2023年2月19日日曜日

三河一向一揆 - Wikipedia

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三河一向一揆

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2017年8月
三河一向一揆
戦争戦国時代 (日本)
年月日:永禄6~7年
場所三河国西部
結果:松平家の支配確立
交戦勢力
松平軍 一向一揆軍
指導者・指揮官
松平家康
水野信元
真宗高田派
三河三ヶ寺
本宗寺
吉良義昭
松平家次
松平昌久
矢田作十郎 
酒井忠尚
今川氏残党
戦力
数千 数千
損害
矢田の戦死、一向一揆勢力の解体
徳川家康の戦い
「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」 月岡芳年筆 明治6年(1873年)

三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、戦国時代三河国西三河全域で永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆である。松平家の支配下にはなく曹洞宗の勢力が強かった東三河は該当しない。

概要

現在の安城市野寺の本證寺第十代・空誓蓮如の曾孫)が中心となって浄土真宗本願寺門徒に檄を飛ばし、領主の松平(のちの徳川)家康と戦った。『三州一向宗乱記』に「当国碧海郡野寺村の本證寺と申すは、一向宗の小本寺にて、守護不入の道場、当国三箇寺の其の一箇寺なり」と記載されている。

中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺および、三河守護家である吉良氏のほか、荒川氏桜井松平氏大草松平氏である。また安祥松平家の麾下にあった本多正信蜂屋貞次夏目吉信が参加した。 これは松平宗家である岩津松平に代わり台頭した安祥松平家が安祥城に居城していた時代から、真宗門徒の地元勢力を支配下に収めたものであり、その最たるものは、本證寺門徒でもあった石川氏である。一族の間で門徒方と家康方に分裂するなど混乱を極めた。

三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされる。 家臣団の多くが門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった。

大久保忠教の『三河物語』や『三州一向宗乱記』に概況が描かれている。

三河三ヶ寺と、不入の特権

本證寺(安城市野寺町)、上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(岡崎市針崎町)は、三河における本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺と呼称され、松平広忠(家康の父)の代に守護使不入の特権を与えられていた。

三河一向一揆の発端

三州一向宗乱記では、本證寺での発端説を第一に挙げ、次に本證寺での別説、さらに上宮寺での説を二通り挙げている。諸説あると解説している。

大久保忠教の著書『三河物語』の記述
永禄5年(1562年)に本證寺に侵入した無法者を西尾城酒井正親が捕縛したため、守護使不入の特権を侵害されたとして、永禄6年(1563年)正月に一揆が起こったという。
上宮寺発端説
永禄6年(1563年)に松平氏家臣の菅沼定顕に命じて上宮寺の付近にを築かせ、上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことに端を発したという(しかし、菅沼定顕という家臣の実在が不詳)。

東照宮御実紀巻二の記述。御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより。一向専修の門徒等俄に蜂起する事ありしに。

不入特権を主張する三河三ヶ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、守護使不入の特権が侵害されたことに端を発して、本證寺第十代・空誓(蓮如の曾孫)は、上宮寺や勝鬘寺と共に檄を飛ばし、本願寺門徒を招集して菅沼氏の砦を襲撃した。真宗門徒の松平氏家臣や、吉良氏などの有力豪族や今川氏の残党なども加わり、松平氏の本城である岡崎城まで攻め上り、家康を窮地に陥れた。

本願寺教団とは仲が悪い真宗高田派の有力寺院である桑子明眼寺・菅生満性寺は家康についた。

ただし、こうした一揆の描き方には異論も出されている。平野明夫は永禄6年の家康の動向について分析したところ、上野城酒井忠尚の挙兵が永禄6年6月(もしくはそれ以前)、寺部城小笠原広重の挙兵が同年10月以前、東条城の吉良義昭の挙兵は同年10月下旬、一向一揆の発生が確認できるのは同年12月(もしくはそれ以前)に一揆軍が本多広孝土井城が攻撃した後のことである。また、酒井・小笠原・吉良が一向一揆やこれを支持した家康家臣と連絡を取り合ったり、共同作戦を取ったとする形跡がない点(一向一揆が岡崎城に迫った時期にも自領に留まって岡崎へ兵を進めなかった)に注目して、酒井・吉良氏らの挙兵と一向一揆はともに家康を標的としたものであるが、あくまでも両者には関連性は無かったとしている[1]

一向一揆側についた家康家臣

一向一揆軍

主な一向一揆軍に加担した武将

一揆の収束とその後

永禄7年(1564年)1月15日の馬頭原合戦の勝利で、徳川家康は優位に立ち、和議に持ち込み、一揆の解体に成功する。和議の仲介にも関わった水野信元の書状には永禄7年の春には和議が整って国内が平穏になったことが記されている[2]。その後、同年4月には小笠原氏が家康に従い、その後も抵抗を続けた吉良氏と酒井忠尚は追放されている[3][4][注 1]

一揆に与した武士の中には、主君への忠誠心と信仰心の板ばさみにあって苦しんでいる者もあった。その様な武士には一揆を離脱して帰参することを望む者が多くいたため、一揆は収束に向かった。またこの時、本宗寺は御坊を焼失し、勝鬘寺は伽藍を焼失していた。家康は和議を結ぶことで一揆衆を完全に解体させた後、本願寺の寺院に他派・他宗への改宗を迫り、これを拒んだ場合は破却した。

一方、本願寺の寺院の弾圧については次の見方もある。家臣の離反に悩まされた家康は自分に味方した家臣に対して徳政令を出して本願寺の寺院など敵対者からの債務の返済を免除した[5]。ところが、一向一揆との和議後にその扱いが問題になった。和議の仲介にあたった水野信元は徳政令の一部でも認めて欲しいと本宗寺などに申し入れる[2]が、本願寺の寺院は徳政令は和議の条件に反すると反発した。和議の条件と家臣との約束の間で追い詰められた家康は永禄7年12月もしくはそれ以降に本願寺の寺院の弾圧に踏み切ったとされる[6]

一揆の終結より19年後の天正11年(1583年)まで、三河国は本願寺教団禁制の地となった。しかし、家康は本願寺教団に厳格な処分を下す一方、離反した家臣には寛大な処置で臨む事で家中の結束を高める事に成功した(本多正信など、一部の家臣は出奔した)。

この一揆は、三河における分国支配の確立を目指した家康に対して、その動きを阻もうと試みた一向宗勢力が、一族や家臣団を巻き込んで引き起こしたものである。その意味では、松平宗家(徳川家)が戦国大名として領国の一円支配を達成する際に、必ず乗り越えなければならない一つの関門であったと考えられる。

脚注

注釈

  1. なお、『松平記』には酒井忠尚の追放を永禄7年9月6日としており、家康と一向一揆との和議後も抵抗を続けていたことになる。

出典

  1. 平野 2017, pp. 9–16.
  2. ^ a b (永禄7年)12月朔日付け「水野信元書状」(本光寺常盤歴史資料館所蔵文書・『愛知県史 資料編10 織豊1』402号)
  3. 平野 2017, pp. 24–25.
  4. 平野 2017, p. 36.
  5. 平野 2017, pp. 21–24.
  6. 平野 2017, pp. 13–16.

参考文献

  • 平野明夫 著「永禄六年・同七年の家康の戦い-三河一向一揆の過程-」、戦国史研究会 編 『戦国期政治史論集 西国編』岩田書院、2017年。ISBN 978-4-86602-013-6none 

関連項目[編集]

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