2023年9月17日日曜日

旅 846 八倉比売神社: ハッシー27のブログ

旅 846 八倉比売神社: ハッシー27のブログ

17:00

現地説明板より
『 天石門別八倉比売神社略記
式内 正一位 八倉比売神宮
御祭神 大日孁女命(別名天照大神) 
御神格 
 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
 仁明天皇の承和8年(841)8月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観13 年(871)2月26日に従四位上と次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦 2年(1185)3月3日正一位となる。 
御神紋 抱き柏 
 当社は鎮座される杉尾山(すぎのおやま)自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
 奥の院は海抜116m、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
 杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(山頂海抜212m)一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
 当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
 銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示していた。
 古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、余りにも知られていない。
 当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
 鎮座の年代は、詳かではないが、安永2年3月(1773)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、4世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永2年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。

 矢野神山 奉納古歌
妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも 柿本人麿(萬葉集収録)

 当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
 古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。
 天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然ではない。
 なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(1736~1741)まで 十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
 当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。延久2年(1070)6月28日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。 』

旅 846 八倉比売神社

2016年 10月21日

 童学寺の後、八倉姫神社と阿波国分寺へ行ったが、先に八倉比売神社をまとめる。

 周辺には2つの八倉姫神社がある。
 名西郡石井町石井前山にある八倉姫神社と徳島市国府町矢野宮谷にある天石門別八倉比売神社である。

八倉姫神社 (名西郡石井町前山)

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 場所が分からず、近くまで行ってから地元の人に訊いて辿り着いた。
 神社の上がり口に、「八倉姫神社古墳群」とあった。
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 「阿波の青石」を使った箱式石棺がいくつか出たらしい。前山は、気延山から西へと続く山稜であり、気延山周辺には数百基の古墳が存在するというので、珍しいことではないようだ。

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 祭神は八倉姫命で社殿は瓦葺きであった。境内は狭いが境内社も祀られていた。境内社の祭神は分からないが、一つは狐があったので稲荷神のようだ。
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 境内から北側の眺めはよい。田畑の先に住宅群が見え、遠くには香川県との境となる山が連なる。住宅群で見えないが、その先には吉野川が流れている。
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 拝殿には教祖とおぼしき女性の写真が掲げられていた。
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 石井町史に「昭和6年古墳発掘時に開祖者が神懸となり社殿を建立した。」とあるそうだ。写真の女性に降りた神が"八倉姫"ということなのであろう。
 昭和6年以降の新しい神社であり、開祖者はどのような神託を下し、信者はいたのであろうか。

 なぜ当社の祭神が"八倉姫"なのであろう。神憑りした開祖者の女性が自分に降りた神を八倉姫と言ったのであろうが、それは「天石門別八倉比売神社」の社名から採ったものなのではないだろうか。

 当社の後、阿波国分寺を挟んで天石門別八倉比売神社へ行ったのだが、天石門別八倉比売神社は式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つで、旧社格は県社である。
 天石門別八倉比売神社の祭神は、八倉比売命とも大日孁貴(おおひるめむち)ともされ、天照大神の別名であるとされる。
 天石門別八倉比売神社は、寛保年間(1741~1743)には「杉尾大明神」と称し、現社名に改めたのは明治3年(1870)だというから、あくまでも式内大社「天石門別八倉比売神社」の論社の1つである。因みに他の論社は上一宮大粟神社と一宮神社とされる。

 朝廷の祭祀者でもあった忌部氏は神話に登場する多くの神を祀っていたようだが、その中に八倉比売命の名で天照大神を祀っていたようなのだ。
 現在の阿波国一宮は大麻比古神社で、これは動かないようである。


 拝殿の後ろには本殿と住居があり、最近まで人が住んでいたようだが、今は常住しているかは分からない。おそらく開祖者である教祖は亡くなったのであろう。その後この神社がどのような信仰を保っているのか分からない。
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天石門別八倉比売神社(1) (徳島市国府町矢野宮谷)

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 この旧県社の八倉比売神社は式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つとされ、 鎮座する杉尾山自体を神体とするというが本殿はある。
 江戸時代には阿波国を治めた蜂須賀氏が当社を崇敬したというが、その頃の社名は杉尾大明神と称していた。明治3年(1870)に旧社名に復するということで現社名に改めたが、あくまでも式内社「天石門別八倉比売神社」の論社の1つにすぎない。
 天石門別八倉比売神社は地元では今でも「杉尾さん」と親しみを込めて呼ばれるそうだが、徳島県には杉尾神社が20社ほどある。
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 気延山の東麓は阿波史跡公園となっており、竪穴式住居などが復元展示されていて、周辺には古墳も多い。天石門別八倉比売神社も古墳の上に建つという。

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 天石門別八倉比売神社へは、阿波史跡公園を右に見て、林の中の長い石段を上がっていく。
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 白木の鳥居の扁額には「天石門別」と「八倉比売神社」が左右に書かれ、その下に「神社」と書かれていたので、天石門別神社と八倉比売神社の2つの神社が合わさっているという意味なのだろうか? それとも長い社名なので2行に書いただけなのだろうか。
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 現社殿は、江戸期に矢野出身の藍商、盛六郎右衛門が寄進したものと伝えられている。
 本殿は神明造であった。
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現地説明板より
『 天石門別八倉比売神社略記
式内 正一位 八倉比売神宮
御祭神 大日孁女命(別名天照大神)
御神格 
 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
 仁明天皇の承和8年(841)8月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観13 年(871)2月26日に従四位上と次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦 2年(1185)3月3日正一位となる。
御神紋 抱き柏
 当社は鎮座される杉尾山(すぎのおやま)自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
 奥の院は海抜116m、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
 杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(山頂海抜212m)一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
 当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
 銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示していた。
 古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、余りにも知られていない。
 当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
 鎮座の年代は、詳かではないが、安永2年3月(1773)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、4世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永2年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。

 矢野神山 奉納古歌
妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも 柿本人麿(萬葉集収録)

 当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
 古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。
 天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然ではない。
 なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(1736~1741)まで 十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
 当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。延久2年(1070)6月28日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。 』


 現地説明板に、『延喜式に記録された式内名神大社である。』とあるが、正しくは「名神大社」ではなく「大社」である。
 阿波国に式内社は50座ほどあるが、なかでも格式の高い「大社」は3社あり、それは天石門別八倉比売神社、忌部神社大麻比古神社だとされる。 

 現地説明板の、『鎮座の年代は、詳かではないが、安永2年3月(1773)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、4世紀初の古墳発生期にあたる。』という文はどういう意味なのであろう?
 1773年において2105年前と云えば、1773-2105=-332 となり紀元前4世紀の弥生時代(紀元前10世紀~紀元後3世紀中頃)になってしまう。
 BC4世紀をAD4世紀と書き古墳時代とするのは、誤認も甚だしい。
 また、私の認識では折口信夫は柳田国男と同様に民俗学者であり古代学者と書かれることに違和感を感じる。


 現地説明板の、"当八倉比賣大神御本記の古文書"とは『天石門別八倉比賣大神御本記』のことだとされ、当社に保管されているようだが公開されていないようだ。ただ、『神道大系 神社編42 阿波・讃岐・伊豫・土佐國』に収録されている『阿波国杉之小山之記』で全文引用されていて確認することができるそうだ。 

 『阿波国杉之小山之記』を書いたのは千家俊信(せんげとしざね)さんで、千家俊信さんは平仮名交り書き下し文の『天石門別八倉比賣大神御本記』を現在見られる形に改めて書き写したようだ。
 千家俊信さんは第七十六代出雲国造千家俊秀の弟で、本居宣長の高弟だという。国学者であり神職でもあることから当社の『天石門別八倉比賣大神御本記』を書き写すことができたようだ。

 現地説明板に、『本殿には出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、……』とある"出雲宿祢千家某"とは千家俊信のことのようだ。

 説明文の問題箇所である「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の部分は、『阿波国杉之小山之記』では、
「而後経二千百五年而到小治田御宇元年龝八月太神毛原美曽持爾託曰久……」
となっていて、気延山に鎮座してから2105年で、杉尾山に遷座した年は小治田御宇元年の秋八月であることがわかる。

 小治田宮(おはりだのみや)は、飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿である。日本書紀によると603年(推古11年)、豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古女帝は新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。
 従って小治田御宇元年とは603年ということになる。そうすると、603-2105=-1412となり、気延山に鎮座したのはBC15世紀になり縄文時代となってしまう。

 この記述から一般的に『天石門別八倉比賣大神御本記』は偽書とされるが、その内容は地名の由来を繰り返し述べるなど風土記の要素が強いもので、何らかの伝承を参考にしたのではないかともいわれる。特に阿波独自の創世神話が書かれていて、神話は記紀にあるものだけではないことを表している例ともなっている。
 なお、現地説明板では『八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。』とあるが、原文では「嘘楽」が「唬樂」(えらきあそぶ)となっているそうだ。

 現地説明板で、祭神の大日孁女命(おおひるめのみこと)の別名を天照大神としているのも、『天石門別八倉比賣大神御本記』に記されているのだという。
 ということは、阿波では大日孁女命=天照大神=八倉比売ということになるのだろうか?

 因みに式内社「天石門別八倉比売神社」の他の論社とされる上一宮大粟神社(名西郡神山町神領)の祭神は大宜都比売命、一宮神社(徳島県徳島市一宮町)の祭神は大宜都比売命、天石門別八倉比売命である。この両社は、この後に訪れる予定にしている。

 伊勢では内宮のアマテラスに対して外宮の豊受大神は御饌都神(みけつかみ)とされるが、阿波では八倉比売命の御饌都神が大宜都比売命ということになるのだろうか。

 ところで、天石門別八倉比売神社の祭神をその社名から天石門別命と八倉比売命の2柱とする説がある。

 天石門別神は、天孫降臨に随伴する神々の一柱で、天照大神が隠れた天岩戸神話にも登場する。櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)の別名をもち、天太玉命の子にあたる。天太玉命は忌部氏の祖でもある。 
 『安房斎部系図』に、「天背男命の后神が八倉比売神で、その子が天日鷲翔矢命」とある。天日鷲翔矢命は天日鷲命のことで阿波忌部の祖とされる神である。
 また、天背男命とは「天香香背男(あめのかがせお)」のことではないだろうか。
 茨城県日立市の大甕倭文神社の社伝では、甕星香々背男(天津甕星・天香香背男)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。

 しかし、延喜式神名帳では二柱の神を祀る神社であれば、「二座」と書くが、そう書かれていないので、祭神は一柱で八倉比賣であり、天石門別は八倉比賣にかかる形容詞であるとも考えられる。そうすると、「天石門(あまのいわと)を別けて出てきた八倉比賣」ということになる。八倉比賣=天照大神=大日孁女命となる所以である。


 私は、現地説明板に次のようにあることに注目する。

『 銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示していた。
 古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、余りにも知られていない。 』

どうも八倉比売は水の女神でもあるようだ。

 天石門別を冠する神社で私が訪問したことがある神社は、岡山県美作市滝宮にある天石門別神社(別名滝の宮)である。この神社の祭神は天手力男神であったが、私は水の女神(瀬織津姫)が祀られていると見た。
 あるいは八倉比賣とは当社の近くを流れる鮎喰川(あくいがわ)の水神かもしれない。そして八百万神の「八」のように八倉比賣の「八」も"数が多い"ことを表すのなら八倉は"多くの倉"を表し穀物神である大宜都比売にも繋がる神なのかもしれない。粟や稲づくりには水が必要となる。
 また当社の周辺には古墳が多い。当社も古墳の上に建っている。古墳を高座(たかくら)とみると、八倉の「倉」は「座(くら)」に通じ、八倉比売は多くの古墳の主を統べる女王とみることもできる。



 天石門別八倉比売神社の拝殿前の石畳や石段には阿波特産の青石(緑泥片岩)がふんだんに使われていた。
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 社殿に向かって右側にある狭い石段を上っていくと奥の院へ着く。
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 奥の院には主祭神の神霊が座す青石(緑泥片岩)の石組みの祭壇がある。高さは約50cm、一辺が2.5mの正五角形をしている。角度を変えて写真を撮ると五角形であることがよく分かる。
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 この五角形の祭壇が、阿波の神社でよく見られる5角柱の"地神塔"のルーツだとされる。地神塔については、天村雲神社のブログで記した。

 この祭壇は前方後円墳の上にあり、祭壇がある場所が後円部で、社殿が建っている場所が前方部だとされる。この古墳は測量はされているが未発掘だとう。江戸時代までは、この一帯から大量の丹が土にしみ出していたという。
 古墳の石室内部が赤く塗られているはよく見ることで、魔除けだとされる。私の故郷にある森将軍塚古墳の石室の壁面もベンガラ(酸化第二鉄)と呼ばれ赤い顔料で真っ赤に塗られていた。
 阿南市の若杉山遺跡は古い水銀朱鉱山の跡だといわれ、『魏志倭人伝』にも「朱」を用いる習憤についての記述がある。

 この古墳が卑弥呼の墓であるという説がある。その根拠はこの地域一帯の考古学資料に求められるという。

 当社周辺は「阿波史跡公園」として整備されており、園内には三角縁神獣鏡が完全な形で発見された宮谷古墳や八倉比売神社1号・2号墳、奥谷古墳など、約200基が点在し、県下最大の古墳群を形成している。
 出土した三角縁神獣鏡は京都府八幡市から出土したものと同じ鋳型から作られているそうだ。

 前鎮座地の気延山は矢野神山とも云い、神聖なお山と仰がれてきた。当社の東南1.4kmの地点にある矢野遺跡から、高さ98cm、重さ17.5kgの突線袈裟欅文銅鐸が出土し、「矢野銅鐸」(国重要文化財)と呼ばれている。
 県内からは40余りの銅鐸が発見されているが、その中でも最大で弥生時代後期に作られたものとされる。

 銅鐸も出土し、三角縁神獣鏡も出土していることから、この地域は弥生時代から古墳時代にかけて連続して栄えており、故に奈良時代には国府も設置された。阿波の中心地の一つであったことは間違いない。しかし、卑弥呼の墓となると話は別である。

 『魏志倭人伝』からは卑弥呼の没年は247年、あるいは248年と考えられるが、八倉比売古墳群の築造年代は4世紀後半より遡ることはないと見られているので、そこには100年以上の隔たりがある。
 また、実在したと考えられる卑弥呼と神話のアマテラスを一緒にするのもナンセンスである。


 五角形の祭壇の上には青石の祠があった。後ろから写真を撮れば、阿波青石(緑泥片岩)がよく分かる。
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 よく交通信号の3色を、青・赤・黄というが、この青は緑であった。最近は青信号の色が阿波青石のような色に変わってきたが、私の子どもの頃は完全に緑であった。

 阿波青石を緑泥片岩というが、日本人は青と緑の判別を明確にしないことがある。しかし、私はこの青とは元々はエメラルドグリーンのような色を云ったのではないかと考える。
 山口県の日本海側を走っていたとき見た海の色はエメラルドグリーンであったし、私の故郷の犀川の色もエメラルドグリーンに見えることがある。また、泉の色がエメラルドグリーンであるのを見たこともある。たぶん底が白い場合にエメラルドグリーンに見えることがあるのだろう。今回の旅でも大麻比古神社の「心願の鏡池」の色が阿波青石のような色であった。阿波には板碑が多いが、その素材も緑泥片岩である。


 現地説明板に、『青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。』とあったが、その「つるぎ石」は男根のように見えた。おそらく"永遠の生命を象徴する"とあることから古代の生殖器崇拝の遺物であろう。
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 青石の祠は古くは見えなかったが、この砂岩の男根は古い物のように見えた。

 全国の至る所で陰陽石や石や木でできた男性器や女性器を見る。宮崎県小林市で見た陰陽石は大きく、自然の造形の妙に感心した。

 生殖器崇拝は縄文時代から続く基本的な信仰の一つなのであろう。
 生殖器崇拝は、「多産」「豊穣」「創造」「魔除」などの願望から発し、世界共通な信仰の一つだという。
 西洋からキリスト教的貞節の概念が入ってきてから日本でもSexや性器は淫靡なものとなり秘め事となったが、古代においてはそれらは神聖なものだったようだ。その精力は「力の源」とされ尊ばれた。

 当社に来る前に寄った童学寺のブログで歓喜天のことを書いたのに続き、弘法大師空海がらみで、仏教の真言(マントラ)などに見える性のエネルギーついて考えてみる。

 歓喜天はガネーシャ(象頭財神)に起源があるようで、仏教がインドで生まれたのと関係して、仏教の中に多くのインド由来の仏像がある。大黒天、弁才天、毘沙門天、歓喜天、吉祥天、吒枳尼天(だきにてん)、軍荼利明王、帝釈天、阿修羅、鬼子母神などはインド由来の仏像である。仏教の中には多くのインド由来の神がいるし、インド由来の修法や思想がある。

 インド発祥の"タントラ"は、「性力」を「力の源」「生命力」「創造のエネルギー(創造力)」として捉えている思想である。「性力」をコントロールすることによって悟りの境地に至るという思想でもあるが、理解が浅いと快楽だけのために誤用されることも多いという。
 タントラは最も動物的なエネルギーを基本とする原始的な信仰から発しているようで、それを昇華させるためには厳しい修行が必要なようだ。

 次の写真はインドにあるタントラの壁像であるが、私などは理解が浅いので誤解を避けられない。
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 タントラの思想はインドの宗教をはじめ、仏教から密教に派生し、後に中国の道教に影響を与えるなど、多様に形を変えてアジア全体に広まったとされている。今では一般的に「ヨーガ」として知られている。

 ヨーガは、古代インド発祥の伝統的な宗教的行法で、心身を鍛錬によって制御し、精神を統一して古代インドの人生究極の目標である輪廻転生からの「解脱(モークシャ)」に至ろうとするものである。ヨガとも表記される。漢訳は瑜伽(ゆが)である。

 修行者は男性であった。インドはカースト制度があり差別社会である。かつては女性に対する偏見も激しかった。ヨーガの修行者が男性だけだったのは女性は輪廻転生できないとされたからである。
 『マヌ法典』では、女性はどのヴァルナ(身分)であっても、輪廻転生するドヴィジャ(二度生まれる者、再生族)ではなく、一度生まれるだけのエーカージャ(一生族)とされていたシュードラ(隷民)と同等視され、女性は再生族である夫と食事を共にすることはなく、祭祀を主催したり、マントラを唱えることも禁止されていた。

 タントリズムの性的ヨーガにおいて男性行者の相手となった女性はヨーギニーと呼ばれた。
 上の写真の3人の女性は、男性行者の相手となったヨーギニーということである。

 インド研究家の伊藤武によると、ヨーギニーという言葉は本来、単なる女性ヨーガ行者というよりも、尸林(シュマシャーナ、シャーマン)で土俗信仰の女神を祀り特異な儀礼にたずさわった巫女たちを指す言葉で、魔女の意味合いを帯びるようになった。その多くは被差別カーストの出身であった。母系制社会を形成していた彼女たちは、中世インドの後期密教の時代にヨーギニー(瑜伽女)またはダーキニー(拏吉尼)と呼ばれた。

 仏教の吒枳尼天(だきにてん)は、このダーキニー(拏吉尼)からきているようだ。

 吒枳尼天は仏教系の稲荷神社である豊川稲荷神社最上稲荷で祀られる。
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 稲荷神の眷属はキツネである。吒枳尼天はキツネに乗っている姿で表されることが多いが、本来は狐そのものだったのかもしれない。

 ヨーギニーやダーキニーらは男性行者を導く師の役割を演じることもあり、その時代の大成就者たちの伝記である『八十四成就者伝』には悟りを得た女性が複数登場する。
 後期密教の性的儀礼における男性行者の相手の女性はムドラー(印契)とも呼ばれた。『ハタヨーガ・プラディーピカー』は、ヴァジュローリー・ムドラーでラジャス(性分泌物と解される)を再吸収し、保持することのできる女性をヨーギニーと呼んでいる。
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 南インドで、親が娘を神殿や神(デーヴァ)に嫁がせる宗教上の風習デーヴァダーシー(神の召使い)の対象となった女性もヨーギニーと呼ばれた。
 彼女たちは伝統舞踊を伝承する巫女であり、神聖娼婦、上位カーストのための娼婦であり、1988年まで合法であった。



 現在、世界的に流行している身体的ポーズ(アーサナ)を中心にしたフィットネス的な「現代のヨーガ」は、宗教色を排した身体的なエクササイズとして行われているが、「本来のヨーガ」はインドの諸宗教と深く結びついており、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の修行法でもあった。

 空海が宗祖となったのは真言宗であるが、真言とはマントラが真言と漢訳され、大乗仏教、特に密教では仏に対する讃歌や祈りを象徴的に表現した短い言葉を指す。
 マントラとは、サンスクリットで、本来的には「文字」「言葉」を意味する。インドではヴェーダ聖典、またはその本文であるサンヒターのことをいう。
 また"タントラ教"ではシャクティ崇拝の儀礼の際に用いられる祈祷の定型句、ヨーガ学派では音声による修行法を意味する。

 密教では、真言を念じて心を統一する真言陀羅尼(しんごんだらに)が重要視された。また、諸仏を象徴した種子(しゅじ)と呼ばれる悉曇文字(しったんもじ)も真言の一種といえる。

 ヨーガには静的ヨーガと動的ヨーガがあるという。

 静的ヨーガはインドの諸宗教で行われており、仏教に取り入れられた静的ヨーガの行法は中国・日本にも伝えられ、坐禅となったとされる。

 伝統的な動的ヨーガは、肉体的・生理的な鍛錬(苦行)を重視し、気の流れを論じ、肉体の能力の限界に挑み、大宇宙の絶対者ブラフマンとの合一を目指すハタ・ヨーガとそのヴァリエーションである。
 「ハタ」は「力、暴力、頑固」などを意味する。教義上、「ハ」は太陽、「タ」は月を意味すると説明されることもある。
 ハタ・ヨーガはヨーガの密教版ともいうべきもので、12~13世紀のシヴァ教ナータ派のゴーラクシャナータを祖とするが、原型はそれ以前からあったようだ。
 ムドラー(印相)や、プラーナーヤーマ(調息、呼吸法)、シャットカルマ(浄化法)などの身体的修練を重視した。私は密教から入ったこれらの行法が後に日本では修験道に通じ、伊賀甲賀では忍者にも通じたのではないかと考えている。

 ハタ・ヨーガの主張はヒンドゥー教のシヴァ派やタントラ仏教(後期密教)の聖典群(タントラ)、『バルドゥ・トェ・ドル(チベット死者の書)』の説と共通点が多く、プラーナ(生命の風、気)、ナーディー(脈管)、チャクラ(ナーディーの叢)が重要な概念となっている。


 祭儀をつかさどる司祭たちが神々と交信するための神通力を得ようと様々に開発した思想と実践法は、4~5世紀頃に六派哲学のヨーガ学派の教典『ヨーガ・スートラ』として、現在の形にまとめられたと考えられている。
 『ヨーガ・スートラ』の編纂者はパタンジャリとされているが、彼のことはよくわかっていない。同書は「ヨーガ学派」の教典である。同派は、ダルシャナ(インド哲学)のうちシャド・ダルシャナ(六派哲学)の1つに位置づけられている。

 次の写真はパタンジャリの典型的な像であるが、下半身が蛇体である。
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 最初に瑜伽として日本にヨーガが伝わったのは、大同元年(806年)、唐より帰国した空海にまでさかのぼる。その後、真言宗や天台宗の「阿字観」等の密教行法として現在に伝わっている。
 「阿字観」は真言宗の伝統的な瞑想法で、僧侶の鍛錬の方法である。仏と行者の一体を観想するものが阿字の観法である。正式な阿字観への言及は、弘法大師空海が口述したものを、その弟子実慧が記録したといわれる「阿字観用心口決」が最初といわれる。
 本尊である大日如来の象徴である阿字観掛け軸(大きな月輪(がちりん)の中に梵字の「阿」が蓮華の花の上に鎮座している図・曼荼羅)の前に座禅し、半眼または目を閉じて阿字観本尊を観じ、曼荼羅世界に入っていく。
 近年では、高野山に外部から瞑想はないのかという問い合わせがあり、一般向けにも僧侶の指導が行われるようになったという。
 
 現在の「阿字観」は清浄な部分だけ残っているが、空海が招来した「阿字観」はもっとどろどろしたものだったのではなかったかと、私は想像する。

 粟国は後に阿波国と呼ばれるが、その「阿」は「阿字観」の阿だったのかもしれない。
 忌部氏の粟国は、空海の密教により阿波国になったのかもしれない。阿波国は密教の「阿」の音波が押し寄せた場所だったのであろう。

 狛犬や仁王の2体には阿吽像が使われる。阿像は口を開き「あ」(あるいは「お」)と発し、吽像は口を閉じて「ん」と結ぶ。これはマントラの聖音オームに通じる。
 「あ」は始まりを示し陽(生気)であるが、「ん」は終わりを示し陰(鎮魂)を表すようだ。それは日と月にも対応しているようである。

 禅宗は密教などよりも遅く日本に導入されたが、禅宗でいう禅は仏教の代表的な修行のひとつ「禅定」である。その原語はディヤーナ(禅那)で、「ヨーガ・スートラ」第2章に記述されるディヤーナと同語である。


 ラヤ・ヨーガはハタ・ヨーガの奥義とされ、これをクンダリニー・ヨーガともいう。クンダリニー・ヨーガの行法はハタ・ヨーガからタントラ・ヨーガの諸流派が派生していくなかで発達した。
 ムーラーダーラに眠るというクンダリニーを覚醒させ、身体中のナーディーやチャクラを活性化させ、悟りを目指すヨーガである。密教の軍荼利明王は、性力(シャクティ)を表わすクンダリー(軍荼利)を神格化したものであると言われることもある。

 近代インドでは、ハタ・ヨーガ(クンダリニー・ヨーガ)とその実践者は、不審で望ましくない危険なものとして避けられる傾向にあった。

 近年では、巨大なヨーガスクールで、カリスマ指導者が生徒や関係者に不適切な性関係を強いたり、性儀式を行うといったスキャンダルが相次いでいる。
 現代ハタ・ヨーガの一種であるアヌサラ・ヨーガの創始者ジョン・フレンドは、ウイッカのカブンで魔術的な性関係を持ち(セックス・ヨーガを含む)、既婚者を含む関係者や生徒と不適切な性関係を持っていると告発された。このスキャンダルで教師は次々辞職し、ジョン・フレンドは指導者の地位を退いている。
 現代ハタ・ヨーガ、ホット・ヨーガの一種であるビクラム・ヨーガの創始者であり、巨大ヨーガスクールを経営し世界的にフランチャイズ展開しているビクラム・チョードリーは、生徒からセクハラ、パワハラ、性犯罪で民事告訴されている。
 これらのスキャンダルはヨーガの理解が充分でない指導者による誤用に端を発するようだ。

 マントラ・ヨーガというマントラを使う音(ヴァイブレーション=振動)のヨーガもある。聖音オームから名を取ったオーム真理教の教祖の麻原彰晃もヨーガを誤用したと言うより悪用した一人だ。オウム真理教ではヨーガによるクンダリニー覚醒の実践が中心的な位置を占めており、初めからいかがわしい宗教団体であった。


 聖人である空海と犯罪者である麻原彰晃は同日の論ではないが、空海は故郷の四国で密教を駆使して古くからある信仰を変えようとしたようだ。それは空海だけではなく弟子たちも動員しての長い宗教活動(布教活動)であったのだろう。

 空海は土地の信仰や神に合わせてマントラ・ヨーガやタントラ・ヨーガを使い分けながら、古い信仰や神の地盤を切り崩していったのであろう。
 ある時期、真言宗(東密)と天台宗(台密)は、日本全国で王法と仏法の障害になる神々を消して歩いたように思われる。鎌倉仏教以前の仏教は護国仏教であり、天台座主は3世の円仁からは太政官が官符をもって任命する公的な役職となり、明治4年(1871)まで続いた。


 大黒天、弁才天、毘沙門天、歓喜天、吉祥天、吒枳尼天(だきにてん)などの天部の護法神の像は、随時神隠しに使われたのであろう。

 歓喜天といい吒枳尼天といい、性的結合を通じて法力を獲得せしめる霊威を具えた魔神である。
 吒枳尼天は野干、ジャッカルの神格化、狐と同類と見なされ、それ故に稲荷神とも融合する。日本にはジャッカルがいなかったので、狐とされたようだ。日本狼(山犬)は神聖視されることもあり、吒枳尼天と習合しなかったのは幸いであった。

 この吒枳尼天が天照大神とも一つになる。鎌倉末期の『渓嵐拾葉集』という密法の口伝記録を見ると、天照大神が天岩戸にこもった時、「辰狐(しんこ)」の形をとっていたとある。辰狐とは吒枳尼天(荼枳尼天)のことだとされる。つまり天照大神=吒枳尼天ということになる。密教による神仏習合の秘法は複雑怪奇である。

 平安初期に空海により伝えられた真言密教では、荼枳尼は胎蔵曼荼羅の外金剛院・南方に配せられ、奪精鬼として閻魔天の眷属となっている。半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿であるが、後の閻魔天曼荼羅では薬袋らしき皮の小袋を持つようになる。
 さらに時代が下ると、その形像は半裸形から白狐にまたがる女天形へと変化し、荼枳尼"天"と呼ばれるようになる。また、辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)、貴狐天皇(貴狐天王、きこてんのう)とも呼ばれる。

 荼枳尼天は後々に性愛を司る神とも解釈されたが、それは本質的に持っていた一面を強調したものにほかならない。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、真言密教立川流という密教の一派が次第に形成され興隆を極めたが、これは荼枳尼天を祀り髑髏を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされている。立川流はこれを理由として邪教視され、江戸時代にはついに途絶えたという。
 この立川流を信仰したのが建武新政の後醍醐天皇であった。立川流は平安時代末期に密教僧である仁寛によって開かれ、南北朝時代に後醍醐天皇の護持僧となった文観によって大成されたと言われる。

 今でこそ荼枳尼天は白狐に乗った天女の形像で描かれるが、空海が招来した荼枳尼は胎蔵界大日如来を守護する恐ろしい神であり、しかしその原型はインドにおいて娼婦にもなり男性を慰める巫女的な女神であったのだ。その女神がアマテラスであるのなら、私は大いに納得する。

 今でこそ伊勢は神聖な天皇家の祖神を祀る場所のように思われているが、そう変貌したのは国家神道の頂点に祭り上げられた明治以降のことで、江戸時代までは「お伊勢さん」と呼ばれ、外宮と内宮の間の"間の山(あいのやま)"には最盛期には妓楼70軒、娼妓千人を数えたという精進落としのための一大歓楽地帯があった。お伊勢参りとは遊山でもあった。
 これは江戸時代以前からのことのようで、古くはこれらの娼妓は"歩き巫女"の成れの果てであったという。伊勢には男性を慰めてくれる優しい巫女が居たのである。巫女は神の妻になったとき女神と呼ばれるが、下賎な男と寝たときには娼妓とか遊女と呼ばれた。近世において女性の地位は男しだいであったのかもしれないが、どう呼ばれようと、その"産みの性"の本質は変わらない。古代においては女性は「月」であり「日」でもあったのかもしれない。

 天石門別八倉比売神社の奥の院で、永遠の生命を象徴するという「つるぎ石」を見て、大日孁女命=天照大神=八倉比売と考えを巡らせながら、現地説明板にあった『天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然ではない。』の文が蘇った。


 現地説明板には、『なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(1736~1741)まで 十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。』とあった。

 大泉神社へは行かなかったが、井戸があり小さな祠が祀られているそうだ。ネットの写真を見ると、井戸の形が五角形であった。
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 奥の院の五角形の祭壇といい、五角形の井戸といい、五角形へのこだわりは五芒星でも意識しているのだろうか?

 泉から連想するのは、水神である。その水神は女神であろう。穀物を育てるのには、"太陽"と"水"が不可欠だ。男性太陽神と女性水神の結合こそが大宜都比売(おおげつひめ)を生む。

神話では、スサノオに殺されたオオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれたとされる。これは死と再生の循環でもある。オオゲツヒメという名称は「大いなる食物の女神」の意味である。しかし、頭から蚕が生まれたことは機織姫(はたおりひめ)にも通じる。そこで私の頭に浮かぶ女神は瀬織津姫である。

 私は、式内社「天石門別八倉比売神社」に祀られていた一座は、やはり水の女神であったと思う。それでは対になる男性太陽神はどこに祀られているのだろう。奥の院の五角形の祭壇に祀られる「つるぎ石」の名から、案外「剣山」に祀られているのかもしれない。
 


 私が当社を訪れた時、年配の夫婦も参拝していた。奥さんに話しかけられたので、少し祭神の大日孁女命について所見を述べた。奥さんの方は神社に興味があり、神社でよく見かける"地神塔"のルーツが奥の院の五角形の祭壇にあるようなので見学に来たようだった。
 参拝を終えて、阿波史跡公園の横の坂を下っていると、先ほどの奥さんが車を停めて降りてきた。先ほどの話が気になったようで、いろいろ訊かれた。

 奥さんは話に夢中だが、運転手の檀那さんは閉口している。車には数本のアンテナが立っていたのでハムをやっているようだ。
 話が長くなるので檀那さんのことも考えて、私のブログの名を教えて話を切り上げた。その人が私のブログを見てくれたかは分からないが、もし見てくれていれば天石門別八倉比売神社のブログが2年遅れになってしまったことに呆れているだろう。

 四国の旅では、ある寺の住職に寺の中を案内してもらったこともあった。その住職の名は杉生さんといって、昔神仏習合の時代、寺の鎮守として杉尾神社を祀っていてその祭神のことがずっと気になっているので、何か分かったら教えてくれと言われ住所を教えてもらったが、もう2年も経ってしまった。頼まれたこともあり、この旅の最後の方で杉尾神社を2~3社廻って分かったこともあるので、ブログにまとめて、それを見ていただこうと思っていたが、2年も経ってしまいタイムリーでなくなったのでどうしようか考えている。

 家でのブログにまとめるデスクワークは体力に関係なくできるが、旅には体力がいる。貧乏人の車中泊の旅は、季候のいい春と秋に行う。体力があるうちに旅を先行させる方針にしてから、ブログの更新と実際の旅の時間的乖離が甚だしくなっているのは否めない。

 この秋も琵琶湖周辺の旅を計画しているが、行きたいところは山ほどある。焦らないでゆるまないで旅を続けることが、初老にさしかかった私の人生後半のライフワークとなりつつある。ここでの初老とは40歳のことではない。初老とは"40歳の異称"であるが、昔は40歳で初老と呼ばれたのである。40歳は"不惑の歳"でもある。
 しかし、現在では初老という言葉のニュアンスは40歳を指すのに相応しくない。60歳を過ぎてからの方が初老という言葉が似合うように思う。初老という言葉は現在では引退した人に相応しい言葉である。

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