998 眉の如、雲居に見ゆる阿波の山、かけて漕ぐ舟、とまり知らずも
998 茲からは、眉毛のやうに、水平線の空の邊に見えてゐる、阿波の國の山を目がけて、漕いで行く舟よ。その泊り場所は何處なのだらうか。
右一首、船王(フネノオウ)の歌。
ふね‐の=おほきみ【舟(ノ)王】 舍人(ノ)親王の御子。淳仁天皇の御弟である。聖武天皇の神龜四年正月從四位下に敍せられ、天平十五年五月從四位上に進み、十八年四月弾正尹になり、孝謙天皇の天平寶字元年五月正四位下、淳仁天皇の同二年八月從三位に進み、三年六月、舍人親王を崇道盡敬皇帝と追謚せられた時、兄弟姉妹と共に、親王を稱し、三品に敍し、四年正月信部(中務)卿となり、六年正月二品に進んだが、八年十月惠美(ノ)押勝に黨した廉で、諸王に下つて、隱岐國に流された。(998)
折口信夫 口訳万葉集・万葉集辞典 <相互リンク付>
http://koromonotate.blogspot.com/2019/04/blog-post_14.html
阿波の国をよんだ歌は
令和の元号の影響か、万葉集に関心が集まっている。わが住む阿波の国にも万葉集ゆかりの地はないかと探した。万葉集ゆかりと言えるのは、万葉歌人がこの阿波に来て直接詠んだもの、あるいはこの阿波に暮らす詠み人知らずの人の和歌でもいい、実際に阿波の国で作られていなくてもこの阿波の国の地名を読み込んだ万葉作品でもよしとしよう。しかし残念ながら万葉歌人はこの阿波に来ていなかった(もし来ていたとしても記録も作品もない)から阿波の国で作られた作品はない。また阿波国住人の「読み人知らず」の歌もない。あるのはこの阿波国の地名を読み込んだ次の一首のみである。眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山
懸けて漕ぐ舟 泊まり知らずも
船王
この歌だけ見ると船王さんは、後代の土佐日記の紀貫之はんが土佐から都へ帰るため阿波沖を通ったように自身船に乗っていて詠んだ歌かなとおもうがそうではない。万葉集巻六のこの一首の位置や序の詞書を見れば、海が見下ろせる難波の宮(大阪の上六台地あたり)にいて沖合を淡路あるいは阿波の方向にむかって進んでいく船を見て(あるいはイメジして)詠んだ歌とわかる。
沖合を行くあの船、海上遠く眉のように見える山を指して進んでいるが、今夜の泊りはどこかしら、というような意味であろう。実は難波の宮から西方に広がる海上に阿波の山は見えない、摂津播磨か淡路の山ではあるが、はるかとおくかすんで見える山を阿波の山と表現したものであろう。
というわけで「阿波の山」という言葉は入っているが万葉集と阿波の結びつきはかなり薄いものと言わなければならない。しかし、この歌を由来としてわが徳島市の正面にそびえる山を眉山と命名し現在でも呼び親しまれていることを考えるとわずか一首ではあるが万葉からうまれた言葉がここ徳島で今に生きていることがわかる。この万葉歌は徳島では昔から有名で、眉山のいわれとしてわが郷土の大人も子供もみんな知っている。
その歌の万葉歌碑をみてみよう。まず鮎喰橋のたもとにある歌碑、向こうに眉山が見える。
そして眉山山頂にある万葉歌碑、石碑に刻まれた文字は万葉学者の「犬養孝」さんが揮毫したものである。原典とおなじ万葉仮名(漢字の音をあてて和歌を詠んでいる)である。
淡路島や紀伊水道の向こうにかすかに見える紀伊の山々、このような山を見て「眉のごと・・・」と詠んだのであろうか。
山頂展望台から撮った動画
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