宗像と魏志倭人伝 その3 永嶋文書(宗像末盧国説上陸地は津屋崎)
邪馬台国への道筋を探るこのシリーズ「宗像と魏志倭人伝 その1」「その2 末蘆国って宗像じゃないの?」で触れた永嶋文書の写しを頂きました。
永嶋文書とは、古来この辺り(勝浦周辺?)は万津浦と呼ばれていた。との記述があると山上智氏のブログ「古代史開封」で紹介されている、福津市勝浦の年毛神社に伝わる古文書です。現在は、原本は痛みが酷いとのことで非公開で、写しを福岡県が保管していると聞いていたのですが、旧津屋崎町役場にて福津市教育委員会が保管されているそうです。閲覧に関しては件の文化財課を通さないとできないかもしれません。
内容は、戦前に栄えた永嶋家、年毛神社の由来等が中心のようで、外表紙?には「昭和四年九月写し」「青柳種信識 村社年毛神社縁起 」「永島恒樹」と書いてあります。永嶋家の表記は永島だったり長嶋だったり桂岳の石碑では永嶌だったりと安定していないようですが、伊能忠敬が勝浦村の測量に来た際に本陣として大庄屋長嶋家に宿泊した記録が残っています。
〈九ツ半後に勝浦村へ着。止宿本陣大庄屋長嶋源五郎、酒造家なり。奈良漬を贈る。別宿庄屋半兵衛〉
そして、この大庄屋の七代目が永嶋文書を書かれた永島恒樹氏のようです。
文化9年7月29日伊能図 宗像
『筑前宗像永島系譜』を作成された「年毛神社」永島俊一宮司(先々代)は15代宮司なので年毛神社宮司の永嶋家から大庄屋永嶋家が出たってことなんでしょうかね。宮司の永嶋家に伝わっていた永嶋文書というか「村社年毛神社縁起」を庄屋家の永島恒樹氏が写し津屋崎町に寄贈、さらに写しを永島俊一宮司が系図作成資料として持っておられたという流れなのかな。で、私の方は町(福津市)に寄贈された方の写しを入手、山上智氏は永島宮司から見せて貰い撮影した。
「6代目永島長樹清重源五郎さんは、明治41年からと大正5年から勝浦村長を通算2期務めました。」とのことなので名実ともに大庄屋だったんでしょう。
年毛神社の由来ははっきりとはわかりませんがのですが(神社にちゃんと聞いてはいないので…)、現宮司が17代目とのことですので平均30年勤められたとして約500年、1500年代に創建か宮司が置かれたということになるのかな?永禄3年の記述が永嶋文書にあるし。
第三者的記録としては「福岡県神社誌」の明治5年11月3日村社に比定。というものがあり、創建時期の特定まではできませんが、こちらの「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)さんにも由来が書いてあります。
貝原益軒の筑前国続風土記巻十七p29の「〇勝浦 勝浦水塘」では「年守大明神の社有」、こちらのブログ「玄海の風」さんの記事より、
〔筑前国續風土記拾遺〕年毛社
西 といふ人家の海邊松林の中に在。年毛松原といふ。村浦5ヶ所(喜多、東、西、松原口、勝浦浜)の産神也。(ー途中略ー)此社は宗像七十五社の一也。同末社 に年毛大明神、正月朔日神事、7月7日神事としるせり。今は4月2日、9月29日祭あり、當所巫女弐人有りて奉祀する。
とあるので、17世紀後半には巫女さんが常駐されていたんでしょうかね。常駐は無いにしても4月と9月の祭りの日には巫女さんが二名居たってことですね。
年毛神社に限ったことではなく、この辺り(勝浦)の神社は鳥居を新しくした際に古い額束は鳥居の近くの地面に置く風習があるようです。また、近辺の神社も参道は現在の海(玄界灘)の方ではなく旧入海(勝浦潟)の方に向いているので、江戸時代の塩田開発以前はこの湾内での漁が盛んだった名残なのかもですね。渡~塩浜辺りまでの入海(津屋崎入江干潟)は岩も多く古勝浦湾のころは水深もあったので鮑の生育に適している磯だったと考えられます。「好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之」のように潜水漁で魚やアワビを獲っている姿がこの入海に入ってきた魏使には印象的だったんでしょうね。
弥生時代後期の宗像地区北部、和名類聚抄の宗像郡の郷名比定地と歴史資産等の地図
あまり大きな神社ではありませんが、御神職がちゃんと居られ(宗像地域の他神社も兼任)拝殿内を覗くとやはり歴史と、信仰の厚さを感じられます。鳥居・狛犬・灯籠などの寄進者の名前等を見ると宗像地域の方がほとんどですが、博多祇園山笠の理事の方なんかも…。
駐車場が境内のど真ん中にあるので初めて行く方は面食らうかもです。
あと、初めてだとどこから入って良いのかがわかりにくいかもです。
福岡県神社誌、上巻-国立国会図書館デジタルコレクションは、こちらから閲覧できます。年毛神社は138コマ目に載ってます。
そして中には「文政十一年」に書かれた社記の表紙、「永禄三年庚申三月十七日」「吉田和泉守、石松加賀守、吉田伯耆守」(宗像大宮司家の家老格の面々ですね)という記述が有ります。文政と永禄では書かれた方は別人のようですが、1560年に書かれた紙がそのまま残っているのかまでは、私じゃ判断がつかないです。
で、見た感じ更に古そうな紙に三韓征伐で「かつら」という地名になったという内容が書かれていますが、ざっと読んだだけなので詳しい内容は今後の課題と言うことで(^_^;)
この古い部分に書いてある内容ですが以下のような感じだと思います。読めない漢字は似た字を入れてますが、ご容赦下さい。古い文書を読みなれている方なら簡単に読めてしまうんでしょうけども。
△渡郷マテハ本勝浦ノ郷ノ内ナリシコト先ニモ垣シルセンゴトクテ往古ノ記録ナトアリテイチシルシ浦名郷名ノ地名止志母万津浦岩瀬京泊勝山
「浦名郷名ノ」の部分は全然読めないので意味もおかしくなっています(^_^;)
現代語だと、こんな感じになるのかな?
△先に書いたように、渡の郷までは、この勝浦の郷の中に含まれます。昔の記録があって位置を記してある浦の名前郷の地名は止志母(年毛?)、万津浦(末蘆?→勝浦)、岩瀬、京泊、勝山
流れから行くと、三韓征伐でここらは勝浦と呼ばれるようになりましたが、それ以前は止志母、万津浦、岩瀬、京泊、勝山という地名だった。で、いいのかな?
岩瀬、京泊は今でも小字で渡にありますが並べてあるということはそれほど広い範囲ではないかもしれないから、末蘆国=宗像説の強化にはちょっと微妙な資料かも…。
素人じゃここらが限界か?いやいや、もっとちゃんと読めばまた新たな発見があるかもしれないし、少なくとも否定材料ではないよね。
あと、福津市渡に梅津天満宮があるのですが、昔はその下の浜に梅津浦という漁師集落があったとのこと。
うめづうら→めずら?
もしかすると、この梅津浦のことを永島文書の万津浦は指しているのかもしれませんね。
ちなみに日本書紀
夏四月壬寅朔甲辰、北到火前国松浦縣而進食於玉嶋里小河之側。於是、皇后勾針爲鉤、取粒爲餌、抽取裳縷爲緡、登河中石上而投鉤祈之曰「朕、西欲求財国。若有成事者、河魚飲鉤。」因以舉竿、乃獲細鱗魚。時皇后曰「希見物也。(希見、此云梅豆邏志。)」故時人號其處曰梅豆羅国、今謂松浦訛焉。是以、其国女人、毎當四月上旬、以鉤投河中、捕年魚、於今不絶、唯男夫雖釣、以不能獲魚
唐津市近代図書館松浦・唐津地名考
唐坊もこの梅津の南にあるんだよな…
で、鮎が釣れたという話であれば2006年の調査で釣川の田久橋で鮎が観測されています。鮎は河口近くで産卵し稚魚が成長しますのでこの辺りで釣れる可能性も0ではないかもですね。また、昔は鮭のことを鮎と書いたとの説もあるようですが、鮭も釣川で確認されています。
筑前国続風土記において貝原益軒が記録した福岡県の淡水魚類
津屋崎(福津市)と邪馬台国では、津屋崎不弥国説が比較的メジャーですが、実際に津屋崎周辺を調べると不弥国よりも末盧国と考えた方がしっくりとくる史跡や伝承が多いです。また、宗像地域で末盧国(上陸地)候補として上げられやすい場所として鐘崎や神湊がありますが、やはり津屋崎勝浦が収まりが良いようです。特に神湊と勝浦だと隣接地区ですし、神湊派の方は勝浦や津屋崎について調査されると面白いんじゃないかと思います。
2019年は3月31日の9:30より、カメリアホール2階視聴覚室で歴史講座「邪馬台国への道標魏志倭人伝 魏使は福津へ上陸した」を12:30終了予定で行います。入場料等はありません。今回は60名収容なので今までよりキャパは大きいのですが福津市のボランティアガイドの皆様や観光協会関連の方の来場が多数見込まれますので邪馬壹国(やまと国)研究会 宗像の方からでも参加申し込みいただければ、席を確保いたします。お気軽にご参加ください。
古代ハイウェイ海の道 玄関は宗像
「宗像と魏志倭人伝 その1」
「その2 末蘆国って宗像じゃないの?」
「その3永嶋文書」
「宗像と魏志倭人伝 その4 座談会しました」
邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム)
邪馬台国の玄関末盧国は宗像 第6回シンポジウム動画あり
海の民宗像 ―玄界灘の守り神 改訂増補版クリエーター情報なし梓書院
永嶋文書とは、古来この辺り(勝浦周辺?)は万津浦と呼ばれていた。との記述があると山上智氏のブログ「古代史開封」で紹介されている、福津市勝浦の年毛神社に伝わる古文書です。現在は、原本は痛みが酷いとのことで非公開で、写しを福岡県が保管していると聞いていたのですが、旧津屋崎町役場にて福津市教育委員会が保管されているそうです。閲覧に関しては件の文化財課を通さないとできないかもしれません。
内容は、戦前に栄えた永嶋家、年毛神社の由来等が中心のようで、外表紙?には「昭和四年九月写し」「青柳種信識 村社年毛神社縁起 」「永島恒樹」と書いてあります。永嶋家の表記は永島だったり長嶋だったり桂岳の石碑では永嶌だったりと安定していないようですが、伊能忠敬が勝浦村の測量に来た際に本陣として大庄屋長嶋家に宿泊した記録が残っています。
〈九ツ半後に勝浦村へ着。止宿本陣大庄屋長嶋源五郎、酒造家なり。奈良漬を贈る。別宿庄屋半兵衛〉
そして、この大庄屋の七代目が永嶋文書を書かれた永島恒樹氏のようです。
文化9年7月29日伊能図 宗像
『筑前宗像永島系譜』を作成された「年毛神社」永島俊一宮司(先々代)は15代宮司なので年毛神社宮司の永嶋家から大庄屋永嶋家が出たってことなんでしょうかね。宮司の永嶋家に伝わっていた永嶋文書というか「村社年毛神社縁起」を庄屋家の永島恒樹氏が写し津屋崎町に寄贈、さらに写しを永島俊一宮司が系図作成資料として持っておられたという流れなのかな。で、私の方は町(福津市)に寄贈された方の写しを入手、山上智氏は永島宮司から見せて貰い撮影した。
「6代目永島長樹清重源五郎さんは、明治41年からと大正5年から勝浦村長を通算2期務めました。」とのことなので名実ともに大庄屋だったんでしょう。
年毛神社の由来ははっきりとはわかりませんがのですが(神社にちゃんと聞いてはいないので…)、現宮司が17代目とのことですので平均30年勤められたとして約500年、1500年代に創建か宮司が置かれたということになるのかな?永禄3年の記述が永嶋文書にあるし。
第三者的記録としては「福岡県神社誌」の明治5年11月3日村社に比定。というものがあり、創建時期の特定まではできませんが、こちらの「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)さんにも由来が書いてあります。
貝原益軒の筑前国続風土記巻十七p29の「〇勝浦 勝浦水塘」では「年守大明神の社有」、こちらのブログ「玄海の風」さんの記事より、
〔筑前国續風土記拾遺〕年毛社
西 といふ人家の海邊松林の中に在。年毛松原といふ。村浦5ヶ所(喜多、東、西、松原口、勝浦浜)の産神也。(ー途中略ー)此社は宗像七十五社の一也。同末社 に年毛大明神、正月朔日神事、7月7日神事としるせり。今は4月2日、9月29日祭あり、當所巫女弐人有りて奉祀する。
とあるので、17世紀後半には巫女さんが常駐されていたんでしょうかね。常駐は無いにしても4月と9月の祭りの日には巫女さんが二名居たってことですね。
年毛神社に限ったことではなく、この辺り(勝浦)の神社は鳥居を新しくした際に古い額束は鳥居の近くの地面に置く風習があるようです。また、近辺の神社も参道は現在の海(玄界灘)の方ではなく旧入海(勝浦潟)の方に向いているので、江戸時代の塩田開発以前はこの湾内での漁が盛んだった名残なのかもですね。渡~塩浜辺りまでの入海(津屋崎入江干潟)は岩も多く古勝浦湾のころは水深もあったので鮑の生育に適している磯だったと考えられます。「好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之」のように潜水漁で魚やアワビを獲っている姿がこの入海に入ってきた魏使には印象的だったんでしょうね。
弥生時代後期の宗像地区北部、和名類聚抄の宗像郡の郷名比定地と歴史資産等の地図
あまり大きな神社ではありませんが、御神職がちゃんと居られ(宗像地域の他神社も兼任)拝殿内を覗くとやはり歴史と、信仰の厚さを感じられます。鳥居・狛犬・灯籠などの寄進者の名前等を見ると宗像地域の方がほとんどですが、博多祇園山笠の理事の方なんかも…。
駐車場が境内のど真ん中にあるので初めて行く方は面食らうかもです。
あと、初めてだとどこから入って良いのかがわかりにくいかもです。
福岡県神社誌、上巻-国立国会図書館デジタルコレクションは、こちらから閲覧できます。年毛神社は138コマ目に載ってます。
そして中には「文政十一年」に書かれた社記の表紙、「永禄三年庚申三月十七日」「吉田和泉守、石松加賀守、吉田伯耆守」(宗像大宮司家の家老格の面々ですね)という記述が有ります。文政と永禄では書かれた方は別人のようですが、1560年に書かれた紙がそのまま残っているのかまでは、私じゃ判断がつかないです。
で、見た感じ更に古そうな紙に三韓征伐で「かつら」という地名になったという内容が書かれていますが、ざっと読んだだけなので詳しい内容は今後の課題と言うことで(^_^;)
この古い部分に書いてある内容ですが以下のような感じだと思います。読めない漢字は似た字を入れてますが、ご容赦下さい。古い文書を読みなれている方なら簡単に読めてしまうんでしょうけども。
△渡郷マテハ本勝浦ノ郷ノ内ナリシコト先ニモ垣シルセンゴトクテ往古ノ記録ナトアリテイチシルシ浦名郷名ノ地名止志母万津浦岩瀬京泊勝山
「浦名郷名ノ」の部分は全然読めないので意味もおかしくなっています(^_^;)
現代語だと、こんな感じになるのかな?
△先に書いたように、渡の郷までは、この勝浦の郷の中に含まれます。昔の記録があって位置を記してある浦の名前郷の地名は止志母(年毛?)、万津浦(末蘆?→勝浦)、岩瀬、京泊、勝山
流れから行くと、三韓征伐でここらは勝浦と呼ばれるようになりましたが、それ以前は止志母、万津浦、岩瀬、京泊、勝山という地名だった。で、いいのかな?
岩瀬、京泊は今でも小字で渡にありますが並べてあるということはそれほど広い範囲ではないかもしれないから、末蘆国=宗像説の強化にはちょっと微妙な資料かも…。
素人じゃここらが限界か?いやいや、もっとちゃんと読めばまた新たな発見があるかもしれないし、少なくとも否定材料ではないよね。
あと、福津市渡に梅津天満宮があるのですが、昔はその下の浜に梅津浦という漁師集落があったとのこと。
うめづうら→めずら?
もしかすると、この梅津浦のことを永島文書の万津浦は指しているのかもしれませんね。
ちなみに日本書紀
夏四月壬寅朔甲辰、北到火前国松浦縣而進食於玉嶋里小河之側。於是、皇后勾針爲鉤、取粒爲餌、抽取裳縷爲緡、登河中石上而投鉤祈之曰「朕、西欲求財国。若有成事者、河魚飲鉤。」因以舉竿、乃獲細鱗魚。時皇后曰「希見物也。(希見、此云梅豆邏志。)」故時人號其處曰梅豆羅国、今謂松浦訛焉。是以、其国女人、毎當四月上旬、以鉤投河中、捕年魚、於今不絶、唯男夫雖釣、以不能獲魚
唐津市近代図書館松浦・唐津地名考
唐坊もこの梅津の南にあるんだよな…
で、鮎が釣れたという話であれば2006年の調査で釣川の田久橋で鮎が観測されています。鮎は河口近くで産卵し稚魚が成長しますのでこの辺りで釣れる可能性も0ではないかもですね。また、昔は鮭のことを鮎と書いたとの説もあるようですが、鮭も釣川で確認されています。
筑前国続風土記において貝原益軒が記録した福岡県の淡水魚類
津屋崎(福津市)と邪馬台国では、津屋崎不弥国説が比較的メジャーですが、実際に津屋崎周辺を調べると不弥国よりも末盧国と考えた方がしっくりとくる史跡や伝承が多いです。また、宗像地域で末盧国(上陸地)候補として上げられやすい場所として鐘崎や神湊がありますが、やはり津屋崎勝浦が収まりが良いようです。特に神湊と勝浦だと隣接地区ですし、神湊派の方は勝浦や津屋崎について調査されると面白いんじゃないかと思います。
2019年は3月31日の9:30より、カメリアホール2階視聴覚室で歴史講座「邪馬台国への道標魏志倭人伝 魏使は福津へ上陸した」を12:30終了予定で行います。入場料等はありません。今回は60名収容なので今までよりキャパは大きいのですが福津市のボランティアガイドの皆様や観光協会関連の方の来場が多数見込まれますので邪馬壹国(やまと国)研究会 宗像の方からでも参加申し込みいただければ、席を確保いたします。お気軽にご参加ください。
古代ハイウェイ海の道 玄関は宗像
「宗像と魏志倭人伝 その1」
「その2 末蘆国って宗像じゃないの?」
「その3永嶋文書」
「宗像と魏志倭人伝 その4 座談会しました」
邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム)
邪馬台国の玄関末盧国は宗像 第6回シンポジウム動画あり
海の民宗像 ―玄界灘の守り神 改訂増補版クリエーター情報なし梓書院
邪馬壹国(やまと国)研究会 宗像フェイスブックでの宗像の歴史に関するグループです。タイトルに邪馬壹国と入っていますが、特にこの時代といったくくりはありません。中世や戦国、現代史なんかでもOKです。Facebookやられてて宗像周辺の歴史に興味をお持ちの方お気軽にご参加下さい。
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