きのへ
気延?
高市皇子が死んだとき、持統天皇は群臣の手前、さすがに皇子の功績の重さを無視できなかったのだろう。人麻呂に命じて挽歌を作らせた。
―高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き
明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を
畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります
やすみしし 我が王の きこしめす 背面(そとも)の国の
真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見(わざみ)が原の
行宮(かりみや)に 天降(あも)り座して 天の下 治めたまひ
食(を)す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の
御軍士(みいくさ)を 召したまひて 千磐(ちは)破る 人を和(やは)せと
奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(ま)きたまへば
大御身(おほみみ)に 大刀取り帯ばし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし
御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓の音は
雷の 声と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も
敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに
差上(ささ)げたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば
野ごとに つきてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく
取り持たる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に
旋風(つむし)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く
引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来(きた)れ
奉(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消ぬべく
去(ゆ)く鳥の 争ふはしに 度會(わたらひ)の 斎(いは)ひの宮ゆ
神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず
常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
神ながら 太敷き座(いま)す やすみしし 我が大王の
天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと
木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を
神宮に 装ひ奉(まつ)りて 遣はしし 御門の人も
白布(しろたへ)の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に
あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ
ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ
鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひかねて
春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに
憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済の原ゆ
神葬(かむはふ)り 葬り行(いま)して あさもよし 城上の宮を
常宮(とこみや)と 定め奉(まつ)りて 神ながら 鎮まり座(ま)しぬ
しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして
作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思(も)へや
天(あめ)のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども
短歌二首
久かたの天知らしぬる君故に日月も知らに恋ひわたるかも
埴安の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方を知らに舎人は惑ふ
一篇は、天武天皇による壬申の乱から説き始め、戦いの場面が描かれる。その戦いの中での高市皇子の活躍は、「大御身に 大刀取り帯ばし 大御手 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ」と歌われている。だが、その戦いの栄光も色あせるように、場面はすぐに皇子の死に移る。「遣はしし 御門の人も 白布の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ」とは、持統天皇による葬儀に、官人たちがいそいそと従っている様子を描いているようにも思われる。
この歌は、古来挽歌のうちでも様々な憶測を呼んできたものであるが、筆者などは、持統天皇のお抱え歌人としての人麻呂が、あくまで天皇の意思を体現して詠んだ歌のように聞こえるのである。
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柿本人麻呂の儀礼的挽歌(万葉集を読む)
万葉集巻二「挽歌」の部には、柿本人麻呂の挽歌数編が収められている。そのうち、皇族の死を悼んで作られたものが四篇あるが、それらは、宮廷歌人としての人麻呂が、宮廷儀礼のために、命じられて作ったものと思われる。人麻呂のほかの挽歌に比べると、格調が高く、荘重な雰囲気に満ちている。
ここでは、それらのうちの三篇をとりあげ、柿本人麻呂の儀礼的挽歌のもった意味合いについて考えてみよう。
最初は、草壁皇子の殯宮に際して読んだ歌である。持統天皇は、夫天武の死後、並み居る天武の皇子たちの中から、我が子草壁に皇位を継がせるべく、周到な準備をしていた。天武の殯宮を二年余りの異例の長期にわたって営んだのも、その現れであると思える。ところが、その最愛の子草壁皇子が皇位を継ぐ前に死んでしまった。その悲しみはいかばかりであったか。
人麻呂は、持統天皇の悲しみを代弁する形で、この歌を詠んだものと思われるのである。
―日並皇子(ひなみのみこ)の尊の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
天地(あめつち)の 初めの時し 久かたの 天河原(あまのがはら)に
八百万(やほよろづ) 千万神の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して
神分(かむあが)ち 分(あが)ちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命
天(あめ)をば 知ろしめすと 葦原の 瑞穂の国を
天地の 寄り合ひの極み 知ろしめす 神の命と
天雲の 八重掻き別(わ)けて 神下(かむくだ)り 座(いま)せまつりし
高光る 日の皇子は 飛鳥の 清御(きよみ)の宮に
神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と
天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむのぼ)り 上り座(いま)しぬ
我が王(おほきみ) 皇子の命の 天(あめ)の下 知ろしめしせば
春花の 貴からむと 望月の 満(たた)はしけむと
天の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ頼みて
天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか
由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し
御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさず
日月 数多(まね)くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも
反歌二首
久かたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠らく惜しも
人麻呂は、天地の初めに遡って、皇統の連続の中に草壁皇子を位置づける。「天地の 初めの時し 久かたの 天河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひ座して」とあるのは、記紀が記す日本神話の伝えとは聊か異なっている。北山茂夫は、古事記が成立する以前のこの時代にあって、人麻呂はおそらく、自らの家に伝わる旧辞をもとに、このような表現をしたのではないかといっている。
「高光る 日の皇子は 飛鳥の 清御の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇)の 敷きます国と」とあるのは、天武天皇へ言及したものである。しかして、「天の下 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに」と続ける。これは、天下万人が草壁皇子を、新しい天皇として待ち望んでいたということを、ことさらに強調した部分であるといえる。
このように、人麻呂は、神話の連続性の中に草壁とその死を位置づけることによって、草壁に特別の意味合いを持たせたのであった。これは、持統天皇の願いそのものでもあったことだろう。草壁の死後、妃阿閉皇女(元明天皇)、日高皇女(元正天皇)、軽皇子(文武天皇)が残された。これらの人々は、いづれ持統天皇の意思に従うように、それぞれ皇位につくこととなる。
次に、高市皇子の死を悼んだ歌をあげよう。高市皇子は天武天皇の第一皇子である。母は、胸形尼子娘。壬申の乱に際しては、父の右腕となって戦いを指導した。だから、天武の後を継いでしかるべき皇子であったのだが、持統天皇はこの皇子を太政大臣としたのみで、皇位につけることには反対した。彼女には、草壁という最愛の息子と孫たちがいたからである。
高市皇子が死んだとき、持統天皇は群臣の手前、さすがに皇子の功績の重さを無視できなかったのだろう。人麻呂に命じて挽歌を作らせた。
―高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き
明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を
畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります
やすみしし 我が王の きこしめす 背面(そとも)の国の
真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見(わざみ)が原の
行宮(かりみや)に 天降(あも)り座して 天の下 治めたまひ
食(を)す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の
御軍士(みいくさ)を 召したまひて 千磐(ちは)破る 人を和(やは)せと
奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(ま)きたまへば
大御身(おほみみ)に 大刀取り帯ばし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし
御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓の音は
雷の 声と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も
敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに
差上(ささ)げたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば
野ごとに つきてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく
取り持たる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に
旋風(つむし)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く
引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来(きた)れ
奉(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消ぬべく
去(ゆ)く鳥の 争ふはしに 度會(わたらひ)の 斎(いは)ひの宮ゆ
神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず
常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
神ながら 太敷き座(いま)す やすみしし 我が大王の
天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと
木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を
神宮に 装ひ奉(まつ)りて 遣はしし 御門の人も
白布(しろたへ)の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に
あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ
ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ
鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひかねて
春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに
憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済の原ゆ
神葬(かむはふ)り 葬り行(いま)して あさもよし 城上の宮を
常宮(とこみや)と 定め奉(まつ)りて 神ながら 鎮まり座(ま)しぬ
しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして
作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思(も)へや
天(あめ)のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども
短歌二首
久かたの天知らしぬる君故に日月も知らに恋ひわたるかも
埴安の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方を知らに舎人は惑ふ
一篇は、天武天皇による壬申の乱から説き始め、戦いの場面が描かれる。その戦いの中での高市皇子の活躍は、「大御身に 大刀取り帯ばし 大御手 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ」と歌われている。だが、その戦いの栄光も色あせるように、場面はすぐに皇子の死に移る。「遣はしし 御門の人も 白布の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ」とは、持統天皇による葬儀に、官人たちがいそいそと従っている様子を描いているようにも思われる。
この歌は、古来挽歌のうちでも様々な憶測を呼んできたものであるが、筆者などは、持統天皇のお抱え歌人としての人麻呂が、あくまで天皇の意思を体現して詠んだ歌のように聞こえるのである。
第二巻にある人麻呂の儀礼的挽歌のうち、川島皇子の死を悼んだ歌は、前二者とはいささか趣を異にしているように思える。
―川島皇子の殯宮の時、柿本朝臣人麿が泊瀬部皇女に献れる歌一首、また短歌
飛ぶ鳥の 明日香の川の
上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触(ふ)らふ
玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし 夫(つま)の命の
たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを 剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝ねば
ぬば玉の 夜床(よとこ)も荒るらむ そこ故に 慰めかねて
けだしくも 逢ふやと思ほして 玉垂(たまたれ)の 越智の大野の
朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣は濡れて
草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故
反歌一首
敷布(しきたへ)の袖交へし君玉垂の越智野に過ぎぬまたも逢はめやも
川島皇子は天智天皇の第二皇子。その妃泊瀬部皇女は天武天皇の皇女である。川島皇子は天武系にとっては傍系であるが、大津皇子の謀反を持統天皇に知らせたことなどにより、持統天皇の信頼は篤かったたという。
人麻呂は、皇子と泊瀬部皇女との深い情愛を、「玉藻なす か寄りかく寄り」といった表現で描いている。また、反歌にある「袖交へし君」とは、袖を交わしてともに寝たという意味に取れる。敢えてこのような表現を用いることで、人麻呂は、泊瀬部皇女の心の嘆きに、現実の形を付そうとしてのではないか。
こうしてみると、この歌は、儀礼的な挽歌ではあるにせよ、人麻呂が泊瀬部皇女に抱いていたらしい親愛の情が、作らせたものだとも思われるのである。
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