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惟宗氏
概要
家系としては朝臣または宿禰の姓をもつもの、また
また系譜は必ずしも明らかでないが在庁官人や郡司などに多くの名が見える。惟宗広言もしくは惟宗忠康の子・忠久は日向国に下って土着し、当地にあった荘園「島津荘」にちなんで島津氏と名乗るようになったとされる[2]。ただし忠久は源頼朝の落胤と自称して(後世の伝承)、島津氏は(名目上は)清和源氏ということになっている[2]。
また対馬の宗氏(のちに桓武平氏知盛流を自称する)[2]と神保氏と執印氏も惟宗氏の子孫とする。そのほかに安芸氏などが惟宗氏の子孫と自称した。
脚注
- ^ a b c d e 太田 1934, p. 2422.
- ^ a b c 太田 1934, p. 2424.
参考文献
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 惟宗 コレムネ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2422-2424頁。全国書誌番号:47004572。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/305 国立国会図書館デジタルコレクション。none
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聖フランシスコ・ザビエル全書簡1985 全一冊(分冊では3?)
書簡第96
ヨーロッパのイエズス会員にあてて
1552年1月29日 コーチンより
…シナから日本へ諸宗派が渡来する以前から、日本人は殺すこと、盗むこと、偽りの証言をすること、 その他十戒に背く行いが悪いことであると知っていましたし、行ったことが悪いことであるしるしとして、 良心の責め苦を感じていました。なぜなら、悪を避け、善を行うことは〔もともと〕人の心に刻みこまれていたのですから。 全人類の創造主〔である御者が、すべての人の心のうちに刻みこんだ〕神の掟を他の誰からも教えられずに〔生まれながら〕 人びとは知っていたのであると説明しました。
533~4頁
…
〔日本に以前〕 ある時代に神やキリストの知識が伝えられたのではないかと思い、これを調べるのにたいへん苦労しましたが、文書や伝承によっても、 神についての知識があったという確証を得られませんでした。私たちが一年間滞在した鹿児島において、 領主とその親戚が紋章に白い十字架を用いているのを見ましたが、それは主なるキリストを認めたからではありませんでした。
538頁
薩摩島津氏-家紋-
『蒙古襲来絵巻』に見える島津下野守久経の旗指物 (復元)
島津氏の家紋は「丸に十の字」である。しかし、昔は外郭の丸はなく、単に筆書体の「十」だけであった。 これは鎌倉初期の島津忠久着用の甲胄につけてある十文字でわかる。また、『蒙古襲来絵巻』にも、 久親・久長の兵船の旗に十字紋があり、『 見聞諸家紋』でも筆書体の十字である。ところが、徳川期になると、 礼装用の紋に転化したために、多くの武家が外郭に丸を付けるようになった。島津氏もこれにならい以後、 定着したものである。 ・左『 見聞諸家紋』に見える十字紋、右:丸に筆十字紋
ところで、この「十字」は、いったい何を意味するのだろう?
一つは二匹の龍を組合せたものであるという。からみあって昇天する様だというが、これは引両紋から 連想されたものだろう。二つは、 二本の箸を交叉して出陣戦勝の呪いにしたのが始まりだという。三つは、キリスト教の印とする説。 四つは、「十字を切る」という形の呪符からきたとする説。これに似たもので忍者が九字を切ったり、 民間で安倍清明判や籠目などを魔除けに用いるものなども同じような呪符だという。五つは、轡紋から転じたとする説。 このように諸説あるなかで、四の説が正しいとするのが定説となっている。キリスト教などの入る前から、 島津氏は十字紋を用いていたので十字架説などは問題にならない。
十字紋はもっとも古い紋のひとつで、歴史的にも名高く、鎌倉時代は清和源氏の小笠原・逸見・田沢・志村の 諸氏も用いたが、のちには島津氏に遠慮して廃止している。島津氏は宗家以外は十字の原形を少しずつ 変えて用いている。
・参考:日本の名族12巻の内「島津氏」/日本家紋総覧/日本家紋由来総覧
■島津一族の家紋
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