2023年9月5日火曜日

渡来の民と日本文化 | 古代の歴史 秦氏と製塩技術

渡来の民と日本文化 | 古代の歴史

 …むしろ秦氏の最大の特徴としては、さまざまな最新技術を持った集団であったことを特筆しておく。その技術力による生産活動を、加藤謙吉は四点に整理している。

 まず第一点として、製塩技術をあげる。棄民の拠点である北陸の若狭・越前では、多数の土器、製塩遺跡が発掘されている。その地の秦氏が、製塩に従事していたことは疑いがない。また西日本の土器、製塩の中心である備讃瀬戸(岡山・香川両県の瀬戸内地域)にも多数の秦氏集団がいた。

 さらに播磨の赤穂一帯は、近世では塩田が盛んであったが、すでに奈良時代に塩田開発に従事したと思われる秦氏の者がいる。『平安遺文』に収録されている「播磨国府案」「東大寺牒案」「赤穂郡坂越神戸南郷解」によれば、赤穂市の坂越に墾生山と呼ばれる塩山があって、天平勝宝5(753)年から7年まで、播磨守の大伴宿繭(すくね)がこの地を開発し、秦大炬(おおかがり)を目代にして「塩堤」を築造させたが失敗し、大矩は退去したという。言うまでもなく塩は生存に不可欠の物産である。その意味でも優れた製塩技術をもたらした秦氏の功仙清は大きい。

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渡来の民と日本文化

■渡来の民と日本文化

沖浦和光・川上隆志

■秦氏と播磨

▶︎播磨への道

 播磨とは、今の兵庫県南西部を指す古代の国名で、播州とも言う。10世紀に編纂された『延書式』では大国とされ、明石以下12郡よりなっていた。その古代の様子は、一部欠落して現存する『播磨国風土記』 にうかがわれる。

 播磨渡来系文化について関心を持つきっかけは、編集者として沖浦和光氏の『陰陽師の原像』の取材に同行したことにある。それまで神戸界隈を観光や仕事で歩くことはあったが、播磨の奥深くに渡来系の文化が息づき、それが今に至るまでしっかりと生き残っていることに深い関心は持っていなかった。そもそむ被差別部落をキー概念として、日本民衆の精神史に深く踏み込む契機となったのが沖浦氏との取材であり、編集者として日本各地をともに歩いたことによる。

 二度にわたる現地取材を通じてはっきりしてきたことは、播磨の文化には、渡来系の痕跡が色濃く残っていることである。そのなかでも秦氏の果たした役割が極めて大きいことが分かってきた。古代以来、日本文化史のなかで秦氏は極めて重要な位置を占めている。先進技術、豊かな財力、呪術に由来する芸能への感性き、いわゆる日本文化の枢要は、実は渡来系集団の秦氏が占めてきたといっても過言ではない。

 その秦氏の文化の重要な側面が、この播磨の地に存在していたのである。播磨における秦氏の役割を考えることで、秦氏集団の性格がかなり見えてくるだろう。そしてそこから日本文化のひとつの本質を読み解く鍵が見えてくるはずである。

▶︎渡来系の技術者集団

 まずは辞書的な意味を確認すると、『岩波日本史辞典』では次のように記述している。

古代の渡来系氏族。姓(かばね)は初め造(みやつこ)、683(天武12)連(むらじ)、685年忌寸(いみき)。秦始皇帝の後裔を称し、応神天皇の時に祖・弓月君(ゆづきのきみ)が120県の人夫を率いて渡来したというが、 実際は新羅・加耶万面からの渡来人集団。山城国葛野・紀伊郡(京都市西部)を本拠に開拓・農耕、養蚕・機織を軸に栄え、周辺地域にも勢力を延ばした。また鋳造・木工の技術によっても王権へ奉仕した。広隆寺・松尾神社などを創建し、長岡・平安京の造営ではその経済基盤を支えたとみられる。秦氏の集団は大規模であるとともに多数の氏に分化したが、氏の名に秦を含み、同族としての意識が強い。太秦(うずまさ)氏が族長の地位にあった。

 秦氏の集団が、朝鮮半島からの大規模な渡来集団であり、さまざまな先進技術を持って日本各地に移住し、政治的にも大きな勢力として古代王権にも大きな影響を与えたことが、ここから分かる。

 さらに秦氏に関する詳細な研究を行なってきた大和岩雄は、その主著『秦氏の研究』のなかで「秦氏は渡来氏族の中では最大であり、日本の文化・経済・宗教・技術・政治などに、広く、深く、影響を与えている。だから、秦氏について考究することは、最大の渡来氏族についてだけでなく、日本の文化・経済・宗教などについての考究にもなる」と述べている。

 秦氏の文化的功績については後に大避(おおさけ)神社のところで詳しく見ることになるので、ここではまず大和岩雄の研究成果や、同じく秦氏の古代社会における特質を詳細に分析した加藤謙吉『秦氏とその民』などに拠りながら、秦氏の技術者集団の側面と、渡来系氏族としての特徴を見ておくことにしよう。

 両氏の研究によれば、秦氏とは、五世紀後半から断続的・波状的に渡来してきた集団を母体にし、日本人の在地の農民なども組み入れながら成立した擬制的集団(厳格な権利・義務関係を伴うが、一般庶民の間にも制度的な親方・子方関係があり、両者の間には、義理と人情を伴った庇護(ひご)・奉仕の双務的関係の集団)である。出自や来歴を異にしているために、民族的な求心力はそれほど高くはなく、秦氏を構成する各集団は自立的な性格が強かった。大和政権への隷属という点が大きな特徴であるが、秦氏が政治的な意思を持って団結することは少なく、むしろ経済的な面から大和政権の底辺を支えた氏族であった。

 むしろ秦氏の最大の特徴としては、さまざまな最新技術を持った集団であったことを特筆しておく。その技術力による生産活動を、加藤謙吉は四点に整理している。

 まず第一点として、製塩技術をあげる。棄民の拠点である北陸の若狭・越前では、多数の土器、製塩遺跡が発掘されている。その地の秦氏が、製塩に従事していたことは疑いがない。また西日本の土器、製塩の中心である備讃瀬戸(岡山・香川両県の瀬戸内地域)にも多数の秦氏集団がいた。

 さらに播磨の赤穂一帯は、近世では塩田が盛んであったが、すでに奈良時代に塩田開発に従事したと思われる秦氏の者がいる。『平安遺文』に収録されている「播磨国府案」「東大寺牒案」「赤穂郡坂越神戸南郷解」によれば、赤穂市の坂越に墾生山と呼ばれる塩山があって、天平勝宝5(753)年から7年まで、播磨守の大伴宿繭(すくね)がこの地を開発し、秦大炬(おおかがり)を目代にして「塩堤」を築造させたが失敗し、大矩は退去したという。言うまでもなく塩は生存に不可欠の物産である。その意味でも優れた製塩技術をもたらした秦氏の功仙清は大きい。

 第二に銅生産をあげる。次節で詳しく述べるが、秦氏の原郷は朝鮮半島東南部の産鉄地帯である。渡来してきた秦氏集団がまず勢力を伸ばしたのが、九州の鉱山地帯である筑豊界隈であった。そして九州から瀬戸内に沿いつつ、各地の鉱山開発を進め、やがては全国の鉱山に足跡を残す。採掘から精錬、さらには流通に至るまで、秦氏と鉱山資源は深く結ばれていたのである

 第三点は朱砂と水銀である。これも広い意味では鉱物資源であるが、あえて特筆する理由は二つある。まずひとつは、朱砂という赤色顔料による色の呪力である。弥生時代から古墳時代にかけて、遺体の埋葬に施朱の習慣があった。赤は魔力を持つ色とされ、その赤を操る種族ということで、マジカルな力を持つと思われていたのかもしれない。

 もうひとつは、仏像建造などにアマルガム鍍金法が導入されることによって、水銀の価値が高まったことである。全国各地にある丹生神社は、と重なっており、それだけ需要が高かったと言えよう。

 第四点は土木・建築技術である。京都・太秦は秦氏最大の根拠地であるが、そこを流れる桂川に堰堤をつくり、治水・潅漑に役立てた。それ以外にも、茨木の茨田場をはじめ多くの土木工事に関わった。さらに長岡京や平安京など、首都の造営にあたっては秦氏が深く関わっていたと見られる。

 もちろんこの四点だけでなく、農耕や養蚕など、秦氏の技術力はまだまだたくさんあるが、これらを見ておくだけでも古代日本において傑出した技術者集団として、大きな役割を果たしていたことが分かるだろう。

■秦氏の原郷

▶︎原郷は古代加羅の国か

 では秦氏は、いつ、どこからやってきたのだろうか。 『古事記』には次のような応神天皇の世の記事がある。

秦造の祖、漢直(あやのあたへ)の祖、また酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、亦の名は須須許理(すすこり)等、参渡り来つ。

 また 『日本書紀』 にも次のように書かれている。

応神天皇14年)是歳(ことし)、弓月君(ゆづきのきみ)、百済より来帰(もうけ)り。因りて奏(まう)して日(まう)さく、「臣(やつかれ)、己が国の人夫(たみ)120県を領(ひき)ゐて帰化(まう)く。然れども新羅人の拒(ふせ)くに因りて、皆加羅国に留まれり」とまうす。ここに葛城襲津彦(かづらぎのそつひこ)を遺(つかわ)して、弓月の人夫を加羅に召す。然れども三年経(みとせふ)るまでに、襲津彦(そつびこ)来(まうこ)ず。

(応神天皇16年)8月に、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿繭(いくはのとだのすくね)を加羅に遺す。……弓月の人夫(たみ)を率(ゐ)て、襲津彦(そつびこ)と共に来り。

 さらに古代の諸民族の系譜書である『新撰姓氏録』には、中国・朝鮮半島からの渡来人の後裔がまとめられた「諸蕃」の記事に、

秦始皇の三世孫、孝武王より出づ。男、功満王、仲哀天皇の8年に来朝。男、融通王(一に弓月君と云ふ)、応神天皇14年に来朝。127県の百姓を率いて帰化し、金、銀、玉、吊等の物を献りき。仁徳天皇の御世に、127県の秦氏を以て、諸郡に分かち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢らしめたまひき。(左京、太秦公宿禰の条)とある

 これらから分かるように、5世紀前後の応神朝の時期に、百済から弓月君が多くの人夫とともに渡来したのが始まりとされている。ではなぜその頃に朝鮮半島から多くの人たちが渡って来たのだろうか。

  朝鮮半島ではその頃、新羅と高句麗、百済と倭が入り乱れての戦乱が激化していた。それに加えて旱魃(かんばつ)や蝗害(こうがい)が相次ぎ、人々は生活に窮していた。そのため多数の人たちが、戦乱や飢饉を逃れて日本列島に渡来・移住してきたのである。

 古代には、朝鮮半島の東南部地域は加羅(伽耶・加耶)と呼ばれていた。それは4〜6世紀にかけて朝鮮半島東南部の洛東江か蟾津江(ソムジンガン)の流域に分布した小国家群のことで、これらの国々は岐(かんき)とよばれる首長たちによって支配されていた。なかでも洛東江下流の金官国(金海)や、上流の大伽耶(高霊・こうれい)が有力であった。その金官国は任那(みまな)とも言われた。

 任那とは、『日本書紀』では加羅諸国の総称として用いられる場合が多く、任那は天皇に朝貢する官家(みやけ)とされ、その支配と統治をしたのが史上名高い任那日本府(実際はない)である。なおとは、百済・新羅・任那・三韓・海西諸国・海北・渡などの朝鮮諸国を日本への朝貢国として表すための呼称である。

 このように、加羅は当時の倭と関係の深かったことから、秦氏の原郷(語族の故郷、起源地)は朝鮮半島東南部の加羅(金海)ではないかと大和岩男は推定している。

 では秦氏の名称の由来は何によるのだろうか。 大和岩雄は、秦氏のハタというのは、古代朝鮮語の「」と、「多・大」という二つの言葉に由来するという。そして秦氏の原郷は、朝鮮半島東南部の加羅である。したがって、4世紀の後半から5世紀にかけて、海を渡って大集団で渡来した加羅の人たちのことを、総称して秦氏と呼んだと推定している。

 それに対して加藤謙書は、秦氏の名称も、ヤマト政権に奉仕した職掌から考える必要があるという。秦氏は何よりも、養蚕・機織りを職掌としていたことに由来を求め、「」の字を宛てたことは、中華思想による中国への思いによると推定している。 私も大学での講義のとき、韓国からの留学生に、古代朝鮮語に由来する「ハタ(pata)」ではないかという話をしたところ、今でも海のことは「バク」というので、とても親しみの持てる説だといっていた。ヤマト政権の職掌との関連で考えるよりも、古代の海に思いを馳せるほうがロマンチシズムを感じることは確かだ。

▶︎豊前の秦王国

 秦氏の原郷は、朝鮮半島東南部の加羅であり、四世紀の後半から五世紀にかけて、渡って大集団で渡来した加羅の人たちのことを、北九州に到来した秦氏といったのであった。そして北九州に到来した秦氏集団は、まず豊前の国に、海を総称して秦氏といったのであった。そして(今の福岡県南東部から大分県北部)、秦王国といわれる拠点を形成した。

 中国の隋の正史である『隋書』の倭国伝に、興味深い記事がある。大業4(推古16、西暦608)年に揚帝が蓑世清(はいせいせい)を倭に派遣したときの順路を記したものである。

百済を度り、行きて竹島に至り、南に耽羅(たんら)国を望み、都斯麻(つしま)国を経て、遙かに大海の中に在り。東して一支国にいたり、又、竹斯国(ちくし)に至り、東して秦王国に至る。其の人華夏(かか)に同じ。以つて夷(い)洲と為すも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。又、十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆倭に附庸す。

 ここに書かれている秦王国こそ、豊前(ぶぜん・福岡)一帯に秦氏が形成した根拠地である。そしてその風俗はほかの地域とは異なり、「華夏」と同じとあるが、これは朝鮮系の風俗を指していると思われる。

華夏(かか)とは、漢民族の間に存在する自民族中心主義の1つである中華思想において、中国のことを美化して表現する歴史民俗用語である。この用語は元来、新石器時代後期および青銅器時代初期の、現代の漢民族の祖先であった農業部族のことも指しており、現在でもこの用法で用いられることもある。この概念は、漢民族の自らの祖先に対する礼賛に由来している

 なぜ豊前に秦王国といわれる根拠地が形成されたのだろうか。それは秦氏の性格とも深く関わっているのである。

 筑豊の地、今の福岡県田川郡香春岳(かわらだけ)という山がある。周囲からはひときわ目立つ三つの峰があり、それぞれ一の岳、二の岳、三の岳と名づけられているが、一の岳の中腹から上は長年の採掘によって、すでになくなっている。余談であるが、地元の郷土史家二郎丸弘によれば炭坑節の「一山二山三山越え……」の歌詞は香春岳のことを指しているという。

 この香春岳こそ、九州に渡来した秦氏の集団がまず目指した地であった。香春岳からはさまざまの鉱物が採掘された。『豊前国風土記』逸文の香春郷に、次のような記述がある。

昔者、新羅の国の神、自ら度(わた)り到来りて、此の河原に住みき。便即ち、名づけて鹿春の神と日ふ。又、郷の北に峯あり。頂に沼あり。黄楊樹生ひ、兼、竜骨あり。第二の峯には、并に黄楊・竜骨あり。第三の峯には竜骨あり。

 大和岩雄によればここに書かれている竜骨とは、石灰岩のことを指すという。つまり香春岳には、石灰岩や銅などの鉱物資源があったことが、古代にも知られていたのである。『日本鉱山総覧』によれば、香春岳(かわらだけ)からは、金、銀、銅、鉛、亜鉛、鉄、石炭が採掘されたという。なお、実際に銅が採掘されたのは二の岳ではなく三の岳である。そこには採銅所という地名が残っていて、JRの駅もある。

 鉱山の採掘や鍛冶は、秦氏のもつ先進技術の代表的なものだ。秦氏の原郷である洛東江流域は砂鉄の産出地である。『魏志』弁辰伝には、国、鉄を出す。韓、濊(わい)、倭みな従って之を取る。

とあり、この鉄を産出していた弁韓(べんかん)の人たちが、海を渡って九州に上陸し、まず目指したのが香春岳であり、その銅・鉄を採掘したのであろう。『古事記』や『日本書紀』に、天香山(あまのかぐやま)の鉄(金)を採って日矛(ひぼこ・御神体)や鏡を作ったという記述があるが、香春岳は秦王国の天香山なのであった。さらに鉱山採掘は、秦氏の財力の源泉になっていた。その財力を基にして、その後の古代日本に大きな役割を果たしたのである。

 香春岳のふもとには香春神社がある。『豊前固風土記』逸文に「新羅の神」を「鹿春の神」と名づけたとあるように、ここは秦氏の信仰の拠点であった。

 この香春神社は、宇佐八幡宮の元宮・古宮とも言われている。神官は、秦氏系の赤染氏と、鶴賀であるが、この鶴賀氏も若狭の敦賀との関連も考えられる渡来系の氏族である。祭神は辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめのみこと)、忍骨命、豊比羊命の三座である。辛国息長姫(からくにおきながひめ)は、神功皇后の名である「息長帯姫」をヒントに作られた。「辛国」は「韓国」でぁり、息長姫の系譜は、新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)を祖とし、息長(おきなが)氏は秦氏とも深く関わっている。朝鮮半島との関わりの探さを感じさせる祭神である。

 豊前には、もうひとつ、宇佐八幡宮という秦氏の信仰の拠点がある。今でこそ皇室の庇護も篤く、日本の神社体系では枢要の位置を占める神社であるが、本来は渡来系の秦氏が祀っていた神社である。宇佐八幡宮の元宮が香春神社であるということは、そのひとつの証左である。

 さらに宇佐八幡宮最大の祭事である放生会(ほうじょうえ)は、8世紀の養老年間に鎮圧した大隅・日向の隼人の霊を慰撫する祭礼である。かつては香春岳の銅で作られた神鏡を、宇佐の和間浜まで、豊前の国を巡行しながら十五日間かけて運ぶ神事があった。その間、八幡宮では細男舞(くわしおいのまい)が毎夜行なわれ、和間浜では古表(こひょう)神社と古要(こよう)神社の人々が傀儡舞(くぐつまい)をしたという。細男舞も傀儡舞も、いずれも秦氏の担った芸能である。

 香春神社を訪ねた翌日、宇佐八幡宮にも足を延ばした。本殿をはじめ広大な境内に散在する建造物は、鮮やかな宋塗りであるが、朱色と白色と緑色が独特のバランスで配色されたデザインは、どこか韓国の建物を連想させる色合いであった。

 また古代社会において、鍛冶師はシャーマンでもあった。秦氏は、道教的要素を持つ独特の巫術を駆使する集団でもあった。『新撰姓氏録』 に次の記事がある。

雄略天皇御鉢不予みたまふ。因(よ)りて茲(ここ)に、筑紫の豊国の奇巫(くしかんなぎ)を召し上げたまひて、真椋をして巫を率て仕へ奉らしめたまひき。

 『日本書紀』にも、用明天皇が病気になったときに、都の法師ではなく、わざわざ豊前(ぶぜん)の奇巫を呼んだという記述がある。このように、豊前の秦王国のシャーマンは、朝鮮系の巫術を用いる巫医として、遠く大和の地にまで名を響かせていたことが分かる。

 もうひとつ、秦王国には、仏教公伝以前から仏教が入っていた。大和飛鳥に公伝した仏教は百済系の仏教であるが、秦王国に入った仏教は、弥勤信仰を重視する新羅の仏教だった。後に秦河勝が京都の太秦に広隆寺を建立するが、その本尊は新羅伝来の弥勤半伽思惟像である。平安仏教の改革者となった最澄も渡来系であり、留学僧として唐に出向く前には香春神社で航海の安全を祈り、帰国後にも寺院を建立している。

 また宇佐から瀬戸内海に突き出ている国東半島は、後に修験道が盛んになるが、数多くの天台寺院があり、中世に仏教文化が栄えた地である。沖合いの姫島も含めて、渡来系の文化が深く根付いている地域だ。

 このように、朝鮮半島の動乱によって日本に渡ってきた秦氏の一族は、九州の豊前に、一大王国をつくり、古代日本にも大きな影響を与えていた。その後、富と人的ネットワークを形成した後、秦氏はいよいよ東へと豊後水道を越えていくのである

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