2023年8月26日土曜日

袖振れ合うも多生の縁455~阿波国、徳島県は粟の産地だったから阿波の国と言われたって、ホントかな???~: 生生流転生生世世

袖振れ合うも多生の縁455~阿波国、徳島県は粟の産地だったから阿波の国と言われたって、ホントかな???~: 生生流転生生世世

袖振れ合うも多生の縁455~阿波国、徳島県は粟の産地だったから阿波の国と言われたって、ホントかな???~

前回と前々回はアワ歌についてでした。そして今回はアワ続きで、阿波国のお話です。ワタシは数年前『日本からあわストーリーが始まります』という本を読んで、阿波、徳島に興味を抱いていました。でも、この著書は歴史学者さん達やアカデミズムの方々なら一笑するような内容なのですが・・・


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因みに、同書の目次を紹介しますと・・・


●日本人が書いたユダヤの話にユダヤ人が泣いた!『ザ・ヴァイオリン』はこうして誕生した
●イスラエルの滅亡から日本の歴史が始まるのは偶然ではありません
●有力なユダヤ人も次々と訪れる/剣山に隠された伝説
●東の日出る島/阿波が「言挙げせぬ隠り国」になった理由
●阿波(徳島)に残る天皇出身地名の謎/伊勢神宮、諏訪大社、下賀茂神社その他の神社の元宮も阿波にある
●イザナギ・イザナミ伝説の痕跡を辿って
●イザナギ、黄泉の国から脱出する
●阿波=邪馬台国と日神子(卑弥呼)の最期
●ロスチャイルド家と都市伝説
●阿波で蘇る実在した神話の主人公たち
●もう一つの国アルツァレト 倭建命と聖徳太子の足跡を辿って
●OUR(阿波)STORY
●『ザ・ヴァイオリン』から生まれ変わった『アヴェ・マリアのヴァイオリン』
●板東俘虜収容所と三つの第九

そして、著者は・・・

香川 宜子(カガワ ヨシコ)さん。
徳島市生まれ。内科医師、小説家。1999年より執筆活動をはじめ、教育雑誌、医学雑誌などの長期連載、ラジオドラマ脚本など、活動は多岐にわたる。2013年『アヴェ・マリアのヴァイオリン』(KADOKAWA)で小説家デビュー。2014年同作品が第60回青少年読書感想文全国コンクール課題図書に選定され2015年文庫になる。


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日ユ同祖論と邪馬台国四国論を軸に論じられていますが、ワタシが注目したのは、第4章『東の日出る島/阿波が「言挙げせぬ隠り国」になった理由」に書かれていた、徳川幕府が「阿波藩は徳川の一字をとって徳島藩に改名するように」と命令を下し、阿波は徳島という地名になりましたという記述です。


阿波国古地図1.jpg

え、ほんまかいな!? 徳島の由来はそやなかつたとワタシは記憶しているので、一寸調べてみました。

徳島城博物館のHPによりますと・・・


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城下町誕生秘話 -幻の渭津いのつ


天正13年(1585)、阿波国の大名となった蜂須賀家政(いえまさ)は、天下人秀吉の命により猪山を城地とし築城を開始し、それと並行して城下町の開設にあたった。当時、城の周囲の地を「渭津(いのつ)」と呼んでいたが、この時に「徳島」と地名を改め町づくりがスタートしたのである。


蜂須賀家政1.jpg

 徳島という地名を誰が命名したか、数ある文献・古文書は明らかにしてくれない。

郷土史家河野幸夫氏は、徳は「富田庄の富とは同意の嘉字(かじ)であり、東には福島という地名もあるので、家政はこれらと関係づけて、つまり福島に対して徳島と、縁起をかついで城地の名称としたのではなかろうか。」(『徳島・城と町まちの歴史』)と推定するが、決め手はないと結んでいる。ただ縁起のいい地名であることと、新城下町としてイメージの一新を図るねらいがあったものと考えるのは容易だろう。


別の資料には、こんな解説もありました。


蜂須賀家政は秀吉の命により、播州から阿波に転封し、名東(みょうどう)郡山分(現在の徳島市一宮町)の一宮城に入ったあと将来を展望し,それまで渭津(いのつ)の渭山(いざん=猪の 山・海抜62m)と呼ばれた所に城を築き,そこを徳島と改称した。徳島の徳は縁起のいい文字であり、島は城の場所が周囲を川に囲まれた三角州、島である事から名付けた。


徳島城2.JPG

再び徳島城博物館HPに戻りますと・・・


家政が命名した新地名「徳島」は約100年もの間、定着しなかったのである。
 冒頭にふれたとおり、天正13年(1585)に藩祖家政は渭津の地名を徳島に改めた。ところが、孫の2代藩主忠英(ただてる)は慶安5年(1652)2月23日に渭津の旧号に復してしまった(『阿淡年表秘録』)。同年4月4日に忠英は没したが、この後、3代藩主光隆(みつたか)、4代藩主綱通(つなみち)と2代にわたり渭津を使用した。そして26年後の延宝6年(1678)に、相続したばかりの5代藩主綱矩(つなのり)が城地の地名を再び徳島に改めたのである。これ以降、現在に至るまで徳島が使われ続けている。このように、蜂須賀家入国とともに命名された徳島の地名は、100年近くもの間、固定しなかったことになる。


あれ、徳川幕府が徳島と改名せよと命じる前に徳島城と名前を変えてるやないですか!? ははん、もしかして、5代藩主綱矩(つなのり)が城の名を再び徳島に改めたのは、幕府からの命令があったからではないか・・・幕府は阿波を隠国(こもりく 山々に囲まれた地の意から転じた隠れ里)に、阿波という名と阿波の歴史を隠したいのではなかったのか? ならば隠したい阿波の歴史とは何なのか? そんな重いが浮かんできました。それは後でふれますが、徳島城博物館HPはこう続いています。


 なぜ2代藩主忠英が渭津の旧号に戻したのだろうか。

徳島は、忠英の後見役を務めた祖父家政蓬庵(ほうあん)が用いた新地名であるにもかかわらずだ。余程の事情があったのだろうが、史料的には分からない。全くの推測になるが、渭津の地名を信奉し、使い続けようとした人々が少なからず存在したからではないか。そうでなければ元の地名に戻すとは考えられない。だとすれば、これまで寒村程度としてしか認識されてこなかった、城下町徳島の前史である渭津に注目が集まる。ただし、当時の様子が窺える史料はなく、考古学の成果に期待する他はないのだが。
 そもそも渭津とはどのような地名だったのだろうか。

渭津とは、3代将軍足利義満(よしみつ)を補佐し室町幕府の管領や阿波守護などを務めた細川頼之(よりゆき)が、至徳(しとく)2年(1385)に名付けたとされる。城山の景色を映して流れる助任川を見て、その美しい姿が中国の古都長安の渭水の画景にそっくりだとして、助任川を渭水、山を渭山とし、山上に築城し「渭津」と命名した。また、これとは別に、城山が猪が伏した形の見えることから猪山と呼ばれ、渭山に転じ、周囲の港を渭津と呼ぶようになったという説もある。前者であれば渭津を根強く支持するのは理解できるが、根拠に疑問符が付くようだ。
 最終的に徳島の地名を選択したのは5代藩主綱矩である。綱矩は、分家から相続し藩主権力としては強固ではない人物だが、相続した日に徳島の旧号に復したのは実に興味深い。綱矩は蜂須賀家の支配の原点に帰すべく地名を徳島に復したと考えることは可能だろう。
 私たちが使用している徳島という地名にはこのような深い歴史があった。地名からは多くのことを学ぶことができるのだ。


地名の深い歴史には、何かが隠されているのではないか!? そう勘ぐってしまうワタシなのです。

処で、阿波の語源は・・・


徳島県の古い呼び名である「阿波」の語源は、焼畑で栽培された「粟(アワ)」であるといわれるほど、この地の起源に深い関係がある雑穀文化。縄文時代からの歴史があるという雑穀生産は、稲作の伝来により多くの土地で影を潜めてしまいましたが、水田に適した土地が少ない「にし阿波」では、かつては焼畑農業などにより栽培され、現在でも日々の暮らしに役立てられています。稲作に不適当な土地でも収穫することができる雑穀が、古代から人々の食を支えていました。



これもほんまやろか???「阿(あ)」は「天」、「波(わ)」は「地」という古代語からきているのやないか、そうワタシは勝手に思っているのですが。と言いますのは・・・古代阿波の歴史を綴った文献「阿波風土記」は明治初期に禁書となったようなのです。この辺りのことを検索していますと、exciteニュースなるサイトが見つかりましたので、シェアさせて頂きます。

邪馬台国阿波説の支持者は、古事記などに記された神話時代の出来事は全て徳島で起こったと考えている。その物的証拠となるのが『阿波風土記』であるという。


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 『阿波風土記』には幕末のある学者が関わっている。幕末から明治にかけて活躍した阿波出身の国学者・小杉榲邨(こすぎすぎむら 東京大学古典講師 帝室博物館監査掛評議員)がその人である。彼の代表的な著書が「阿波国徴古雑抄」である。この書物は阿波関係の古書、古文を網羅しており、阿波徳島の古文書に詳しい人物であった。


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 この名著で名前が全国に知られていた小杉は、邪馬台国阿波説に絡み、キーとなる出版に関する騒動を起こしている。明治5年、小杉が『阿波古風土記考証』を出版した時、何故か回収騒動に発展しているのだ。しかも、当時蜂須賀家と徳川家にあったはずの『阿波風土記』の原本さえも、所在が不明になってしまったのだ。

 回収騒動の理由は不明である。一説には天皇家のルーツに関わる記述があったため、明治政府が問題視して回収に踏み切ったとも言われている。もちろん、『阿波風土記』の存在は妄想ではない。幕末の頃までは様々な文書に部分的に引用されているのだ。つまり、江戸時代まで(身分によっては)見ることが可能であった文書であった。
 今、この『阿波風土記』は何処にあるのであろうか。噂では宮内庁で厳重に保管されていると言われている。この所在不明となった『阿波風土記』が出てくれば、中国系の渡来人であった藤原家がねじまげた正史の真相が明らかになるはずだ。

幾つか残る『阿波風土記』の断片のうち、興味深いものを紹介しよう。その内容は、空から大きな山が阿波国に落ちてきた。その山が砕け散り大和国に落ちて、天香久山になったとされているのだ。

 これはなんの比喩なのか。阿波で成立した国家が奈良に移動したととれないだろうか。

 不気味なことはまだある。阿波出身の国学者である池辺真榛は、延喜式の研究を行い、自分の故郷である阿波国が日本のルーツだと確信した。その後、池辺は阿波藩政を非議したという罪を被せられ、文久3年(1863)に身柄を拘束され、阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げている。一説には毒殺されたとも言われているのだが、阿波藩は何を恐れていたのだろうか。幕末から明治初期にかけて、邪馬台国阿波説のメイン資料やキーマンが消されているのだ。

 幻の古文書『阿波風土記』、それが出てくれば大和朝廷のルーツも判明するのかもしれない。(山口敏太郎)


香川 宜子さんの『日本からあわストーリーが始まります』にも同様のことが記されています。


小杉榲邨氏は幽閉された後中央の要職に復帰され、その後も各地に足を運び自分の目で確かめ、大正2年に『阿波国徴古雑抄』を編纂されたのです。そして小杉榲邨氏の著述を原典として、岩利大閑氏が小杉氏の志を引き継ぎ「道は阿波より始まる」を著し、香川さんは「道は阿波より」から多数引用させて貰い、『日本からあわ』を上梓されたそうです。


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四国は徳島、阿波国の本当の姿を顕わにしなければならないと、数多くの人達が奮闘されているのですね。ワタシはその一端に触れさせて頂き、先入観念に囚われず曇りのない眼で、昔日の、太古の阿波の国に想いを馳せたいと思っております。

ではでは。

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