2023年8月12日土曜日

日中戦争の旧日本軍には「略奪マニュアル」があった “強盗”指南も(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

日中戦争の旧日本軍には「略奪マニュアル」があった "強盗"指南も(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

日中戦争の旧日本軍には「略奪マニュアル」があった "強盗"指南も

 1937年に始まった日中戦争で中国大陸に侵攻した旧日本軍は、現地住民の食料などを奪う行為を繰り返していた。大本営直属の経理部門「野戦経理長官部」は、39年3月に「支那事変ノ経験ニ基ク経理勤務ノ参考(第二集)」という冊子を発行した。そこには事実上の「略奪マニュアル」と言える内容があり、民衆が隠した物資をどのように発見するかの「コツ」が記されていた。 【写真特集】日中戦争従軍記者のスクラップ帳  冊子の一項目「住民ノ物資隠匿法ト之ガ利用法」には、次のような内容が書かれている。「前方にレンガの壁を設け、その後方の家屋や倉庫などの全体を覆い隠していることがある。この場合には壁を破壊する必要がある」。また「銀行の倉庫には抵当物として食料その他が発見されることがある」と「銀行強盗」を促すような内容もある。  当時は戦地の兵士たちに日本国内から十分な物資が補給されず、食料は現地で手に入れる「現地自活」の方針が取られていた。資料からは、末端の兵士の判断だけではなく、軍として略奪行為を「指南」していた様子が浮かぶ。  京都市出身の陸軍歩兵・小林太郎氏(故人)は、37年から約2年間にわたり上海戦、南京攻略戦、徐州作戦などに従軍。略奪や殺害を繰り返した日常を淡々と日記に残した。「行軍中いもを畠(畑)から掘つて来て、焼いも」(37年9月25日)、「行く行くの部落(集落)でニハトリ(ニワトリ)を徴発」(38年3月28日)といった行動を記している。  さらに、敵のトーチカ(コンクリート製の防御陣地)を攻撃した際、そこで炊事をしていた民間人について「土民は銃殺。女は逃がす」(37年11月20日)などと記載。敗残兵を見つけたので殺した、という記述も多い。  小林氏は39年に満期除隊し、戦後は高校の数学教師を務めた。次女の能崎(のざき)嘉子さん(77)は「酒も一滴も飲まず、まじめだけが取りえのような人だった」と振り返る。高校生の時、自宅の仏壇の上にあった日記を初めて読み、知らない父の姿に驚いたという。  小林氏は晩年、精神疾患を発症し、気分の浮き沈みが激しかった。能崎さんは戦争の影響を感じたという。「戦争は決して格好良いものではなく、普通の市民を変えてしまうえげつないものだと、若い人にも知ってもらいたい」と話す。【黒川晋史】

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