2023年9月28日木曜日

日本の歴史を解明します 柿本人麻呂について

日本の歴史を解明します 柿本人麻呂について

柿本人麻呂について

柿本人麻呂、言わずもがな万葉集における最大の謎です。
後世の歌人に多大なる影響を及ぼした人物で歌聖と呼ばれるものの、生没年不明ではっきりいって、何一つ断定できていないのが実情でしょう。

阿波の古代史研究家の大杉氏によると、人麻呂は天皇の出自が阿波であることを隠す政策に反対したため、最後は不遇の死をとげたということです。

人麻呂の辞世の歌は、
原文
 鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
訓読
 鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
通釈
 鴨山の岩を枕にして死んでゆく私のことを知らずに、妻は私の帰りをずっと待っているのだろうか

題詩に
 柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首

とあるので、石見(島根県)の鴨山にて最後を遂げたとのことです。
しかし、島根で鴨山の地が定まっていないみたいです。

wikiより(引用はじめ)
その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。 その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は河砂の堆積により消滅し、現在は日立金属安来工場の敷地内にあるとされ、正確な位置は不明になっている。また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作の中で反論の的になっている[15]。
(引用終わり)

益田市沖合にあったとされる鴨島が津波で水没したとのことですが、津波で島が水没するなんて絶対にありえないですよね。でもなぜ、鴨山と書いているのに鴨島を探すのでしょうか。そこには伝承があるみたいですね。

まあ、その伝承の真偽はおいといて、

題詞は万葉集の編集者か又は後世に付けたされたものであるので、必ずしも正しいとはいえないと思います。
では鴨島という地名が残っているのは、weiblioによると、

新潟県両津市の沖にある無人島
北海道色丹郡色丹村
長崎県福江市の沖にある無人島
新潟県上越市
富山県小矢部市
徳島県(JR徳島線)

はい、人麻呂は阿波人というのが、阿波の古代史研究家が主張するところです。
(徳島県の鴨島あたりは昔は堤防がなかったので島が点在していた土地でその他に牛の島とかがあります)

少し話はそれますが、徳島県美馬(ミマ市に"大國魂神社"というものがあります。式内社にて倭がつく大國魂神社はここにしかないみたいです。故に大杉氏等は、倭国の都は美馬市にあったと主張しています。同様の大和坐大国魂神社は奈良県にあるのですが、これは倭(阿波)→大倭(大和)への遷都によるものだと主張しています。(ちなみに日本書紀によると倭大国魂神を創建したのは崇神天皇で別名をミマキイリヒコ。美馬にいる天皇ってこと。)

話を戻します。
人麻呂の歌(3-255)に、
原文 
 天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見 [一本云 家門當見由]
訓読
 天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ [一本云 家のあたり見ゆ]
通釈
 田舎の長い道を通って焦がれつつやって来ると、明石の海峡から大和の陸地が見える。

倭=大和、嶋=陸地 と超絶な訳をしています(笑)。倭=大和はまだしも、嶋=陸地なんて相当な超絶訳です。
この歌は人麻呂が旅にでかけその帰路にて歌ったものなのです。
ではその旅路にて歌ったもので
(3-253)
原文
 稲日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見 [一云 湖見]
訓読
 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ [一云 水門見ゆ]
通釈
 稲日野も行き過ぎ難く思っていたところ、心惹かれる加古の島が見える。

(3-254)
原文
留火之 明大門尓 入日哉 榜将別 家當不見
訓読
燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
通釈
明石の海峡に船が入って行く日には、故郷から漕ぎ別れてしまうのだろうか、もう家族の住む大和の方を見ることもなく。

253の歌にある嶋は島と訳しているのに倭嶋となると陸地になっていますね。
明石の海岸にたって見える倭が島であってはいけないから、嶋=陸地とするしかなかったのでしょう。
また話が少し脱線しますが、この前NHKのBSで伊能忠敬の特集をしていました。そのコメンテータが、"日本人は初めて忠敬の地図により客観的な意識が芽生えた"みたいな発言をしていました。とすると、人麻呂の時代には地図がないので現代人の様な国土を客観的に把握する意識はなかったと思われます。
つまり主観的なんです。本州に住んでいる人からすると四国は島になるのでしょうが、我々からすると島に住んでいる意識なんて全くないのですが、明石海峡を渡って四国を見ると、あ、俺って島に住んでいるんや(笑)って思うのです。島の定義は、国連海洋法条約第121条では、①自然に形成された陸地であること②水に囲まれていること、③高潮時に水没しないことの3つの条件を満たすものを「島」と定義しているそうです(wikiより)。地図がなかった時の話ですから、明石と陸続きの奈良を倭嶋と表現するのはおかしいのです。明石と倭嶋は、水で隔てられてなければならないのです。

253→254→255と帰路を順番に歌ったものと思うのですが、この歌を読んでみると254と255の順番が逆なように思います。なぜなら、255では"鄙の長道ゆ恋ひ来れば"と言ってるだけで、乗船したとは言ってません。253で加古川市あたりにいるのですから、そこから田舎の長い道を歩いて明石まできましたといってるのです(255)。そして、明石から船に乗船して明石海峡に入って行ったときの歌が254ではないでしょうか。
ここでgoogleの地図を見てほしいのですが、明石市(255)からは四国(倭嶋)が真南に見えるのですが、明石海峡に入ると(254)、淡路島が陰になって四国(人麻呂の実家)が見えなくなるのがわかるかと思います。254では"家當不見"を"家のあたり見ず"としていますが、家のあたりが見えないとも訳せると思います。
ここで四国に帰るのになぜ淡路島の東を通るのかなという疑問があったのですが、これも徳島(阿波)に帰ると考えると、簡単に解決しました。それは、淡路島の西側から徳島を目指すと鳴門海峡を通る必要があるのです。鳴門海峡を小舟で渡りきるのは至難の業なので、少し遠回りでも、通りやすい明石海峡を通る方を選んだのでしょう。

万葉集の解釈には、素人に見てもそれはないだろうというのが、あと数個知っています。
これを徳島の特定の場所にあてはめるとすっきりするのですが、また、解説したいと思います。
倭国(阿波)→大和(奈良)に遷都したことについて、最も有力と思う証拠について説明します。

それは天皇が行う祭司の中で最も重要な"践祚大嘗祭"です。
践祚大嘗祭とは、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。一代一度限りの大祭であり、実質的に践祚の儀式。践祚大嘗祭ともいい、「おおなめのまつり」「だいじょうさい」「おおむべのまつり」とも呼ぶ。とのことです。
(wikiより抜粋)

延喜式(927年)にその内容が詳細に書かれているそうです。原文はネットで見つからなかったのですが、天皇が即位して最初に天照神、天津神、国津神にお供えをし、天皇自らも供食し、沐浴して寝るという一生一代の大イベントです。まあ簡単に言うと、食って寝るだけなんですが、これにより天皇が、天照神、天津神、国津神の穀霊力を引き継ぐことができるとのことですのでまさにこれにより、天皇が神様になることができるといっても過言ではないと思います。

この超重要な祭りで、天照神にお供えする麁服(あらたえ)は、今でも忌部の末裔の三木氏が貢進しています。

また、延喜式巻八の大嘗祭の枕詞にはっきりと、「・・・天の御食、長の御食、遠つ御食・・・」とあり、天の御食は忌部が貢進し、長の御食は、徳島県那賀郡の潜女(多分、海女さんかな)、遠つ御食は、阿波と同族の淡路、紀州より、貢進するとなっているそうです。

なぜ、大嘗祭において、四国の田舎の阿波がここまで独占することができたのでしょうか。
普通に考えると大嘗祭は、古来より阿波で行われてきた天皇の祭りごとであったからと考えるのが妥当ではないでしょうか。天照も大国主も全て阿波に祭られていた神様であるから当然にお供え物は阿波でとれる食物となうのでしょう。倭→大和へとハードは変えても、天皇(神事)というソフトは変えることができなかったのす。

ではその遷都の時期ですが、一番過激なものでは平城京遷都の710年ころではないかというものがあります。

とすると、日本史最大のスーパースターの聖徳太子も阿波にいたということになりますね。

さすがにそれは、、、でも理屈からするとそうなっちゃうんだなー(笑)

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