「この神社の由来書か古文書などがあれば、見せていただきたいのですが」
その言葉を聞いた永島宮司はおもむろに立ち上がり、奥から一冊の古文書を持ってきてくださった。それはA4サイズほどの大きさで、中央に大きく『永島文書』と書かれている。
さっそく拝見させていただくことにした。全体的に古文で書かれていたが、意外と読みやすい。ページをめくっていくと、筆者の目が、ある一点に釘づけになった。何度も、何度もその行を読み返す。不覚にも、熱いものがこみ上げてきた。
ついに発見したのである、捜し求めていた物的証拠を。そこにはこう書かれていたのだ。「古来、このあたりは万津浦と呼ばれていた」
末盧=マツラ=マツウラ=万津浦・・・・。こんな大発見がどこにあろうか。
これで邪馬台国を見つけることができる。あとは「魏志倭人伝」を素直に読みながら行程をたどっていけば、邪馬台国にたどり着くことになるのだ。
筆者ははやる気持ちを抑え、永島宮司に礼をいい、年毛神社を辞した。
その言葉を聞いた永島宮司はおもむろに立ち上がり、奥から一冊の古文書を持ってきてくださった。それはA4サイズほどの大きさで、中央に大きく『永島文書』と書かれている。
さっそく拝見させていただくことにした。全体的に古文で書かれていたが、意外と読みやすい。ページをめくっていくと、筆者の目が、ある一点に釘づけになった。何度も、何度もその行を読み返す。不覚にも、熱いものがこみ上げてきた。
ついに発見したのである、捜し求めていた物的証拠を。そこにはこう書かれていたのだ。「古来、このあたりは万津浦と呼ばれていた」
末盧=マツラ=マツウラ=万津浦・・・・。こんな大発見がどこにあろうか。
これで邪馬台国を見つけることができる。あとは「魏志倭人伝」を素直に読みながら行程をたどっていけば、邪馬台国にたどり着くことになるのだ。
筆者ははやる気持ちを抑え、永島宮司に礼をいい、年毛神社を辞した。
第二回古代史開封
第二章・「『永島文書』に記された驚くべき事実」筆者が考えていた場所、それは福岡県宗像郡玄海町神湊である。
理由は簡単だ。狗邪韓国から対馬まで千余里(よって、実際の距離から計算して、1里は75メートル)。対馬から壱岐までが千余里なら、壱岐から千余里の海岸は、地図上で弧を描けば2か所に絞られるからだ。
ひとつは長崎県佐世保の南にある西彼杵半島だが、ここだとその後の行程に、どうしても無理が生じてしまうので、候補地としてはふさわしくない。
残るひとつは神湊である。古代航海術の権威である茂在先生も、神湊なら可能性は相当高いということだった。
行ってみると、神湊は白い砂浜が弓のような半月を描いて4~5キロほども続いている、静かな美しい町だった。
とりあえず、神湊に近い宗像大社を回ってみたが、今回の取材対象となるものはなく、再び神湊に引き返した。そのときである。小さな看板が筆者の目に飛び込んできたのである。そこには「年毛神社」とあった。
いったいどういう読み方をするのだろう。興味を引かれた筆者は、宮司にお話だけでもうかがってみようと、年毛神社を訪ねてみることにした。
年毛神社の永島宮司は体格のカッチリした、とても温厚そうな方だった。まず神社の名前の読み方を尋ねてみる。
「としも、と読みます。ここは神功皇后を祀った神社です」
やはりそうか、神功皇后は宇佐神宮の祭神のひとりである。そこで、さらに踏み込んでうかがうことにした。「この神社の由来書か古文書などがあれば、見せていただきたいのですが」
その言葉を聞いた永島宮司はおもむろに立ち上がり、奥から一冊の古文書を持ってきてくださった。それはA4サイズほどの大きさで、中央に大きく『永島文書』と書かれている。
さっそく拝見させていただくことにした。全体的に古文で書かれていたが、意外と読みやすい。ページをめくっていくと、筆者の目が、ある一点に釘づけになった。何度も、何度もその行を読み返す。不覚にも、熱いものがこみ上げてきた。
ついに発見したのである、捜し求めていた物的証拠を。そこにはこう書かれていたのだ。「古来、このあたりは万津浦と呼ばれていた」
末盧=マツラ=マツウラ=万津浦・・・・。こんな大発見がどこにあろうか。
これで邪馬台国を見つけることができる。あとは「魏志倭人伝」を素直に読みながら行程をたどっていけば、邪馬台国にたどり着くことになるのだ。
筆者ははやる気持ちを抑え、永島宮司に礼をいい、年毛神社を辞した。
「新たなる邪馬台国=宇佐説の展開」
まず、神湊が末盧国だと想定すると、それ以降の場所は以下のようになる。
まず「東南陸行すること五百里、伊都国に至る」は、末盧国(神湊)から伊都国まで、東南陸行500里(375キロ)ということだ。
ちなみに「陸行」の「行」は、中国語で「ゆっくり歩く」という意味がある。
神湊から東南に歩くと宗像大社があり、赤間を通過し、猿田峠を越え、直方を抜けて五百里(375キロ)ほどのところが赤池村だ。付近には縄文遺跡や弥生遺跡などが多く存在している。
次に伊都国(赤池村)から東南へ100里(7.5キロ)歩くと奴国に着くとある。つまり、現在の田川市だ。
同じように、奴国(田川市)から不弥国へは、東に100里(7.5キロ)。現在の香春町へ行き着く。
そして不弥国(香春町)から投馬国へは、南へ水行20日。この「水行」だが、従来の説では「船で行った」と考えられているが、赤池村―田川市―香春町をたどったとすると、魏使一行はすでに内陸に入り、船には乗っていないことになる。
「魏志倭人伝」の中に「水行」という記述は、ここの記述を入れて3回ほど出てくる。まず、「郡より従えて倭に至るには海岸を循いて水行して韓国を歴て」という部分だ。「循いて」とは「よりそって」という意味。つまり海岸沿いに水行したということだ。
そして先の「南して投馬国に至る、水行二十日」。これは川沿いに歩き、生きるための水を確保しながら進んできた、と解釈できるのである。
最後は「女王の都する所、水行十日、陸行一月」という部分だ。循いてという言葉を使っていないので、ここでは水行は水の中をゆっくり歩いたと解釈できるのだ。
他の部分の記述中に「草木茂盛」という言葉が出てくるところからすると、季節は夏。山中ではマムシなどの毒虫が産卵の時期を迎えており、間違って踏み込んで噛まれた者もいたに違いない。そこで、木々が生い茂る山を避け、川沿いにをたどったと考えられるのだ。
不弥国(香春町)から祓川を南下すると今川にぶつかる。さらに今川を下っていくと、行橋市に出る。ここが投馬国だ。「南して投馬国に至る」と記されているのに、なぜ行橋市の東にある香春町なのか、と疑問に思うかもしれない。でもこれは、出発したときから見た方角「基点方角説」だと考えれば問題はないのだ。
もうひとつ、不弥国(香春町)から投馬国(行橋市)までの約35キロを、なぜ20日もかかったのかということだ。魏使一行が邪馬台国を目指したのは、先にも触れたように、初夏から夏にかけての6月~8月ごろだと思われる。初夏だとすれば、ちょうど「梅雨」の時期にあたる。したがって、魏使一行は邪馬台国への大事な貢ぎ物を濡らさないため、雨がやむのを待ちながら、ゆっくりとしか進めなかったのではないだろうか。
さて、「魏志倭人伝」に帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里とある。帯方郡から神湊までが、すでに一万里かかっているとすると、神湊から二千余里行った場所が邪馬台国になるわけだ。
神湊から香春町までは700里。そして香春町から行橋市までは35キロの距離となり、約500里という計算になる。ということは、投馬国(行橋市)から邪馬台国までが約800里であれば、総距離が一致することになる。
投馬国(行橋市)から南へ海沿いに歩いて10日で中津市に着く。距離にして約30キロ。さらに南下して陸路を歩き1ヶ月で邪馬台国に着く。総距離から考えれば、中津から27キロのあたりの宇佐が、なんと、ぴったり邪馬台国の場所として当てはまるのである。
確かに「魏志倭人伝」の邪馬台国に関する記述と宇佐には、多くの類似点が認められる。
たとえば、国東半島には大規模な製鉄遺跡があり、このあたりの繁栄ぶりがうかがえること。また、この地では昔から魚がよくとれ、人々は海に潜り、あわびや真珠といった貝もとっており、邪馬台国の風俗に一致する。
また、宇佐には宇佐神宮があり、後の大和朝廷が八幡神の神託を気にしていたという事実もあり、これは卑弥呼が巫女であった名残りとも考えられるのだ。
こうした、さまざまな事実を考え合わせると、宇佐が邪馬台国だったという可能性は、いやがうえにも高まってくるのである。
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