2023年9月5日火曜日

吉備大臣入唐絵巻 - Wikipedia

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吉備大臣入唐絵巻

吉備大臣入唐絵巻(きびのおとど にっとう えまき、または、きび だいじん にっとう えまき)は、日本の12世紀末から13世紀初めに作られた[2]絵巻物の一つ。所蔵者は、アメリカ合衆国ボストン美術館遣唐使としてに渡った吉備真備が、現地で数々の難題を吹っかけられるも、となった阿倍仲麻呂の助けを借りてこれをことごとく退ける説話を生き生きと描いた、院政期文化を代表する絵巻物の名品である。

概要

絵巻の内容は、大江匡房の『江談抄』巻三(雑事)「吉備入唐間事」に記される物語と一致しており、遣唐使の吉備真備が在唐中に幽閉され、鬼となった阿倍仲麻呂に導かれて、皇帝による『文選』や囲碁による無理難題を解いて、遂に帰国に至るというものである。

現存の絵巻は冒頭の真備が入唐して幽閉される詞書および、後半部分である『野馬台詩』の解読に成功して帰国を果たす場面は欠いている。ただし冒頭の詞書については、元々無かったとする説もあり[3]、錯簡によって後半の『野馬台詩』の部分が、2箇所ないし3箇所現存部分に紛れ込んでいる可能性が指摘されている[4]。元は全長24.521mにも及ぶ1巻の巻物だったが、昭和39年(1964年)に東京オリンピック記念特別展で里帰りした際に、保存や展示の便宜を図るため4巻に改装された。

なお、史実では、真備と仲麻呂は養老元年(717年)に同一次の遣唐使に同行しており、真備の方は天平7年(735年)に帰国して天平勝宝4年(752年)に再度入唐している。真備の2度目の入唐時も仲麻呂は存命しているため、本絵巻はあくまでも「伝説」「伝承」を描いているに過ぎない。

伝来

成立は平安時代後半の12世紀末頃、後白河院の下で制作された絵巻の一つで、『伴大納言絵巻』『年中行事絵巻』『彦火火出見尊絵巻』と共に蓮華王院の宝蔵に納められていたと考えられる[5]

その後、嘉吉元年(1441年)に、『伴大納言絵巻』『彦火火出見尊絵巻』と共に若狭国小浜(現在の福井県小浜市)の新八幡宮に疎開していた記事が残る(『看聞御記』嘉吉元年4月26日)。一時明通寺の寺宝となった後、豊臣秀吉正室高台院の甥である木下勝俊文禄2年(1593年)に若狭国主となった際に献上された[6]。勝俊は、世を捨て隠棲した後も『吉備大臣入唐絵巻』をある程度の期間所持したらしく、烏丸光広などの鑑定書が現在まで付属している。その後は豪商三木権太夫や三井六角家当主・三井三郎助(高年)が所持し、幕末頃に再び小浜藩酒井家に戻り、その重宝となる。

大正12年(1923年)、酒井家の遺産分与のため東京美術倶楽部の売立(競売)に出され、大阪の古美術商が18万8900円で落札[7]。直ぐに再び売りに出そうとしたが、関東大震災による不景気で買い手がつかず[8]、古美術を広く海外に売っていた山中商会に斡旋を依頼する。昭和7年(1932年)、ボストン美術館東洋部長を務める富田幸次郎が来日して購入、ボストン美術館に所蔵されるに至った。『吉備大臣入唐絵巻』の海外流出は、日本国民の憤激を買い、富田は「国賊」呼ばわりされた。しかし、富田からすれば正規の商取引を行ったに過ぎず、富田自身はこれに憤慨している[9]。問題だったのは、国宝クラスの美術品の海外流出を食い止める事が出来なかった法整備の不備で、流出の翌年4月1日「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が公布・施行され、美術品の国外流出を防ぐ処置が取られるようになった。

その後、1964年、1983年、2000年、2010年、2012-13年の5度里帰りし、美術展覧会で展示されている。

作者

古来より作者は常盤光長とされ[10]、最近まで光長周辺の単独の絵師だと想定されてきた。しかし、黒田日出男は複数の画家になる工房作だと主張し、ボストン展図録でもこれをほぼ支持している[11]

神田房枝は原本を観察した成果を元に、工房説を更に進めて論じている。『山槐記元暦元年(1184年)8月二十一日条の記述から、当時の工房制作は「墨画」担当を頭に、技術的にも身分的にも劣る「淡彩」と「作絵」といった異なる色彩方法を担当する工人2名や、当時「張手」と呼ばれた作画以外の表具などを担当した雑工の4人1組で基本的に作画したとし、『伴大納言絵巻』や『彦火火出見尊絵巻』にもそうした制作過程が見て取れる。しかし『吉備大臣入唐絵巻』の場合、少なくとも3組の絵師が担当したと観察でき、しかも同一工房内で制作されたとは思えないほどモチーフの描写や彩色が一定せず、統一感に欠ける(馬や高楼、玉座の描写など)。描線も『伴大納言絵巻』と比べると全体にぎこちなく人物描写が単調で、『彦火火出見尊絵巻』と共通あるいは近似する図様が散見する。『古今著聞集』に後白河法皇は自ら絵巻の出来を点検し、気に入らない箇所は押し紙して、駄目な理由を書いて差し戻したという逸話が記されており、『吉備大臣入唐絵巻』のように一貫性に欠ける作品では後白河院を満足させられなかった可能性が高い。こうした論拠から、後白河が崩御する1192年3月から余り下らない頃に、急遽組織された常盤光長の画風に少しでも知識があった宮廷絵師たちによる、特殊な合作だったと推測している[12]

絵巻が制作された時代、日宋貿易で、かつて唐が治めていた中国の存在感が日本において再び高まっていた。吉備真備(と阿部仲麻呂)が唐人からの難題を切り抜けるという画題について、東京国立博物館研究員の土屋貴裕は、中国への劣等感と、力を出せば勝てるという優越感が絡み合った複雑な感情が読み取れると解釈している[8]

  • 第一段、遣唐使船到着の場面。船で唐土に着いた吉備大臣とそれを迎える唐の使者(左端)や武人たち。

    第一段、遣唐使船到着の場面。船で唐土に着いた吉備大臣とそれを迎える唐の使者(左端)や武人たち。

  • 第一段、遣唐使船の到着に続く場面。唐の官人の車と馬が描かれている。

    第一段、遣唐使船の到着に続く場面。唐の官人の車と馬が描かれている。

  • 第三段、吉備大臣の幽閉されている高楼に食物を運ぶ唐人たち。

    第三段、吉備大臣の幽閉されている高楼に食物を運ぶ唐人たち。

  • 第三段、飛行の術を用いて空中を飛ぶ吉備大臣と赤鬼(=仲麻呂)

    第三段、飛行の術を用いて空中を飛ぶ吉備大臣と赤鬼(=仲麻呂)

  • 第六段、吉備大臣と唐の囲碁名人の対局。

    第六段、吉備大臣と唐の囲碁名人の対局。

  • 第六段、唐朝の宮殿。左端は唐の帝王。これに対するのは吉備大臣との勝負に負けたことを奏上する囲碁名人。

    第六段、唐朝の宮殿。左端は唐の帝王。これに対するのは吉備大臣との勝負に負けたことを奏上する囲碁名人。

脚注

  1. 画面解説は、小松茂美編『日本の絵巻 3 吉備大臣入唐絵巻』(中央公論社、1987年)による。以下も同じ。
  2. ボストン美術館は12世紀後半とし、矢代幸雄は12世紀末から13世紀のごく初頭、秋山光和は平安時代末期から鎌倉時代初め、若杉準治は鎌倉時代にかかる頃、と推測している。
  3. 源豊宗大和絵の研究』(角川書店、1976年)。佐和隆研「『信貴山縁起絵巻』と鳥羽僧正覚猷考証」(小松(1977)に収録)。神田 (2010) p.35、など。
  4. 黒田は第17紙から第20紙、第8紙から第12紙、及び第38紙と第39紙の一部の計3箇所(黒田 (2005))、神田は第17紙から20紙、及び第38紙の2ヶ所としている(神田 (2010) pp.24-32)。
  5. 『吉備大臣入唐絵巻』の伝来については下記の参考文献のどれにも詳述されているが、小松茂美「『吉備大臣入唐絵巻』考証」(小松 (1977)に収録)が最も詳しい。
  6. 吉田言倫『若狭群地県誌』巻第八 古楽部(1714年)
  7. 小田部雄次『家宝の行方 ―美術品が語る名家の明治・大正・昭和』小学館、2004年10月。ISBN 978-4-09-386136-6
  8. ^ a b 【美の履歴書】761「吉備大臣入唐絵巻」作者不詳:盗み聞き 真の野望は朝日新聞』夕刊2022年8月30日2面(同日閲覧)
  9. 堀田謹吾『名品流転 ―ボストン美術館の「日本」』日本放送出版協会、2001年2月。ISBN 978-4-14-080581-7
  10. 絵巻付属文書にある、江戸時代初期の狩野派の絵師狩野安信や江戸時代中期の住吉派の絵師住吉廣行の鑑定。
  11. ボストン図録 (2012) p.243
  12. 神田 (2010) pp.13-24

参考文献

  • 小松茂美『吉備大臣入唐絵巻』中央公論社〈日本絵巻大成 3〉、1977年。none 
  • 若杉準治『絵巻伴大納言と吉備入唐絵』至文堂〈日本の美術 297〉、1999年。ISBN 978-4-7843-3297-7 
  • 小峯和明『『邪馬台詩』の謎 歴史叙述としての未来記』岩波書店、2003年。ISBN 978-4-00-002319-1 
  • 黒田日出男『吉備大臣入唐絵巻の謎』小学館、2005年。ISBN 978-4-09-626222-1 
  • 倉西裕子『吉備大臣入唐絵巻:知られざる古代中世一千年史』勉誠出版、2009年。ISBN 978-4-585-05423-8 
  • 神田房枝 著「「吉備大臣入唐絵巻」再考--その独自性からの展望」、佛教藝術學會 編『佛教藝術』 311巻、毎日新聞社、2010年、9-39頁。ISBN 978-4-620-90321-7 
  • 東京国立博物館ほか 編『ボストン美術館 日本美術の至宝展図録』2012年。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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野馬台詩

野馬台詩野馬臺詩耶馬台詩、やばたいし、やまたいし)とは、日本平安時代から室町時代に掛けて流行した予言中国予言者宝誌和尚の作とされるが、偽書の可能性が高い。日本で作られたとされるが、中国で作られたとする説もある。

概要

現存する文献では、「延暦九年注」(790年)として、鎌倉時代に成立した『延暦寺護国縁起』に引用された逸文が初出といわれる。引用された内容が事実ならば、奈良時代末期には作られていたことになる。また、平安時代には、『日本書紀』読解の講義録である『日本紀私記丁本』(936年承平6年)の問答集に言及がある。それによれば、日本を「姫氏国」とする説があるかという質問に対し、宝志の予言に「東海姫氏の国」とあり、皇室は女神天照大神を始祖とし、また女帝の神功皇后がいるから、日本を姫氏の国と称したという回答が収録されている。

平安時代末期に成立した『江談抄』によれば、遣唐使吉備真備玄宗に謁見した時、解読を命じられた。詩は文がバラバラに書かれていて、まともに読めないようになっていた。真備が困り果てて日本の神仏に祈ると、蜘蛛が落ちてきて、蜘蛛の這った後を追うと、無事読むことができたという。また、現存の前半部分には、野馬台詩に関する部分を欠くが、同じく平安末成立の絵巻物である『吉備大臣入唐絵巻』も、同じ事柄を描くものである。

平安時代後期から、終末論の一種として、天皇は百代で終わるという「百王説」が流布するようになった。鎌倉時代初期成立の慈円の『愚管抄』には、「人代トナリテ神武天皇ノ御後百王トキコユル。スデニノコリスクナク八十四代ニモナリニケル中ニ。保元ノ乱イデキテ後ノコトモ。又世継ガ物ガタリト申物ヲカキツギタル人ナシ。少少アルトカヤウケタマハレドモ。イマダエ見侍ラズ。」とあり、百王説が説得力を持っていたことがわかる。

南北朝時代には天皇が百代に達した(現在の皇統譜では、後小松天皇で百代。しかし、当時は北朝を正統としており、他にも即位を認められていなかった天皇もいるため、数え方によって数代前後する)。1402年足利義満は、坊城俊任に「百王」の端緒を問うた。俊任は吉田兼敦に「百字とはただ衆多の数のことで、百の字に数の百という意味はない」と教えてもらったという。『古事記』に「百王(もものきみ)」とあるのは確かに兼敦の解釈で正しいのだが、今谷明は、皇位簒奪を企んだ義満が、『野馬台詩』を念頭に質問したのではないかと推測している。

江戸時代に入ると、野馬台詩のパロディが作られるようになった。幕末には、鯰絵の一種である『野暮台詩』、浦賀への黒船来航を詠んた『野暮代之侍』、南部藩領で起こった日本史上最大規模の領民一揆である三閉伊一揆を詠んだ『南部一揆野馬台詩』などが作られている。『野蛮台詩』、『屁暮台詩』などもある。これらは、『野馬台詩』の伝承に則り、暗号形式で書かれていて、ある規則に従うと、正しく読めるようになっていた。

中近世の文献

室町後期の写本

江戸期の刊本

詩文

  • 全文は、早くは大永2年(1522年)の東大寺蔵『野馬台縁起』に見られ、その後、江戸時代の文献にも見られる。

東海姫氏國(東海姫氏の国) 
百世代天工(百世天工に代る) 
右司爲輔翼(右司輔翼と為り) 
衡主建元功(衡主元功を建つ) 
初興治法事(初めに治法の事を興し) 
終成祭祖宗(終に祖宗の祭りを成す) 
本枝周天壤(本枝天壌に周く) 
君臣定始終(君臣始終を定む) 
谷塡田孫走(谷填りて田孫走り) 
魚膾生羽翔(魚膾羽を生じて翔ぶ) 
葛後干戈動(葛後干戈動き) 
中微子孫昌(中微にして子孫昌なり) 
白龍游失水(白龍遊びて水を失い) 
窘急寄故城(窘急故城に寄る) 
黄鷄代人食(黄鶏人に代わりて食み) 
黑鼠喰牛腸(黒鼠牛腸を喰らう) 
丹水流盡後(丹水流れ尽きて後) 
天命在三公(天命三公に在り) 
百王流畢竭(百王の流れ畢り竭き) 
猿犬稱英雄(猿犬英雄を称す) 
星流飛野外(星流れて野外に飛び) 
鐘鼓喧國中(鐘鼓国中に喧し) 
靑丘與赤土(青丘と赤土と) 
茫茫遂爲空(茫茫として遂に空と為らん)

  • 大意

東海にある姫氏の国(日本)では 
百世にわたって天に代わり(人の治める国になった) 
左右の臣下が国政を補佐し 
宰相が功績を打ち立てた 
初めはよく法治の体制を整え 
後にはよく祖先を祀った 
天子と臣下は天地にあまねく 
君臣の秩序はよく定まった 
(しかし、)田が埋もれて貴人が逃げまどい 
なますに突然羽が生えて飛ぶ(下克上の時代になった) 
中頃に衰え、身分の低い者の子孫が栄え 
白龍は水を失い 
困り果て異民族の城に身を寄せた 
黄色い鶏が人に代わってものを食べ 
黒い鼠が牛の腸を喰らった 
王宮は衰退し 
天命は三公に移った 
百王の流れはついに尽きて 
猿や犬が英雄を称した 
流星が野外に飛び 
(戦いを告げる)鐘や鼓が国中に響いた 
大地は荒れ果て(日本と朝鮮、という解釈もある) 
果てしない世界は無に帰した

解釈

予言の例に漏れず、この詩も様々な解釈がされている。たとえば、詩の「英雄を称す」の下りは、元寇の後で、猿はムクリ(モンゴル)、犬はという解釈がされた。室町時代には、鎌倉公方足利氏満年生まれ、義満は年生まれだから、猿や犬とは二人のことであるという解釈がされた。応仁の乱の後、『応仁記』は乱で荒廃した京都の有様を、予言の成就として記録している。また、『応仁記』では、猿は山名宗全、犬は細川勝元に比定している。やはり、それぞれ申年、戌年生まれというのを根拠にしている。

近代の様相

1875年明治8年)に、『吉備大臣支那譚』と題した歌舞伎狂言が、河原座にて上演される。これは、吉備真備の入唐譚を題材とした演目で、蜘蛛が下りて来ることで、野馬台詩が解読される場面をクライマックスとしていた。更に、1931年昭和6年)には、『野馬台詩解説』なる書物が、真田鶴松という人物によって、郁芳社から出版されている。その解釈は、国粋主義的な色彩を帯びており、末句では、「茫々として空となる」のは中国であって、日本は「緑滴る瑞穂国」にして「東洋蓬莱島の青丘」として厳然と繁栄している、という解釈で結びとしている。また、小峯著書では、1949年(昭和24年)に至っても、京都大学高瀬武次郎の揮毫した野馬台詩の掛幅を、藤田義男という人物が見て記した序が存在したことが、報告されている。ここでは、「青丘赤土となる」を青山が整地されて飛行場となるさまに比定しており、「茫々として空し」は焦土となった国土そのものである、と述べ、戦中戦後の様である、と記している。

関連項目

参考文献

外部リンク

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