2023年8月22日火曜日

比屋根安定『支那基督教史』(一九四〇年、生活社刊) と折口信夫


 終戦前にキリスト教牧師の集団に頼まれて古典の話をしに行ったとき、彼らから、記紀にあらわれている物語のあるものが旧約聖書の神話とほとんど同じだということを聞いた。さらに、彼らから、「あめりかの青年達は、我々と違って、この戦争にえるされむを回復する為に起された十字軍のような、非常な情熱を持ち初めているかもしれない」という詞を聞いて、「愕然とした」という(「神道宗教化の意義」、『折口信夫天皇論集』、傍線原文)

柄谷遊動論より

牧師とは比屋根安定のこと

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月報第四号

第十五巻附録

門外びとの接した折口先生
比屋根安定
 わたしは明治二十五年、麹町區飯田町で生れたから、國學院の構内に遊びに行った。今、日大病院のあるあたりで、城北中學(府立四中の前身)も國學院の構内にあり、運動を見に行った。しかし折口先生は、まだ國學院に来ておられなかつたであろう。
 大正六年、わたしは先生の恐らく第一著作『口譚、萬葉集』を入手して、初めて先生の名を知った。そのあと書に、今宮中學教師時代の思ひ出が記入してあり、顔がふくだか、ふかだかに似た生徒がいた、と懐しげに書いてあった。東洋大學の西洋哲學教授宮崎幸三君は、その頃青山學院の學生であつて、今宮中學時代に折口先生から教わったと、わたしに語った。
 昭和十九年の秋、わたしは日本基督教圏の局に務めていたが、都下の牧師たちを集めて、日本に關する研究會を開くことを企て、折口先生にお頼みに行った。先生は好く承諾され、わたしが少年時代に、約七ヶ年落した沖縄に米軍が来襲したので、先生は眉をひそめていておられた。先生は、沖縄に赴かれ、その民間傳承を研究されたので、先生はあの南島を愛しておられた。沖縄に關する研究論文の外、その詩作は、『古代感愛集』に數篇載せてある。『死者の書』を拝したのもその頃で、古代精神に感動した人に堀辰雄がいたことは、職後その文集をいて、初めて知った。長女が迢空先生を敬慕していたので戦後同伴して行つたところ、彼女の長歌を即座に関して下さる途中にやりと笑われた。「あなたの御宗旨も研究したいと思つています」と、「神、やぶれたまふ」の詩を詠ぜられた先生は、静かに告げられた。
 その後、わたしは三度ほどお遇したが、専ら芝居に就いて語り合った。わたしが市川齋入を見たことがあると申上げると、「齋入を見た人は、今では珍らしい」と云われた。先生は、大阪役者を見て成長されたが、わたしは、魁車も、右團次も、吉三郎も、芝雀(後の雀右衛門)も、多見臓も好きになれなかつた。率直にそう言ったところ、先生は微苦笑された。先生の芝居に關する諸文の中、役者の一生」(澤村源之助論、『かぶき讃』所載)を、わたしは最も重げる。紀國屋の清心女定九郎のも珍らしく、先生は温い同情ので、肌の太夫の一生を眺めておられた。
 今春、わたしは『世界宗教典』(創元社版)を騙したところ、その内容見本のため、實に懇ろな推薦文を書いて下さったが、その御厚意を生々世々忘れることができない。一月まえ、わたしは『聖徳太子繪傳』をオペラ風に試作し、冒頭に「釋迢空大人にたてまつる」として、雑誌『大法輪』に送ったところ、僅か数日のち先生の訃報に接した。わたしの心は、今も喪に服している。

     ー青山學院大學教授ー





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Jesuits · 1980 · ‎スニペット表示
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イエズス会士書簡集 Jesuits は中国のユダヤ教徒について語ったものである点で異色である。中国の開封府にユダヤ教徒がいたということは、比屋根安定氏の『支那基督教史』(生活社、昭和十五年刊)にもかなり詳細に述べられているから、日本の学界がこれ ...

比屋根安定『支那基督教史』(一九四〇年、生活社刊)

開封のユダヤ人について詳しい













日本宗教史

比屋根安定 著 出版者 三共出版社 出版年月日 大正14





「アタマの引き出し」は生きるチカラだ!: 「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる
https://e-satoken.blogspot.com/2013/08/blog-post_15.html

「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる



日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあった。このような見方をしている人もいるのである。

それは、国文学者で民俗学者でもあった折口信夫(1887~1953)である。敗戦後の昭和24年(1949年)6月に発表した「神道の新しい方向」の冒頭で以下のように語っている。

昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄つてゐようとは考へもつきませんでした。その或日、ふつと或(ある)啓示が胸に浮かんで来るやうな気持ちがして、愕然と致しました。それはこんな話を聞いたのです。あめりかの青年達がひよつとすると、あのえるされむを回復する爲に出来るだけの努力を費やした、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、と。もしさうだつたら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起こつても来ました。・・(以下略)・・
(出典:「神道の新しい方向」1949年 『折口信夫全集第二十巻 神道宗教篇』 P.461 傍線はオリジナルでは右サイド。ただし漢字は新字体に直した。ゴチックは引用者=さとう)

ほぼ同じ内容の発言を、敗戦からほぼ一年後の昭和21年(1946年)8月に神職の人たちを前に講演のかたちで行っている。翌年の昭和22年に「神道宗教化の意義」という論文にまとめられている。


私は終戦前に、牧師の団体に古典の話をしたことがあるが、その時に牧師達は、記紀に現れてゐる物語の或ものが、我々のきりすと教の旧約聖書の神話と、殆(ほとんど)同じだといふことを言いだした。それは、神道にも、きりすと教にも比較研究に値するものを、持つてゐるといふことになる。
其(その)人達のお話の中の、「或はあめりかの青年達は、我々と違つて、この戦争にえるされむを回復する爲に起こされた十字軍のやうな、非常な情熱を持ち初めてゐるかもしれない」という詞を聴いた時に、私は愕然とした。何故なら、日本人はその時、日本人が常に持つてゐる露悪主義が世間に露骨に出て、戦争に疲れきつてゐた時だつたからである。さうして日本人はその時、神様に対して、宗教的な情熱を持つていなかつた。我々にも十字軍を起こすやうな情熱はないのだ。・・(中略)・・戦争中の我々の信仰を省みると神々に対して悔いずには居られない。我々は様々祈願をしたけれど、我々の動機には利己的なことが多かつた。さうして神々の敗北といふことを考えなかつた。我々は神々が何故敗けなければならなかつたか、と言ふ理論を考えなければ、これからの日本国民生活はめちゃめちゃになる。・・(中略)・・それほど我々は奇蹟を信じてゐた。しかし、我々側には一つも現れず、向うばかりに現れた。それは、古代過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現に神を信じなかつたのだ。だから過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現実に神の信仰を持つてゐないのだから、敗けるのは信仰的に必然だと考へられた。・・(以下略)・・
(出典:「神道宗教化の意義」1947年 『折口信夫全集第二十巻 神道宗教篇』 P.445~446)

現役の米国大統領ジョージ・ブッシュ(ジュニア)から「十字軍」というコトバが不用意に(?)出てきたのは、2001年の「9-11」のテロ事件の追悼式においてであった。

報復としてのアフガニスタン紛争やイラク戦争などの軍事行動が「第十次十字軍」(The Tenth Crusade)と言われたのは、歴史的な意味での十字軍になぞらえた名称であるが、イスラーム側で激しい反発を招いたことを記憶している人も少なくないだろう。

アメリカ側の「十字軍(クルーセイド)」に対して、テロリスト側は「聖戦(ジハード)」と応酬、まさに政治学者のハンチントンの著書のタイトル「文明の衝突」ともなりかねない状況だったのだ。

そのとき思い出したのが先に引用した折口信夫の敗戦後の発言である。日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったという認識を示した発言である。しかも、宗教的情熱にあふれていたのはアメリカ側であり、必勝祈願という日本側の形骸化した国家神道は宗教的情熱をともなうものではなかったという痛切な反省である。日本政府は国家神道は宗教ではない、としていたのであった。

この文章を知ったのはずいぶん前のことだ。折口は戦争末期にキリスト教関係の団体からよばれて「古事記」についての講義を行ったらしい。

その後、『神道学者折口信夫とキリスト教』(濱田辰雄、聖学院大学出版会、1995)という本で、キリスト教関係者とは沖縄出身の宗教研究者 比屋根安定(ひやごん・あんてい)であることを知った。

ネット上の 「世界宗教用語大事典」によれば、比屋根安定の経歴は以下のようになっている。

【比屋根安定】 宗教史学者・牧師。東京出身。青山学院神学部・東大宗教学科卒。青山学院・東京神学大・ルーテル神学大教授(1892~1970)。

比屋根安定はキリスト者であったが、民俗学にも目配りのきいた宗教学者であった。『諸宗教事典』(聖文舎、1963)にはその成果が十分に反映されている。「折口信夫」という項目もある。 

内弟子であった国文学者で歌人の岡野弘彦氏の回想によれば、比較宗教学の研究も行っていた折口は英文の宗教学関連専門雑誌も読んでいたという。キリスト教にある種のシンパシーを感じていたらしいことは、日本の神の本質が現象的には多神教的でありながら、限りなく一神教に近いという発言にも反映しているような気もする。

おそらくキリスト教への関心は、折口信夫が平田篤胤(ひらた・あつたね)の大きな影響を受けているからでもあろう。国学者の平田篤胤はじつに多芸多才な人でもあったが、ひそかに入手した漢籍でキリスト教を知り、その教えを換骨奪胎して自分の著作に活用しているくらいなのだ。

神道の新しい方向



昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄つてゐようとは考へもつきませんでしたが、その或日、ふつと或啓示が胸に浮んで来るやうな気持ちがして、愕然と致しました。それは、あめりかの青年たちがひよつとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費した、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、もしさうだつたら、われ/\は、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起つて来ました。
けれども、静かだとはいふものゝ、われ/\の情熱は、まさにその時烈しく沸つてをりました。しかしわれ/\は、どうしても不安で/\なりませんでした。それは、日本の国に、果してそれだけの宗教的な情熱を持つた若者がゐるだらうかといふ考へでした。
日本の若者たちは、道徳的に優れてゐる生活をしてゐるかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遥かに劣つた生活をしてをりました。それは歯に衣を着せず、自分を庇はなければ、まさにさう言へることです。われ/\の国は、社会的の礼譲などゝいふことは、何よりも欠けてをりました。
それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことで御覧になりましても訣りますやうに、世の中に、礼儀が失はれてゐるとか、礼が欠けてゐるところから起る不規律だとかいふやうなことが、われ/\の身に迫つて来て、われ/\を苦痛にしてゐるのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いてゐるところから出てゐる。宗教的な、秩序ある生活をしてゐないから来るのだといふ心持ちがします。心持ちだけではありません。事実それが原因で、かういふ礼譲のない生活を続けてゐる訣です。これはどうしても宗教でなければ、救へません。仏教徒であつたわれ/\の家では、時を定めて寺へ詣る――さういふ生活を繰り返してをりますけれども、もうそれにはすつかり情熱がなくなつてをります。それからその慣例について、謙譲な内容がなくなつてをります。
ところが、たゞ一ついゝことは、われ/\に非常に幸福な救ひの時が来た、といふことです。われ/\にとつては、今の状態は決して幸福な状態だとは言へませんが、その中の万分の一の幸福を求めれば、かういふところから立ち直つてこそ、本当の宗教的な礼譲のある生活に入ることが出来る。義人のゐる、よい社会生活をすることが出来るといふことです。
しかし時々ふつと考へますのに、日本は一体宗教的の生活をする土台を持つてをるか、日本人自身は宗教的な情熱を持つてゐるか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が現れて来るか、といふことです。
事実、仏教徒の行動などを見ますと、実際宗教的な慣例に従つて宗教的な行動をして、宗教的な情熱を持つて来たやうにも見えますけれども、それは多くやはり、慣例に過ぎなかつたり、または啓蒙的な哲学を好む人たちが、享楽的に仏教思想を考へ、行動してゐるにすぎないといふやうな感じのすることもございます。殊に、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けてゐるといふことが出来ます。
神道では、これまで宗教化するといふことをば、大変いけないことのやうに考へる癖がついてをりました。つまり宗教として取り扱ふことは、神道の道徳的な要素を失つて行くことになる。神道をあまり道徳化して考へてをります為に、それから一歩でも出ることは道徳外れしたものゝやうにしてしまふ。神道は宗教ぢやない。宗教的に考へるのは、あの教派神道といはれるもの同様になるのと同じだといふ、不思議な潔癖から神道の道徳観を立てゝ、宗教に赴くことを、極力防ぎ拒みして来てゐました。
われ/\の近い経験では――勿論われ/\は生れてをらぬ時代ですが――明治維新前後に、日本の教派神道といふものは、雲のごとく興つて参りました。どうしてあの時代に、教派神道が盛んに興つて来たかと申しますと、これは先に申しました潔癖なる道徳観が、邪魔をすることが出来なかつた。一旦誤られた潔癖な神道観が、地を払うた為に、そこにむら/\と自由な神道の芽生えが現れて来たのです。
たゞ此時に、本当の指導者と申しますか、本当の自覚者と申しますか、正しい教養を持つて、正しい立場を持つた祖述者が出て来て、その宗教化を進めて行つたら、どんなにいゝ幾流かの神道教が現れたかも知れないのです。たゞ残念なことに、さういふ事情に行かないうちに、ばた/\と維新の事業は解決ついてしまひました。それから幸福な、仮りに幸福な状態が続いて参りました。その為にまた再び神道を宗教化するといふことが、道徳的にいけない、道徳的に潔癖に障るやうな心持ちが、再び盛んに起つて参りました。さうして日本の神道といふものは、宗教以外に出て行かうとしました。
只今におきましても、神道の根源は神社にあり、神社以外に神道はない、と思つてゐられる方が、随分世の中にあるだらうと思ひます。それについて、なほ反省して戴かなければならない。相変らずさうして行けば、われ/\は遂に、西洋の青年たちにも及ばない、宗教的情熱のこれつぱかりもないやうな生活を、続けて行かなければならないのです。思うて見れば、日本の神々は、曾ては仏教家の手によつて、仏教化されて、神の性格を発揚した時代もあります。仏教々理の上に、日本の神々を活かしたこともあつた訣です。
さういふ意味において、従来の日本の神と、其上に、仏教的な日本の神といふものが現れて参りました。しかし同時に、さういふ二通りの神をば信じてゐたのです。しかもその仏教化せられた日本の神々は、これは宗教の神として信じられてゐたのではないのです。たとへば法華経では、これに附属した経典擁護の神として、わが国の神を考へ、崇拝せられて来たにすぎません。日本の神として、独立した信仰の対象になつてゐた訣ではありません。だから日本の神が本当に宗教的に独立した、宗教的な渇仰の的になつて来たといふ事実は、今までの間になかつたと申してよいと思ひます。
一体、日本の神々の性質から申しますと、多神教的なものだといふ風に考へられて来てをりますが、事実においては日本の神を考へます時には、みな一神的な考へ方になるのです。
たとへば、沢山神々があつても、日本の神を考へる時には、天照大神を感じる。或は高皇産霊神を感じる、或は天御中主神を感じるといふやうに、一個の神だけをば感じる考へ癖といふものがあります。その間にいろ/\な神々、最も卑劣な考へ方では、いはゆる八百万の神といふやうな神観は、低い知識の上でこそ考へてゐますが、われ/\の宗教的或は信仰的な考へ方の上には、本当は現れては参りません。日本といふ国の信仰の形は、さういふ風があると見えて、仏教の側で申しましても、多神的な信仰の方面を持ちながら、その時代々々によつて、信仰の中心は、いつでも移動してをりまして、二・三或は一つの仏・菩薩が対象として尊信せられて参りました。釈迦であり、観音であり、或は薬師であり、地蔵であり、さういふ方々が中心として、信じられてゐたのです。これが同時に日本人の信仰の仕方だと思ひます。
日本人が数多の神を信じてゐるやうに見えますけれども、やはり考へ方の傾向は、一つ或は僅かの神々に帰して来るのだと思ひます。今日でも植民地に神社を造つたその経験を考へて見ますといふと、皆まづ天照大神を祀つてをります。この考へ方はおそらく多くの間違ひ――多くの植民政策を採る人の間違つた考へを含んでゐた、或はそれを指導する神道家が間違つた指導をしてゐた、といふことを意味してゐるのでせうけれども、やはりその間違ひの根本に、さういふ統一の行はれる一つの理由があつた。つまりどうしても、一神に考へが帰せられねばならぬところがあつたのだと思ひます。
それで、われ/\はこゝによく考へて見ねばならぬことは、日本の神々は、実は神社において、あんなに尊信を続けられて来たといふ風な形には見えてゐますけれども、神その方としての本当の情熱をもつての信仰を受けてをられたかといふことを、よく考へて見る必要があるのです。千年以来、神社教信仰の下火の時代が続いてゐたのです。例をとつて言へば、ぎりしやろうまにおける「神々の死」といつた年代が、千年以上続いてゐたと思はねばならぬのです。
仏教の信仰のために、日本の神は、その擁護神として存在したこと、欧洲の古代神の「聖何某セントナニガシ」といふやうな名で習合存続したやうなものであります。
われ/\は、日本の神々を、宗教の上に復活させて、千年以来の神のクビキから解放してさし上げなければならぬのです。こゝに新しい信徒に向つては、初めてそれらを呼び醒さなければならないでせう。とにかくさうしなければ、日本の只今のかういふ風に堕落しきつたやうな、あらゆる礼譲、あらゆる美しい習慣を失つてしまつた世の中は救ふことが出来ません。また、そればかりではありません。日本精神を云々する人々の根本の方針に誤つた処が、もしあつたとしたなら、この宗教を失つてゐた――宗教を考へることをしなかつた――、宗教をば、神道の上に考へることが罪悪であり、神を汚すことだと、さういつた考へを持つてゐたことが、根本の誤りだつたらうと思はれるのです。だからどうしてもわれ/\は、こゝにおいて神道が宗教として新しく復活して現れて来るのを、情熱を深めて仰ぎ望むべきだと思ひます。
たゞわれ/\の情熱だけで、宗教を出現させることの出来るものでもありません。宗教には何よりもまづ、自覚者が出現せねばなりません。神をば感じる人が出なければ、千部万部の経典や、それに相当する神学が組織せられてゐても、意味がありません。いくらわれ/\がきびしく待ち望んだところで、さういふ人がさういふ状態に入るといふことは、必しも起つて来ることでもありません。しかし、たゞわれ/\がさうした心構へにおいて、百人・千人、或は万人、多数の人間が憧憬をし、憧れてゐたら、遂にはさういふ神を感得する人が現れて来るだらう、おそらくさういふ宗教が実現して来るだらうと信じます。
其ばかりではない。おそらく最近に、教養の高い人の中から、きつと神道宗教の自覚者をば出すことになるだらうと思ひます。それには、われ/\は深い省みと強い感情とをもつて、われ/\自身の心から、われ/\自身の肉体から、迸り出るやうに、さういふ人が、啓示をもつて出て来るやうにし向けなければなりません。極端な言ひ方をすれば、われ/\幾万の神道教信者の中に、最も神の旨に叶つた予言者たり得るものありやといふことに帰するのです。
われ/\のすべきことは、さういふ時を待つ態度であります。もし私が宗教的自覚状態に入つて、深い神の意志を把握する――。さういふ時に至るまでの用意が出来てゐるかといふのです。われ/\は、どういふ神を得ようとしてゐるか。われ/\はどういふ神をば曾て持つてゐたか。かういふ解決を要する、最後的な疑問を持つてゐるのでなくてはなりません。
ところが、戦争末期になつて、不思議なことが起つたのです。誠に笑ふべき形を持つて現れて来たのですが――、そこに考へてよい旨が感じられました。それは神道家・官僚人らの間に、天照大神が上か、天御中主神が上かという争論が起つたことがございました。それをば世上の争ひとして、或は世上の争ひに似たやうなことで解決つけようとした人もあつたのです。其時、われ/\は非常に憤りを感じました。神々に関する知識を解決するのに、何たる行動をとるのだらう。宗教のことをば、どういふ筋合ひあつて、かういふ風に解決しようとするのか、神を汚すことの甚しいものとして、非常に残念に感じ、危く悲憤の涙をこぼすばかりに感じました。
かういふあり様だから、神々に背かれたのです。しかし今、冷やかになつて考へます反省は、日本のこれから後に現れて来る宗教上の神の実体といふものが、そこに示されてゐるのだといふことです。天照大神、或は天御中主神、それらの神々の間に漂蕩し、棚引いてゐる一種の宗教的な或性質の、混じてゐるところの神なるものが、暗示してゐるのではないかといふことです。
只今になつて、さう考へるのです。其はかういふことです。日本の信仰の中には、他国に多少その要素があつても、日本的にまた世界的にも、特殊であり、すべてに宗教から自由なものと言つていゝものゝあることです。
それは、高皇産霊神・神皇産霊神と言つてゐる――、あの産霊神の信仰です。字は、産むの「産」、たましひの「霊」で、魂を産むといふ風に宛てられてゐますが――、神自身の信仰はさうでなく、生きる力を持つた体中へ、魂をば植ゑつける、或は生命のない物質の中へ魂をば入れる、さうすると魂が発育するとともに、それを容れてゐる物質が、だん/\育つて来る。物質も膨れて来る。魂も発育して来るという風に、両方とも成長して参ります。その一番完全なものが、神、それから人間となつた。それの不完全な、物質的な現れの、最も著しく、強力に示したものが、国土或は島だ、と古代人は考へました。それが日本の大昔の神話に現れてゐる、大八洲国の出来たといふ物語り、或は神々が生れたといふ物語りです。
つまり神によつて体の中に結合せられた魂が、だん/\発育して来る、それとともに物質なり肉体なりが、また同時に成長して来る、その聖なる技術を行ふ神が、つまり高皇産霊神・神皇産霊神、即むすびの神であります。つまり霊魂を与へるとともに、肉体と霊魂との間に、生命を生じさせる、さういふ力を持つた神の信仰を、神道教の出発点に持つてをります。それで考へ易い誤りがあつて、日本は昔から、その産霊神をば祖先として考へてゐる家々もありました。
おなじ考へ方からして、古代の書物に、これを宮廷の祖先といふ風にも考へてゐるのです。皇祖とか祖宗とか書いてあります神の中には、この高皇産霊神・神皇産霊神たちを申してゐる例も多いのです。しかしよく考へますと、魂を植ゑつけた神で、人間神ではないのです。しかし日本人は、さういふ神々を祖先として感じ易かつた。その論理の筋は訣ります。
今にいたるまで、日本人は、信仰的に関係の深い神を、すぐさま祖先といふ風に考へ勝ちであります。その考へのために、祖先でない神を祖先とした例が、過去には沢山にあるのです。高皇産霊神・神皇産霊神も、人間としての日本人の祖先であらう訣はないのです。つまり、人間の魂を――肉体を成長させ、発育さした生命の本になるものを植ゑつけた、と考へられた神なのであります。
われ/\はまづ、産霊神を祖先として感ずることを止めなければなりません。宗教の神を、われ/\人間の祖先であるといふ風に考へるのは、神道教を誤謬に導くものです。それからして、宗教と関係の薄い特殊な倫理観をすら導き込むやうになつたのです。だからまづ其最初の難点であるところの、これらの大きな神々をば、われ/\の人間系図の中から引き離して、系図以外に独立した宗教上の神として考へるのが、至当だと思ひます。さうして其神によつて、われ/\の心身がかく発育して来た。われ/\の神話の上では、われ/\の住んでゐる此土地も、われ/\の眺める山川草木も、総て此神が、それ/″\、適当な霊魂を附与したのが発育して来て、国土として生き、草木として生き、山川として成長して来た。人間・動物・地理・地物皆、生命を完了してゐるのだといふことをば、まう一度、新しい立場から信じ直さなければならないと思ひます。つまりわれ/\の知識の復活が、まづ必要なのです。
神道教は要するに、この高皇産霊神・神皇産霊神を中心とした宗教神の筋目の上に、更に考へを進めて行かなければなりません。その用意もすでに、大体出来てをります。それが久しい神道学の準備せられた効果なのです。たゞわれ/\にまだ欠けてゐるのは、それを宗教化するところの情熱です。われ/\の前に漠々たるものは、さういふ宗教家が、われ/\の前に現れて来ることを待つてゐるばかりの、現実です。
われ/\が本当に此世の中の秩序を回復し、世の中をよい世の中にし、礼譲のある美しい世の中にするのには、まう一遍埋没した神々に、復活を乞はなければなりません。まう一遍神を信ずる心を、とり返さねばなりません。さうしない限り、この日本の秩序ある美しい社会生活といふものは、実現せられないだらうと思ひます。
其日まで、われ/\はかうして、神道の神学を組織するに努めてゐるでせう。さうして心静かに、神道宗教の上に、キヨい啓示を待つばかりです。 

「アタマの引き出し」は生きるチカラだ!: 「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる
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「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる



日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあった。このような見方をしている人もいるのである。

それは、国文学者で民俗学者でもあった折口信夫(1887~1953)である。敗戦後の昭和24年(1949年)6月に発表した「神道の新しい方向」の冒頭で以下のように語っている。

昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄つてゐようとは考へもつきませんでした。その或日、ふつと或(ある)啓示が胸に浮かんで来るやうな気持ちがして、愕然と致しました。それはこんな話を聞いたのです。あめりかの青年達がひよつとすると、あのえるされむを回復する爲に出来るだけの努力を費やした、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、と。もしさうだつたら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起こつても来ました。・・(以下略)・・
(出典:「神道の新しい方向」1949年 『折口信夫全集第二十巻 神道宗教篇』 P.461 傍線はオリジナルでは右サイド。ただし漢字は新字体に直した。ゴチックは引用者=さとう)

ほぼ同じ内容の発言を、敗戦からほぼ一年後の昭和21年(1946年)8月に神職の人たちを前に講演のかたちで行っている。翌年の昭和22年に「神道宗教化の意義」という論文にまとめられている。


私は終戦前に、牧師の団体に古典の話をしたことがあるが、その時に牧師達は、記紀に現れてゐる物語の或ものが、我々のきりすと教の旧約聖書の神話と、殆(ほとんど)同じだといふことを言いだした。それは、神道にも、きりすと教にも比較研究に値するものを、持つてゐるといふことになる。
其(その)人達のお話の中の、「或はあめりかの青年達は、我々と違つて、この戦争にえるされむを回復する爲に起こされた十字軍のやうな、非常な情熱を持ち初めてゐるかもしれない」という詞を聴いた時に、私は愕然とした。何故なら、日本人はその時、日本人が常に持つてゐる露悪主義が世間に露骨に出て、戦争に疲れきつてゐた時だつたからである。さうして日本人はその時、神様に対して、宗教的な情熱を持つていなかつた。我々にも十字軍を起こすやうな情熱はないのだ。・・(中略)・・戦争中の我々の信仰を省みると神々に対して悔いずには居られない。我々は様々祈願をしたけれど、我々の動機には利己的なことが多かつた。さうして神々の敗北といふことを考えなかつた。我々は神々が何故敗けなければならなかつたか、と言ふ理論を考えなければ、これからの日本国民生活はめちゃめちゃになる。・・(中略)・・それほど我々は奇蹟を信じてゐた。しかし、我々側には一つも現れず、向うばかりに現れた。それは、古代過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現に神を信じなかつたのだ。だから過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現実に神の信仰を持つてゐないのだから、敗けるのは信仰的に必然だと考へられた。・・(以下略)・・
(出典:「神道宗教化の意義」1947年 『折口信夫全集第二十巻 神道宗教篇』 P.445~446)

現役の米国大統領ジョージ・ブッシュ(ジュニア)から「十字軍」というコトバが不用意に(?)出てきたのは、2001年の「9-11」のテロ事件の追悼式においてであった。

報復としてのアフガニスタン紛争やイラク戦争などの軍事行動が「第十次十字軍」(The Tenth Crusade)と言われたのは、歴史的な意味での十字軍になぞらえた名称であるが、イスラーム側で激しい反発を招いたことを記憶している人も少なくないだろう。

アメリカ側の「十字軍(クルーセイド)」に対して、テロリスト側は「聖戦(ジハード)」と応酬、まさに政治学者のハンチントンの著書のタイトル「文明の衝突」ともなりかねない状況だったのだ。

そのとき思い出したのが先に引用した折口信夫の敗戦後の発言である。日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったという認識を示した発言である。しかも、宗教的情熱にあふれていたのはアメリカ側であり、必勝祈願という日本側の形骸化した国家神道は宗教的情熱をともなうものではなかったという痛切な反省である。日本政府は国家神道は宗教ではない、としていたのであった。

この文章を知ったのはずいぶん前のことだ。折口は戦争末期にキリスト教関係の団体からよばれて「古事記」についての講義を行ったらしい。

その後、『神道学者折口信夫とキリスト教』(濱田辰雄、聖学院大学出版会、1995)という本で、キリスト教関係者とは沖縄出身の宗教研究者 比屋根安定(ひやごん・あんてい)であることを知った。

ネット上の 「世界宗教用語大事典」によれば、比屋根安定の経歴は以下のようになっている。

【比屋根安定】 宗教史学者・牧師。東京出身。青山学院神学部・東大宗教学科卒。青山学院・東京神学大・ルーテル神学大教授(1892~1970)。

比屋根安定はキリスト者であったが、民俗学にも目配りのきいた宗教学者であった。『諸宗教事典』(聖文舎、1963)にはその成果が十分に反映されている。「折口信夫」という項目もある。 

内弟子であった国文学者で歌人の岡野弘彦氏の回想によれば、比較宗教学の研究も行っていた折口は英文の宗教学関連専門雑誌も読んでいたという。キリスト教にある種のシンパシーを感じていたらしいことは、日本の神の本質が現象的には多神教的でありながら、限りなく一神教に近いという発言にも反映しているような気もする。

おそらくキリスト教への関心は、折口信夫が平田篤胤(ひらた・あつたね)の大きな影響を受けているからでもあろう。国学者の平田篤胤はじつに多芸多才な人でもあったが、ひそかに入手した漢籍でキリスト教を知り、その教えを換骨奪胎して自分の著作に活用しているくらいなのだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/比屋根安定

比屋根安定

比屋根 安定(ひやね あんてい、1892年明治25年)10月3日 - 1970年昭和45年)7月10日)は、日本キリスト教神学者宗教学者東京都出身。

人物[編集]

先祖は首里那覇市)出身。姓は琉球方言読みで「ひやごん」と読む。照屋寛範は幼馴染。ほとんど東京で暮らし、沖縄には時々帰省する程度だった。

1917年青山学院神学部卒。1921年に青山学院大学、1949年東京神学大学教授となる。姉崎正治の教えを受ける。訳書も多い。1965年キリスト教功労者を受賞[1]

1970年7月10日、老人性気管支喘息のため死去、享年77歳[2][3]

著書

単著[編集]

  • 『日本宗教史』三共出版社、1925年4月。NDLJP:971133
  • 『世界宗教史』三共出版社、1926年5月。NDLJP:971190
  • 『埃及宗教文化史』春秋社、1930年2月。
  • 『希臘羅馬宗教思想史』春秋社、1931年3月。
  • 『吉利支丹迫害史』東方書院〈日本宗教講座〉、1933年12月。
  • 『東洋の使徒聖サヸエル伝 日本基督教史序説』日独書院〈基督教大学叢書 第1編〉、1934年6月。
  • 『日本近世基督教人物史』基督教思想叢書刊行会、1935年10月。
  • 『五餅二魚』日曜世界社、1935年12月。
  • 『世界巡礼記』教文館、1937年3月。
  • 『基督教の日本的展開』基督教思想叢書刊行会、1938年9月。
  • 『日本宗教史要』日独書院〈基督教教程叢書 第22編〉、1939年11月。
  • 『支那基督教史』生活社〈東亜叢書〉、1940年7月。
  • 『宗教史』姉崎正治閲補、東洋経済新報社〈現代日本文明史 第16巻〉、1941年5月。
  • 『明治以降の基督教伝道』大八洲出版〈大八洲史書〉、1947年3月。
  • 『基督教入門』大日本雄弁会講談社、1947年11月。
  • 『ウイリヤム・ジエイムズの宗教心理学』玄理社、1948年9月。
  • 『聖ザビエル伝』朝日新聞社、1949年5月。
  • 『日本プロテスタント九十年史』日本基督教団出版事業部〈基督教教程叢書 第3輯〉、1949年10月。
  • 『日本基督教史』教文館、1949年12月。
  • 『神仏の微笑』創元社、1950年11月。
  • 『日本宗教史』教文館、1951年5月。
  • 『キリスト教読本』池田書店〈今日の教養書選 第48〉、1952年。
  • 『教界三十五人像』日本基督教団出版部、1959年11月。
  • 『福音と異教地盤』日本基督教団出版部、1961年6月。
  • 『諸宗教事典』聖文舎、1963年12月。
  • 『日本の宗教地盤』聖文舎〈ともしびシリーズ 2〉、1969年1月。
  • 『日本近世基督教人物史』大空社〈伝記叢書 106〉、1992年12月。ISBN 9784872364057
  • 『基督教の日本的展開』大空社〈アジア学叢書 11〉、1996年9月。ISBN 9784756802507
  • 『支那基督教史』大空社〈アジア学叢書 245〉、2011年9月。ISBN 9784283008175

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宮田光雄 · 2003 · ‎スニペット表示
次の書籍のコンテンツと一致: – 144 ページ
近代日本におけるローマ書十三章 宮田光雄 144 しかし、比屋根において「民族精神と基督教信仰」との相互的な折衝と影響とを ... たとえば、日本人をイスラエルの失われた支族とみること、日本古典を旧約聖書の代用視すること、舶来のキリスト教を排撃 ...
濱田辰雄 · 1995 · ‎スニペット表示
次の書籍のコンテンツと一致: – 106 ページ
それはキリスト教の牧師で、また後に牧師養成機関である東京神学大学の教授となった比屋根安定の発意によるものであった。折口信夫全集の月報第四号(昭和三〇年一月、第一五巻附録)にある「比屋根安定『門外びとの接した折口先生』」という一文を見る。
ーーー



5 折口信夫と柳田国男 神道の普遍宗教化  
 以上、日本の社会とその歴史を理解するために、柳田国男の理論が役立つことを述べた。しかし、柳田の関心はあくまで固有信仰にあった。民俗学は、それを探る方法にほかならなかった。柳田の特異性は、彼の弟子であり、同様に神道と民俗学について考えていた折口信夫と比較することで明らかになるだろう。柳田と違って、折口は敗戦をまったく予期しておらず、一九四五年夏になって、つぎのように考えた。 

 昭和二十年の夏のことでした。/まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄っていようとは考えもつきませんでしたが、その或日、ふっと或啓示が胸に浮んで来るような気持ちがして、愕然と致しました。それは、あめりかの青年たちがひょっとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費した、十字軍における彼らの祖先の情熱をもって、この戦争に努力しているのではなかろうか、もしそうだったら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだろうかという、静かな反省が起って来ました。 (「神道の新しい方向」『折口信夫天皇論集』、傍線原文)

  実は、右のような「啓示」は、折口自身のものではない。折口は別の論文でこう記している。

 終戦前にキリスト教牧師の集団に頼まれて古典の話をしに行ったとき、彼らから、記紀にあらわれている物語のあるものが旧約聖書の神話とほとんど同じだということを聞いた。さらに、彼らから、「あめりかの青年達は、我々と違って、この戦争にえるされむを回復する為に起された十字軍のような、非常な情熱を持ち初めているかもしれない」という詞を聞いて、「愕然とした」という(「神道宗教化の意義」、同前、傍線原文)。

  敗戦後の折口の宗教論は、ユダヤ・キリスト教との類推、とりわけユダヤ教の起源から着想を得たものである。彼は日本の敗戦を「神の敗北」として見た。その結果、国家神道は棄てられ、現人神としての天皇が否定された。そのとき、折口はつぎのように考えた。

  神様が敗れたということは、我々が宗教的な生活をせず、我々の行為が神に対する情熱を無視し、神を汚したから神の威力が発揮出来なかった、と言うことになる。つまり、神々に対する感謝と懺悔とが、足りなかったということであると思う。その神の敗北を考えて見ねば、神道の神様の本当の力を説明することは出来ないと思う。少くとも神をこのどん底に落したのは、我々神に仕える者が責任をとるべきだ。 (同前)

  このようにいうとき、彼の念頭にあったのは、先に述べたごとく、国家の滅亡の責任を神にではなく人間に求めた、バビロン捕囚時代のユダヤ人である。そこで、折口は、神道を「民族教」から「人類教」にしなければならない、と考えた。《神道は普遍化に大いに努力しなくてはならない。いすらえる・えじぷと地方に起った信仰がだんだん拡って、遂に今日のきりすと教にまでなったように、神道の中にある普遍化すべき要素を出来るだけ広めてゆくことは大切である》(「民族教より人類教へ」、同前、傍線原文)。 
 以上で明らかなように、折口は戦後、神道をキリスト教のような「人類教」にしようとしていたのである。《人類教と民族教とのお話をするのは他の宗教を圧倒せんとしているのではない。神道を世界に広めるのは世界を征服せんとしているものではなく、そんな考えは偶、先輩の国学者たちの研究が、一部の人達によって極端に解釈されて来たから起ったのである》(同前)。さらに、折口はいう。《日本人は祖先神と神様とを結びつけるという傾向があるが、これは誤りではないかと思う》(「神道宗教化の意義」)。これが、柳田国男への批判であることはいうまでもない。折口は、神道から、民族宗教的、先祖信仰的な面をとりされば、普遍宗教になると考えていた。 

  ユダヤ教はいかにして互酬的な関係を超えたのか  

 しかし、ここで疑問が幾つかある。第一に、普遍宗教であるためには、先祖信仰を否定しなければならないという考えに関してである。このような考えは一般的に存在するが、実は、そう簡単な話ではない。通常、先祖信仰は原始的宗教だと考えられているが、フォーテスは、先祖崇拝に呪術とは異なる宗教の本質を見出した。《タレンシ社会は、ロバートソン・スミスが『セム族の宗教』の中で、優れた直観力をもって描き出した「初期」宗教社会の範例にぴったりだった》(『祖先崇拝の論理』)。ロバートソン・スミスによれば、宗教は、「不可知の力に対する漠然とした怖れからではなく、崇拝する者たちと強固な親族関係の絆で結ばれている既知の神々に対する愛情をこめた崇敬から」始まったという。 
 神が人を愛する、というような考えは、呪術や自然神信仰から来ることはない。ゆえに、それは先祖信仰から来るというほかない。もちろん、先祖信仰がそのままで普遍宗教となりうるわけではない。そもそも、先祖信仰は限られた氏族の間でしか存立できない。国家社会は、多数の氏族神を超えた超越的な神を必要とする。神の超越化は同時に、祭司・神官の地位を超越化する。神の超越性は、専制国家の成立とともにさらに強化され、世界帝国ではその極に達して、「世界神」が生じる。  
 だが、それが普遍宗教かといえば、そうではない。そこには「愛」が欠けている。つまり、神が人を愛する、および人が神を愛する、という関係が存在しない。セム族の宗教、すなわちユダヤ教にそれが存在するのは、そこに、先祖信仰が回復されているからだ。もちろん、それは先祖信仰のままではない。ここでは、先祖信仰がいわば〝高次元〟で回復されているのである。ゆえに、先祖信仰を否定すれば、普遍的になるというのは錯誤である。  
 では、どうして、そのようなことがセム族の宗教においてありえたのか。セム族の神のようなものはオリエントにはいくらもあった。セム族の神では、「神と人との契約」があった、といわれる。が、それは、部族の連合体を形成するにあたって神の下に誓約することであるから、セム族にかぎらない。ギリシアのポリスも、アポロンやアテネといった神との契約というかたちをとって形成されたのである。 
 このような契約は互酬的である。たとえば、人が神を信じ従うならば、神もまた人を助ける。その逆も成り立つ。したがって、神が人の信仰に対して十分に報いないならば、神は棄てられる。たとえば、国家が滅びるなら、人々は神を棄てる。多くの神がそのようにして棄てられてきた。セム族の場合も例外ではない。イスラエル王国が滅んだとき、多くの人々が神を棄てたのだ。ところが、ユダ王国が滅んで、バビロンの捕囚となった人々の間で、未曾有の出来事があった。人々は神を棄てなかった。国家の滅亡の責任を、神の側でなく人間の側に求めたのである。自分らの信仰が欠けていたことが、滅亡の原因である、と。 
 この時点で、神と人間の関係が根本的に変わった。それは、互酬的な関係が超えられたということである。人が神を愛し神が人を愛する、というような関係は、このとき、初めて生まれた。それが「神と人との契約」であるとすれば、それは古代に始まったのではなく、バビロンの捕囚となった時期に生じたのだ。ただ、それは、その後に編纂された聖書において、遡行的にモーセ神話に投射されたのである。だが、重要な転換点は、王国の滅亡という出来事にあった。 

  折口は先祖崇拝を否定し、教祖を待望した

  折口信夫が、日本の敗戦=神の敗北の中で、神道の再生、というより、神道の普遍宗教化を考えたとき、ユダヤ教の歴史を踏まえていたことは明白である。しかし、折口のいうことは、知的な類推にすぎない。彼はつぎの点を見ていない。たとえば、バビロンの捕囚時代、人々は商業に従事した。その意味で、彼らはカナンの定住農耕社会から、遊動民的な社会に戻ったのである。国家が滅亡したため、専制国家と結びついた祭司の権力は否定され、決定は人々の討議によってなされるようになった。こうした世俗的な社会的変化が、宗教的変化の裏にあったのだ。つまり、神と人の関係が変わったのは、人と人の関係が変わったからである。 
 しかるに、折口にとっては、宗教は神官のものであり、教義理論の問題であった。彼が新たな神道の理論を設計したのもそのためである。もちろん、彼はそれだけでは不十分であることを知っていた。真の変化をもたらすのは、神学者ではなく、預言者のような宗教的人格である。折口はいう。《宗教は自覚者が出て来ねばならぬので、そう註文通りには行かぬ。だからその教祖が現れて来なければ、我々の望むような宗教が現れて来ないのは当然だ》(「神道宗教化の意義」)。そこで、自分のような学者にできるのは、そのような教祖があらわれるのを待ちながら、それに備えて神学をうち立てることだ。教祖が出る前に神学体系を整備するというのは、奇妙な考えであるが、折口はつぎのようにいう。

  仏教も、きりすと教も、その自覚者がうち立てたのではなく、その子や子孫が神学的に改造を加えている。それは我々の文化が進まない時に、そういう風になったから尊敬されるので、天理教などは、我々の文化を追いかけて来たから軽蔑されているのだ。だから我々はそうした自覚者が出て来た時に、それをうち立てるべき神学の為に勉強しなければならぬ。 日本の神道で問題になるのは、神道を宗教化すると、如何なる神が現れてくるかということだ。神道が一神教であるべきか、多神教であるべきかは、それは教祖がやるべきことであるけれど、我々はそれを予測する為に努力しなければならぬ。 (同前、傍線原文)

  実は、そのような教祖は戦後日本に出現した。たとえば、〝踊る宗教〟で有名な北村サヨがそうである。中山みき(天理教)、出口なお(大本教)に続いて、一介の農婦が教祖となったのは、ある意味で、神道が日本の社会的現実に根ざした宗教的活力をもっていたことを意味する。しかし、折口はそのような教派神道には関心を持たなかった。神道を国家神道の線で考えていたからだ。彼が敗戦を、「神敗れたまひぬ」という事態として受け取ったのは、神が国家神道の神であったからである。

 折口はそこから神道人類教化を考えた。それは、神道から先祖崇拝の要素を取り除くことにほかならなかった。新たな神道を「世界に広める」と、折口はいう。彼がいう「神道人類教化」は、先ほど述べたバビロン捕囚におけるユダヤ教の成立過程とは、似て非なるものである。むしろ、それは、明治以後の富国強兵政策では敗北したから、今後は「文化国家」として再出発して世界の承認を得ようという、戦後の日本国家の方針と類似するものである。
  折口の「神道人類教化」の提唱が何の影響力ももたなかったのは、たんに理論的であったからではない。むしろ、理論としての力をもたなかったからだ。それは、神道の普遍宗教化を論じながら、かつて普遍宗教を出現させた歴史的・社会的現実を見ることなく、たんにそれを教義理論の上でしか考えていなかったということである。

神道の新しい方向



昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄つてゐようとは考へもつきませんでしたが、その或日、ふつと或啓示が胸に浮んで来るやうな気持ちがして、愕然と致しました。それは、あめりかの青年たちがひよつとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費した、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、もしさうだつたら、われ/\は、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起つて来ました。
けれども、静かだとはいふものゝ、われ/\の情熱は、まさにその時烈しく沸つてをりました。しかしわれ/\は、どうしても不安で/\なりませんでした。それは、日本の国に、果してそれだけの宗教的な情熱を持つた若者がゐるだらうかといふ考へでした。
日本の若者たちは、道徳的に優れてゐる生活をしてゐるかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遥かに劣つた生活をしてをりました。それは歯に衣を着せず、自分を庇はなければ、まさにさう言へることです。われ/\の国は、社会的の礼譲などゝいふことは、何よりも欠けてをりました。
それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことで御覧になりましても訣りますやうに、世の中に、礼儀が失はれてゐるとか、礼が欠けてゐるところから起る不規律だとかいふやうなことが、われ/\の身に迫つて来て、われ/\を苦痛にしてゐるのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いてゐるところから出てゐる。宗教的な、秩序ある生活をしてゐないから来るのだといふ心持ちがします。心持ちだけではありません。事実それが原因で、かういふ礼譲のない生活を続けてゐる訣です。これはどうしても宗教でなければ、救へません。仏教徒であつたわれ/\の家では、時を定めて寺へ詣る――さういふ生活を繰り返してをりますけれども、もうそれにはすつかり情熱がなくなつてをります。それからその慣例について、謙譲な内容がなくなつてをります。
ところが、たゞ一ついゝことは、われ/\に非常に幸福な救ひの時が来た、といふことです。われ/\にとつては、今の状態は決して幸福な状態だとは言へませんが、その中の万分の一の幸福を求めれば、かういふところから立ち直つてこそ、本当の宗教的な礼譲のある生活に入ることが出来る。義人のゐる、よい社会生活をすることが出来るといふことです。
しかし時々ふつと考へますのに、日本は一体宗教的の生活をする土台を持つてをるか、日本人自身は宗教的な情熱を持つてゐるか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が現れて来るか、といふことです。
事実、仏教徒の行動などを見ますと、実際宗教的な慣例に従つて宗教的な行動をして、宗教的な情熱を持つて来たやうにも見えますけれども、それは多くやはり、慣例に過ぎなかつたり、または啓蒙的な哲学を好む人たちが、享楽的に仏教思想を考へ、行動してゐるにすぎないといふやうな感じのすることもございます。殊に、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けてゐるといふことが出来ます。
神道では、これまで宗教化するといふことをば、大変いけないことのやうに考へる癖がついてをりました。つまり宗教として取り扱ふことは、神道の道徳的な要素を失つて行くことになる。神道をあまり道徳化して考へてをります為に、それから一歩でも出ることは道徳外れしたものゝやうにしてしまふ。神道は宗教ぢやない。宗教的に考へるのは、あの教派神道といはれるもの同様になるのと同じだといふ、不思議な潔癖から神道の道徳観を立てゝ、宗教に赴くことを、極力防ぎ拒みして来てゐました。
われ/\の近い経験では――勿論われ/\は生れてをらぬ時代ですが――明治維新前後に、日本の教派神道といふものは、雲のごとく興つて参りました。どうしてあの時代に、教派神道が盛んに興つて来たかと申しますと、これは先に申しました潔癖なる道徳観が、邪魔をすることが出来なかつた。一旦誤られた潔癖な神道観が、地を払うた為に、そこにむら/\と自由な神道の芽生えが現れて来たのです。
たゞ此時に、本当の指導者と申しますか、本当の自覚者と申しますか、正しい教養を持つて、正しい立場を持つた祖述者が出て来て、その宗教化を進めて行つたら、どんなにいゝ幾流かの神道教が現れたかも知れないのです。たゞ残念なことに、さういふ事情に行かないうちに、ばた/\と維新の事業は解決ついてしまひました。それから幸福な、仮りに幸福な状態が続いて参りました。その為にまた再び神道を宗教化するといふことが、道徳的にいけない、道徳的に潔癖に障るやうな心持ちが、再び盛んに起つて参りました。さうして日本の神道といふものは、宗教以外に出て行かうとしました。
只今におきましても、神道の根源は神社にあり、神社以外に神道はない、と思つてゐられる方が、随分世の中にあるだらうと思ひます。それについて、なほ反省して戴かなければならない。相変らずさうして行けば、われ/\は遂に、西洋の青年たちにも及ばない、宗教的情熱のこれつぱかりもないやうな生活を、続けて行かなければならないのです。思うて見れば、日本の神々は、曾ては仏教家の手によつて、仏教化されて、神の性格を発揚した時代もあります。仏教々理の上に、日本の神々を活かしたこともあつた訣です。
さういふ意味において、従来の日本の神と、其上に、仏教的な日本の神といふものが現れて参りました。しかし同時に、さういふ二通りの神をば信じてゐたのです。しかもその仏教化せられた日本の神々は、これは宗教の神として信じられてゐたのではないのです。たとへば法華経では、これに附属した経典擁護の神として、わが国の神を考へ、崇拝せられて来たにすぎません。日本の神として、独立した信仰の対象になつてゐた訣ではありません。だから日本の神が本当に宗教的に独立した、宗教的な渇仰の的になつて来たといふ事実は、今までの間になかつたと申してよいと思ひます。
一体、日本の神々の性質から申しますと、多神教的なものだといふ風に考へられて来てをりますが、事実においては日本の神を考へます時には、みな一神的な考へ方になるのです。
たとへば、沢山神々があつても、日本の神を考へる時には、天照大神を感じる。或は高皇産霊神を感じる、或は天御中主神を感じるといふやうに、一個の神だけをば感じる考へ癖といふものがあります。その間にいろ/\な神々、最も卑劣な考へ方では、いはゆる八百万の神といふやうな神観は、低い知識の上でこそ考へてゐますが、われ/\の宗教的或は信仰的な考へ方の上には、本当は現れては参りません。日本といふ国の信仰の形は、さういふ風があると見えて、仏教の側で申しましても、多神的な信仰の方面を持ちながら、その時代々々によつて、信仰の中心は、いつでも移動してをりまして、二・三或は一つの仏・菩薩が対象として尊信せられて参りました。釈迦であり、観音であり、或は薬師であり、地蔵であり、さういふ方々が中心として、信じられてゐたのです。これが同時に日本人の信仰の仕方だと思ひます。
日本人が数多の神を信じてゐるやうに見えますけれども、やはり考へ方の傾向は、一つ或は僅かの神々に帰して来るのだと思ひます。今日でも植民地に神社を造つたその経験を考へて見ますといふと、皆まづ天照大神を祀つてをります。この考へ方はおそらく多くの間違ひ――多くの植民政策を採る人の間違つた考へを含んでゐた、或はそれを指導する神道家が間違つた指導をしてゐた、といふことを意味してゐるのでせうけれども、やはりその間違ひの根本に、さういふ統一の行はれる一つの理由があつた。つまりどうしても、一神に考へが帰せられねばならぬところがあつたのだと思ひます。
それで、われ/\はこゝによく考へて見ねばならぬことは、日本の神々は、実は神社において、あんなに尊信を続けられて来たといふ風な形には見えてゐますけれども、神その方としての本当の情熱をもつての信仰を受けてをられたかといふことを、よく考へて見る必要があるのです。千年以来、神社教信仰の下火の時代が続いてゐたのです。例をとつて言へば、ぎりしやろうまにおける「神々の死」といつた年代が、千年以上続いてゐたと思はねばならぬのです。
仏教の信仰のために、日本の神は、その擁護神として存在したこと、欧洲の古代神の「聖何某セントナニガシ」といふやうな名で習合存続したやうなものであります。
われ/\は、日本の神々を、宗教の上に復活させて、千年以来の神のクビキから解放してさし上げなければならぬのです。こゝに新しい信徒に向つては、初めてそれらを呼び醒さなければならないでせう。とにかくさうしなければ、日本の只今のかういふ風に堕落しきつたやうな、あらゆる礼譲、あらゆる美しい習慣を失つてしまつた世の中は救ふことが出来ません。また、そればかりではありません。日本精神を云々する人々の根本の方針に誤つた処が、もしあつたとしたなら、この宗教を失つてゐた――宗教を考へることをしなかつた――、宗教をば、神道の上に考へることが罪悪であり、神を汚すことだと、さういつた考へを持つてゐたことが、根本の誤りだつたらうと思はれるのです。だからどうしてもわれ/\は、こゝにおいて神道が宗教として新しく復活して現れて来るのを、情熱を深めて仰ぎ望むべきだと思ひます。
たゞわれ/\の情熱だけで、宗教を出現させることの出来るものでもありません。宗教には何よりもまづ、自覚者が出現せねばなりません。神をば感じる人が出なければ、千部万部の経典や、それに相当する神学が組織せられてゐても、意味がありません。いくらわれ/\がきびしく待ち望んだところで、さういふ人がさういふ状態に入るといふことは、必しも起つて来ることでもありません。しかし、たゞわれ/\がさうした心構へにおいて、百人・千人、或は万人、多数の人間が憧憬をし、憧れてゐたら、遂にはさういふ神を感得する人が現れて来るだらう、おそらくさういふ宗教が実現して来るだらうと信じます。
其ばかりではない。おそらく最近に、教養の高い人の中から、きつと神道宗教の自覚者をば出すことになるだらうと思ひます。それには、われ/\は深い省みと強い感情とをもつて、われ/\自身の心から、われ/\自身の肉体から、迸り出るやうに、さういふ人が、啓示をもつて出て来るやうにし向けなければなりません。極端な言ひ方をすれば、われ/\幾万の神道教信者の中に、最も神の旨に叶つた予言者たり得るものありやといふことに帰するのです。
われ/\のすべきことは、さういふ時を待つ態度であります。もし私が宗教的自覚状態に入つて、深い神の意志を把握する――。さういふ時に至るまでの用意が出来てゐるかといふのです。われ/\は、どういふ神を得ようとしてゐるか。われ/\はどういふ神をば曾て持つてゐたか。かういふ解決を要する、最後的な疑問を持つてゐるのでなくてはなりません。
ところが、戦争末期になつて、不思議なことが起つたのです。誠に笑ふべき形を持つて現れて来たのですが――、そこに考へてよい旨が感じられました。それは神道家・官僚人らの間に、天照大神が上か、天御中主神が上かという争論が起つたことがございました。それをば世上の争ひとして、或は世上の争ひに似たやうなことで解決つけようとした人もあつたのです。其時、われ/\は非常に憤りを感じました。神々に関する知識を解決するのに、何たる行動をとるのだらう。宗教のことをば、どういふ筋合ひあつて、かういふ風に解決しようとするのか、神を汚すことの甚しいものとして、非常に残念に感じ、危く悲憤の涙をこぼすばかりに感じました。
かういふあり様だから、神々に背かれたのです。しかし今、冷やかになつて考へます反省は、日本のこれから後に現れて来る宗教上の神の実体といふものが、そこに示されてゐるのだといふことです。天照大神、或は天御中主神、それらの神々の間に漂蕩し、棚引いてゐる一種の宗教的な或性質の、混じてゐるところの神なるものが、暗示してゐるのではないかといふことです。
只今になつて、さう考へるのです。其はかういふことです。日本の信仰の中には、他国に多少その要素があつても、日本的にまた世界的にも、特殊であり、すべてに宗教から自由なものと言つていゝものゝあることです。
それは、高皇産霊神・神皇産霊神と言つてゐる――、あの産霊神の信仰です。字は、産むの「産」、たましひの「霊」で、魂を産むといふ風に宛てられてゐますが――、神自身の信仰はさうでなく、生きる力を持つた体中へ、魂をば植ゑつける、或は生命のない物質の中へ魂をば入れる、さうすると魂が発育するとともに、それを容れてゐる物質が、だん/\育つて来る。物質も膨れて来る。魂も発育して来るという風に、両方とも成長して参ります。その一番完全なものが、神、それから人間となつた。それの不完全な、物質的な現れの、最も著しく、強力に示したものが、国土或は島だ、と古代人は考へました。それが日本の大昔の神話に現れてゐる、大八洲国の出来たといふ物語り、或は神々が生れたといふ物語りです。
つまり神によつて体の中に結合せられた魂が、だん/\発育して来る、それとともに物質なり肉体なりが、また同時に成長して来る、その聖なる技術を行ふ神が、つまり高皇産霊神・神皇産霊神、即むすびの神であります。つまり霊魂を与へるとともに、肉体と霊魂との間に、生命を生じさせる、さういふ力を持つた神の信仰を、神道教の出発点に持つてをります。それで考へ易い誤りがあつて、日本は昔から、その産霊神をば祖先として考へてゐる家々もありました。
おなじ考へ方からして、古代の書物に、これを宮廷の祖先といふ風にも考へてゐるのです。皇祖とか祖宗とか書いてあります神の中には、この高皇産霊神・神皇産霊神たちを申してゐる例も多いのです。しかしよく考へますと、魂を植ゑつけた神で、人間神ではないのです。しかし日本人は、さういふ神々を祖先として感じ易かつた。その論理の筋は訣ります。
今にいたるまで、日本人は、信仰的に関係の深い神を、すぐさま祖先といふ風に考へ勝ちであります。その考へのために、祖先でない神を祖先とした例が、過去には沢山にあるのです。高皇産霊神・神皇産霊神も、人間としての日本人の祖先であらう訣はないのです。つまり、人間の魂を――肉体を成長させ、発育さした生命の本になるものを植ゑつけた、と考へられた神なのであります。
われ/\はまづ、産霊神を祖先として感ずることを止めなければなりません。宗教の神を、われ/\人間の祖先であるといふ風に考へるのは、神道教を誤謬に導くものです。それからして、宗教と関係の薄い特殊な倫理観をすら導き込むやうになつたのです。だからまづ其最初の難点であるところの、これらの大きな神々をば、われ/\の人間系図の中から引き離して、系図以外に独立した宗教上の神として考へるのが、至当だと思ひます。さうして其神によつて、われ/\の心身がかく発育して来た。われ/\の神話の上では、われ/\の住んでゐる此土地も、われ/\の眺める山川草木も、総て此神が、それ/″\、適当な霊魂を附与したのが発育して来て、国土として生き、草木として生き、山川として成長して来た。人間・動物・地理・地物皆、生命を完了してゐるのだといふことをば、まう一度、新しい立場から信じ直さなければならないと思ひます。つまりわれ/\の知識の復活が、まづ必要なのです。
神道教は要するに、この高皇産霊神・神皇産霊神を中心とした宗教神の筋目の上に、更に考へを進めて行かなければなりません。その用意もすでに、大体出来てをります。それが久しい神道学の準備せられた効果なのです。たゞわれ/\にまだ欠けてゐるのは、それを宗教化するところの情熱です。われ/\の前に漠々たるものは、さういふ宗教家が、われ/\の前に現れて来ることを待つてゐるばかりの、現実です。
われ/\が本当に此世の中の秩序を回復し、世の中をよい世の中にし、礼譲のある美しい世の中にするのには、まう一遍埋没した神々に、復活を乞はなければなりません。まう一遍神を信ずる心を、とり返さねばなりません。さうしない限り、この日本の秩序ある美しい社会生活といふものは、実現せられないだらうと思ひます。
其日まで、われ/\はかうして、神道の神学を組織するに努めてゐるでせう。さうして心静かに、神道宗教の上に、キヨい啓示を待つばかりです。 

「アタマの引き出し」は生きるチカラだ!: 「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる
https://e-satoken.blogspot.com/2013/08/blog-post_15.html

「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる



日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあった。このような見方をしている人もいるのである。

それは、国文学者で民俗学者でもあった折口信夫(1887~1953)である。敗戦後の昭和24年(1949年)6月に発表した「神道の新しい方向」の冒頭で以下のように語っている。

昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄つてゐようとは考へもつきませんでした。その或日、ふつと或(ある)啓示が胸に浮かんで来るやうな気持ちがして、愕然と致しました。それはこんな話を聞いたのです。あめりかの青年達がひよつとすると、あのえるされむを回復する爲に出来るだけの努力を費やした、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、と。もしさうだつたら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起こつても来ました。・・(以下略)・・
(出典:「神道の新しい方向」1949年 『折口信夫全集第二十巻 神道宗教篇』 P.461 傍線はオリジナルでは右サイド。ただし漢字は新字体に直した。ゴチックは引用者=さとう)

ほぼ同じ内容の発言を、敗戦からほぼ一年後の昭和21年(1946年)8月に神職の人たちを前に講演のかたちで行っている。翌年の昭和22年に「神道宗教化の意義」という論文にまとめられている。


私は終戦前に、牧師の団体に古典の話をしたことがあるが、その時に牧師達は、記紀に現れてゐる物語の或ものが、我々のきりすと教の旧約聖書の神話と、殆(ほとんど)同じだといふことを言いだした。それは、神道にも、きりすと教にも比較研究に値するものを、持つてゐるといふことになる。
其(その)人達のお話の中の、「或はあめりかの青年達は、我々と違つて、この戦争にえるされむを回復する爲に起こされた十字軍のやうな、非常な情熱を持ち初めてゐるかもしれない」という詞を聴いた時に、私は愕然とした。何故なら、日本人はその時、日本人が常に持つてゐる露悪主義が世間に露骨に出て、戦争に疲れきつてゐた時だつたからである。さうして日本人はその時、神様に対して、宗教的な情熱を持つていなかつた。我々にも十字軍を起こすやうな情熱はないのだ。・・(中略)・・戦争中の我々の信仰を省みると神々に対して悔いずには居られない。我々は様々祈願をしたけれど、我々の動機には利己的なことが多かつた。さうして神々の敗北といふことを考えなかつた。我々は神々が何故敗けなければならなかつたか、と言ふ理論を考えなければ、これからの日本国民生活はめちゃめちゃになる。・・(中略)・・それほど我々は奇蹟を信じてゐた。しかし、我々側には一つも現れず、向うばかりに現れた。それは、古代過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現に神を信じなかつたのだ。だから過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現実に神の信仰を持つてゐないのだから、敗けるのは信仰的に必然だと考へられた。・・(以下略)・・
(出典:「神道宗教化の意義」1947年 『折口信夫全集第二十巻 神道宗教篇』 P.445~446)

現役の米国大統領ジョージ・ブッシュ(ジュニア)から「十字軍」というコトバが不用意に(?)出てきたのは、2001年の「9-11」のテロ事件の追悼式においてであった。

報復としてのアフガニスタン紛争やイラク戦争などの軍事行動が「第十次十字軍」(The Tenth Crusade)と言われたのは、歴史的な意味での十字軍になぞらえた名称であるが、イスラーム側で激しい反発を招いたことを記憶している人も少なくないだろう。

アメリカ側の「十字軍(クルーセイド)」に対して、テロリスト側は「聖戦(ジハード)」と応酬、まさに政治学者のハンチントンの著書のタイトル「文明の衝突」ともなりかねない状況だったのだ。

そのとき思い出したのが先に引用した折口信夫の敗戦後の発言である。日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったという認識を示した発言である。しかも、宗教的情熱にあふれていたのはアメリカ側であり、必勝祈願という日本側の形骸化した国家神道は宗教的情熱をともなうものではなかったという痛切な反省である。日本政府は国家神道は宗教ではない、としていたのであった。

この文章を知ったのはずいぶん前のことだ。折口は戦争末期にキリスト教関係の団体からよばれて「古事記」についての講義を行ったらしい。

その後、『神道学者折口信夫とキリスト教』(濱田辰雄、聖学院大学出版会、1995)という本で、キリスト教関係者とは沖縄出身の宗教研究者 比屋根安定(ひやごん・あんてい)であることを知った。

ネット上の 「世界宗教用語大事典」によれば、比屋根安定の経歴は以下のようになっている。

【比屋根安定】 宗教史学者・牧師。東京出身。青山学院神学部・東大宗教学科卒。青山学院・東京神学大・ルーテル神学大教授(1892~1970)。

比屋根安定はキリスト者であったが、民俗学にも目配りのきいた宗教学者であった。『諸宗教事典』(聖文舎、1963)にはその成果が十分に反映されている。「折口信夫」という項目もある。 

内弟子であった国文学者で歌人の岡野弘彦氏の回想によれば、比較宗教学の研究も行っていた折口は英文の宗教学関連専門雑誌も読んでいたという。キリスト教にある種のシンパシーを感じていたらしいことは、日本の神の本質が現象的には多神教的でありながら、限りなく一神教に近いという発言にも反映しているような気もする。

おそらくキリスト教への関心は、折口信夫が平田篤胤(ひらた・あつたね)の大きな影響を受けているからでもあろう。国学者の平田篤胤はじつに多芸多才な人でもあったが、ひそかに入手した漢籍でキリスト教を知り、その教えを換骨奪胎して自分の著作に活用しているくらいなのだ。

宮田光雄 · 2003 · ‎スニペット表示
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近代日本におけるローマ書十三章 宮田光雄 144 しかし、比屋根において「民族精神と基督教信仰」との相互的な折衝と影響とを ... たとえば、日本人をイスラエルの失われた支族とみること、日本古典を旧約聖書の代用視すること、舶来のキリスト教を排撃 ...
濱田辰雄 · 1995 · ‎スニペット表示
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それはキリスト教の牧師で、また後に牧師養成機関である東京神学大学の教授となった比屋根安定の発意によるものであった。折口信夫全集の月報第四号(昭和三〇年一月、第一五巻附録)にある「比屋根安定『門外びとの接した折口先生』」という一文を見る。

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