2023年8月5日土曜日

ジャン=リュック・ゴダール「インタビュー〈2〉」2002

ジャン=リュック・ゴダール「インタビュー〈2〉」

インタビュー〈2〉   ── 日本映画というものは、存在しない

──『映画史』の中で、小津安二郎さんの顔と溝口健二さんの作品と、大島渚さんの作品がワンカットずつ挿入されていました。あなたの中で、日本映画はどういう位置を占めているのでしょうか。

【ゴダール】『映画史』という作品は、今はほぼ存在しなくなってしまっている、あるひとつの映画について作った作品です。それは、一九三〇年代から五〇年代にわたって栄光の時代を迎え、五〇年代以降、長い衰退の時期を経て、ほとんど消滅してしまい、今はテレビや様々なメディア、そしてコンピュータのために、別のものになってしまった映画です。ひとつ例を挙げるとすれば、たとえば私がヌーヴェル・ヴァーグに属していた頃、私たちは何かをはじめている、何かがはじまっていると信じていました。しかし四〇年経って振り返ってみると、ヌーヴェル・ヴァーグの時代には、何かが終わろうとしていたのだと、私はわかりました。この私がよく知らない映画史全体を考えると、いくつか、二つか三つか、数少ない国の映画が存在して、その二、三ヶ国の映画が世界中に影響を与えていました。その他の国では、その国の映画は存在せず、何人かの映画作家がいるだけだったのだと思います。もちろん、映画が作られていなかった、作品が作られていなかったという意味ではありません。その国家として、国として地域として、あるいはその国民としての映画が何なのかという考えが存在しなかったという意味です。ドイツ映画は存在しました。第二次世界大戦後の少しの間、イタリア映画は存在しました。このイタリア映画が存在したというエピソード、なぜイタリアであって、他の国でなかったのかということを、私は作品の中で考察しています。フランス映画も存在しました。ロシア革命の時に、ロシア映画も存在しました。そしてアメリカ映画も存在しました。しかしスウェーデン映画は存在しませんでした。スウェーデンの映画作家は存在しました。たとえば、スティルレル、シェーストレーム、ベルイマンといった映画作家は存在したのです。他の多くの国も同様で、映画作家は存在しても、映画は存在しなかったのです。
 日本について言えば、日本もまた、何人かのよい映画作家が存在した国だと思います。溝口、黒澤、小津、成瀬らが存在していました。しかし日本映画は存在しなかったと思います。日本が何だったのか、日本が何になりたいのかを表現する日本映画が存在しなかったと思います。ひとつ日本映画の中で、ここ四、五年、私が素晴らしいと思っている、北野武の映画があります。『HANA-BI』という作品です。私が『HANA-BI』を好きなのは、それが日本映画だからではなく、普遍的な映画だからです。そこに登場するほとんどの人物たちが一重瞼の細い目をしていることに気づかないほど、普遍的な映画だと思います。たとえば、七、八年ぐらい前に出たイランのキアロスタミの『風が吹くまま』にしても、同じように普遍的な映画だと思います。イランでも、日本でも、普遍的な映画だと思います。そういう意味において、私にとって日本映画は存在しなかったのです。ただ、多少なりともよい映画作家がいたということです。私の考えでは、本当にヌーヴェル・ヴァーグの最初の作品は、大島渚監督の『青春残酷物語』だと思います。出てから、三、四年後になって、ようやく私たちはその作品を観ましたが、実は、トリュフォーや私自身よりも、二、三年前に、本当のヌーヴェル・ヴァーグの映画を、大島監督は『青春残酷物語』で作っていたのだと思います。当時作られているものと、本当の意味で違う映画を、そこで作っていたのです。

──フランス映画の作家として、これから世界にどういう役割を果たすことができるのでしょうか。またフランス映画の中で、重要だと思われる作家について、お聞かせください。

【ゴダール】私はフランス映画のことをほとんどよく知りません(笑)。第一、私が映画を作りはじめた時、それは当時のフランス映画に反対して作り始めたのです。確かに私がそのフランス映画の一部になれたと思った時期がありましたが、その後、いわゆるマージナルな存在に段々なっていきまして、こうやって余白にいて、マージナルな存在であると、今日のフランス映画がどのようなものか、ほとんどわかりません。フランス映画の中で、自分が関心がある名前をいくつか挙げることができますけれども、皆さんほとんどご存じない名前になると思います。たとえばアラン・ギロディがそうです。ギロディの最新作は『ス・ヴィュー・レーヴ・キ・ブージュ』(『動くこの古い夢』)という題名です。それからジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレがいますが、ふたりは今イタリアで映画を作っています。ほとんど興行成績を稼ぐことができませんが、そうした二、三人のフランス映画の作家たちがいます。あまりにも個性的だから、入場者数も少ない映画作家たちです。私は彼らに関心があります。
 そしてフランスに関して、よい点とも言えることがひとつあります。それは同時に、悪い点になっているのですが、国家が映画を保護しているという点です。映画の国家からの保護、これは社会主義が残っている部分でしょう。しかし映画は国家によってまるで病人のように保護されているために、フランス映画は自分が健康だと信じているけれども、あまりにもたくさん注射を打たれたために、健康を損なってしまっていると考えています。フランス映画が、経済的に管理されているやり方の中には、面白いこともあります。そのおかげで、ドイツ、イギリス、イタリアのように、アメリカのメジャーカンパニーに完全に負けてしまわずにすんだのでしょう。しかしフランスの国は、戦前には、フランス国民全体を表現するフランス映画が存在したのに、今は新しい映画は存在しなくなってしまい、フランスの映画作家だけが存在する、そういう時代に入ってしまいました。フランス映画は存在しません。これはもちろん、私が理解している映画という意味でのフランス映画が存在しなくなっている、ということですけれど。
私の理解している意味での映画についてですが、今日、国民国家は、欧州連合だとかグローバル化といった名の下に、より大きな実体のために消えてしまう傾向があります。かつて偉大な映画とは、国民もしくはその民族が自分自身の姿を見たいと思っている国々で現れました。イタリア、ドイツ、フランス、アメリカ、そしてロシア革命の時期のロシアなどがそうです。つまり、映画とは、国民が自分自身を見る一つの方法だったのです。それは多少なりとも、よいやり方でした。しかし、このやり方も少しずつ消えていってしまいました。ひとつ例として、面白い話があります。一九四五年に、唯一の本当のレジスタンスの映画が撮られたのが、なぜイタリアなのかということです。その点について、私は『映画史』の中で考察を行っています。確かにたくさんの国で、レジスタンスの闘士と占領軍の兵士との争いを描く映画が作られました。しかし国民全体が持っている、その民族のレジスタンスの概念が何なのかを表現したのは、一九四五年の『無防備都市』だけだったと思います。イタリアは、実際は、自国の国土の上で戦争を行っていません。弱い国を叩くことだけをして、最初はドイツについて、ドイツの戦況が悪くなってくると、連合軍に加担した。そのイタリアで、なぜ唯一の本当のレジスタンス映画が撮られたのかと私は考えました。おそらく、イタリアは十年前からの自分自身の行動を恥ずかしく思い、自分たちの本当の顔を見たいと考えたのだと思います。こうしてイタリアは、いくつかの良質なイタリア映画の中に自分の本当の顔を示す事になったのです。
 今、映画の中で、その国民の本当の顔が見えることはほとんどありません。わずか二、三人の顔は見える。少しの人物の顔は見えるけれども、国民全体の顔は見ることができない。映画がとても難しい時期にさしかかってきているのだと思います。

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