浮世絵と西洋の出合い 戦前の輸出茶ラベルの魅力
デザイナー 井手暢子
幕末に始まった日本の海外貿易で、茶は絹と並んで有力な輸出品になり、輸出茶は大正時代に最盛期を迎える。茶箱などには木版多色摺(す)りの華やかなラベルがつけられ、輸出茶業界では「蘭字(らんじ)」と呼んでいた。静岡の大学でデザインを教えていた私は蘭字に出合ってから足かけ25年になり、これまでに3000枚ほどを調べた。
蘭字は、中国から製茶に関する技術とともに伝わった業界用語で、「西洋の文字」を意味する。絵柄だけでなく欧文や飾り縁、罫(けい)など近代的なグラフィックデザインの要素をすべて備えている。
浮世絵の技術生かす
幕末から明治初頭は梱包材と茶箱に文字のない花鳥画の木版画「茶箱絵」がつけられていた。その後、文字も入ったラベルとして蘭字が登場する。
絹や雑貨などの輸出品にも最初は茶と同じように木版ラベルが使われていたが、後に大量生産が可能な機械印刷が主流になる。茶の場合はインクの臭いが茶に移るのをきらい、長らく木版ラベルが使われたようだ。時代を経ると部分的に機械印刷が採り入れられるが、日米開戦の頃まで、多くの色鮮やかな蘭字が生み出された。
蘭字作りを担ったのは江戸時代から続く浮世絵工房の画工や彫師、摺師(すりし)たちだ。19世紀半ばに世界最高水準のカラー印刷技術を誇った浮世絵工房の伝統が生かされ、欧米では日本の蘭字が本家・中国の蘭字をしのぐ人気を博した。
蘭字に欧文を導入したのは輸出茶を扱う外国商館だが、西洋の言葉を理解していなかったであろう浮世絵職人たちは優れた技術力で、様々な書体を記号として巧みに再現していった。
絵のモチーフも博物画や風俗画など多彩で、舶来の最先端ファッションを採り上げることもあった。例えば、1880年代後半に制作されたとみられる三輪自転車に乗る西洋婦人を描いた蘭字だ。都会風の女性を描き、アールヌーボー調の書体の文字を配したモダンな蘭字も生まれた。
ただ、現存する蘭字は限られる。輸出茶について行くものなので、日本に残ったのは、見本摺りや不出来なキズモノが多い。倒産したり営業をやめたりした会社から流出したものや、記念品として取り置かれたものがたまに出てくるくらいだ。
大半の蘭字はいつ、誰が、どこで作ったか分からない。文字などの情報から大まかな制作年を絞り込むしかない。例えば、よく見る「MAIL AND RAIL」は、太平洋航路郵船と米国の大陸横断鉄道を経由したことを意味する。そこで、米国の鉄道史などを調べて、年代を推定するわけだ。
完成度の高さに驚く
私が蘭字と出合ったのは1989年夏。仏教壁画の研究で西チベットに行こうとしていた時、天安門事件が起き、計画を断念した。ぽっかり空いた時間を埋めようと思い立ち寄ったのが、住まいのある静岡県菊川市の市立図書館菊川文庫だ。そこで、たまたま日本茶業中央会が所蔵する蘭字の展示会に出くわした。
中でも、欧文レタリングの完成度の高さには目を見張った。関係者に聞くと、明治初めから蘭字が作られていたという。
日本における近代的なグラフィックデザインの始まりは通説では1887年(明治20年)前後とされてきた。だが、それより10年も前に、近代グラフィックデザインの要素を持つ蘭字が日本にあったことに驚かされた。
横浜の実家に用事があり、蘭字の参考資料を捜すつもりで立ち寄った開港資料館では800枚もの蘭字に出合った。しかも、誰も研究していないという。蘭字の研究は最初、自分には荷が重いと思ったが、力不足でも静岡と横浜に拠点のある私がデザイン史の面だけでも急いで調べて記録しておかないといけないと考えるようになった。
茶業界でも再評価機運
蘭字をじかに知る方々が高齢であったことにも背中を押された。制作現場を知る方々の話を直接聞く機会に恵まれたのは幸いだった。茶の輸出が盛んだった頃を知っている茶商や、代々浮世絵の摺師だったという方などからも話を聞き、93年に「蘭字―日本近代グラフィックデザインのはじまり」という本を出した。
茶の業界でも蘭字を再評価する機運が高まり、日本茶業中央会では毎年、蘭字を配したカレンダーを制作するようになった。前著の刊行から20年がたち、その後に分かったことも盛り込んだ新しい本を近いうちに出したいと考えている。(いで・のぶこ=デザイナー)
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