2023年8月25日金曜日

ラピュタ族から辿る海洋民族の流れ ゲスト:武内 一忠さん


5000年前に北極星をシュメールが祀り出す
直角の概念
それ以前は太陽、曲線


wave of pacifica 2002

ラピタは地名ではなく、現地の言葉で穴を掘る意味の「ハペタ(XAAPETA)」が、誤って「ラピタ(lapita)」になったという。

日本では縄文土器時代が続いていた紀元前1300年から紀元ごろにかけて、西はメラネシアのビスマルク諸島ニューブリテン島から、東は西ポリネシアのサモアに至る島々で次々に出土してきたのがラピタ土器だ。表面に見られる、ラーメンの器などによくある波線や円など幾何学模様が特徴で、一つとして同じものはないと思われるほど多様。また時に人面模様も見られる。


ラピタ人 - Wikipedia

《「ラピタ」という名前自体は、ニューカレドニアの現地語 (Haveke language) で「穴を掘ること」または「穴を掘った場所」を意味する「ハペタア (xapeta'a)」を発掘した遺物のことと誤解して付けられた。》


ラピタ人Lapita)は、人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族

ラピタ人骨の復顔像(国立民族学博物館・大阪府吹田市)

1952年、ニューカレドニアで発見された土器が「ラピタ土器」と命名されたことから、この文化がラピタ文化と呼ばれるようになった[1]ポリネシア文化の源流とする考えが有力である。「ラピタ」という名前自体は、ニューカレドニアの現地語 (Haveke language[2]) で「穴を掘ること」または「穴を掘った場所」を意味する「ハペタア (xapeta'a)」を発掘した遺物のことと誤解して付けられた[3][1]。この文化が元々は何と呼ばれていたのかは、現在まで明らかにされていない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%94%E3%82%BF%E4%BA%BA

ラピタ人

曖昧さ回避この項目では、古代オセアニア民族について説明しています。古代ギリシアの民族については「ラピテース族」をご覧ください。
ラピタ人の広がったと考えられる範囲

ラピタ人Lapita)は、人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族

ラピタ人骨の復顔像(国立民族学博物館・大阪府吹田市)

1952年、ニューカレドニアで発見された土器が「ラピタ土器」と命名されたことから、この文化がラピタ文化と呼ばれるようになった[1]ポリネシア文化の源流とする考えが有力である。「ラピタ」という名前自体は、ニューカレドニアの現地語 (Haveke language[2]) で「穴を掘ること」または「穴を掘った場所」を意味する「ハペタア (xapeta'a)」を発掘した遺物のことと誤解して付けられた[3][1]。この文化が元々は何と呼ばれていたのかは、現在まで明らかにされていない。

歴史

ラピタ文化は今からおよそ3600年前にメラネシアで発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器を残した。

ラピタ土器のうち古期のものは、紀元前1350年から同750年の間にビスマルク諸島で作られたものが見つかっている。その後紀元前250年ごろまでに、次第に多様化した。バヌアツニューカレドニアには、その地方独自の様式が見られる[4]メラネシアパプアニューギニアウンボイ島 (en) でも見つかっているが、それらが絶えた後もフィジーでは作られ続けた。

またラピタ土器は、ポリネシア西部では紀元前800年くらいからフィジーサモアトンガの一帯で作られはじめた。トンガからサモアへ、つまりポリネシアの東方にむかって植民によってラピタの文化が広がっていき、続いてマルケサス諸島ソシエテ諸島、さらにはハワイイースター島ニュージーランドへと伝わった。しかしラピタ土器はポリネシアのほとんどの地域で途絶えた。これは小さな島などでは、土器を作るのに適した粘土が得られにくかったためと考えられる。

遺物

土器は低い温度で焼いて作られており、貝殻や砂を混ぜて作られたものもある。多くは歯型の文様が付けられたが、これは樹皮布や入れ墨などにも用いられていたと考えられている。ラピタ文化圏では文様のないもの、すなわち石製の鍬 (adze) などの人工遺物や、黒曜石チャートなどで作られた石器も見つかっている。

経済活動

ブタイヌニワトリなどの牧畜が行われていた。またイモ果実を収穫するための農業も行われており、主にヤムイモタロイモココナツバナナパンノキなどが栽培されていた。これに加えて漁業が行われ、黒曜石や石の鍬、その原料となる各種の石や貝殻などとの交換による遠距離交易が行われていた。

風習

バヌアツエファテ島テオウマ遺跡 (en) で2003年に見つかった古墳では、36体の遺体が25の墳墓または甕棺に埋葬されていた。遺体はすべて頭部を欠いており、これは一度埋葬した後に、頭部だけを取り去り巻き貝で作った指輪と置き換えていたためであった。その頭部は別に埋葬されており、埋葬されている老人の胸の上に3つの頭部が並べられていた墓が見つかっている。また見つかった甕棺の一つには、4羽の鳥が中をのぞき込む造形が見られた。炭素年代測定により、墳墓の中の貝殻はおよそ紀元前1000年ごろのものとされている[5]

植民

ポリネシアの西部では、人々の住む村落は大きな島の海岸沿い、あるいは小さな島に作られた。これは、ニューギニアの海岸などではすでに住んでいた別の民族との衝突を避けるため、あるいはラピタ人にとって致命的な病気であったマラリアを媒介する蚊をさけるためであったと考えられている。礁湖(ラグーン)の上に作られた高床建物も見つかっている。ニューブリテン島では内陸部、黒曜石の産地の近くに植民したのが分かっている。ポリネシア東部の島々では内陸部に、しばしば海岸から距離のある場所に入植していた。

オークランド大学のジャック・ゴルソン (Jack Golson) とサモア人一家、サモアウポル島バイレレ村の発掘現場にて。1957年。

ラピタ土器はビスマルク諸島からトンガにかけて見つかっているが、その東端はサモアウポル島ムリファヌア村 (en) である。ここでは4288個の土器片と2個の石の鍬が見つかっている。炭素年代測定により紀元前3000年のものと見られている[6]。 牧畜も、土器同様にオセアニアの各地に広まっていった。ラピタ人、家畜、その移動についてきた他の生物(おそらくナンヨウネズミなど)は、外来種として、結果的に多くの移住先で飛べない鳥を始めとする固有種を絶滅させることになった。

言語

ラピタ人の言語は、オーストロネシア語族のオセアニア言語の元となったオセアニア祖語 (Proto-Oceanic) だったであろうと考えられている。しかしこれまでに見つかっている考古学資料は言語に関するものが少なく、言語自体に関する資料は乏しい。

起源

ラピタ人のルーツは未解明の部分が多いが、台湾の土器との関連性が考えられている。わずかに発見されている人骨から、人種的には現在のポリネシア人に似た大柄な人々だったらしいと言われている。

その祖先はオーストロネシア語を話すモンゴロイド系の民族であり、元々は台湾にいたのだが、その一部は紀元前2500年頃に南下を開始した。フィリピンを経て紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島ニューギニア島メラネシアに到達した。ここでオーストラロイドのパプア先住民と混血し、ラピタ人の始祖となる。彼らは進路を東に変え、紀元前1100年頃にはフィジー諸島に到達する。現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。サモアに到達した時点 でラピタ人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、その間に現在のポリネシアの文化が成立していったと考えられている。

5000〜6000年前の台湾または中国南部のオーストロネシア人 (en)は、新石器時代に人口増加により移住を余儀なくされ、東南アジア(台湾)から移動した(「ポリネシア特急」とも呼ばれる)のではないか、と考えられている。台湾の赤い細長い陶板に似た特徴がポリネシアの甕棺にも見つかっており、言語学的にも対応が見つかっている[7]ことが、それを裏付けているとする[5]

一部の研究者は、ラピタ人の移住は「トリプル I」に特徴づけられる、としている。それは

  • intrusion - 新しい土地への侵入
  • innovation - 新しい技術の獲得(アウトリガーカヌーなど)
  • integration - すでにいる民族との統合

という3つの過程があることである、としている[8]

現在はインドネシアマレーシアではラピタ人に関するものは見つかっておらず、そのためユーラシア大陸の民族とラピタ人を結びつける根拠はない。またそれとは別に、ビスマルク諸島では30,000年から35,000年前に人が住んでいたことから、これがラピタ人のルーツである、とする意見もある。それによると、ポリネシア西部でのラピタ人の広まりは、黒曜石の交易によるものである、とする。

脚注

  1. a b West, Barbara A. (2008). Encyclopedia of the Peoples of Asia and Oceania, Volume 1. Infobase Publishing. p. 460. ISBN 0816071098 29 December, 2010閲覧。none
  2. ^ Haveke language Bible stories, songs, music and scripts
  3. ^ Lapita: Oceanic Ancestors – review”. Guardian UK. Originally appeared in Le Monde (2010年12月28日). 2010年12月29日閲覧。
  4. ^ 片山一道『身体が語る人間の歴史 人類学の冒険』筑摩書房、2016年、148頁。ISBN 978-4-480-68971-9
  5. a b Graves of the Pacific's First Seafarers Revealed, Richard Stone, Science Magazine, 21 April 2006: Vol. 312. no. 5772, p. 360 [1]
  6. ^ [2] New Information for the Ferry Berth Site, Mulifanua, Western Samoa by Roger C. Green and Helen M. Leach, Journal of the Polynesian Society, Vol. 98, 1989, No. 3. Retrieved 1 November 2009
  7. ^ Blust, R. (1999). “Subgrouping, circularity and extinction: some issues in Austronesian comparative linguistics”. In E. Zeitoun and P. J.-K. Li.. Selected Papers from the Eighth International Conference on Austronesian Linguistics. Taipei: Symposium Series of the Institute of Linguistics, Academia Sinica.
  8. ^ Greenhill, S. J. & Gray, R.D. (2005).Testing Population Dispersal Hypotheses: Pacific Settlement, Phylogenetic Trees, and Austronesian Languages. In: The Evolution of Cultural Diversity: Phylogenetic Approaches. Editors: R. Mace, C. Holden, & S. Shennan. Publisher: UCL Press.[3]

参考文献[編集]

  • 石村智『ラピタ人の考古学』溪水社

関連項目[編集]


8月初め、仏領ニューカレドニア北部州のコネに、豪州、カナダ、日仏米など世界各国から80人あまりの南太平洋地域を研究する考古学者たちが集まった。They had assembled for an international symposium to mark the 50th anniversary of the excavation of the prehistoric Lapita pottery by the two scholars E. Gifford and R. Shutler Jr. of the University of California. There may be few ordinary Japanese who have heard of Lapita pottery. In fact, I had never heard of it myself. In Japan, the era of Jomon pottery lasted from 1300 B.C. to about the beginning of the Christian era. Pottery from the same period, known as Lapita pottery, has been successively excavated in islands over an area ranging from the New Britain Island, one of the islands of Bismarck Archipelago in Melanesia in the west to Samoa in Western Polynesia in the east. オセアニア先史時代のラピタ土器が、米カリフォルニア大学のギフォードとシャトラー2人の学者により発掘されて、ちょうど50年になるのを記念して国際会議が開かれたためだ。ラピタ土器を知る普通の日本人は少ないだろう。実は私も初耳だった。The geometric design of wavy lines or circles that can be seen Archeologists absorbed in Lapita pottery artifactsラピタ土器を熱心にのぞき込む考古学者たちon the surface like those on a noodle bowl are characteristic of Lapita pottery. These are so diverse as to make one think that no two are the same. Occasionally a design resembling human faces can also be seen.日本では縄文土器時代が続いていた紀元前1300年から紀元ごろにかけて、西はメラネシアのビスマルク諸島ニューブリテン島から、東は西ポリネシアのサモアに至る島々で次々に出土してきたのがラピタ土器だ。表面に見られる、ラーメンの器などによくある波線や円など幾何学模様が特徴で、一つとして同じものはないと思われるほど多様。また時に人面模様も見られる。According to one of the participants in the symposium however, Professor Michiko Intoh, an expert on Micronesia at the National Museum of Ethnography (Suita City, Osaka), at the time of excavation most of it was broken into small pottery fragments. For this reason perfectly restored Lapita pottery is very scarce and can only be found in the South Pacific. There is still no Lapita pottery in any Japanese museum. I first met up with Lapita pottery in the northern province cultural center of Koné. As well as fragments, large and small brown-colored pots were lined up. 2 Wave of Pacifika 2002ただし、会議参加者の一人、ミクロネシアの専門家で国立民族学博物館(大阪・吹田市)の印東道子教授によれば、発掘される時、小さく割れた土器片であることが多いのが特徴だ。だから完全に復元されたラピタ土器は少なく、南太平洋以外にはない。日本の博物館にもラピタ土器はまだない。コネの北部州文化センターで、そのラピタ土器に初対面した。かけらとともに褐色の大小の壺が

大阪・吹田の国立民族学博物館の印東道子教授は材料の粘土の問題を指摘し、こう推測する。There was probably also the problem of the temperature at which the pottery was fired. The method of putting leaves over a bonfire was also difficult because the temperature did not rise sufficiently nor did it remain constant. Incidentally, the first discovery of Lapita pottery was almost another half century before Mr. Shutler’s party began their excavations. It was found in 1909 by a Catholic priest who was taking a walk on the beach in the small Watom Island north of New Britain in the Bismarck Archipelago. After that, in the 1920’s, pottery fragments were found in the Tongan Islands in Polynesia. At the time however, the technology did not exist to determine the age of the pottery fragments scientifically, and it was thought unbelievable that pottery fragments from Melanesia and Polynesia, widely separated by thousands of kilometers, could be from the same source. It was in 1952, at the time of the large-scale investigation by Mr. Shutler’s party, that a compilation was made and that the type was given the name of Lapita pottery. In this connection the word Lapita is not a place name. A word in a local language XAAPETA, meaning to dig a hole, was misheard as and became lapita. What a beautiful mistake! Archaeologists at the original Lapita siteラピタ土器が発見された砂浜を歩く考古者達Note: The andesite line divides Oceania geologically. Reversing its course on the east side of New Zealand, Tonga and Fiji, it runs upwards north of the Solomon Islands and New Guinea and east of Yap and the Marianas.「安山岩線を超えると、東側の島では採れる粘土が地質学的に若くなり、焼いた時に大きく収縮してしまう。作りにくいわけです。土器拡散の最後となるサモアの場合、まぜる砂を増やすなど一生懸命工夫していることが分かります。でもそうして作っても割れやすい。結局、土器に代わって石蒸し焼きの調理方法が主として使われるようになっていったのだと思います」土器を焼く温度の問題もあっただろう。たき火に木の葉などをかぶせたやり方は、温度が上がらなかったり一定せず、これまた難しかった。ところで、ラピタ土器第一号の発見は、シャトラー氏らの発掘からさらに半世紀さかのぼる。1909年、ニューギニア島北東部、ビスマーク諸島のニューブリテン島の北にある小さなワトム島で、カトリック神父が浜辺を散歩中に見つけた。その後、1920年代にはポリネシアのトンガ諸島でも土器片が発見されたが、当時はまだ土器片の年代を科学的に割り出す技術もなく、何千キロも遠く離れたメラネシアとポリネシアの土器片が、同じものとは想像も出来なかった。1952年、シャトラー氏らの大規模な調査で初めてそれらが集大成され、型式名もラピタ土器と命名された。ちなみにラピタは地名ではなく、現地の言葉で穴を掘る意味の「ハペタ」が、誤って「ラピタ」になったという。美しき誤解である。
(注)安山岩線とはオセアニアを地質上、分割するもの。ニュージーランド、トンガ、フィジーの東側を反転、ソロモン、ニューギニアの北を通り上昇、ヤップ、マリアナの東側を走っている。

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asahi-stoneの自己紹介

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兵庫県在住。石に関わる仕事に50年近く携わり、日本各地の神社仏閣や市街地の石建造物(モニュメント)等の作品づくりの他、海外からの依頼による受注制作や石質調査なども行ってきた。
現在は縄文時代の文化に興味を持ったところから、日本の国石でもあるヒスイに魅せられ、糸魚川産ヒスイ原石での勾玉つくりを中心とした制作活動をしている。

【娘】
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