黒龍会・白龍会・赤龍会・緑龍会から成る。
7.五龍会の下には、1800社の秦氏系企業がある。
8.このグループには、外部から入ることはできない。一つが倒産すると、すでに決まっている企業が繰り上げでメンバーになる。
9.昔から日本の経済をリードしてきたのは三井家である。
10.伊勢神宮の内宮と外宮を建てたのも三井家である。
11.三井家の流れをくむ企業(東芝やトヨタなど)、つまり、三井グループはみな秦氏である。
12.新参者の企業は、秦氏直系ではないので加入できない。
13.創業者が秦氏直系でも、直系ではない人間がトップになったときは、説明を受ける。
14.京都が本拠地。
15.秦氏の拠点は、太秦である。
16.映画村など太秦の地にあるものは、みな八咫烏と関係がある。
17.映画村がなぜ太秦にあるかというと、芸能の世界が秦氏によって作られたから。
18.近畿地方に「烏」が多いのは、天皇が京都にいたから。
19.そこら中にカバラが仕掛けられていて、京都だけでもすごい。大阪、奈良もそうだが、とくに四国に仕掛けが多い。
20.日本社会は、古代に来日した原始キリスト教の人々が設計した。
21.この事実は、仕掛けによって、わざと判らないようにしてある。
22.理由は、契約の箱と三種の神器を隠すため。
23.三種の神器は契約の箱を隠すため。
24.剣山に契約の箱があるというのも、ミスリードするための仕掛け。剣山にあるのはいいものではない。
25.金鵄は一生懸命努力しているが、その下はかなり自由である。言えないぐらいのことをやっている人もいる。議事録を外部に漏らしている人もいる。
26.過去に裏天皇の人で世に出た人がいる。細木数子の旦那だった安岡正篤。
27.安岡正篤は亡くなるまで、ずっと金鵄の一員だった。
28.現在、金鵄以外の9人は、血縁的に秦氏と関係がないが、基本、秦氏がなる。
29.金鵄に欠員が出たら、五龍会のメンバーの中から指名される。
30.新しく金鵄に選ばれた人で、五龍会の企業(日本の有名企業)から「あいつで大丈夫か」という声が出て、もめることもある。
31.安倍晋三の背後に小泉と同じ組織がついている。
32.日本会議のメンバーの中で、「自分たちは八咫烏よりも上だ」と発言する人間がいる。
33.日本人は古代イスラエル12支族だということは120%間違いないが、テレビでは発言できない。
34.この手の話は蓋をしなければならない。その理由は、三種の神器と契約の箱である。国体を守るためには、カミングアウトできない。
35.出雲大社と伊勢神宮の遷宮を同時にやったのもカバラ的に深い意味がある。
八咫烏の関係者曰く2
この八咫烏の内部事情に詳しい人の発言はきわめて重要である。
1.日本に初代教会の人々がやってきたと確認できた。
私は、最近、使徒の働き1章の「イスラエルの再興」に関するイエスの御言葉について示しを受けてきた。
すなわち、イエスが「律法と預言者」を成就されたのであれば、紀元70年までに「超民族的イスラエル」だけではなく、「民族的イスラエル」も完成したのではないかと。
「民族的イスラエル」は初代教会の人々、すなわち、ユダヤ系クリスチャンにおいて成就したのではないかと。
となると、その「民族的イスラエル」は、神殿崩壊後どうなってしまったのか。
もし異邦人の中に散ってしまったら、ユダヤ系ノンクリスチャン(パリサイ派などイエスを十字架につけた人たち)と同様に滅亡してしまったということになる。
彼らはどこか一箇所に集まって国を作っているはずだと。
彼らは日本にやってきた。
日本の国体は、初代教会のユダヤ系クリスチャンたちが作り上げたものである。
それを担ってきたのが、物部氏と秦氏である。
物部氏は、ペルシャによってバビロン捕囚から解放されたユダヤ人であり、徐福を祖とする。
物部氏は、来日した秦氏と印を見せ合って、同一民族であると確認し、秦氏に政権を委譲した。
それ以来、大和王朝は、この2つの氏族が中心となって運営されてきた。
蘇我氏が仏教を取り入れし、体制がぐらつきかけたが、スキタイ人によってアッシリア捕囚から解放されたユダヤ人を祖先に持つ藤原氏が神道により国を立て直した。
藤原氏は、物部氏・秦氏とタッグを組み、前者は表を担当し、後者は裏を担当した。
彼らは、三種の神器と契約の箱を守るため、日本人自身にすら覆いをかけた。
すなわち、藤原氏の手による古事記と日本書紀を使って、日本があたかも多神教の国であり、キリスト教とまったく無関係な国であるかのようにカモフラージュした。
しかし、裏の部分を司る秦氏・物部氏は、公の目に触れない大嘗祭や遷宮祭において、イエス・キリストを礼拝する儀式を継承してきた。
2.バビロンの影響を受けてできたユダヤ教カバラが入っている。
飛鳥氏によると、今のカバラと神道のカバラは違うという。
それゆえ、彼は、神道のそれをカッバーラと呼ぶ。
しかし、神道に呪術的要素があることは事実であり、われわれクリスチャンは、神道をそのままの形で受け入れることはできない。
おそらくこのカバラの要素は、バビロン捕囚の影響を受けたユダヤ人の子孫徐福から引き継がれてきたものだろう。
金鵄の一人安岡氏も陽明学者であった。陽明学はあきらかにユダヤ教カバラの影響を受けている。
3.八咫烏が秦氏から離れている。
この関係者によると、現在の八咫烏は必ずしも秦氏ではないという。
これは、八咫烏そのものが乗っ取りにあっている可能性を示唆する。
実情は知らない。
ただ、日本のシステムの重要部分がシオニストによって乗っ取られている現状を考えると、極めてゆゆしき問題である。
真名井神社
私の友人の川口常仁氏(左から二番目)は、非常に興味深い体験をした方である。
1988年、車のディーラーをしている彼の事務所(東村山市)に、一人のお客さんが来た。彼女の名前は棟方と言い、棟方志功の親戚で、青森の人であった。
川口氏も祖父(溝江姓)が青森の人であったということを聞いて、彼女は「ああ、それじゃあ、こんど青森に帰った折に、先祖のことを調べておきましょう。」と言った。先祖のことなどあまり関心もなかったのだが、お願いしてみた。調べてもらってわかったのは、溝江家の先祖は朝倉一族の末裔であったということだった。
川口氏のもとで働いていた、古代史研究家の堀井氏がこれを聞いて「ああ、朝倉氏なら、日下部族だよ。」と言った。堀井氏は、アマチュア古代史研究家として著名な人物で、学界でも一目置かれている存在である。彼は日下部族の研究家だった。「なんだ、堀井さんはボクの先祖の研究をしていたのか。」と奇妙な一致に驚いた。
「そうだ、ちょうど、日下部族の実地調査に北陸・丹後方面に行くから、同行しませんか。」との誘いを受けた。
自分の先祖がどのような暮らしをしていたのか興味があったので、川口氏のお母様(溝江春子)と堀井氏と三人で、日下部の地に出発した。
日下部族は、古代の有力な氏族で、鉱山技術を持ち、天皇家を助ける働きをしていたという。鉱山に関係する地には、日下部族の痕跡が必ずといっていいほど残っているという。
現地で、一行は朝倉の旧跡を見て回り、川口氏とお母さんは宿で一服していると、そこに堀井氏と地元歴史研究家が帰ってきた。川口氏がなにげなく机の上においておいたものに、その歴史研究家の一人の目がとまった。それは、川口氏の教会の牧師がイスラエルに赴いたおりに、おみやげとして買ってきたキーホルダーで、「ダビデの紋」が入っていた。
「このマークなら、そこの神社の境内にありますよ。」
「えっ?どうして神社にダビデの紋があるの?」
ということで、さっそくその神社に出かけることにした。
言ったとおり、やはり、神社の碑にダビデの紋が入っているのである
http://www.millnm.net/qanda/manai/sekihi.jpg。
それは真名井神社という神社で、日下部族が建てたものだった。石碑は長いこと土の中に埋もれていたのだが、その旅行の直前、地元の有志によって掘り起こされ、新しく復刻され、きれいな御影石になっていた。上部中央にそのダビデの紋「カゴメマーク」がついており(これは最近誰かによって消された)、「一、伊勢神宮ノ元宮」と書いてあった。つまり、真名井神社は伊勢神宮の元宮であり、ここから、伊勢に移されたのだった。
真名井神社は、食物の神様を奉っている。したがって、真名井神社から移って出来た伊勢神宮の外宮も食物の神様を奉っているのだ。その場に立った川口氏は、自分の先祖がユダヤ人であったことを直観した。真名井=マナ、ダビデの紋、そして、境内の小さな岩山から流れ出る清水=メリバの水。境内近くから見える「天の橋立」=天地を結ぶヤコブの梯子。これは、旧約聖書を知っている者でなければ、造れないシチュエーションではないか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/天橋立
日本神話における天橋立
『古事記』によると、イザナギとイザナミの国生みにおいて天の浮橋に立ち、天の沼矛をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島になったとする。このようにしてできたのが「オノゴロ島」であり、天の浮橋が天橋立のことと言われている。
『丹後国風土記』には次のように述べられている。
与謝の郡。郡役所の東北隅の方向に速石の里がある。この里の海に長くて大きな岬がある。前の方の突出部を天の椅立(はしだて)と名づけ、後の方を久志の浜と名づける。そういうわけは、国をお生みになった大神の伊射奈芸命(いざなぎのみこと)が天に通おうとして梯子を造り立てたもうた。それ故に天の椅立といった。ところが大神がお寝みになっている間に倒れ伏した。そこで久志備(くしび・神異)であられると不思議にお思いになった。それ故、久志備の浜といった。
イザナギは久志備の浜の北にある元伊勢籠神社の真名井原(イザナミのいる奥宮)に天から通うために梯子を作ったが、寝ている間に倒れてしまった、というのが天橋立の名の由来である。また『丹後国風土記』では天橋立の「東の海を與謝の海(与謝の海=宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ」と説明している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤコブの梯子
ヤコブの梯子 (旧約聖書)(ドイツ語版、英語版) - 旧約聖書の創世記28章10–12節でヤコブが夢に見た、天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子、あるいは階段。
そこで、あわてて、東京にいる奥さんに電話したところ、ちょうどその時、奥さんは事務所の掃除をしているところだった。ふと見ると、棚に一冊のぼろぼろの本があった。それは、牧師が金沢に行ったおりに古本屋で買った三村三郎著「裏返して見た日本歴史」という本であった。http://www.millnm.net/qanda/manai/hon.gif
興味もないので長い間読まずに棚においてあった。その本を手にとってパラパラめくっていると、真名井神社についての記事が出ていた。ちょうどその時に川口氏から電話があった。「おい、大変なことが起こったぞ。真名井神社という神社があってだな…」「えっ?ここにも真名井神社って書いてあるけど…。」
このような偶然は、神がなさる以外には考えられない。
川口氏も奥さんも真名井神社についていかなる興味もなかった。それが偶然に同じものを見させられたということは何かの摂理、導きがあるとしか考えられない。同行の堀井氏は、冷徹な科学者である。実証性を重んじる彼ですら、今回の旅については奇跡の連続であったといっているのである(http://www.millnm.net/qanda/manai/html/joron.html)。
家に帰ってその本を手に取ると、著者三村三郎氏(毎日新聞記者)は、真名井神社は古代ユダヤ人が建て、もともとヤーウェをまつっていたと書いてあり、二重の驚きであった。
さらに驚くべきことがあった。その地を離れる時、お母さんが何気なく空を見上げると、1つの不思議な雲(http://www.millnm.net/qanda/manai/pht2.html)が浮かんでいるのに気づいた。それは、何か先祖がやさしく「よく来たね」と言ってくれているような気がしたという。そして、その雲は下のほうに向かってしずしずと降りていったという。
御母さんは、亡くなるまでいつもこの雲の話をしていた。
この旅を境にお母さんはまったく変わってしまった。それまでは熱心な日蓮宗徒で、川口さんや奥さんの信仰を嫌っていたのだが、「わたしの先祖がおまえの神様を拝んでいたのなら、わたしも信じる」と言い始めた。そして、御母さんはクリスチャンになった。川口氏と奥さんの12年の祈りが聞かれた。
この話しは実話である。
(中略)
堀井氏による旅行記は、http://www.millnm.net/qanda/manai/html/index.htmlを参照して欲しい。
http://www.millnm.net/qanda3/izawanomiyaimi.pdf
伊雑宮の復活が意味するところ
(1)
飛鳥昭雄氏と三神たける氏による『失われたキリストの聖十字架「心御柱」の謎』(学研、297 ページより)には興味深い情報が記されている。
伊雑宮は、伊勢神宮の 10 社ある別宮の一つと考えられてきたが、実は本当の価値を隠されてきたらしい。
1679 年、江戸において『旧事本紀大成経』なる書物が刊行された。伊雑宮の神庫から出てきた秘伝であるとして、当時のインテリを中心に僧の潮音、長野采女、広田丹斉などが喧伝し、爆発的に広がったという。
この題名に含まれる『旧事本紀』は、一説によると聖徳太子が蘇我馬子に編纂させたものである。内容は、『古事記』や『日本書紀』に含まれなかった同時代の情報が記されているため、中世においては、記紀と並んで神道の根本神典『三部の神経』のひとつと考えられてきた。
だが、江戸時代になって儒学者の林羅山が『旧事本紀』を偽書としたため、評価は一転失墜した。徳川家綱も焚書を命じ、この世から抹殺された。
そのような中、1670 年に『旧事本紀大成経』31 巻本が刊行され、続いて先の『旧事本紀大成経』72 巻本が世に出る。
内容は一貫して、「物部氏」の正当性が記されている。
伊雑宮のもっとも旧い神官の一族的矢氏が物部氏であるためであるかもしれないが、世間の注目を集めたのは、伊勢神宮に関する記述であった。
曰く、「本当の伊勢神宮は伊雑宮である」。
これは、本家の伊勢神宮の猛反発を招いたという。
伊雑宮という分家が、本家に対して「本当の本家は自分だ」というわけだから、争いを巻き起こすのも当然だった。
しまいには朝廷も乗り出す事態になった。結果、『旧事本紀大成経』は偽書であるということで一件落着となった。
今でもかつてのような記紀に匹敵する根本神典とみなされていない。
しかし、飛鳥氏と会った八咫烏のリーダー大烏は、伊雑宮が内宮と外宮に匹敵する第 3 の伊勢神宮であると断言した。
つまり、『旧事本紀大成経』の主張と一致するのだ。
これは、何を意味するのか。
藤原氏による物部氏の封印と関係している。
事実上記紀を編纂した藤原不比等が、何らかの目的で伊雑宮を隠し、伊勢神宮を内宮と外宮の二宮にした。
飛鳥氏と八咫烏の会話がある。
「なぜ伊雑宮を本宮からはずし、別宮のひとつとして世間から隠したのですか」
「貴殿はどう思う」
「それは・・・」
・・・
「伊雑宮が隠された理由、それは奥義だからです」
「貴殿のいう奥義とは、祭神のことか」
「はい」
「伊勢神宮の本当の祭神は造化三神だが、それは隠されておらん。記紀に、ちゃんと記されておる」
「ならば、奥義は伊雑宮そのもの。伊勢神宮が三宮から成り立っていることを隠すために、伊雑宮を封印しました」
「・・・」(303-304 ページ)
以上の箇所を読んで私には思い当たるふしがあった。
1995 年に伊勢神宮を訪れた際に、内宮と外宮を結ぶ参道に立っている灯篭にユダヤの六芒星がついているのを見た。
後で調べると、伊勢神宮曰く、それはユダヤではなく「伊雑宮」の社紋であるという。
どうして伊雑宮の社紋がここにあたかも「忘れるなよ」と言わんばかりになぜ付けられているのか。
既述のとおり、伊雑宮は 10 宮ある別宮の一つである。それなのに、なぜこのような格別の扱いを受けるのか。
理由は、伊勢神宮の第三の宮だからだ。
もともと伊勢神宮は、3 つの宮から成り立っていたのだ。
外宮と内宮の心御柱が正中から西北・東南に外れているのは、伊雑宮を指し示すためだという。(304 ページ)
では、なぜ藤原不比等は伊雑宮を隠したのだろうか。
それは、おそらく物部氏を消すためだろう。
八咫烏によると、物部氏は、徐福の子孫。徐福は、ユダヤ出身といわれる秦の始皇帝の血族で、イスラエル 12 支族のヨセフ族。
ユダヤ色そしてキリスト色を消すために、藤原氏は、伊雑宮を隠したのでは。
友人の川口氏は、1988 年にたまたま訪れた籠神社の別宮真名井神社でユダヤのマークを発見した。
彼はそのとき、自分の先祖が建てたこの神社がユダヤであるならば、自分もユダヤ人に違いないと悟った。
同行の日蓮宗のお母さんも、それを悟り、クリスチャンになった。
後に、籠神社の宮司海部氏は、自分の氏族は物部の中心であり、籠神社も真名井神社も物部だと言った。
籠神社と、伊勢神宮の内宮と外宮、そして、伊雑宮を結ぶとまっすぐの直線になる。
そして、籠神社にダビデの星があり、伊雑宮にもダビデの星がある。
八咫烏によると、この両方の神社は、阿吽だという。
阿吽とは、アルファとオメガ、つまりイエス・キリスト。
さらに、伊勢神宮のご神体の最初の上陸地点が籠神社だとも。
伊勢神宮のご神体は、籠神社から長い年月をかけて伊勢神宮にたどり着いた。
そして、最初にそのご神体があった場所は、伊雑宮であったという。
そのご神体とは、十字架だった。
十字架は、伊雑宮にあったのだが、その後、内宮に移された。
現在は、十字架の上についた罪状書きだけがある。これを八咫烏は「首」と呼んだ。そして、この首こそが、十字架よりも重要なご神体であるとも。
籠神社は物部、そして、伊雑宮も物部。伊勢神宮のご神体の移動は、すなわち、物部の移動でもあった。つまり、実は、日本の中心神社伊勢神宮は物部の神社。
藤原氏は、それを隠したかった。
私は、藤原氏が「蘇我氏は廃仏派の物部氏を滅ぼした仏教派で、悪党である」との印象を与えたと推定する。
そして、日本書紀において、「自分こそはその悪党を大化の改新のクーデターで滅ぼした英雄である」と描こうとしたのではないか。
すなわち、自分こそ真の神道派、天皇家の神社伊勢神宮の支持者であると。自らの政権の正当性を示すためにこのような細工をしたのではないかと考える。
その場合、伊雑宮が真の伊勢神宮の第 3 宮であることがばれると自説にほころびが出る。
そこで必死に隠したのだが、物部氏は正中はずし、そして、灯篭の六芒星において真理を暗示した。
いろいろと情報を集め、論証の必要があるが、私は、日本の原宗教はユダヤ系キリスト教だと考えている。
その事実が、百済の王族を先祖に持つ藤原氏によって巧妙に隠されてきたと推察する。
(2)
大和王朝前に、ニギハヤヒ王朝があった。これは、物部氏の王国であり、それゆえユダヤ性、キリスト性が強かったのであろう。私の現在の推察では、おそらく蘇我氏と秦氏は、この王朝との間に密接な関係があった。だから、物部氏とこの 2 つの氏族は共通の信仰を持っていたのだろう。
しかし、藤原氏が政治の実権を握り、歴史を改ざんした結果、物部氏は蘇我氏によって滅ぼされたとされ、蘇我氏はその滅亡の張本人とされ、秦氏とともに追放された。
中世において「物部氏の古事記」である『旧事本紀』は、記紀に並ぶ神典とみなされていたが、江戸時代になって偽書として葬りさられた。まだ物部氏が復活できる時代ではなかったのだろう。
既述のとおり、『旧事本紀』は、聖徳太子が蘇我馬子に編纂させたものであるとの説があるという。この説が正しいとすると、従来の藤原史観から見て、非常に奇妙である。
物部氏を迫害した蘇我氏がどうして物部氏の正当性を証明する本を編纂するだろうか。
やはりどこかに歴史の改ざんがあったのだ。蘇我氏と物部氏を分断しようとの意図があったに違いない。
物部氏のニギハヤヒ王朝がユダヤ性を濃厚に残していて、紀元前から日本の中心勢力はユダヤ的であった。
そして、おそらく西方のキリスト教文化圏からシルクロードを通って来日した新羅系の蘇我氏と秦氏が、新約の民として日本に入り、旧約の民物部氏と同一の信仰者として習合し、大和朝廷成立後も、日本の有力統治集団として天皇家とともに存在していたのであろう。大化の改新まで。
藤原氏は、これらの集団から政治の実権を奪うために、自らが行った物部氏の暗殺を巧みな操作により蘇我氏が行ったと見せかけ、同時に秦氏をも巻き込んで、自らを天皇家の下に統治者として君臨する体制を築き上げたのではないか。
その政権の正当性を示すため、旧事本紀を葬り去り、その代わりに古事記と日本書紀を編纂した。
だから、記紀は、藤原氏によって色づけされ、改ざんされた古代の情報なのだろう。そのような歪曲があっても、やはり昔の記憶は残されている。
下記のサイトでは、聖書と古事記の関係が詳しく扱われている。
http://kojiki.imawamukashi.com/index.html
(残念ながら、他の日猶同祖論者と同様に、プレ・ミレの立場であり、黙示録を非プレテリズム的に読んでいる)
かかる流れを見ても分かるように、我々が、原日本の宗教を解明し、回復するためには、旧事本紀は重要な文献であり、ニギハヤヒ王朝、物部王国について調べることはきわめて重要である。
(3)
日本とはどのような国なのか。これは長い間なぞであった。
しかし、神は今、我々にそれを教えようとしておられる。
日本は、もともとユダヤ系キリスト教の国であった。ユダヤ系キリスト教国は、日本以外に存在しない。
なぜならば、紀元 70 年以降、福音は異邦人に伝わったからだ。
今我々がキリスト教と呼んでいる「ステンドグラスの教会」をシンボルにしたキリスト教とは、実は、本来のキリスト教とは異質の欧米化されたキリスト教、異邦人化されたキリスト教である。
このキリスト教は、異邦人の手によって発展したために大きな欠陥がある。その欠陥とは、「自然崇拝」である。
聖書が「無からの創造」を唱えるのに対して、欧米のキリスト教は、「創造の前に自然があった」と考える。
だから、聖書の「創造の法=聖書法」よりも「自然法」のほうが尊重される。
欧米のキリスト教の歴史とは、「聖書法」と「自然法」の強調の度合いの変動の歴史である。
ローマ・カトリックであっても、初期のころは、それほど自然法強調はひどくなかった。
ひどくなったのは、トマス・アキナスが、キリスト教を「ギリシア思想」によって再編してからだ。
それ以降、ローマ・カトリックは堕落する。そして、宗教改革に至る。
宗教改革において、改革者たちは、「聖書に帰れ」と訴えた。
カルヴァンにおいて体系化された宗教改革神学の基本は、「聖書法」の強調である。
それでも、再建主義と比較すれば、まだまだ足りなかった。
自然法、自然啓示、自然理性に対する信頼は、デカルト及びカントにおいて復活した。
ここにおいて、西欧は、「世俗化への土台」が形成され、この土台に基づいて次第に聖書法の軽視が加速していった。
今の時代は、それが頂点に達した時代である。
同時に、神は、ヴァン・ティル及び再建主義を通じて、聖書法を回復され、「聖書法は万物に対する最高権威である」との徹底した聖書法信仰が確立された。
つまり、現代とは、麦と毒麦がはっきり分かれた時代なのだ。
それまであいまいであったものが、はっきりと識別できるようになった。
さあ、どちらにつくか、それによって、その人が神の陣営に属する人か、それとも悪魔の陣営に属する人かが分かる。
聖書啓示、聖書法、聖書の教えを、自然啓示、自然法、科学よりも上位におくか、それとも、その逆か。
ユダヤ人は、旧約時代、様々な裁きと訓練を経験する中で、聖書法を何よりも尊重することを学んだ。
同時に、紀元 70 年前には、聖書法を捨てて、武力中心、人間理性中心のユダヤ人もはっきりとその姿を表すようになった。
今の時代は、紀元 70 年の裁きと平行した時代だ。
つまり、紀元 70 年が、ユダヤ人の時代の終末であり、今の時代は、異邦人の時代の終末である。
神は、アブラハムからキリストまで二千年間ユダヤ人に恵みを賜り、ユダヤ人を救われた。
彼らは、恵みを拒んでついに反逆は頂点に達し、紀元 70 年に、大淫婦として裁かれた。
キリストから現代まで二千年間、神は異邦人に恵みを賜り、福音を与えてこられた。
異邦人は、恵みを拒んでついに反逆は頂点に達しようとしている。もしかして紀元 2070 年に「異邦人の時代の終末」が訪れるのかもしれない。
神の御計画は人間にとって不明なので、年代を決定するのはやめよう。
しかし、ユダヤ人の時代 2000 年、異邦人の時代 2000 年で平等という図式は適切ではないかと思う。
聖書によれば、最終的に異邦人の時代の終わりに、ユダヤ人が回復するので(ローマ 11 章)、今後ユダヤ人がクリスチャンになるだろう。
いや、実際に全世界でユダヤ人の回復は起こりつつある。
ユダヤ人が回復するとどうなるだろうか。
では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
もし彼らの捨てられることが<世界の>和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から<生き返ること>でなくて何でしょう。(ローマ 11・15)
ユダヤ人の回復は、「世界の復活」である。
ユダヤ人が回復するときに、世界はよみがえる。
黄金の千年紀が始まる。
日本は、もともとユダヤ文化であった。
紀元前においてバビロン捕囚を逃れた人々がまとまって日本列島に入った。
日本は「逃れの島」だったのだろう。
紀元 70 年に、ユダヤ人への裁きから救われたクリスチャンたちも、日本に渡ってきた。
世界には、日本を理想の国とする伝説がある。
http://homepage3.nifty.com/time-trek/else-net/topics-07-01-10.html
http://tak0719.web.infoseek.co.jp/qanda3/74f0vWDb5lmjo69402.htm
東の果ての島国はおそらく大陸の戦乱を逃れてきた人々の救いの島であったのだろう。
不老長寿の薬を求めて数千人の若い男女を伴ってやってきた徐福は、実はユダヤ王国を建設しようとしてきた。
彼らは、物部氏となって、ニギハヤヒ王朝を作り、日本を統治していた。
後に、天皇家がやってきて、大和朝廷が開かれてからも、物部氏は、天皇家を支える役割を果たした。
その後、シルクロードを通じて秦氏や蘇我氏がやってきて、物部氏と合流し、ユダヤ文化による日本統治が行われていた。
しかし、紀元 7 世紀に革命が勃発。天皇を支える人々が追い出され、代わりに百済系の藤原氏が統治者となり、今日まで続いてきた。
この 1400 年の間、ユダヤ色は表から消された。秦氏や蘇我氏、物部氏は、地下にもぐった。
伊勢神宮は、「絶対に見てはならない」ご神体の数々においてユダヤ性を継承してきた。
しかし、真のキリスト教、つまり、ユダヤ系キリスト教の継承者であるところの日本人が、回復しようとしている。
そのルーツが次第に明らかになりつつある。
これは、ユダヤ人の回復のもう一つの現象である。
世界に散った紀元 70 年に「滅んだユダヤ人たち」が回復するのと同時に、「救われたユダヤ人」である日本人も回復しようとしている。
異邦人の時代が終わりに近づきつつあるのと同時に、ユダヤ人の回復も起こりつつある。
日本人は、本家のキリスト教徒である。こちらが元祖である。
本家のキリスト教が回復したらどんなことが起きるだろうか。
文字通り世界は復活する。
サタンは文字通り縛られる。
驚くべき時代が到来するだろう。
http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/hadano/index6.html
ムー2020年11月号(総力特集 日本=ユダヤの蘇民将来大預言)
■契約の聖櫃アークは伊勢神宮にある!
今でこそ、牛頭天王は「天王」だが、かつては「牛頭天皇」という表記もあった。明治以降、不敬に当たるとして、牛頭天王という表記で統一され、神社での祭神名もスサノオ命と改められた。
しかし、ある意味、本来は牛頭天皇が正しい。なぜならば、日本の天皇は牛頭天王の子孫であるからだ。ここでいう牛頭天王とは絶対神ヤハウェではなく、預言者モーセという意味だ。現在の天皇家は預言者モーセの子孫であり、ユダヤ教における大祭司の権能をもっているのだ。
ユダヤ教では大祭司はレビ族のなかでも、とくにモーセの兄アロンの子孫コーヘンだけが就任する決まりとなっている。不思議なことに、大預言者であり、アロンよりも格上であるはずのモーセの子孫は、ほとんど『旧約聖書』には登場しない。
かねてから謎だったのだが、最近、ついにわかった。イタリアの聖書学者フラビオ・バルビエロの最新研究によれば、大祭司として有名なエリはアロンの子孫だと解釈されているが、さにあらず。彼の本当の父親はモーセの息子ゲルショムの子であるシェブエルであることが判明したのだ。
大祭司エリの子孫は代々、神殿の至聖所において儀式を行った。なかでもツァドク家は将来、この世の終わりに再建される第三神殿の祭祀を執り行うことが預言によって決められている。
第三神殿が再建されるために絶対不可欠なもの。それは至聖所に安置されていた契約の聖櫃アークである。新バビロニア王国によって第一神殿が破壊されたときを境に、契約の聖櫃アークは歴史上から姿を消した。映画『レイダース』のモチーフになったように、失われた契約の聖櫃アークをめぐっては、これまでユダヤ人はもとより、多くの歴史学者や探検家が捜し求めたが、いまだに発見されていない。
が、しかし。実は、この日本にある。伊勢神宮だ。
伊勢神宮の内宮における地下殿に安置されている。漢波羅秘密組織八咫烏は飛鳥昭雄に、そう断言している。語り継がれるところによれば、明治天皇は契約の聖櫃アークの表面にあった金箔を、その手で貼り直したというのである。
契約の聖櫃アークに触れることができるのは祭司レビ人のみ。とくに契約の聖櫃アークを管理してきたのは大祭司、まさにモーセ直系の子孫にほかならない。
古代日本に渡来してきたとき、大和朝廷を開いた天皇は失われたイスラエル10支族のガド族であるとみられているが、その後、第26代・継体天皇の時代に皇統がレビ族に代わったという。八咫烏の言が正しければ、その後の天皇はツァドク家だということになる。
『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎 飛鳥昭雄,三神たける』 ユダヤ人徐福の渡来と籠神社、2度目の徐福渡来と物部氏、物部氏の東遷と邪馬台国、卑弥呼はユダヤ人預言者だった、失われたイスラエル10支族と秦人、秦始皇帝の流民としての秦人、ユダヤ人原始キリスト教徒「秦人」、応神天皇の渡来、大邪馬台国から大和朝廷へ、秦氏の神社乗っ取り、ふたつの鴨族、大酒神社の祭神ダビテと物部氏、秦氏を名乗った物部氏
『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎 飛鳥昭雄,三神たける』
『ユダヤが解るとこれからの日本が見える 宇野正美』 「正統なユダヤ人」の多くが辿り着いた日本、日本にいる男子の40%は古代ユダヤ人と同じ遺伝子か?、イスラエル首相ネタニヤフの天皇陛下との会見の真の目的、ユダヤの「三種の神器」は伊勢神宮の地下にある、徐福が探し当てた蓬莱山に「三種の神器」を隠す、阿蘇山~石鎚山~剣山~高野山~伊勢神宮に至る「ゼロ磁場」
『ユダヤが解るとこれからの日本が見える 宇野正美』
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