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カエサルと女
古今の史家や研究者の著作を読んでいて微笑させられるのは、彼らがいちようにカエサルに魅了されてしまうところである。キリスト教史観に立つ人でも、カエサルを悪く言うことはできない。キリストは、彼の後に現われた人である。また、マルクス史観をとる人でも、カエサルの圧倒的存在感の前には、下部構造が上部構造を決定する、などとも言ってはいられないようである。共産主義国家東ドイツの作家ブレヒトの描くカエサル像は、あれでカエサルの全生涯を書かれていたら筆を起こすこともできなかった、と私に思わせたほど活き活きしている。だがこれらの人々の魅了の理由を、私は列記しない。カエサルの全体像は、彼の「諸言行」をていねいに追っていくことでしかつかめないと思っているからだ。要約してわかる男ではないのである。だが、一つだけは言おう。それは、古今の史家も研究者も作家も絶対に白状していないことでもあるのだが、彼らの書く行間にどうしたってにじみ出てしまう一事だからである。つまり、カエサルはなぜあれほども女にモテ、しかもその女たちの誰一人からも恨まれなかったのか、ということである。
古代ローマの美男の評価基準は、食べたいくらいと評された若い頃のポンペイウスや、たぐいまれな美貌とうたわれた初代皇帝アウグストゥスや、ハドリアヌス帝が寵愛したアンティノーの像にも見られるように、女であってもおかしくないほどに整った容貌に置かれていたようである。ギリシア彫刻の影響と思う。この基準では、カエサルは絶対に美男ではない。若い頃から頬にはたてじわが深くきざまれていたし、四十代後半からははえぎわの後退いちじるしく、中頭部の頭髪までひたいに向けて流したりして、禿げあがる一方のひたいを隠すのに苦労していたことは知られている。また、世界が彼を中心にまわりはじめる以前、つまり四十代までの彼は、借金づけなのだから裕福であるわけがなく、女の虚栄心が満足するほどの権力の持主でもなかった。それでいて、女という女にモテたのである。
痩せ型で背が高く立居振舞いの争えない品格、と多くの史家が書いているから、姿美男ではあったろう。だが、姿美男に顔まで美しい男は、当時のローマにはゴマンといた。話は興味深く面白かった男であるのは、彼の著作の各所に見られる教養と皮肉とユーモアの絶妙な配合で想像はつく。しかし、自画自讃の性癖さえ我慢すれば、キケロだって興味深く面白い話相手であったのだ。
しかし、カエサルだけが、ある作家の言を借用すると、列をつくって自分の順番がくるのを待つかのように、上流夫人を総なめにする栄誉に輝いたのである。記録に残る名をあげるだけでもこの豪華さだ。カエサルにとっては金を貸してくれる第一の人であった、クラッススの妻テウトリア。オリエントで戦争を指揮している将軍の留守宅を守らねばならないはずの、ポンペイウス夫人のムチア。ポンペイウスの副将だから同じく出征中の、ガビニウスの妻のロリア。これはいくらなんでも非現実的と思うが、元老院議員の三分の一が、カエサルに〝寝取られた〟という史家もいる。そして、カエサルの愛人たちの中でも最も有名なのは、後年のクレオパトラを別にすれば、セルヴィーリアであろう。後にカエサル暗殺の首謀者になるブルータスの母セルヴィーリアは、再婚話を断わってまで、カエサルの愛人でいるほうを選んだ女であった。
これらの女たちは、いずれもローマの上流社会に属する。言ってみれば、美容院やブティックで始終顔を合わせる仲である。それなのに、嫉妬もなくつかみ合いもなく、列をつくって自分の順番がくるのを待つかのように、おとなしく次々と愛人になったのだから愉快だ。情報だって、たちまち伝わる仲であったろうに。 ただし、女であれば誰でもよかった、というわけではないようである。当時のローマ社交界では最も華やかな存在であった、クローディアには一指もふれていない。
クローディアとは、ボナ女神の祭りの夜にカエサル邸に女装して侵入した、クラウディウスの妹である。極めつきのローマ名門の出身に加え、すらりとした身体つきに教養も高く、ルクルスと離婚すればただちにメテルスと再婚するという具合で、元老院の有力者を次々と夫にする一方、詩人カトゥルスの詩のヒロイン、レスビアのモデルと目された女でもある。ソクラテス時代のアテネの女とちがって宴席にも同席できたローマの女たちだが、そこで踊ることは踊り子の仕事で、上流夫人のやることではないとされていた。クローディアとは、そんなことは無視して巧みに踊って、たちまちローマ中の噂になるという女である。紀元前一世紀のローマのフェミニスト、と評する研究者もいる。
彼女はまた、何によらず有名な男が好みだった。「カティリーナの陰謀」で名声確立した観のあるキケロにまで色目を使い、キケロのほうもまんざらでない気分になったこともある。ローマの〝ダンディ〟カエサルが、この彼女の視野に入らないはずはなかった。しかし、カエサルは、この女とは人並の付き合いはしても愛人にはしていない。生き方の騒々しい女は、彼の好みではなかったのかもしれない。実際、クローディアはこの十年後、若い愛人が去ったのに怒り、金の横領と毒殺を謀ったとして訴えている。このときの裁判で弁護役に立ち、クローディアの振舞いを笑いのめすことで勝訴を勝ちとったのがキケロだった。この一事からも、カエサルの女遍歴は、誰とでもというわけではなく選んだ相手が対象であり、それも彼が強烈に求めたがゆえの成功ではないかと思う。男から強烈に求められれば、女らしい女ならば落城する。しかもカエサルは、女が相手でもなかなかに悪賢かった。妻を離縁して自分と結婚してくれと言う怖れのある、未婚の娘には手を出していない。彼が相手にしたのはいずれも、有夫か結婚歴のある女にかぎられていたのである。
いずれにしても、やたらと女たちにモテたことだけは確かなカエサルだが、女にモテたということだけなら、史家も研究者も、羨望までは感じないのではないか。モテるだけならば、剣闘士だって俳優だってモテたのだから。立派な男までが羨望を感ずるのは、それでいてカエサルが、女たちの誰一人からも恨まれなかった、という一事ではないか。モテることも男の理想だが、モテた女から恨みを買わないという一事にいたっては、それこそすべての男が心中秘かにいだいている、願望ではないかと思う。
なぜなら、一人前の男なら、自分からは醜聞を求めない。だから醜聞は、女が怒ったときに生まれる。では、なぜ女は怒るのか。怒るのは、傷ついたからである。それならどういう場合だと、女は傷つくのか。
前記のクローディアが原告になりキケロが弁護側にまわった「カエリウス裁判」でのキケロの弁論を読むとよくわかるのだが、女が醜聞もいとわないくらいに怒るのは、みついだ男が無情に縁を切ったあげく寄りつきもしなくなったからである。だが、女の心理も知らないカエリウスなどとは、カエサルはちがった。
まず第一に、愛する女を豪華な贈物攻めにしたのはカエサルのほうである。これも彼の莫大な借金の理由になったのだが、借金が増えるから贈物などしなくてもよいなどと言うのは妻であって、それ以外の女ならば例外なく愛しいと感ずる。そして、誇らしいと思う。カエサルがセルヴィーリアに贈った六百万セステルティウスもの真珠は、ひとしきり首都の女たちの話題を独占したものであった。もしも事実なら、パラティーノの丘の上の豪邸が二つ買える額である。
そして第二だが、カエサルは愛人の存在を誰にも隠さなかった。彼の愛人は公然の秘密だった。いや、女の夫まで知っていたのだから、秘密でさえもない。オリエントで戦争中のポンペイウスもガビニウスも、自分たちの妻の浮気を知っていた。これでは、スキャンダルにもならない。公然ならば、女は愛人であっても不満に思わないからである。 また、理由の第三は、史実によるかぎり、どうやらカエサルは、次々とモノにした女たちの誰一人とも、決定的には切らなかったのではないかと思われる。つまり、関係を清算しなかったのではないかと。
二十年もの間公然の愛人であったセルヴィーリアには、愛人関係が切れた後でもカエサルは、彼女の願いならば何でもかなうよう努めた。彼女の息子のブルータスがポンペイウス側に立って自分に剣を向けた際も、戦闘終了後のブルータスの安否を心配し、生きていたとわかるやただちに母親に伝えさせている。また、公然の愛人がクレオパトラになった後でも、セルヴィーリアの生活に支障がないよう、国有地を安く払い下げるなどという、公人ならばやってはいけないことまでやっている。これを、息子のブルータスがどう感じていたかは、別の問題であるにしても。
また、他の女たちとだって、決定的に切らないことでは同じだったのではないか。例えば、妻同伴のカエサルが、夜会の席か何かで以前の愛人と顔を合わせたとする。同じ階級に属しているのだから、出会う確率も高かったはずである。そのような場合、並の出来の男であれば、困ったと思うあまり、意に反して知らん顔で通り過ぎたりする。ところがカエサルだと、そうはしない。妻には、少し待ってとか言い、どうなることやらと衆人が見守る中を堂々と以前の愛人に近づき、その手をやさしく取って問いかける。「どう、変わりない?」とか。女は、無視されるのが何よりも傷つくのだ。
愛人はそれでよいかもしれないが、妻のほうはどうなるのか、と問う人がいるかもしれない。だが、これとてたいした変わりはない。贈物で差をつけられるわけではなく、また、正妻ともなれば公の立場だ。それに、帰宅後に妻に、その日の元老院会議でのキケロの大仰な演説などを面白おかしく話してくれたりしたら、無視されたと怒ることもできない。重ねて言うが、女が何よりも傷つくのは、男に無下にされた場合である。
イタリアのある作家によれば、「女にモテただけでなく、その女たちから一度も恨みをもたれなかったという希有な才能の持主」であったカエサルの、以上が私なりの推察である。そして、女と大衆は、この点ではまったく同じだ。人間の心理をどう洞察するかに、性別も数も関係ないからである。
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