古代出雲を巡る迷宮――吉田大洋「謎の出雲帝国」と斎木雲州
吉田大洋「謎の出雲帝国 天孫族に虐殺された出雲神族の屈辱と怨念の歴史」(新装版)を読む。ふとした思いつきで国会図書館で検索したところ、2018年5月に新装版が刊行されていることが分かったので購入したもの。
司馬遼太郎の「歴史の中の日本」という随筆集に「生きている出雲王朝」という随筆があり、その中で登場するW氏がこの本の情報提供元で、それは元産経新聞の富當雄(とみまさお)さんだという情報に心惹かれたもの。富氏は一子相伝の形で4000年に渡る出雲の記憶を継承しているというのだ。
帯に「待望久しい幻の名著が38年の時を超えて復刻!」とある。38年前というと、発刊の数年後に荒神谷遺跡が発掘されて大きな話題となったことが挙げられている。当時と今とで違うことは、現在では四隅突出型墳丘墓の存在が知られて、それが山陰から北陸まで分布していることで、弥生時代後期に日本海沿岸にまたがる文化圏があったことが分かったことである。また、人類の遺伝子の解析が進んだこと。出雲人は縄文系だったと少し前の報道であったことを記憶している。また、砂鉄を利用したたたら製鉄がいつ頃生まれたのか、まだ定説を見ないのではなかったか。
他所のレビューに要約があるので、それは割愛することにする。帯に挙げられたものを列挙すると、「熊野大社 対 神魂神社、出雲では現在でも敵対関係が続いている」「いつしか神々の承認は天孫族の承認へと変わってしまった……」「出雲神族はシュメールを追われ、インド→ビルマ→タイ→中国江南→朝鮮→ロシア・カムチャッカ半島→千島列島→北海道→出雲へと渡来した!?(※これは吉田大洋の考えが多分に反映されている)」「出雲神族の葬儀は風葬と水葬で行われた」「継体天皇は、昔から謎の天皇とされてきた……」「武烈天皇で神武王朝は断絶 国は乱れ、出雲神族は頼まれて天皇を出した」「継体天皇~宣化天皇は出雲神族であった」等である。
また、富氏と吉田大洋の考えが混然としていて、富氏単独での記憶が掴みにくいのも事実である。基本的な疑問は、なぜ富氏はこの本の著者である吉田大洋を信用したのかということである。発端は女性週刊誌に富氏の記事が載り、それを見た吉田がコンタクトをとったということらしい。
読了してぶっちゃけた話、口伝の信ぴょう性を担保するものが何もないのである。古事記がシュメール語で読めるというというくだりがあるけれど(これは吉田大洋の持論である)、これで信用度がほとんどゼロになるほど著しく失墜するのである。古代オリエントと日本にどのような繋がりがあったというのか。遺伝子の解析でもそのような研究結果はない。なぜ、このような形でしか公開できなかったのか、疑問である。
富氏の友人に司馬遼太郎がいる。司馬に託す形でもよかったではないか。司馬の信用を毀損する恐れがあったかもしれないが、歴史エッセイとして想像力を働かせたという形にでも収められたはずである。
出雲市の出雲弥生の森公園の西谷墳墓群に見られる四隅突出型墳丘墓を見ても、一号墳は小さいのである。二号墳から巨大化がはじまる。それは弥生時代後期に出雲を束ねる有力な首長が登場したということであろう。だから大国主命のモデルとなった王たちが活躍したのは弥生後期で、同時に国譲りも四隅突出型墳丘墓が作られなくなる時代の頃と考えるのが、自然ではないか。
嘘の中にも何がしかの真実が隠されているかもしれないと思って買ったが、芳しい成果ではなかった。中学生のとき、雑誌「ムー」が好きだったが、さすがにそれは卒業した。
なお、「富家文書」(古代文化叢書)という鎌倉期以降の富氏の古文書の写しが島根県古代文化センターの手で書籍化されている。
続いて、
斎木雲州「出雲と蘇我王国 : 大社と向家文書」(大元出版)
斎木雲州「出雲と大和のあけぼの : 丹後風土記の世界」(大元出版)
斎木雲州「お伽話とモデル : 変貌する史話」(大元出版)
斎木雲州「古事記の編集室 : 安万侶と人麿たち」(大元出版)
を読む。著者の斎木雲州氏は富当雄氏の子息とのこと。吉田大洋「謎の出雲帝国」が彼の持論(シュメール文明)と富氏の話を混ぜて書いてしまったため、真実の日本史を伝えるために書いたという。富氏の遺言は真実の日本史を伝えて欲しいとのことだった。
父の所に吉田大洋という、出版社員から手紙が来た。かれはシュメール文明に関心をもっていた。
そしてイラクでの調査結果をまとめたものだというパンフレットが同封されていた。父は普通の人の取材に応じたことはなかった。
しかしイラクまで調査に行ったという熱心さを買って、応対した。しかし、かれの取材の時間は短すぎた。
かれは「出雲帝国の謎」という本を書いた。父は重要なことを、話したという。しかし、かれの理解は消化不良であることが、本を読んで分かった。
困ったことに、かれはシュメール文明についての自説を書きたかったらしい。記紀(古事記と日本書紀)がシュメール語で書かれているという誤説を、父の話と混ぜて書いてしまった。これは真実の日本史のためには、マイナスであった。
「出雲と蘇我王国」(28P)
「出雲と蘇我王国」「出雲と大和のあけぼの」「お伽話とモデル」「古事記の編集室 」の順で読んだ。
四冊の内容が混雑しているが、気づいたところでは、「出雲と大和のあけぼの」ではスサノオを徐福としている。スサノオが稲作をもたらしたとのこと。また、このとき主王である八千矛と副王である事代主が捕らえられ幽閉されて死んだという。出雲国造の祖である天穂日は徐福の先兵だったとのこと。このことがきっかけで、出雲の王国の分家筋が奈良に入り、カツラギ王国となる。
徐福は一度秦国に戻り、始皇帝に上奏する。そして再び日本へとやって来て、今度は北九州に定着する。このときの徐福の日本名がホアカリ/ニギハヤヒで物部一族の祖となるというものであった。日本の支配者が徐福の子孫では対中華帝国的にまずいので、徐福の伝説は隠されたとしている。ニギハヤヒは記紀ではニニギ命と名を変えたとしている。
そしてスサノオの子息である五十猛は日本で生まれたという。また、大屋姫は五十猛の姉妹ではなく后としている。
個人的には宗像一族の市杵嶋姫が徐福に嫁いだとしているのが、凄く嫌。というか、実在してたのか? 宗像三女神。
「出雲と蘇我王国」では、事代主は国譲りの際、洞穴に幽閉されて餓死したのだとしている。
出雲には主王と副王で統治する体制であったとする。主王が大穴持と呼ばれ、副王が少名彦と呼称された。何代も続いた王の総称なのである。八代目の大穴持の名が八千矛だったという。
そして蘇我氏と富家は姻戚関係にあり、武内宿祢の系譜を引く蘇我氏が滅んだ当時のことを記している。
また、奈良には出雲系のカツラギ王家があるが、新羅の王子である天日矛の但馬進出で分断される。但し、日矛自身は但馬で生涯を終えたとする。天日矛と大国主命は播磨を争い戦う。その後、カツラギ王国の軍勢が吉備に進出、定着するが、出雲と同系統のキビツヒコが率いる吉備の勢力が出雲に侵略する、それがヤマタノオロチ伝説として記憶されているというものだった。キビツヒコはスサノオの血筋でもあるのだ。古代出雲は平和で戦は弱かったとしている。なので、力を持った親戚には警戒すべしと家訓が残されているという。
天日矛の子孫に神功皇后がいる。神功皇后は新羅の国の継承権は新羅の王家の血を引く自分にあるとして、新羅の国へ派兵し、百済、高句麗も服属させるのである。
北九州の物部氏の大和進出は二度に渡る。これがまとめられて神武天皇の東征神話となったとしている。神武天皇は架空の大王で、本来は天村雲命がそうだったとしている。第二次の東征の際、日本海側のルートを辿った物部氏の一派は出雲王国を滅ぼす。これで出雲以外の領国は放棄することになる。これが神話では国譲りとして平和的な移譲として描かれることになる。
古代史には詳しくなく、誰が誰のことだかよく分からないままに読み進めてしまった。
出雲族は鼻の長い動物のいる地から砂漠、そして大きな湖、長い河を経て日本に入ったという。斉木氏はそれはインドのことであろうとしている。ゴビ砂漠、バイカル湖、アムール河を経たというのだ。出雲族のリーダーであったクナトはドラヴィダ族だったともしている。
鼻の長い動物とは象のことだろう。象は東南アジアにもいる。また、出雲風土記に妹がワニ(鮫)に食べられたという伝説がある。あれは魚の鮫ではなく爬虫類のワニではないかという気もするので、出雲のルーツが南方にあると訴えること自体は理解できる。むしろ東南アジアから島伝いに日本列島へやって来たとした方が説得力がある気がする。しかし、遺伝子の解析ではドラヴィダ族というかインドとの関係があったとはされていないのが不審点である。象は象でも、案外マンモスだったりするかもしれない。
出雲に定着した理由として、そこに黒い川があったからだとしている。これは砂鉄が採れることを意味している。そういう意味では吉備も良質の砂鉄の採れる地域なのである。
富家には配下に情報収集を担う集団がいたとしている。それは明治期に至るまで連綿と続いて、但し昭和になるとどうかは言及されていない。
また、個人的に興味を惹いた点として、出雲ではクナト(岐)の大神を祭っていたとしていることである。后神の幸姫(さいひめ)の別名がサヒメ神であり、太陽の女神だったとしているのだ。もしそうならば、サヒメ神は相当古い時代からの神ということになる。クナト大神とサヒメ神は物部氏によってイザナギ命とイザナミ命に変えられてしまったという。
文中ではなぜか触れられていないが、神武天皇に抵抗した長髄彦(ナガスネヒコ)は登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれている。つまり富氏の系譜に連なるのである。出雲系の王が奈良を支配していたということになるだろうか。
読み終えて、吉田大洋「謎の出雲帝国」を読むよりは遥かに良かった。読めるなら、「謎の出雲帝国」を読まずに「出雲と蘇我王国」「出雲と大和のあけぼの」だけを読んだ方がいいだろう。島根県立図書館に所蔵されている。なお、「出雲と大和のあけぼの」は著者がフィールドワークして稼いだ他家の口伝も交えられているようである。「お伽話とモデル」は昔話を富家口伝によって解釈するといった風の読み物である。古代史に強くないと理解できない一面もあるだろう。「古事記の編集室」は古事記の口伝を述べた稗田阿礼が実は柿本人麻呂だったとしている。また、ヒミコやヤマタイ国に関する独自の見解が披露される。
誤りもある。「古事記の編集室」では、韓国の檀君神話(王が天降って来る)を参考に天孫降臨神話を創ったとしているが、檀君神話は高麗時代のもので、記紀より後代のものなのだ。
斎木説によると、帝紀の編纂は船頭多くして……の類で各氏族の伝承がバラバラで、しかも裏切りなど好ましい内容ではなかったため頓挫したらしい。その上で記紀の編纂が始まる。出雲王国の歴史は神話とするという形で一応記録された。が、そうなると記紀神話の多くは編纂時に創作されたものということになる。それにしては、何世代にも渡って語り継がれてきたと思える程によく出来ているのではないか。
ネットで見かける古代出雲に関する記述のソースがこれらの本であることが分かった。それらを書き込んだ人達も全面的に信じている訳ではないと思うが。
情報が分散していて、何冊か読まないと分かり難い部分もある。どこまでが富家口伝で、どこからが斎木氏の独自研究なのか判然としないとも言える。
とにかく、富家口伝を真実であると証明する手立てが何一つないのだ。これだけはどうしようもない。ちなみに富氏が出版した本は買い占められて原稿ごと無かったことにされてしまったとのこと。近年の考古学的発見で、出雲に王権があったこと、山陰から北陸圏にまたがる広域のものであったこと自体はまず間違いないけれども、そこから先は未だ五里霧中なのである。
出雲には国びき神話がある。縄文時代の三瓶山の噴火で噴出した土砂が神戸川を通じて流れて堆積し、出雲平野となったという事実を神話として語り直したもの。この神話の背景には縄文時代からの記憶がある。出雲には確かにそこまで古い何かがあるのだ。
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