日本の船が人々を救った? 100年前の「救出劇」の真相は?
キラキラと輝くエーゲ海、圧倒的なスケールの古代神殿、オリンピック発祥の地…
そんなギリシャで多くの人が知っているエピソードがあります。
100年前、第1次世界大戦後の混乱のさなか、「1隻の日本の船が多くのギリシャ系住民を救った」という話です。ギリシャではことし記念イベントが開かれるなど大盛り上がり。しかし、決定的な資料は見つかっていないとの指摘も。
いま、当時のことを調べようという動きが本格化しています。
(イスタンブール支局長 佐野圭崇 / 国際部記者 小島明)
岸壁に追い詰められた人々の前に現れた"日本船"
当時の新聞報道などをまとめるとおおむねこのようなことがわかります。
第1次世界大戦後、敗戦国のオスマン帝国の領土に進駐したギリシャは、トルコ側と領土を巡って争いを続けていました。激しい戦いの中、港湾都市スミルナ(現在のトルコ西部イズミル)では、ギリシャ系などの住民が多く取り残されました。
戦場となった街から逃れようと岸壁へと向かった人たちの前に現れたのは日本の船、その名も「Tokeimaru」。その船は、トルコ側の制止を振り切り、数百人の住民を乗せてギリシャへ避難させたということです。
アニメ映画にもなった「Tokeimaru」
Tokeimaruの「救出劇」は2018年に短編アニメ映画として公開されます。
日本人の船長が、岸壁で繰り広げられる惨状に絶句し、乗組員たちに積み荷を捨てさせて難民たちを甲板に招く様子が描かれています。
このアニメ映画を製作したギリシャ人のザホス・サモラダスさん。自身の祖母も同じ時期に現在のトルコ西部チョルルから追われるようにしてギリシャへと渡ってきたといいます。
Tokeimaruの話を聞いたときに、この話を後世に残すことは使命だと感じたと語るザホスさん。そして今こそ世界で知られるべきだと指摘します。
ザホス・サモラダスさん
「かつての難民の話なのですが、ウクライナなど現在も多くの人が争いの結果、住まいを追われています。そんなときに私たちは手を差し伸べられるかという、普遍的なメッセージを持ったストーリーなんです」
あくまで私の空想です、としながら実写映画化したら、船長役は真田広之さんにお願いしたいですね。と楽しげに話していたサモラダスさん。
しかし、取材を進める中で私たちは重大な問題に行き着きました。
実はTokeimaruについての決定的な資料が見つからないのです。
資料がほとんどなく・・・
実はこの船についてはたくさんの「謎」につつまれています。どんな船だったのか、いったい誰が船長だったのか、いずれもはっきりとはわかっていませんでした。
ギリシャ近現代史の専門家・東洋大学の村田奈々子教授は、この謎に迫ろうと調査を続けてきました。自身もギリシャ留学中に聞いたこの話がずっと気になり続けていたといいます。
「日本にとっていい話」であるこの「救助劇」ですが、歴史の専門家として事実認定のためには「証拠」=資料や証言が必須だと考えてきました。
長年さまざまな研究のかたわら続けてきた調査。「救出劇」から100年が近づいてきたこともあり、ここ5年ほど本腰を入れたといいます。
過去の船の記録を調べたり、船会社への聞き取り調査を行ったりした結果、1922年、東地中海に「Tokeimaru」と響きが似た「東慶丸(とうけいまる)」という船が渡っていたことが判明しました。そして、村田教授は当時の船長が「日比左三」という人物だったことを突き止めました。
郷土史会も調査に協力
この話が2022年5月に報道されると、日比姓が多い愛知県の知多半島の「はんだ郷土史研究会」が立ち上がりました。郷土史会のメンバーたちは、「もし地元出身の日比左三さんがかつて遠く離れた外国で人助けをしたのなら、きちんと記録に残し多くの人に知ってもらいたい」として、会報で情報提供を呼びかけたのです。
郷土史会の尽力もあり、村田教授は、2022年9月、左三さんの親族の日比美榮子さん(85歳)の元を訪ねることができました。
村田教授が探していたのは「左三さんが当時のスミルナでギリシャ系などの住民を救助した」という記録や、そうした話を聞いたことがあるという証言でしたが・・・。
日比美榮子さん
「結婚のあいさつに左三さんの家に行ったことはあるのですが、当時、左三さんはいらっしゃらなくて・・・留守だったのか、亡くなっていたのかは分かりません。船関係の仕事をしていたとは聞いたことがあります」
しかし、美榮子さんは、村田教授に見せたいと自宅の仏壇の裏にあったという古いメモを持ってきていました。そこには左三さんの名前とともに上海に住んでいたときの住所や、お盆に左三さんがお金を渡していたことなどが記されていました。そして一連の調査で左三さんが亡くなった日も初めて分かりました。
そして村田教授にとって、とても興味深い発見が、もうひとつありました。左三さんの妻が残したという手記から、左三さんの母親が熱心なキリスト教の正教会の信者だったということがわかったのです。ギリシャ人の多くはこの正教会を信仰しています。
郷土史会などによると、知多半島では明治時代から、布教が行われ、教会もあったといいます。左三さんが信者だったかどうかは記録・証言も見つかっておらず分かっていませんが、遠く離れたギリシャと知多半島をつなぐ、1つの重要なピースかもしれないといいます。
東洋大学・村田奈々子教授
「なんとなく立体的に見えてきた部分があるんですよね。あともう少し、あともう少しなんですけど・・・。『困っている人を助けよう』という気持ちがあって、行動した人がいたとしたら、それはいまも100年前も変わらない重要な人道支援ですよね。歴史に書かれなかったら消えてしまう人たちの足跡だったかもしれませんが、もし見つけることができたら、それはちゃんと歴史の中に記述して残していくべきものなんじゃないかと思っています」
確かな情報を探して
9月下旬、村田教授の姿はギリシャの首都、アテネにありました。訪れたのは父親が日本船に乗って難を逃れたというイッポクラティス・ジゴマラスさん(78歳)。
イッポクラティス・ジゴマラスさん
「私たちも船の名前を聞いたことがありません。父から聞いたのは、日本人の子どもとよく遊んだということです。私たちは日本の領事と船に命を救われたんです」
村田奈々子教授
「当時、スミルナには領事はいなかったと思うのですが・・・」
聞き出せたのは断片的な証言だけでした。100年前にジゴマラスさんの父親が日本船に乗ったのは17歳の時で、さらに40年前に亡くなっていたからです。
それでもジゴマラスさんは、父親が日本への感謝の気持ちを常に持っていたことをはっきりと覚えていました。
イッポクラティス・ジゴマラスさん
「『日本の人たちが私たちを救ってくれたのだから忘れてはいけない』と、私たちの家には日本の国旗がありました。今の私や家族があるのは、遠く離れた日本の船のおかげです」
新発見に沸くアテネ
9月、村田教授はアテネで開かれた「救助劇」から100年を記念する催しに講師として招待されました。
会場に集まった250人の聴衆の前で愛知県での調査結果を報告しました。左三さんの親族に会えたこと、左三さんの母親が多くのギリシャ人と同じ正教会の信者だったことなど、明らかになった新事実の数々にギリシャの人々が時折、歓声を上げる場面もありました。
会場には、父親が日本の船に救出されたというジゴマラスさんの姿もありました。
終始、興味深そうに話を聞いていたジゴマラスさん。イベントが終わると村田教授のもとに向かい、感謝の気持ちを伝えていました。
当事者の家族にとっても歴史的背景や事実を知る貴重な機会だったといいます。
村田教授もギリシャの人たちの反応に思いを新たにしていました。
村田奈々子教授
「左三さんの個人的な書いたものとかが、何とかして出てこないと。日本に戻ったらいくつか手がかりがあるのでこれから探していきたいと思っています」
どなたか 東慶丸のことを知っている人いませんか?
窮地に立たされた異国の人たちに手を差し伸べたとされる東慶丸の乗組員たち。100年の時を超えて、私たちに助け合いの精神を説いているようにも感じました。
東慶丸のこと、日比左三さんのこと、知っている方はいませんか?
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