2023年9月18日月曜日

ユリウス・カエサル氏の商売 (1973年) (モダン・クラシックス) | ベルトルト・ブレヒト, 岩淵 達治 |本 | 通販 | Amazon


http://www.athenee.net/culturalcenter/database/title/title_r/re/rekishinojugyo.html

歴史の授業

Geschichtsunterricht 1972年(85分)

監督/ジャン=マリー・ストローブ ダニエル・ユイレ

撮影:レナート・ ベルタ

ブレヒトの未完の長編小説「ユリウス・カエサル氏の商売」の一部を再構成。カエサルの共和制ローマが資本主義の台頭と共に不公正を生み出す過程を、カエサルの同時代人たちが、現代のローマ市街を車で移動する現代の青年に対し証言する。


https://www.amazon.co.jp/ユリウス・カエサル氏の商売-1973年-モダン・クラシックス-ベルトルト・ブレヒト/dp/B000J95AU2

2022年5月4日に日本でレビュー済み
もとはと言えば塩野七生が「ローマ人の物語 第4巻 ユリウス・カエサル ルビコン以前」(1995)でこの作品について言及していたのが初見だった。刊行当時(1995)にこの塩野の「カエサル」は読み、言及されていたので「へえ、こんな本があるんだ」と思ったが、当時すでにこの本は絶版で、そもそも日本語訳があることさえ知らず、同じくローマ皇帝を扱った小説ではマルグリット・ユルスナール「ハドリアヌスの回想」は1990年代でも世評高かったのにも関わらず、なんとなく読み流してそのままにしてしまったのが悔やまれる。

 それから一世代が経過し、図書館の書庫に埋もれていた半世紀前の本をなにげなく読んでみて一驚した。この本について塩野七生は「共産主義者にしてはじつは批判精神が旺盛な」と評していたが、共産主義には点の辛い彼女のこと「これで全生涯を書いていたら筆を起こすことも出来なかった」と書くのが精一杯の賛辞だったと思う。
 ブレヒトの筆致は劇作家とか小説家とかの域を越え、史家としての深淵に達した洞察力がみなぎっていた。そして、政治の一側面を、つまり経済、商売、ビジネスがどう政治に「成り」また政治がどう「金儲け」になるかの因果関係を明解に示していた。

 この作品が歴史の事実そのままである訳はない。
 が、史料を通じて人間性の真実に迫る意味では、ブレヒトは司馬遷、ツキジデス、フラフィウス・ヨセフス、プロコピウス、エドワード・ギボン、海音寺潮五郎、山本七平、永井路子といった史家たちと優に肩を並べる存在だった。といってもそれほど難解なことではない。
 これらの諸家に共通していることは、人間の欲望を冷酷に観察し、そしてそれが人間性の実態だ、として淡々とそれを書き、ついでに言えばその人間性を面白がってユーモラスにさえ書くことである。
 それを理知的に書けばクールになり、個人の欲望に集中すればそれは世間知となってより分かりやすいエンタテイメント視点での人物造形、歴史造形となる。
 
 筆者は社会生活の中で、中国と関係を持つ業界に勤務する経験があった。
 日本は金をできれば言及しないのに対して、中国では金は利益率と値交渉が前提となり、金を社会生活の中で明快に扱うことが前提とされることと、政治において金を使って経済への便宜が図られることが無意識の前提になっている(一応は公式ではないが)ことに驚かされたが、ブレヒト描くローマはもっと豪快に経済が政治を支配する有様が描かれる。

 ・商品が国境を越えられない時は軍隊が国境を踏み破られねばなりません。
 おやおやこれは帝国主義華やかなりしころの常識ではないか、と思いきや
 
 ・彼は現地の工業界を、活動を継続させて、彼等の負債を現地の労働力を投入することで少しずつ返済していける状態においてやることができるような方法を考え出したのです。
 と、「合法的に」属州の生産力を税収として吸い上げる方法を整備し、

 ・カエサルは象牙の寝椅子などは捕獲せずに、鉱山の採掘権を獲得したのだ。神殿から神像を略奪することはしないで、彼等の収益の配当を得ているのだ。
 政治が金儲けを強制力を以て合法的に利益を上げるビジネスであり、役職を得ることは汚職の容疑を回避する(職務期間は逮捕されない)とか、そのポストで次の利権を得るための下地になるとか、政治を業としてなりわいにするカエサルが利権を求めるためのビジネスマンであり、またそれが社会に法として整備されれば、なんと後世パクス・ロマーナと呼ばれるものへと堂々たる戦果ないし成果となり、借金漬けだったカエサルは

 ・ヒスパニアから3500万セステルティウスとともに帰還しました。彼はもはや同じ人物ではなかったのです。

 ・・・・もともと共産主義は経済理論として始まったことを今更思い出した(それにしては20世紀の東側諸国は経済的に苦境に陥ったのは理論通りにはいかないねえ…苦笑)、

 この視点は全編を貫いており、
 ・財界人キケロはマケドニア宮廷に融資し、政治家としての将軍キケロはその金を賠償金として受け取り、支払い不能分を負債として宮廷に残した

 反面、
 ・凱旋式は職人たちにとって収入の手段になる
 ・外国人が流入した結果、地所が外国人の所有になっている。世界を征服した結果がこれである
 ・奴隷が連れていかれるのを下層民が暗い目で見ていた。その分彼らの職が奴隷たちによって奪われることを察知していた。
 世界帝国ローマが、その本国で市民が奴隷と価格競争させられていたとか
 「ポンペイウスは外国ではなく、ローマを征服したのさ」などと語らせるように、ローマ内部の「階級闘争」(共産主義風)ないし「格差拡大」(ネオリベラリズム風)に着目するなど、一見共産主義的でありながら、一時期の思想を越えた古今東西に共通する経済、社会、人間性の深淵をえぐり出し、現代(2020年代)でも社会は違っているのに別の共通性を獲得していた。

 そして、なにより重大なことは、単純に面白かった。
 ・スピケルがこのように文学的な事を言うのは絶望しているからだ
 ・池の鯉を眺めていると、その鯉の赤い斑点が差し押さえの赤札のように見えてくるのだった。

 と噴き出すようなユーモアがあり、塩野七生の描くカエサルがどことなく抽象的なのと比べると、より寸鉄人を刺す冷徹さをユーモアで描く凄味があった。
 ベルトルト・ブレヒトを読むのは(演劇ファンではないので)初めてである。なので劇作の「三文オペラ」等は一切読んでいない。だがこれらの作品にもいわゆる「異化」を施されているなら、おそらくそれらは主義だとか信条とか宗教とかを越えて猛烈な視点を浴びせていることは想像に難くない。
 筆者の今まで読んできた本の中でもベスト100に入ると思う。
 読んで震撼した。(どっか復刊してくれないかなあ…)

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