2023年8月26日土曜日

邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム) - 鳥島チャンネル

邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム) - 鳥島チャンネル
松浦党の勢力範囲に宗像を祭る神社が多いこと、
福津市勝浦の年毛神社に伝わる永嶋文書より宗像に
万津浦と
呼ばれていた地域があった。
ということからもマツラ族(後の松浦党)と宗像が同族であったとも考えられないだろうか?

他には江戸時代の地図ではありますが、青生東谿の「国郡全図」の筑前国に宗像沖と言うよりは新宮沖といった場所ですが「松浦潟」と記載されています。(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 國郡全圖 上・下
https://blog.goo.ne.jp/seiya0130/e/293b0e223c55c6cbedbdff49dae02b68

邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム)


邪馬台国への道筋を探るこのシリーズ「宗像と魏志倭人伝 その1」「その2 末蘆国って宗像じゃないの?」「その3永嶋文書」 「宗像と魏志倭人伝 その4 座談会しました」

宗像市三郎丸の「赤間西地区コミュニティセンター」にて2018年3月24日(土曜日)の13:30より16時までシンポジウムを開催しました。内容に付いては下の方をご覧ください。


今回は他行事と重なり急に来れなくなった方も多く残念ながら参加者は少なかったのですが、その分質問しやすい雰囲気となり結果的には濃い内容で進められたと思います。
私の担当分と解説を掲載します。

まずは、宗像が末蘆国としてふさわしいのか?


世界遺産効果で注目された沖ノ島、そして沖ノ島を通る交易ルート・沖ノ島祭祀に大きくかかわる「海北道中」ですが、祭祀が盛んになったのは4世紀後半からです。魏志倭人伝の舞台となった3世紀半ばの宗像の交易ルートはどうだったのでしょうか。




海水面の高さは、田熊石畑遺跡・壱岐の原の辻遺跡の船着き場が機能していた高さが現在より6~8mほど高かったということなので、現在より7m高く設定しています。
実は、宗像族は航海のみではなく干拓事業も得意だったようで解工(土木技術者)として官位を授かった記録があります。
干拓で活躍されたと考えられる顕著な例としては、千葉県印西市の印旛沼の西岸に宗像神社が多数あります。また、有明海周辺にも宗像神を祭る神社が多数存在しています。
この宗像湾(釣川)の水が引いた後に残された肥沃な土地の開発経験が生かされたのでしょう。


この、現在の辺津宮がある辺りと、終末処理場と河東天満宮を結ぶラインで湾の口が狭まりますので、この辺りより上流は比較的塩分濃度の低い汽水湖だったと推測できます。
湖に面した田久や徳重の遺跡からは海水魚・淡水魚の両方を食べていた痕跡がのこっていますので、上流部は比較的早めに稲作やその他塩分に弱い作物の栽培が可能になったことでしょう。


弥生海退が進んだので海水面は5m上昇の場合です。緑の線が使者が田熊石畑へ行く際に通った道と推測します。福津市勝浦(まつら)から上陸した場合は現在の大坂越え(多禮の幸福饅頭前から練原に抜ける道)は後に芦屋より大宰府に抜ける官道として整備されましたが当時勝浦から田熊方面に抜ける際のルートとしても当時から重要だったと考えられます。多禮から田熊は葦が茂る湿地帯だったと考えられます。人の背丈を越える葦の原を抜け田熊を目指したのでしょう。
海退がそれほど進んでいなければ田島より下流は水深も深めなので田島(辺津宮)あたりで上陸し勝浦からと同様に湿地帯を抜けて進んだかもしれません。



湾の幅が一番狭くなる宗像大社付近では水道幅は100~150mほどとなり現在の釣川より少し広い程度となってこの上流側はかなり水が引きますが、前出の7m高い海水面の時と同じく津屋崎~勝浦にかけての現在田畑になっている部分(勝浦潟)や釣川下流沿いの大部分及び鐘崎周辺は、魏志倭人伝の記述通り山が海に迫りその裾のごくわずかな平地に家がある情景が目に浮かびます。
神湊~在自あたりまでの現在の国道495号線が当時の海岸線と同じ感じでしょうか、西側の田畑が海水面と考えると情景も思い浮かびやすいかと。東側の桂岳-対馬見山―在自山の麓のあまり広くない平地に奴山、大石、須多田、在自などの集落が点在しています。沖の方では年毛神社から渡半島にかけて、後に「海の中道」となる松林が天然の防波堤として機能し勝浦潟は穏やかな湾となり、現在では鐘崎にわずかに残っている潜水漁も、温暖な海面上昇期ですし老若男女深い浅いに関わりなくかなり盛んだったことでしょう。


海退が進むにつれ釣川を大型船が上ることが厳しくなり、新原奴山古墳群のある勝浦地区が外港として重要になってきたと思われます。現在の海岸線付近は意外に標高が高く天然の防波堤として機能し波の静かな良港だったと考えられます。釣川は河口付近に砂が溜まりやすいので尚の事大型船の航行は厳しかった可能性が高いです。現在の河口は江戸時代半ば(宝暦3年)に開削されたものであり、それ以前は現在の道の駅から江口に流れており河口近くに江口浦の港があったが砂で埋まり港として使えなくなったこと、砂の堆積により流れが悪くなり中流部で氾濫が多発したことで工事をし河口が現在の位置になったとの記録があります。現在の河口も砂でかなり浅くなっており河口付近に係留してある船は満潮時以外ではほとんどが着底してますね。

みあれ祭の海上パレードが大島から神湊へまっすぐ行かず、地ノ島→鐘崎と進み神湊へと遠回りしているのも、もしかしたら釣川の旧河口から辺津宮へ上っていた名残なのかもしれませんね。神湊が玄関になったのも大型船の遡上が困難になったことで田熊→田島→勝浦へと玄関が移動し、そののち車輪や荷車の普及により、険しくはないとは言え峠越えを伴う勝浦よりも平地を真っ直ぐ神湊に行く方が効率が良くなったからなのかな。

そしてこの勝浦を中心とした地域が玄関口となったことでムナカタの首長の墓がこの地域に集中することになったのでしょう。
余談ですが、宮地嶽神社からの光の道を延長すると新宮町の相島剣神社を通ることはよく知られていますが、さらに延長すると済州島へと繋がります。済州島には日本から来た三人の女神と済州島の神が結婚し島民の先祖になったとの伝承があります。そして高(コウ)氏が耽羅王朝を建てます。
宗像徳善の娘の尼子娘は天武天皇妃で、その子高市皇子の子孫が高階氏であり、足利尊氏とその腹心で高階氏である高師直が後に宗像を頼り多々良川の戦いで逆転し室町幕府を築き上げたこととも高さんつながりということで不思議な縁を感じます。

この古墳群は基本的に北側(神湊周辺)の物が古く南に行くほど新しい物になっていおり、長さ100mを越える前方後円墳や宮地嶽古墳・手光波切不動古墳のような大規模な石室や副葬品を伴うものもあります。


ここからは、宗像と松浦の共通点や結びつきを考えます。


静岡理工科大学 名誉教授の矢田浩先生がまとめられた論文「北部九州の宗像神と関連神を祭る神社の解析―宗像神信仰の研究 (2)―」から地図・グラフ等拝借しました。
まず、宗像神を祭る神社の比率を見ると宗像から東と糸島より西に多いことが分かります。
そして右の図の黄色の地域は玉衣姫(安曇族綿津見神の娘で神武天皇の母)を祭る神社が多い地域となります。こちらは糟屋郡から西、糸島郡までと言った感じで、現在定説の伊都国(糸島)→不弥国(宇美町)までがちょうど収まる感じです。そして、これは右下の甕棺による埋葬が盛んであった地域とも重なります。
宗像神・玉依姫のどちらも海神であり、埋葬方法(宗像以東唐津以西は土壙墓から石棺墓へと移行し甕棺は子供用に少しあるくらいで主流の埋葬方法ではない)が違うということは完全に別の文化圏だったと考えられます。もちろん境目付近は両方の文化が共存したり取り入れたりといった現象はあったようですが。
また、宗像神を祭る神社は唐津市の平野部(旧唐津市を除く東松浦郡)より西で密度が上がります。また、糸島の方では糸島半島部分にはありますが、旧糸島水道より山手(平野部・おおむね筑肥線より南の雷山・背振山方面)ではかなり少なくなります。糸島半島に残っている古墳では糸島型とは明らかに違う宗像と同様の方法で造営された古墳が多く存在していますので宗像の影響が大きいことが読み取れます。


朝鮮半島-対馬-壱岐間の距離から千里は70~80kmの間、つまり1里は70~80mとなります。周髀算経の記述でいくと周代の1里が77mなので、この周里で魏志倭人伝は記述されたと考えられます。
壱岐から一番近い九州本土は東松浦半島で間違いは無いのですが、宗像まで行くことは唐津に行くのに比べ本当に大変だったのでしょうか?
沖を航行する場合は呼子とほぼ同距離に小呂島があります。小呂島は宗像大社領であり宗像神社も存在し、鎌倉時代には領地問題で中国系商人との争いがあった記録があります。
また、九州本土の糸島半島を目指す場合は40kmほどで現在の唐津港とほぼ同距離です。ここの南の伊都国に行かなければならないのであれば志摩(糸島)の港に上陸して南に行く方が楽だし自然だと思うんですけどね。



唐津から糸島の間の旧浜玉町~二丈町の間の海岸線は、このような断崖が13kmほども続き、唐津街道が整備された江戸時代以降はともかくとして弥生時代に荷物を担いで断崖絶壁を歩くのか?船でも行けるのに。
国道202号線は海岸付近を縫うように切通を作ったり崖を削って走っていますが、バイパスを作れるような平地は無いためバイパスは海沿いの山を通っています。国道とほぼ並行して海岸線を走る筑肥線は、この区間多数のトンネル・切通を作る必要がありかなりの難工事だったそうです。
実際、神谷宗湛が『宗湛日記』に記しているように唐津と博多の移動は天正の頃でも船のようです。もちろんお金のある商人や上級武士の話で、庶民は海べたの険しく細い道を歩いて行き来してた方が大多数だったでしょうけども。
唐津市の宮島醤油ホームページ 会長コラムを参考にしました。


船に乗ったとしても陸沿いに行ったから陸行とか、陸を歩いてから船だから陸行といった解釈をされる方も居るようですが、行程の8割は船(宗湛同様に唐津中心部付近からの場合)ですし、浜崎辺りから加布里辺りまでとしても行程の半分は船になるので陸行とは書かないよね。
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
狗邪韓國に到るの部分で循海岸水行と書いてありますし、岸に沿っての水行なら同様に循海岸水行と書くでしょう。


現在の壱岐航路ですが、壱岐唐津が一番航路長が短く所要時間も短いのですが、倍くらいある博多航路と所要時間は大きくは変わりません。もちろん就役している船の性能の違いが大きいのですが、潮の流れの影響も大きいんじゃないかと考えます。


かなり見づらいのですが玄界灘の4時間ごとの潮流です。矢印が長いほど潮の流れが速くなっています。
地図左下あたりが壱岐水道(壱岐‐唐津の海峡)なのですが、他のところで潮が流れていない凪いでいる状態の時でも壱岐水道付近では速い潮が流れています。壱岐水道ほどではありませんが神湊から鐘崎にかけて(地図中央付近)や関門海峡も同様です。関門海峡や金の岬(鐘崎)は古くから大宰府へ行く際の難所として知られていました。強い流れがある場合は熟練した漕ぎ手でも行きたい方向へ船を操ることは楽ではありません。
そして壱岐水道で一番の問題は、常に進行方向に対し横からの強い流れがあることです。運転する際、追い風・向かい風・横風それぞれが強い場合どの方向からが一番運転しづらいでしょうか?
向かい風も前に進むのに力が必要ですが例えば自転車の場合は風に負けて止まったりしなければまず倒れることはありませんが、強い横風の場合は進んでいても止まっていても倒れたり進路が変わります。航空機だと滑走路に対し横風が強い場合は空港が閉鎖されることもあります。
と言うわけで壱岐‐唐津間を航行する場合は地図で見る以上の大きな苦労があるでしょう。
壱岐と唐津の海路を縮小した感じで(直線距離7km)横方向の流れが発生しやすい大島-神湊間の場合は、明治半ばまで櫓漕ぎの船で片道4時間もかかっていたそうです。(大島~神湊航路 大島から神湊に渡る海上交通の歴史は - 宗像市


何故壱岐水道や宗像沖、関門海峡などで早い潮の流れが起きるのかは、ベンチュリ―効果です。ホースで水撒きをする場合にホースを強く握って潰すと水が遠くまで勢いよく飛ぶようになるのを考えるとわかりやすいと思います。
南西から来た対馬海流が、壱岐と松浦半島によって漏斗状にせまくなる壱岐水道を通ることで流速が速くなります。逆方向に流れが変わった場合もここは漏斗状の海域なので早い流れが発生するため。流れが無くなることは瞬間的にはあっても長時間安定することはありませんので、動力が手漕ぎや不完全な帆だとかなり苦労することになるでしょう。
また、単に流れに乗るだけではなく潮帆を使うことや漕ぐことで速度向上が図れます。
また、潮の流れを熟知していれば夜間も潮任せである程度行きたいところへ進むこともできたと考えられます。


この当時はキールの無い平底や丸底の船であったと考えられるので、船底が岩礁に当たると脆く上陸の際は砂浜の方が安全かつ容易ですので、岩礁の多い松浦半島沿岸を岸伝いに航行するのはかなり危険だったと思われます。
また、沖に出ても壱岐水道を縦断する場合は先述のように横からの流れに気を使いながら進まないといけないので、重要な使者を乗せての航海となるとリスクが高すぎるでしょう。まして、次の目的地も海に面していますしそんなに距離も変わりません。何のために唐津に寄らないといけないのやら…。ついでに、松浦川が今の流路になったのは江戸時代の工事で、それ以前は現在より2kmほど東側の虹ノ松原駅付近にありかなりの暴れ川だったそうです。大河ですし唐津湾内の潮流も現在とは大きく違っていたのでは?
唐津という字を見ると唐(から)への津(港)とイメージできるので古くから大陸航路の出発点であったと思いがちですが、「唐津」の名が出る一番古い記録は唐津神社社務所に現存する史料で1449年(文安6年)の寄進状に唐津大明神との記述だそうです。


松浦党の勢力範囲に宗像を祭る神社が多いこと、福津市勝浦の年毛神社に伝わる永嶋文書より宗像に万津浦と呼ばれていた地域があった。ということからもマツラ族(後の松浦党)と宗像が同族であったとも考えられないだろうか?
他には江戸時代の地図ではありますが、青生東谿の「国郡全図」の筑前国に宗像沖と言うよりは新宮沖といった場所ですが「松浦潟」と記載されています。(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 國郡全圖 上・下


宗像と壱岐との交流が盛んであった名残として、鐘崎の織幡神社が上げられます。宮司は代々壱岐氏(現在は永島氏)であり一時入江氏と名前を変えていた。入江姓は芦屋~福津にかけての宗像を中心とした地域に多い。また、河東地区に集中している伊規須氏は古くは壱岐須とも書かれていたとの事。ちなみに全国に350人ほどで、うち180人ほどが宗像市在住。(ただし、伊規須氏は飯塚の許山氏の流れで飯塚市伊岐須が由来殿説が有力)
また、室町時代に宗像氏俊・宗像氏頼が壱岐守護に任じられている。
旧玄海町の方は現在でも、壱岐と同じく芋焼酎よりも麦焼酎を好む方が多く、特に漁師の方にその傾向が強いそうです。まぁ焼酎自体が17世紀からですのであくまで余談ですが、壱岐との繋がりは最近も続いていると言えるのではないでしょうか?
捕った魚を福岡・下関・呼子以外に壱岐の勝本漁港に卸すことも多いと聞きますし。


現在の定説と、宗像=末蘆国説を比較してみましょう。
壱岐からの距離は1000里 壱岐‐呼子(300里)、壱岐‐唐津(500里)、壱岐‐宗像(1000里)
伊都国へ東南に500里 呼子起点…東△30kmほど(500里)〇、唐津起点…東北×28kmほど(400里)△、宗像起点…東南〇30~35kmに田川市伊田地区・香春町(香春神社須佐神社)
伊都国から奴国東南へ100里 平原遺跡(糸島)…奴国(岡本遺跡)東南東△20km(300里)×、田川から東南〇100里(7km)みやこ町(犀川大坂)〇(奴国との国境?)
奴国(伊都国)から不弥国東へ百里 岡本遺跡…東北△6.5km宇美八幡宮〇、田川(放射状)…東〇100里みやこ町(勝山)〇(不弥国との国境)

奴国・不弥国に関しては伊都国からの放射行程を採用しています。依山㠀爲國邑の記述より、やはりある程度の山地で国や村を分けていたと考えられるので、伊都国と奴・不弥の境は平尾台-障子ヶ岳-飯岳山のライン(味見峠や七曲峠などの田川郡と京都郡の境界)で、不弥国は旧豊前の国北部(行橋、勝山以北・飯岳山‐御所ヶ岳‐豊津のラインが奴国との国境)と想定しています。奴国はその南の宇佐勢力(仲津郡より南の豊前・豊後-日高郡)といった感じであればきれいに収まるかなと。
投馬国は妻(西都原)だと行橋辺りからの航路長300kmちょいなので、20kmくらいが1日の平均的航行距離で考えて15日。天候待ちなども考えると大体20日かかるで問題無いですね。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)ってのも宮崎の辺りって感じですし。
狗奴国は筑紫勢力(地図の黄色地域)で邪馬壹國連合から見ると南の国で合いますし。


小人の国の侏儒国は種子島(南種子島町の広田遺跡から出土した人骨は九州本土の人骨より10cmほど平均身長が低い)。

大和説・四国説・南九州説は不弥国(みやこ町&行橋市北部・苅田町を中心とした旧京都郡)から豊後水道を下り(南へ水行)で、筑豊説宇佐説をはじめとする東九州説なら水行・陸行はここまでの行程に含まれている(韓国-対馬-壱岐-宗像の間がそれぞれ3日、遠賀湾横断で1日で水行10日。陸行1ヶ月は途中での調査や歓待の宴などで足止めされたのでそのくらい経ってしまった。)と考える。韓半島で7000里、九州内で1000×3+500里と伊都国~邪馬台国(宇佐の場合路程で60数kmで800~900里)を足して数字を丸めて5000里。合計12000里
これでどうかな?
甘木・八女・山門だとどうしようもないけどw。

ちなみに行橋から宿毛までの航路長が約200kmなので水行10日がぴったりで、陸行1月で阿波国一宮「天石門別八倉比売神社」(徳島市)までが現代のルートで300kmちょい。1ヶ月かかるということで一日平均10kmってのがどうなのかですね。まぁ毎日全力で歩くとかは荷物もあるし厳しいでしょうし歓迎の宴なんかもあるとすれば妥当なとこなんでしょうかね。
邪馬台国徳島説の強みとしては、東に海を渡り1000里でまた倭人の国があるってのが紀伊半島と考えればどんぴしゃだったり、青玉朱(水銀)が取れていたりと魏志倭人伝での邪馬壹國の描写と整合性が高いんですよね。
魏使は伊都国までしか行っておらず、それ以降の行程は倭人からの伝聞ってのもありかな?倭の習俗についての記述はあるけども邪馬壹國の習俗とは書いていませんし、伊都国までとそれ以降では国の描写が全然違うってのも気になってる部分なんですよね。奴国以降は方角、距離(路程日数)、官の名前くらいしか書かれておらず、倭人の習俗まで風景描写とか全然無いですし。

大和説なら、方位が南ではなくなる問題はありますが(一応南の方に船出してと言えなくはないけど)松山辺りに上陸(水行7日)四国を横断(陸行20日くらい)紀伊水道横断(水行3日)大和へ陸行10日くらいになるんじゃないでしょうか。
不弥国からは距離ではなく日数表記なのでかなりどうとでもなってしまうのが良い点とも言えるけど、それが故に結論が出せないってのが一番の問題だよな。

いせきんぐ宗像歴史講座2018その6 古代のハイウェイ海の道は宗像が玄関
9/29にいせきんぐで話した動画です。内容は今回の記事に少し足したり削ったりといった感じです。


帯方郡治からの距離は万二千里 ならば何処に到達

距離や方角等を、弥生時代(魏志倭人伝の頃)の人々が正確に知ることができたのか?
当時の航路での所要日数・一日当たりの航続距離等わかりやすく解説されています。

個人的には邪馬壹國自体は連合国家の名称で初代女王の卑弥呼は阿波で、その後継の壹與は伊都国に居た。そして今話題になっている赤村の巨大古墳に壹與が眠っていると考えるとロマンがありますよね。旧田川郡以東は豊国(とよのくに)ですし(^^♪

赤村の件に深くかかわっておられる福永晋三先生の2016年の講演「魏志倭人伝を解く!」(8月7日_福永晋三先生講演会)腑に落ちることがたくさんあります。


本文中で触れた矢田先生の論文です。宗像電子博物館 紀要
宗像神を祭る神社の全国分布とその解析ー宗像神信仰の研究(1)-
北部九州の宗像神と関連神を祭る神社の解析ー宗像神信仰の研究(2)ー
宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(上 )―宗像神信仰の研究 (3)―
宗像と宇佐の女神、そして卑弥呼 魏使の邪馬台国への行程-宗像神信仰の研究(4)-
唐津=末蘆派の先生の論文なので当然ながら私と全然違う見方も多いのですが、データ量がすごく多く掘り下げておられるので勉強になることが多すぎて楽しかった


福永先生関連動画はこちらからどうぞ。
真実の仁徳天皇―倭歌が解き明かす古代史
クリエーター情報なし
不知火書房
 
九州王朝の論理
クリエーター情報なし
明石書店

 
古代ハイウェイ海の道 玄関は宗像

宗像と魏志倭人伝 その1
その2 末蘆国って宗像じゃないの?
その3永嶋文書
「宗像と魏志倭人伝 その4 座談会しました」
邪馬台国の玄関末盧国は宗像 第6回シンポジウム動画あり

海の民宗像 ―玄界灘の守り神 改訂増補版クリエーター情報なし梓書院

邪馬壹国(やまと国)研究会 宗像フェイスブックでの宗像の歴史に関するグループです。タイトルに邪馬壹国と入っていますが、特にこの時代といったくくりはありません。中世や戦国、現代史なんかでもOKです。Facebookやられてて宗像周辺の歴史に興味をお持ちの方お気軽にご参加下さい。
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