仁徳天皇の詠んだ歌から分かる、『古事記』国生みにおいて冒頭の文に出てくる「淤能碁呂島(自凝島)(オノゴロ、オノコロ)島」は淡路島の南側にある沼島(ぬしま)ではない。「阿波」にあり、現在の徳島県徳島市の日峰(ひのみね)、ここは昔は島だった。
コラクのブログ 国生み考察 (水蛭子・淡島編)②2017年04月10日(月) テーマ:古事記・日本書紀
国生み考察 (水蛭子・淡島編)①からの続きです。
『古事記』に第16代仁徳天皇の有名な歌に「淡島」のある場所に繋がる記述を見つけることができます。
●原文 (仁徳天皇が淡路島に坐して本国を見て詠まれた歌)
「於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまみゆ)』乃自其嶋傳而幸行吉備國。」(岩波文庫『古事記』1963年、158頁)
●読下文
「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我国見れば 淡島 自凝島 檳榔の島見ゆ さけつ島見ゆ」 すなわちその島より傳いて、吉備國に幸行(い)でる。
吉備海部直の娘の黒日賣は、容姿端麗なために仁徳天皇が召し使っていましたが、大后である石之日売(葛城磐之媛)の嫉妬を恐れて吉備に帰郷することになります。
天皇が高台から去りゆく黒日賣の船を望見して歌を詠んだところ、大后は怒り、黒日賣を大浦にて下船させ、徒歩で帰らせました。
のちに天皇は大后を欺いて淡路島から島伝いに吉備へ行幸しました。
通説では、仁徳天皇の歌に現れる難波は摂津国にある難波、吉備はもちろん岡山県、淡島はwikipedia淡島神社の項にもあった神島(淡島)のこととします。
しかしこれだと「島より傳いて、吉備國に幸行(い)でる」ことができ、「本国」(大阪府方面)を見ることができる場所は淡路島からは東側に向かって謳われた歌となり、見ている方角と実際向かう方角が逆で辻褄が合いません。
しかも淡路島の南側にある沼島が通説の自凝(オノゴロ)島であり、沖ノ島、友ヶ島(の中の神島=淡島)、地島等がそれぞれ檳榔の島とさけつ島の何れかに対応しているすると、これらを見ながら無理矢理本国側を見ようとすれば、南淡の端から東を見た上で、摂津難波に戻って本州を島伝いに西方向播磨・吉備方面にU字で向かうという何とも不自然なルートとなってしまうのです。
また、北淡側からそれぞれに対応する島々を見たとすれば、「本国」がある方向は自ずと南方となってしまい、即ち本国が「阿波」か「紀伊」を指すことになってしまいます。
ちなみに神島(淡島)はコレ
チョット画面を退いたら米粒サイズに…(´・ω・`)
では一体仁徳天皇は淡路島のどの辺りでこの歌を詠んだのでしょうか
そしてそれはどの方角の景色を見ていたのでしょうか
答えは阿波徳島説なら解くことができます
まず、黒日賣を下した「大浦」とは徳島県鳴門市北灘町大浦のこと。
その右隣に葛城神社、南に天円山を挟んで麓にも二社葛城神社が鎮座します。
当地、「葛城」から因むのが、仁徳天皇の皇后である葛城磐之媛でしょう。
「磐」も元の意味は「伊和」であった可能性大です。(意味深)
天円山は知る人ぞ知る、現在日本最古の前方後円墳とされるホケノ山古墳の原型と説ある萩原墳墓群があるところです。
そこから更に南方に進んで行くと、往古の阿波「岐比津」(牛岐地方)へと到達します。
その南隣からは、那賀郡より別れた「海部」郡となります。
吉備海部直の娘の黒日賣もこの周辺がルーツであるといえそうです。
つまり黒日賣が帰郷したとされる「吉備」は岐比津がある阿南市牛岐周辺であり、仁徳天皇が歌を詠んだ方向は、淡路島から「本国」のある南側の阿波国を見ていたのです。
そもそも「難波」から船を出し、黒日賣を途中で下して「吉備」へ帰らせるとしたら、通説で説明すると摂津から播磨辺りの間、現在の明石市より東側しか該当しませんので、その方角には歌に出てくるような島々はどこにも見当たりません。
◆通説解釈
しかし、このままでは阿波徳島説でも淡路島から南方を見たとした時に、歌に出てくる島々が見えなければならないのですが、現在の地図ではそれがよくわかりません。
そこでいつも使っている便利なサイト、Flood Mapsで往古時代を再現してみると…
アンビリーバボー
海側の土地が埋没し、何と島々が浮き上がって参りました!!
改めて謳われた歌を見直してみますと、
「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我国見れば 淡島 自凝島 檳榔の島見ゆ さけつ島見ゆ」 すなわちその島より傳いて、吉備國に幸行(い)でる。
ここに出てくる「難波」とは摂津国難波ではなく、讃岐国(香川県)に存在した旧「難波郷」のこと。
こちらも便利サイト、地図からみつける-千年村プロジェクト を使って探せます。
また、父、応神天皇の妃に弟姫命がいますが、その娘に淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ、阿具知能三腹郎女)がいます。
仁徳天皇からすれば異母妹になりますが、この「あわじのみはら」は例によって地名から取られており、現在の淡路市三原として存在が確認できます。
旧三原郡は、淡路島の南側。
恐らく仁徳天皇が淡路島へ行幸されるのは、この妹のもとを訪れるためであると考えられます。
そして淡路島の山上(おそらく三原郡のあった南淡側)から坐して「本国」を遠望し、その景色を詠んだ歌なのですから、下図のようなイメージになります。
次にそこから見えた島々なのですが、一番遠くにある黒日賣の故郷である吉備津方面に見える「淡島」から順に手前に眺望された様を謳われたのだと推測できます。
◆淡島、自凝(オノゴロ)島
「淡島」は先述の通り、次に見える「自凝(オノゴロ、オノコロ)島」は現在の日峰(ひのみね)、ここも昔は島。
◆檳榔の島
檳榔の島は恐らく現在の徳島市津田町の津田山。この地も往古は海に浮かぶ島。
檳榔とは、
ビンロウ(檳榔、学名:Areca catechu)は、太平洋・アジアおよび東アフリカの一部で見られるヤシ科の植物。(wikipedia ビンロウより抜粋)
◆檳榔の実
今は人が住むようになり、山の半分が民家で覆われていますが、津田山はこの檳榔の実の形状に類似していることがお解り頂けると思います。
◆さけつ島
最後に見えた一番近い島となる島は現在の「大毛島」、「島田島」ですが、ご覧のように真っ二つに真ん中から裂けたよう形状の島になっています。
地図で再現するとこんな感じ
今の地図に置き換えると位置はココ
現在は陸地の山々なのですから、どおりで見つからない訳です。
しかし阿波徳島説に置き換えれば、これら全てがピッタリと当て嵌まり謎が解けていくのです。
国生みの「水蛭子」「淡島」からの考察でしたが、『古事記』のこの話は、どのように「国」をつくっていったのかを当時の発想で表現したもの。
『古事記』国生みにおいて冒頭の文にある
「天の沼矛を降して掻きまわした。 潮をころころとかき鳴らして矛を引き上げた」
水に棒を入れかき混ぜればそこに何ができますか
なぜわざわざこのような表現をここで使ったのでしょうか
これですよね(´・ω・`)
そして、
「その矛の先よりしたたり落ちた潮水が積もり積もって島となった。これが淤能碁呂島(オノゴロ)である。」
つまり、徳島県徳島市にある「日峰」(ひのみね)から建国が始ったとする話なのです。
このように「記」では、様々な仕掛けを施してわざわざ阿波徳島を意図的に隠そうとしています。
つまり『古事記』は、我が国の本当のルーツである「阿波」を隠すために書かれた神話仕立ての歴史書なのです。
⇒コラクのブログ 国生み考察 (水蛭子・淡島編)①
⇒コラクのブログ 国生み考察 (水蛭子・淡島編)②
日峰神社 - hinominejinja - 公式Webサイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/日峰神社
(日峰神社から津田港方面の眺望)
阿波国の神社めぐり(仮) 日峰神社(ひのみねじんじゃ)/小松島市中田町
徳島市と小松島市にまたがっている日峰山
(日峰山展望台から見た小松島市内の景色(逆))
日峰山 - 小松島市観光サイト「小松島ナビ」
すえドンのフォト日記 天岩戸立岩神社と元山♪
徳島県名西郡神山町鬼籠野字元山にある「天岩戸立岩神社」のご神体です♪
道路脇には「阿波古事記研究会」の案内板が設置されています♪
「古事記」には「天の岩戸の神事の際には、天香山からサカキを採り・・・アメノウズメは、天香山のヒカゲノカズラをたすきにかけ、天香山のマサキをかぶり、天香山の笹を手に持ち、神がかりして舞い踊った」と書かれています。
「阿波の風土記」
空よりふり下りたる山の
大きなるは阿波国にふり
下りたるを天の元山といい
その山のくだけて、
大和国にふりつきたるを
天香具山というなんともうす
(続き)
四国一攫千金88箇所巡礼 第3番札所 神山町 「立岩神社の天の岩戸」
ふたつの巨石が組み合わさった天岩戸
「高天原は徳島である」
第1番札所に「天照大神の墓」があって、第2番札所で3種の神器のひとつ「八尺の鏡」が作られ、第3番札所には「天の岩戸」、そして徳島県は「高天原」。こうなるともう日本神話への挑戦である(笑)。
第2番札所の『立岩神社』には男性の象徴、こちらの『立岩神社』には女性の象徴があり、これはそのまま「天岩戸」といわれている。神社は徳島県の山奥の神山町のまた山奥の標高650mに鎮座するまさにパワースポット。天岩戸といわれているご神体の巨石はまさに言い得て妙・・・って、いや本当にここが天の岩戸ですよね。(笑)
第一に『阿波国風土記』によると高天原の人達が阿波に降りたところは「天の元山」といい、この神社がある山の名は「元山」である(神山町観光協会・古代神山研究会の掲示板)。 第二に古事記には「天岩戸の神事の際には天香山からサカキを採りアマノウズメは天香山のヒゲノカズラをたすきにかけ天香山のマサキをかぶり天香山の笹を手に持ち神がかりして舞い踊った」と書かれており、『阿波国風土記』と『伊予国風土記』によると、この『天香山』とはこの元山である(阿波古事記研究会の掲示板)。第三にさらに古事記には「(天岩戸をこじあけた)手力男命(たじからおのみこと)は佐那那県に座す」とあり、まさに神山町の東隣りの佐那河内村には手力男命を祭る『天岩戸別神社』がある。(続き)
『日本書紀と日本語のユダヤ起源 ヨセフ アイデルバーグ(著),久保有政(翻訳)』
「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とうぉ」は、若干のなまりを考慮するなら、つぎのようなヘブル語として解される。
「ひぃ、ふぁ、み、よお、つぃぁ、ま、なね、や、かへな、たうぉ」
これをヘブル文字を使って書けば、次の通りである[*ヘブル語は右から左へと書く――ここでは下から上へ]。
(中略(ヘブル文字))すなわちこれは、「ハイアファ ミ ヨツィア マ ナーネ、ヤカヘナ タヴォ」と発音され、
「誰がその美しいかた(女神)を出すのでしょう。彼女の出ていただくために、いかなる言葉をかけたらいいのでしょう」の意味なのである。
今日もヘブル語を解する者ならば、誰もが読み、また理解できる言葉だ。だからこそ、これを聞いた時にアマテラスは、
「この頃、人がいろいろなことを言ったが、こんなに嬉しいことを言ったのはなかった」と述べたのである。
阿波と古事記 ~日本最古の歴史書・古事記には,阿波のことが書かれています。~
第1回 (~105回)
古事記に書かれている阿波
日本最古の歴史書といわれる,太安万侶によって712年に書かれたという古事記を読んでいると不思議なことを感じる。
古事記に書かれる国生みには,「イザナギとイザナミが,淡路島・四国・九州・壱岐・対馬へと国を創っていった。」と書かれ,国生みが,阿波の周辺から始まったと書かれているにもかかわらず,古事記の物語は,九州(宮崎県)や出雲(島根県)の話であるかのごとく教え込まれ,そう思い込んでいる。阿波に住む人でさえも,阿波に存在する事実を日々見て暮らしていても,古事記と阿波は何の関係ないと思い込んでいるか,または古事記に書かれることは架空の話か作り話であると思わされている。しかし,仮に古事記の話に事実が書かれてないとしても,古事記には,阿波の周辺から国生みが始まったと書かれている以上,そこに着目して古事記を読み,書き進めていこうと思う。
古事記の物語は,出雲と高天原を舞台として繰り広げられている。しかし,出雲というとすぐ島根県に当てはめるが,出雲については,現在の識者の間でも古事記に書かれる出雲と「出雲風土記」に書かれる出雲とは,その書かれていることが違う事から,古事記に書かれる出雲と島根県の出雲は別物の出雲であると考えられている。しかし,その古事記に書かれる出雲がどこにあたるか分からないので,古事記に書かれる出雲は大和政権がつくった架空の出雲の物語であるとしている。
事実,先に書いたとおり,古事記には国生みの際に出雲(山陰地方)をつくったことが書かれていない。書かれていない以上,出雲を島根県に当てはめることはできない。また,古事記に書かれる近畿から東は,当時まだ一つにまとまっておらず,別の文化圏であるので,現在の日本全体に当てはめて読むと矛盾する点が生じる。
以上の事から国生みした範囲の中に高天原と出雲があり,出雲と高天原が古事記に書かれる何れの地にあるかということが,古事記を読み解くキーポイントになるのである。
(続き)
明治政府が封印した謎の古文書『阿波風土記』に何が書かれていたのか?
(ぐーたら気延日記(重箱の隅) 舎心山太龍寺縁起 「阿波国風土記」 第五巻84ページ(天日鷲命ハ即日向皇子ニテ))
邪馬台国阿波説の支持者は、古事記などに記された神話時代の出来事は全て徳島で起こったと考えている。これは第1章でも指摘した通りだが、その物的証拠となるのが『阿波風土記』であるという。本稿では『阿波風土記』を中心に、もう少し突っ込んだ視点で考えてみたい。
『阿波風土記』には幕末のある学者が関わっている。幕末から明治にかけて活躍した阿波出身の国学者・小杉榲邨(こすぎすぎむら)がその人である。彼の代表的な著書が「阿波国徴古雑抄」である。この書物は阿波関係の古書、古文を網羅しており、阿波徳島の古文書に詳しい人物であった。
この名著で名前が全国に知られていた小杉は、邪馬台国阿波説に絡み、キーとなる出版に関する騒動を起こしている。明治5年、小杉が『阿波古風土記考証』を出版した時、何故か回収騒動に発展しているのだ。しかも、当時蜂須賀家と徳川家にあったはずの『阿波風土記』の原本さえも、所在が不明になってしまったのだ。
回収騒動の理由は不明である。一説には天皇家のルーツに関わる記述があったため、明治政府が問題視して回収に踏み切ったとも言われている。もちろん、『阿波風土記』の存在は妄想ではない。幕末の頃までは様々な文書に部分的に引用されているのだ。つまり、江戸時代まで(身分によっては)見ることが可能であった文書であった。
今、この『阿波風土記』は何処にあるのであろうか。噂では宮内庁で厳重に保管されていると言われている。この所在不明となった『阿波風土記』が出てくれば、中国系の渡来人であった藤原家がねじまげた正史の真相が明らかになるはずだ。
幾つか残る『阿波風土記』の断片のうち、興味深いものを紹介しよう。その内容は、空から大きな山が阿波国に落ちてきた。その山が砕け散り大和国に落ちて、天香久山になったとされているのだ。
これはなんの比喩なのか。阿波で成立した国家が奈良に移動したととれないだろうか。
不気味なことはまだある。阿波出身の国学者である池辺真榛は、延喜式の研究を行い、自分の故郷である阿波国が日本のルーツだと確信した。その後、池辺は阿波藩政を非議したという罪を被せられ、文久3年(1863)に身柄を拘束され、阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げている。一説には毒殺されたとも言われているのだが、阿波藩は何を恐れていたのだろうか。幕末から明治初期にかけて、邪馬台国阿波説のメイン資料やキーマンが消されているのだ。
幻の古文書『阿波風土記』、それが出てくれば大和朝廷のルーツも判明するのかもしれない。(山口敏太郎)
"邪馬台国四国説"…卑弥呼を連想させる徳島県の特徴、後継者とも関連が?
前回、日本史の謎の一つである邪馬台国の位置について、実は阿波にあった?という衝撃的な説を書かせて頂いた。
今回は幾つか残る『阿波風土記』の断片のうち、興味深いものを紹介しよう。その内容は、空から大きな山が阿波国に落ちてきた。その山が砕け散り大和国に落ちて、天香久山になったとされているのだ。これは何の比喩なのか。阿波で成立した国家が奈良に移動したととれないだろうか。
不気味なことはまだある。阿波出身の国学者である池辺真榛は、延喜式の研究を行い、自分の故郷である阿波国が日本のルーツだと確信した。その後、池辺は阿波藩政を非議したという罪を被せられ、文久3年(1863)に身柄を拘束され、阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げている。
また、日本神話において、一番最初に生まれたのが淡路島であり、その次に四国である。この四国は四つの顔を持って生まれたと言われた。讃岐と土佐は男の顔で、阿波と伊予は女の顔であった。つまり、徳島は卑弥呼を連想させる女の顔の国であったのだ。さらに、同じ女の顔とされた地域、伊予が卑弥呼の後継者「いよ(壹與)」と同じ発音なのも気になる。
徳島県阿南市椿町に位置する蒲生田岬には「因幡の白兎」伝説があり、出雲大社の元となった社も、伊勢神宮の元となったとされる社も徳島には存在する。日本神話のルーツは阿波なのであろうか。となると、悪神に殺されたヤマトタケルの御霊が讃岐まで飛んできた上、白鳥になったということは祖霊の地である四国に死後に帰還したという暗示ではないのだろうか。つまり、神武東征とは、邪馬台国が四国から畿内に攻め込み、その後、畿内に定着し大和朝廷となった事実を意味しているのではないだろうか。
それから、邪馬台国の条件の一つに、"柑橘類のある土地であった"というものがある。特別に記述したということは、ただ単に柑橘類が採れたという程度ではないだろう。かなり、柑橘類が豊富な土地であったという意味にとれる。この条件は様々な種類の蜜柑が育つ柑橘王国である徳島は申し分ない。
さらに、魏志倭人伝の記述によると、邪馬台国の山には丹があるとされている。この丹とは水銀のことを指しており、徳島は水銀の産地である。つまり、邪馬台国の候補地には水銀丹(朱)の出る山がないといけないのだ。水銀産出跡地に関しては、徳島以外でも三重や和歌山でも確認できる。だが、どれも小規模なものであり、鉱山と呼ぶには程遠い。だが、我が徳島には、邪馬台国時代から続く水銀鉱山と呼ぶべき大きめの遺跡が阿南市にある。それが若杉山遺跡である。これこそが証拠の一つではないだろうか。
しかも、不気味なことに、この遺跡の周辺には、ヒルコ神社が二十数箇所鎮座しているのだ。ヒルコ(蛭子)という異形の神が守護するこの遺跡には、何か深い意味があるように思えてならない。このように蜜柑、水銀など、状況証拠は十分にある。
そして、邪馬台国の時代から続く「阿波忌部一族」も徳島の特殊性を裏付けている。1800年続くこの一族は、一時期中断してきたが、古代から現在まで天皇家が大嘗祭で着用する麻の衣服を献上してきた。阿波こそが天皇家のルーツ。邪馬台国である証拠ではないだろうか。
(山口敏太郎)
超古代史が今、静かに動き出す 驚愕の阿波古代史とは 失われた日本魂
世の中には色々な古代史研究がありますよね。
代表的なものが、あの邪馬台国研究。中国の王朝史に書かれた記述をもとに、研究者が推測し説を唱える形です。
ですからこれには、権威付けも他を説得する圧倒的な証拠もないから諸説色々、決定的なものがないと思います。
でも阿波古代史はスタートから違うのです!
なぜって、スタートは江戸幕府からの極秘命令から始まったからです!
1697年、時の江戸幕府の老中、土屋相模守が徳島藩江戸留守居役を密かに呼び出し、覚書を手渡しました。
何事かと参内した徳島藩江戸留守居役は、その覚書にて、我が目を疑う極秘命令を受けます。
それは、「阿波と淡路両国の天子の葬場を極秘調査せよ。」との密命でした。「天子の葬場」とは今で言う天皇陵のことです。
徳島藩は蜂須賀家。元々が阿波には任命されて赴任した主君についてお国入りしたため、阿波の事情には疎かったと思われます。
「お上の極秘命令」ですから、普請奉行が中心となり、藩を上げて真剣に取り組みました。
するとそこからは、藩が、いや日本人が知らなかったとんでもないものが次々と発掘されたのです。
そうして徳島藩では、他の藩が明治維新に向けて激動の時代を過ごしていた中、藩を上げての発掘調査をしていたのです。
次々と出てくるあり得ない発掘品を見て、阿波の重大な秘密に気づいた藩士が密かに研究を開始したのが、阿波古代史のスタートなのです。
ですから、民間の研究とは一線を画す「お上の極秘命令」から始まった研究が阿波古代史なのです。
動かぬ証拠 > 倭大国魂神社
一見、普通の村の神社のように見えますが、これは倭の国魂を守る神社。とんでもないものがいろいろと阿波にはあります。倭の国魂を守る神社は本来、国にひとつ。大和朝廷の国魂を守る神社は奈良に大和神社(おおやまとじんじゃ)がひとつあります。
ではこの倭とは何でしょうか?
邪馬壹国の邪馬壹と書いて「やまと」と読むことができます。邪馬壹国の国魂を祭っているのではないかとの説もある神社なのです。
写真ではうまく見えませんが、元イスラエル駐日大使によれば、「社紋がメノラー(ユダヤにおける燭台)だ」とのコメントもあります。
倭大国魂神社については、Facebookのオキタさんのページを参考に載せておきますね。
古代日本では、国には国(の土地)の魂があると考え、それを「国魂神」として祭ってきた。
「大国魂神社」というのは、その「国の土地の神様」を祀る神社。
例えば、出雲には「出雲大国魂神社」、尾張には「尾張大国魂神社」がある。
その土地の神を祀る神社の性質上、理論的には他の土地で祀る事が出来ない。
徳島には、「倭大国魂神社」が存在する。
「倭」の国魂を守る神社は本来、倭国にしか存在出来ないはずだ。
千年前に朝廷が付けた格付け「延喜式」によると、
「倭」の大国魂命を祀る神社は
徳島に「倭大国魂神社(ヤマトオオクニタマ)」
奈良に「大和坐大国魂神社(オオヤマトニマスオオクニタマ)」淡路島に「大和大國魂神社(この社は奈良から勧請したとある)」この三ヶ所にしか存在しない。
徳島(=倭 やまと)→「諸般の理由で奈良に移転」→奈良(=大和 おおやまと)
藤原京以前の宮跡は畿内に全く発見されていない。
徳島県に存在する倭大国魂神社が倭京跡を探す手掛かりになるはずだ。
"国魂"とは、国(の土地)そのものを神格化したもので、国々を治めるのは人であるとともに、その土地に鎮座する神の霊力(国魂)によって成就するとされ、本居宣長は「その国を経営坐(ツクリ)し功徳(イサオ)ある神を、国玉国御魂」という(神道事典・1999)。
検索 倭大国魂神社
「忌部」とは | 忌部文化研究所 | 一般社団法人 忌部文化研究所
忌部に関係する徳島の主神社
◇麻殖神を祀る「忌部神社」
●場所-吉野川市山川町忌部山
●主祭神-天日鷲命の他(神紋は麻)
●名神大社「忌部神社」に比定される麻殖神を祀る古社。「忌部神」とも称された。大正・昭和・今上(平成)天皇の大嘗祭には、途絶えた麁服調進が行なわれた。平成2年(1990年)11月の大嘗祭には、古来の伝統が生かされ、木屋平村の三木家から運ばれた麻が、当社の織殿で、巫女装束の織姫によって織られ貢進が行われた。
◇国重要文化財・三木家住宅(阿波忌部直系)
●場所-美馬市木屋平字三ッ木(貢)
●標高552mの三木山の頂上部にある。(阿波忌部氏は祭祀のための木綿や麻を朝廷に納めることを職業としていた一族)三木家は、忌部の長者であった阿波忌部の末裔・三木氏が代々居住する古住宅で、徳島県最古の1650年頃に建築された。歴代天皇の践祚大嘗祭に、御殿人・御衣人として麁服を歴代貢進し続けた。鎌倉時代から南北朝時代にかけた文応・永仁・延慶・文保・正慶・暦応の太政官符・官宣旨の写し等の古文書が保管されている。屋敷前の広場は、今上(平成)天皇の大嘗祭に「斎麻畑」となった。屋敷の隣には、麁服関係の資料を展示する「三木家資料館」が設置され、今上(平成)天皇の大嘗祭に使用された機織用具や貴重な写真が展示されている。(続き)
awa-otoko's blog 六人の天日鷲命
さて前回の続き?(でもないけれど)忌部神について書いていきます。阿波国の他にも伊勢国、安房国・関東一円に分布し御鎮座された神 天日鷲命。なかなか実体が掴めない神だと思いませんか。その謎が解けない理由の一つに天日鷲命という御神名にトラップが隠されていたようなのです。
(阿波国早雲家 忌部系図)
麻植郡川田村早雲系図、即ち阿波国忌部家の系図の初発は天日鷲命と記されています。そしてその後に天日鷲命の御名が初代を含めて六代続けて記入されているのです。
即ち天日鷲命とは初発より継承された御神名なのです。
神代からの伝承は時代の移り変わりを経て、六人の天日鷲命は一人の神として認識されつつあります。当然、二代目天日鷲命からは別の神名も持ち併せておりまして、別の神として様々な記録が残されています。これを調査することによって、より詳細な歴史の推移が浮き出てくるのは明らか。今回確認した資料には「天日鷲命次下其裔孫代の人命は三河国 青木氏に伝わる系図にあり」と記され、その御名も記入されています。早速確認して頂きましょう。(続き)
籠神社と天橋立ツアー 籠神社編 その2 - 青色えんぴつ
境外社:真名井神社
磐座主座 豊受大神
亦名 天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、五穀農耕の祖神であり、開運厄除、衣食住守護、諸業繁栄を司どられ、水の徳顕著で生命を守られる。相殿に、罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神を祭る。
磐座西座 天照大神 伊射奈岐大神 伊射奈美大神
この磐座は日之小宮と申し、主神は天照大神であらせられる。奈岐・奈美二神は大八州(日本)の国生みの伝で有名であらせられる。当社奥宮境内真名井原に降臨せられ、天橋立(天地通行の梯)をお造りになられた大神で、夫婦和合、家内安全、授子安産、延命長寿、縁結びの御徳が著名であらせられる
-----------------------------------------
拝殿で手を合わせていておでこから入ったビジョンで見えたもの。御神饌。
これ↓
「はて?今度は龍じゃない・・・?」
このビジョンはすぐ解けました。豊受様(真名井神社)のところへ行けということだな・・・
時間がかなり少ないので、大急ぎで真名井神社へ向かわねばならないと思い、境内社を全て回った後、急いで境内写真を撮っていましたところ、視線を感じたので、その方向を見やると・・・何やらご立派なとても上品なお年寄りの禰宜が私をじっと見ています。
ぺこり!と頭を下げて尚も写真を撮っていますと、彼が話しかけてきました。
「どちらから参られたのですか?」
「はっ、四国の徳島です」
「徳島ですか!ここ(籠神社)は徳島とは深いご縁があるのですよ」
「あ、オオゲツヒメ様ですね?それとも大麻比古様でしょうか?」
「トヨウケ様です。海部氏と阿波忌部氏の関係もあるんです。部のついた氏は関係があって、それはかなり古いんですね。だから徳島から沢山の方々がここへ来られます。海部は皇系に次ぐ家系で、忌部とともに関係があります。」
その後、色々とお話し下さり、剣山には登られましたか?とか、古代史を研究されている徳島大学の教授のお話しだとか本のことだとか、阿波遺跡のことだとか、沢山お話しされました。
かなり徳島県人と親交が深いご様子・・・
「良い機会だから、握手しましょう」
「はい?」
「私、海部(あまべ)です。ここの宮司です」
・・・@@;!!! 握手!!
私「あの、あの、あ・・・あの海部氏の直系の・・・」ガクガクブルブル
宮司「はい、あの倭宿禰命は私の先祖です」
・・・@@;;!!!!!
その後、真名井神社を案内してあげようと一緒に歩きかけましたが、バスの集合時間を聞き、「ああ、無理ですね。時間が足りない」と一言。残念。
そして、この籠神社へ来た経緯やらを聞き、私が色々な神社を夢見によって参らせて頂いていることなどのお話しも聞いて下さいました。
私「あの、夢の中で白龍、緑(青)龍、金龍を見ているのですが、ここは?」
宮司「そのどれも関係があります。そうだ、あそこに絵があるので見ますか」
絵のある場所へ宮司さんが連れて行って下さいました。大きな絵馬でした。
これ↓
宮司「赤龍はいませんでしたか?」
私「最初、金龍が赤龍に見えたんですが、途中で金色に変化しました」
宮司「うん・・・」
私「白龍は二体でした。双龍でした。」
宮司「ふむ・・・・・・ここの龍神は珠を二つ持っておられるのです。通常は一つなんですが、この二つの珠は潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)といいます」
私「あ、・・・!あの神話の二つの珠ですね?」
宮司「はい」
私「なるほど・・・なるほど・・・」
真名井龍神。
たくさんお話しして頂き、そろそろ時間となりました。
いつかきっと、再びここへ参ります、その時には必ず真名井神社へもご挨拶に参らせて頂きますと心に誓い、宮司さんとお別れしました。
外に御用があったのか、宮司さんは三つ巴の神社傘を差して飄々と外へ出て行かれました。有難うございました。貴重なお話し、心に刻み込んでおきます。
最後に宮司さんは言いました。
「これから徳島は必ず出てきますよ。本当の歴史は解明されるはずです。」
邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その12) | 株式会社ハレックス 越智前社長のおちゃめ日記
旅館のフロントに『日本建国の真実』という衝撃的な文字が踊るポスターが貼られています。この『日本建国の真実』のポスターには次のような大変に興味深い文章が書かれています。全文を掲載します。
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今から約2,700年の昔、南ユダ王国のイザヤ一行と北イスラエルの失われた10部族のうちの1部族の合併集団が葦船に乗って渡来し、四国の山を焼いてイスラエルと同じような草山の国を造りました。そして、劔山をエルサレムの山と同じ形に成形し、エルサレムの山と同じように生贄の岩場やシロアムの池も造りました。
イスラエル人はその国を「アルツァレト」と呼びましたが、日本人は「高天原(たかまがはら)」と呼びました。また、中国人はその国を「邪馬台国」と呼んだのです。
7世紀の後半に、日本が持っている契約の聖櫃(アーク)を唐が奪いに来るかもしれないという噂が流れ出し、それを恐れた大和朝廷は必死に対策を考えましたが、「四国の歴史を全部隠し、四国を何も無い島に見せかけて、契約の聖櫃を守ろう」という結論になり、天武8年5月6日の吉野宮の会盟から、大和朝廷は大秘密政策を断行したのです。
「天孫降臨」とか「神武東征」という事実はあったのですが、大和朝廷の本拠地が四国であることは絶対に判らないようにカムフラージュだらけの記紀を編纂し、更にそれを信じさせるため、全国に偽の神社や山を多数作ったのです。
尚、古代イスラエル人達は難民になって渡来したのではありません。「周囲の国々に邪魔されないため、東の果て果ての地へ行って国を創り、そして、神様の教えを守って暮らそう」と言って、神様の国を創るために渡来したのです。素晴らしい渡来の理由ではありませんか!!
私達日本人には、その血が混じっているのです。私達は、素晴らしい大移動を成し遂げた遠い先祖に誇りを感じます。
葦船に乗れなかった残存部族は、ユーラシア大陸を徒歩で横断して、日本に来ました。応神天皇の頃、弓月君に率いられて渡来した秦氏が実は、ユーラシア大陸を歩いて渡来した人達です。葦船に乗った先遣隊がアークを持って先に渡来したので、残存部族は何百年掛かってでも日本列島まで渡来し、遂に葦船組の後裔と徒歩組の後裔が、この日本で一つになれたのです。
アークは唐に奪われることも無く無事に、劔山の鍾乳洞の中に御鎮座下さっています。
(続き)
『伊勢神宮と三種の神器 新谷尚紀』
倭大国魂神・大倭直・淡路島
(倭直(やまとのあたひ)の始祖は、槁根津彦(さをねつひこ)であり、倭国造等(やまとのくにのみやつこら)の祖。「淡路国正税三万五千束(中略)大和大国魂神祭料八百束」。土地神でもある倭大国魂神と、それを祭る倭国造たる倭直という氏族が大和盆地の出身ではなく、瀬戸内海交通の要衝たる淡路島の明石海峡あたりの出身であるという伝承)
神宮皇后と卑弥呼
(一、倭王の出自は大和盆地ではない。二、倭王は優れた航海技術を持つ集団を従えていた。三、王権の交替は大量殺戮による武力侵犯や軍事制圧ではなく、一定の軍事衝突は当然あったとしても、基本的には従来の王と新たな王との両者にとって祭祀王であり武力王であるという古代王権の二重性を強く保持した状態での勢力交替であり、倭王と在来の王族の女性との婚姻関係などによる併合的な王権交替であった可能性が大である。四、外来の異文化集団による侵略的制圧と在来の社会や文化の破壊や根本改変などをともなうものではなかった。)
『淡路ユダヤの「シオンの山」が七度目《地球大立て替え》のメイン舞台になる! 魚谷佳代』『淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎』 古代イスラエルの礼拝所?「磐境神明神社」、「失われた10支族」の行方、日本人と韓国人の決定的なルーツの違い(YAP遺伝子)
『淡路ユダヤの「シオンの山」が七度目《地球大立て替え》のメイン舞台になる! 魚谷佳代』
ムー2017年8月号、淡路島で発見!!古代ヘブライ語が記された指輪と丸石の謎(淡路島のユダヤ遺跡、謎の女陰石、ダビデの星の指輪(+ナフタリ族の指輪)、ヘブライ文字が書かれた石)
『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎 飛鳥昭雄,三神たける』 ユダヤ人徐福の渡来と籠神社、2度目の徐福渡来と物部氏、物部氏の東遷と邪馬台国、卑弥呼はユダヤ人預言者だった、失われたイスラエル10支族と秦人、秦始皇帝の流民としての秦人、ユダヤ人原始キリスト教徒「秦人」、応神天皇の渡来、大邪馬台国から大和朝廷へ、秦氏の神社乗っ取り、ふたつの鴨族、大酒神社の祭神ダビテと物部氏、秦氏を名乗った物部氏
『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎 飛鳥昭雄,三神たける』
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