2023年8月9日水曜日

中臣遺跡



(1)はじめに

 中臣遺跡のある山科盆地は、北は如意ヶ嶽南端に位置する安祥寺山や諸羽山、東を音羽山・醍醐山、西を東山・桃山丘陵に囲まれ南側に開けている、京都盆地のミニュチアのような観を呈した盆地です。この盆地の中央を山科川が南流し、それに西側から南流してきた旧安祥寺川が合流しています。中臣遺跡は、この両川の合流地点北方に広がる栗栖野丘陵の台地上(下位洪積段丘)一帯に位置しています。

 この場所の一角(西野山中臣町)で、1969(昭和44)年に、地元の(当時)洛東高校1年生のO氏によって弥生時代のものと思われる須恵器土器の破片が発見され、一躍注目を浴びるようになりました。以後、1971(昭和46)年から発掘調査が始まり、現在に至るまで85回にわたり発掘調査が行われています。

 中臣遺跡の総面積は10万平方メートル以上と推定されています。検出した遺構・遺物は、旧石器時代後期の「ナイフ型石器」をはじめ、縄文時代後期の土壙・弥生時代中期の方形周溝墓・弥生時代中期~古墳時代後期に及ぶ竪穴式住居多数、掘立柱建物跡、平安時代の井戸跡など、きわめて長期間にわたるもので、縄文時代~平安時代まで断続的に続く生活跡であったことが解っています。

 最初に土器が発見された地名にちなんで「中臣遺跡」と命名されましたが、「中臣」という地名自体は、定かではありませんが、古代の山科に勢力のあった古代豪族中臣氏との関連を伺わせるものです。特に古墳後期以後の集落については中臣氏と何らかの関係を伺わせますが、関係を示す直接的な証拠はまだ見つかっていません。

 出土した一番古い遺物は、第74次調査で見つかった約2万年前のものと推定される旧石器時代後期の「ナイフ形石器」ですが、大事なことは、同時に剥片・破片を含めて約1,400点も見つかっている点です。これは製品としての「ナイフ型石器」だけでなく、「この地で製造された」ことを示しているからです。これは京都では他にはない貴重な遺跡であると言えます。

 その他の調査でも旧石器時代のものとして有舌尖頭器も出土しています。縄文時代のものとしては、鏃・槍先などの石器、縄文土器、晩期の「土器棺墓」なども発掘されています。また弥生時代のものとして、弥生式土器、石斧などの石器、竪穴式住居、方形周溝墓などが、また古墳時代~飛鳥時代には、土師器・須恵器・朝鮮半島(百済)製の土器のほか、竪穴式住居跡(多数)、掘立柱建物、土壙墓・古墳などが多数見つかっています。奈良~平安時代にかけても、土師器・須恵器のほか、掘立柱建物、土壙墓などが発見され、古代から中世にかけて、この地で綿々と人々の生活が営まれてきたことが確認されています。

【次表は、「第79次発掘調査現地説明会」の資料より】
時代 主な遺構 主な遺物
旧石器時代 石器作成の時の剥片
縄文時代 土器棺墓1基(晩期) 槍先などの石器
縄文土器
弥生時代 竪穴住居跡1棟(中期)
竪穴住居跡1棟(後期)
弥生土器
石斧などの石器
古墳時代後期~飛鳥時代 古墳9基 土壙墓8基
竪住居跡62棟
掘立柱建物10数棟
土師器 須恵器
朝鮮半島(百済)製の土器
刀子などの鉄製品
砥石などの石製品
奈良時代~平安時代 掘立柱建物数棟
土こう墓1基
土師器 須恵器

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