2023年2月13日月曜日

物部氏のルーツ:古代イスラエル人とのかかわり(久保有政・解説)十種神宝,とくさのかんだから












久保
日本とユダヤ
つぎに、物部氏の神道について見てみよう。聖徳太子は、物部氏とも非常に関係が深い。  先に述べたように、「篤く三法を敬え。三法とは儒・仏・神である」という聖徳太子の正しい「十七条憲法」を書き記した『先代旧事本紀』は、物部氏によって伝えられてきたものである。  聖徳太子は蘇我氏側とされて、あたかも物部氏と対立していたように伝えられているが、実際はそうではない。物部氏は、聖徳太子の言葉を大切に、大切に伝えてきた人々なのである。『先代旧事本紀』には、聖徳太子の言葉が、『日本書紀』の何十倍もの量、記されている。  筆者は、元伊勢・籠神社の「海部氏勘注系図」や、海部穀定宮司の著書を引用し、「聖徳太子当時の神道は唯一神教だった」と書いた。じつはこれを籠神社において代々伝えてきた海部氏は、物部氏と同族である。  海部氏は、祝部=祭司一族として、物部氏の神道を指導する立場にあった。つまり物部氏の神道は、海部氏と同じく、唯一神教の神道であった。  物部氏はどこから来たのか。  彼らの本拠は、はじめ九州にあった(『先代旧事本紀』)。そののち彼らは、かしらであった「ニギハヤヒ」に率いられて東へ進み、河内(大阪府交野市)、また大和(奈良)のあたりへ集団移住した。  物部氏は神武天皇が大和に入る前に、すでに大和に入っていたという。  神話の中で、ニギハヤヒは「天磐船」に乗って河内にやってきたとされる。天磐船は、飛行機やUFOを連想させるような名だ。  けれども、これをあくまで現実的な史実に基づいた話と見れば、彼の一行は船に乗って海を渡ってきたということだろう。彼は着いたその地を「日本国」と呼んだ。「日本」の名はここから来ている。  ニギハヤヒの墓は、奈良県・生駒市にある。彼は人間として死んだ。彼は人間を超えた神ではなく、私たちと同じような人間であり、偉大な先祖のひとりだったのだろう。  筆者は、ニギハヤヒはヘブル語の「ナギ・ハヤヒ」(nagid hayah)=「彼は君」から来たのではないかと思っている。  ニギハヤヒは物部氏の祖とされている。彼は皇統の人ではない。しかし近い関係にあった。のちに詳述するが皇族も、物部氏も、中臣氏も、忌部氏も、もとは同じ失われたイスラエル10支族から来た氏族である。  彼らがいつ日本に渡来したかは定かではない。だが、相当古い時代に日本に渡来していたのは間違いないだろう。おそらく紀元前の時代に来ていたと思われる。  中臣氏や忌部氏が神道儀式にたずさわる人々、つまり祭司系の人々だったのに対し、物部氏は、おもに軍事関係を担当した人々であった。そういう仕事にたずさわりながら、熱心に神道を信仰した。 「部」や「臣」の字は、もともと古代の氏姓制度により、おもに担当していた職業などによってつけられたものである。物部氏は兵器の製造・管理等をし、「物」を扱う部署にいたから物部氏という。  忌部氏は、穢れを清める祭司的な部署だったから忌部氏といい、中臣氏は王家に仕える臣下だったから中臣氏と呼ばれた。彼らは違う職業だったものの、もとは同族、同じイスラエル人だったろう。  物部氏は単に兵器の製造・管理をするだけでなく、しだいに有力軍事氏族へと成長した。それで「武士」のことを「もののふ」ともいう。武士の代名詞「もののふ」は、物部から来た言葉である。     聖徳太子が祈った神  先に筆者は、かつて蘇我氏と物部氏が戦争をしたとき、「聖徳太子が四天王(仏法の守り神)に祈り、戦いに勝つなら四天王のために寺院を建てましょうと誓った」とのいい伝えは、後世の仏教徒による作り話だと書いた。  実際、大阪・玉造稲荷神社の社伝によれば、このとき聖徳太子は同神社に詣でて、「われに勝を与えるなら、この栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈っている。聖徳太子が祈ったのは、物部氏と同じく神道の神に対してだった。しかも聖徳太子がこうして願掛けをし、「それを差し込むと、神が彼と共にいるしるしとして枝葉が出た」とされている。「枝葉を生じさせたまえ」というこの願掛けは、興味深いことに、『旧約聖書』の「アロンの杖に生じた枝葉」の話にそっくりである。  祈ると、神が共にいるというしるしとして大祭司アロンの杖にアーモンドの枝葉などが生じた、という話が『聖書』に載っている。 「『わたし(神)が選ぶ人の杖は芽を出す』。……モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた」(「民数記」第17章5~8節)。  聖徳太子の栗の白木に枝葉が生じた話は、アロンの杖に枝葉が生じたという話に、よく似ている。つまり、背後にはやはり古代イスラエル人の存在がある。白木に枝葉が生じた話は、物部氏から来たものかもしれない。  また、かつての蘇我馬子対物部守屋の戦いのとき、聖徳太子は本当に蘇我氏側につき、物部守屋に敵対して戦ったのか。仏教徒側はそう宣伝してきた。しかしその戦いのとき、聖徳太子はわずか14歳だった。太子には母方に蘇我氏の血が入っているから、太子は蘇我の陣にいたとしても、蘇我の横暴ぶりを見てきた彼が、物部氏に明確な敵意を持って戦ったとは考えにくい。  太子は陣の後方にいて、実際の戦闘には参加していなかっただろう。また太子は仏寺ではなく、神社で祈った。太子は物部氏に対し非常な同情を持っていたに違いない。  大阪府八尾市に、大聖勝軍寺という寺がある。その境内に物部守屋の墓がある。守屋が手厚く葬られている。そこには木造の守屋像も祭られているが、守屋像のうしろには、聖徳太子像がともに立っている。  その姿は、あたかも聖徳太子が守屋を追悼し、保護しているようだ。この像は太子の心情をよく表現したものであるように思う。太子は物部氏に対し、深い同情を示していたに違いない。     「ひ、ふ、み」の言霊 『先代旧事本紀』をはじめ聖徳太子の言葉を大切に伝えてきた物部氏は、「言霊」を大切にする人々でもあった。言霊は、言葉にともなう霊力である。彼らは武士らしく、言葉の霊力を信じた。  古代イスラエル人は、言霊を大切にする人々であった。『聖書』「創世記」を見ると、「光あれ」と神がいわれると、光があった。万物は神の言霊によって創造された、というのがイスラエル人の信仰である。  だから、イスラエル人も言葉に宿る霊力を信じていた。物部氏が言霊を大切にしたのは、イスラエル人としての特徴である。物部氏は、つぎの言霊をよく使ったことで知られている。 「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、と」  これはもともと、天の岩戸神話においてアマテラスを岩戸から出すために、祭司コヤネが唱えたとされる祝詞である。アマテラスが天の岩戸に隠れたために、世界が真っ暗になった。だからアマテラスに出ていただくために、コヤネがその前で祝詞を唱えたのである。  記紀には、岩戸からアマテラスを出すためにコヤネがどんな祝詞をいったかは記されていない。しかしその祝詞は「ひ、ふ、み……」であったという。  物部神道では、「ひ、ふ、み……」は鎮魂法の「布瑠の言」の中でいわれている。これを「十種神宝」(物部氏に伝わる宝)とともに唱えれば、死者が甦るほどの霊験があるとされる。  私たちはとかく、「『ひ、ふ、み……』は単に1~10までの言葉ではないか」と思いやすい。けれどもこれは、もともとは霊力ある神道の祝詞だった。それがのちに1~10を数える言葉に転用され、日常生活でも使われるようになった。  それにしても「ひ、ふ、み……」の言葉はいったい何を意味するのか。日本語として見ると、さっぱりわからない。けれども、ヨセフ・アイデルバーグによれば、これはもともとイスラエル人の使ったヘブル語である。  ヘブル語として見ると場面に非常によく当てはまる。ヘブル語では、こうだ。 「ひぃ、ふぁ、み、よお、つぃぁ、ま、なね、や、かへな、たゔぉ」  これは区切りを少し減らして書くと、次のような文章と解される。 「ハイアファ ミ ヨツィア マ ナーネ、ヤカヘナ タヴォ」  これは、 「だれがその美しいかた(女神)を出すのでしょう。彼女に出ていただくために、いかなる言葉をかけたらいいのでしょう」  の意味である。まさにアマテラスに岩戸から出ていただくために、コヤネがいった祝詞として、ぴったりしている。つまり物部神道も、古代イスラエル由来と考えてはじめて理解できる。  じつは日本にある「天の岩戸神話」に類似したものは、シルクロードに沿ってあちこちに存在する。天の岩戸神話自体は、そのようにシルクロードからもたらされたものだった。  しかしそれにまつわるものとして、日本の神話にはヘブル語が豊かに入っている。これは古代イスラエル由来なのである。  物部神道ではまた、「ひ、ふ、み……」の10個の言葉を唱える際、それに対応して「十種神宝」を用いる。十種神宝は10種類の聖なる宝である。  そのうち2種は鏡、1種は剣、4種は玉、残り3種は比礼(女性が首に掛けて、結ばずに前に垂らすスカーフ様のもの)である。これらは「三種の神器」に対応し、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉に対応するとも考えられている。  かつて古代イスラエル人は「十戒」を持ち、10の言葉を大切にしていた。それらは人生を好転させる言霊だった。  その記憶から、物部氏は「ひ、ふ、み……」の10個の言霊、また十種神宝を大切にする伝統を持つようになったのだろう。     諏訪大社とモリヤ神  物部氏は、諏訪大社(長野県茅野市)とも関係が深い。『大祝信重解状』なる古文書(1247年編纂)には、「諏訪は物部大連の所領であった」と記されている(大連とはヤマト王権における役職名)。  じつは諏訪の地には、ヤマト王権による日本統一以前の時代に、すでに「モリヤ神」(洩矢神)を拝する「洩矢族」が住んでいた(『諏訪大明神画詞』)。  これは聖徳太子や、蘇我馬子と物部守屋の神仏戦争より前の時代である。その時代から「モリヤ族」という先住民族が住んでいた。  彼らが崇拝した「モリヤ神」は、古代イスラエルの神と同じである。イスラエルの神ヤハウェは「モリヤの神」とも呼ばれてきた。古代イスラエル神殿は「モリヤの丘」に建てられた。モリヤはエルサレムの「神殿の丘」を意味する名であり、すべてのイスラエル人にとって聖地だった。  じつは、諏訪大社の上社は聖なる山のふもとに建てられているが、その名を「モリヤ山」(守屋山)という。モリヤ族の人々は、エルサレムの「モリヤの丘」にちなみ、そこをモリヤ山と呼んだ。  そこは「モリヤの神」の住まわれるところだ。諏訪大社は、モリヤ山に住まわれるモリヤ神=ヤハウェを礼拝するための神社なのである。  この「モリヤ山」は洩矢神の山であるから、当初は「洩矢山」と書かれていたに違いない。しかしその後、神仏戦争で滅ぼされた物部守屋を追悼し、物部守屋の「守屋」をとって「守屋山」と書かれるようになったようだ。  つまりその地の人々は、物部氏と同じ信仰を持っていたのである。  諏訪の地ではまた、古来イスラエル人の祭が行われてきた。  そのひとつは、諏訪大社の「御柱祭」である。7年目ごとに山から木の柱を切りだしてきて、神社に運び、境内の四隅に建てる祭だ。木の柱には「もみの木」が使われる。木の柱は諏訪では「神」として扱われている。  じつは古代イスラエルでも同様のことが行われた。ソロモン王がイスラエルに神殿を建てる際、隣国レバノンの森から「もみの木」や「杉の木」を切りだし、それをエルサレムに運んできて、神殿をつくったと書かれている。  その木材は聖なる神殿をつくるものだから、運ぶ際にも神事や祭を行いながら、大切に運んだであろう。 『聖書』によると、エルサレムにつくられた神殿の内側は、すべて木製だった。神殿の中に入ると石材は一切見えず、床から壁、天井に至るまですべて木製だったと書かれている。  また古代イスラエルには、異教信仰として「木の柱」の信仰があった。木の柱は「アシラ」と呼ばれた。アシラは女神であり、「切り倒す」ことができ「燃やす」こともできたと書かれているから、木の柱である。  考古学者によれば、それは枝を切り落とし、樹皮も剥いだ生木であった。つまり諏訪大社の御柱と同じである。このアシラが、のちに日本で「ハシラ」(柱)になったのだろうと推測される。

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