2023年2月26日日曜日

セム系部族社会の形成:ユーフラテス河中流域ビシュリ山系の総合研究

セム系部族社会の形成:ユーフラテス河中流域ビシュリ山系の総合研究

セム系部族社会の形成:ユーフラテス河中流域ビシュリ山系の総合研究

1.

 「マルトゥの結婚」とは、シュメール語で書かれた1文学作品に研究者が与えた名称である。この文学作品が書かれている粘土板CBS 14061は、前2千年紀前半のニップルから出土しており(ペンシルヴァニア大学博物館蔵)、粘土板の手写コピーは、E. Chiera, Sumerian Epics and Myths [= SEM](Oriental Institute Publications XV), 1935, No. 58として公刊されている。
 ここでまず注意しておかなければならないことがある。それは「マルトゥの結婚」が書かれている粘土板は、現在までわずか一枚しか発見されていないという事実である。前2千年紀の前半にはおおくのシュメール語文学作品が成立したが、たいていのばあい、われわれは、1作品について重複する粘土板をもっている。文学テキスト粘土板はシュメール北部のニップルで出土するだけでなく、しばしば南部ウルでも同じ文学テキスト粘土板が発見されている。だから、たとえ個々の粘土板が小断片であっても、われわれはそれらを対照しつつ、あるいはつぎあわせつつ、なんとか文学作品の全体を復元していくのである。ところが、この手法は「マルトゥの結婚」には適用できない。しかも問題の粘土板は裏面部がおおきく欠損しているため、物語プロットの完全な復元が不可能なままなのである。さらに残念なことは、テキスト相互の比較ができないためにCBS14061にみえる難解な個所についての議論が中途半端なままで終わってしまうのである。またこれは、物語がなぜ、どのような意図のもとで生まれたのかについても、重要な問題を投げかけている。粘土板の手写自体にもいくつかの疑点があるから、問題はさらに深刻である。〔文学テキスト粘土板が1枚しか発見されていないために、さまざまの問題が未解決のままのこされている例としては、他にはシュメール語「大洪水」物語をあげておけばよいであろう。〕
 ただ、だからといって「マルトゥの結婚」が当時あまり知られていない作品だと結論することはできない。粘土板のなかには文学作品カタログとでもいうべきものがある。文学テキスト冒頭の文章が集められているのである。そしてウル出土カタログ(そしておそらくニップル・カタログ) のなかに「マルトゥの結婚」第1行(NI-na-abki i3-me-a kiri8-tab nu-me-a「イナブ(ないしニナブ)が(この世に)存在したとき、キリタブはまだ存在していなかった」)前半が書きこまれている。UET 5 86[Ur] 3) NI-na-ab i3-me-a; cf. TMHNF 3 54 [Nippur] 29) in-na-ab me-a.
 以下「マルトゥの結婚」についての、最近のアルファベット翻字および翻訳をあげておく。

1. Electronic Text Corpus of Sumerian Literature 1.7.1 (1999) (翻字および翻訳)オックスフォード大学東洋学科によるシュメール語文学テキスト電子出版。
2. J. Klein, The god Martu in Sumerian literature, in I.L. Finkel and M.J. Geller (eds.), Sumerian Gods and Their Representations (1997), 99-116. 翻字、翻訳(Appendix: 110-116)およびマルトゥ神についての論。
文学テキストにみえるマルトゥ神についての研究史が簡潔に要約されており、必読文献といえる。
3. S.N. Kramer, The marriage of Martu, in J. Klein and A. Skaist (eds.), Bar-Ilan Studies in Assyriology Dedicated to Pinhas Artzi (1990), 11-27. (翻字および翻訳)
4. J. Bottero et S.N. Kramer, Lorsque les dieux faisaient l 'homme: Mythologie mesopotamienne (1989), 430- 437 (Le mariage de Martu) .(翻訳)
5. W.H.Ph. Romer und D.O. Edzard, Texte aus der Umwelt des Alten Testaments III/ 3: Mythen und Epen I (1993), 495-506 (Romer, Die Heirat des Mardu) . (翻訳)


 「マルトゥの結婚」の行数復元にかんしては、まず全4コラムをもつ原粘土板の末尾に、この作品は計142行よりなることが明記されている。粘土板表面部の行割りふりには深刻な問題はない。裏面部第三コラム中段の欠損個所にどのように行を割りあてるかで、多少の意見のちがいがみられるだけである。とりあえずここでは、クラインによる行復元(文献2)にしたがっておく。

2.
.
私は「マルトゥの結婚」のプロットを、とりあえず次のように復元してみる。
1. イナブ(ないしはニナブ)の町への称揚 (1~14)。
2. イナブ(ないしニナブ)町の郊外では、人々は網を広げ、ガゼル狩猟にあけくれている。ある夕刻、神の前での(?)獲物の「分配」(?)の場で、「分配」(?)の量が定められる。独身者の量を1とすれば、妻子ある男は3、妻を持つ男は2であったが、独身者マルトゥ神は、2と定められる(15-25)。
3. 不満を抱いたマルトゥは、母親に訴える。友人たちはすでに妻子をもっているが、自分だけが独身だ。独身の自分の「分配」(?)の量は友人の量より多い(26-33)。
4. 肉の量決定が同じ原理で繰りかえされ、マルトゥはふたたび母親に訴える。結婚させてほしい。そうすれば、「分配」(?)をあなたのところへもってくる、と(34~43)。
5. 母親はマルトゥに助言を与える。結婚しなさい。けれども市外に家を持ち、果樹園(?)をもって、仲間と暮らせ。そこで井戸を掘って暮らしなさい(44~52)。
6. ちょうどその時、イナブ(ニナブ)の町は祝祭ではなやいでいた。マルトゥは(友人たちとともに?)、イナブ(ニナブ)にでかける。マルトゥは広場で開かれていた格闘技コンテストに参加して、つぎつぎに相手を殺していく(53~75)。
7. 格闘技の主催者(?)ヌムシュダ神はマルトゥの勝利を喜び、褒賞として財宝を与えることを提案するが、マルトゥはそれを拒否して、かわりにヌムシュダ神の娘を所望する(76~83)。
8. ヌムシュダは、婚資として大量の家畜をマルトゥに要求する(84~111:セクション前半ではかなりの部分が欠落しているが、とりあえずこれらの行を、ヌムシュダの発言として復元してみた)。
9. マルトゥ(?)は、イナブ(ニナブ)の町の有力者たちだけでなく、奴隷女たちにまで貴金属の贈り物を気前よく与える(112~125)。
10. 結婚が決まると、ヌムシュダの娘にたいして、女友達が忠告する。マルトゥと結婚してはなりません。あんな野蛮な、テント住まいの、かずかずの禁忌を犯し、神を敬うことをしない人と結婚してはなりません(126~139)。
11. 娘による結婚宣言。ニナブ(イナブ)への賞揚(140~142)。

3.

3.1
この復元には、問題が山積していることを認めなければならない。以下いくつかの問題を指摘しておこう。
物語の舞台となったイナブ(ないしニナブ)NI-na-abkiの町は、まだ確定できない。i3-na-abkiとするかni-na-abkiと理解するかさえ、研究者によって見解が分かれている。もしニップル出土の文学テキスト・カタログにみえるin-na-ab me-aを「マルトゥの結婚」第1行前半の変異体と理解できれば、イナブの読みがまさることになるが、これさえ確定的ではない。ただ物語第1行にイナブ(ニナブ)とペアであらわれるキリタブの町は、たしかにすでにウル第3王朝創始者の碑文(「ウル・ナンムの地籍碑文」)に言及されている。「(これは)キリタブの町のヌムシュダ神の耕地である。ウル・ナンムは(その境界を)彼(=ヌムシュダ神)のために定めた」(Frayne, RIME 3/2 51: Ur-Nammu 21, i 13-16)。キリタブの町は、ニップルよりさらに北方のカザル市と遠からぬところに位置していたことは確実である(おそらくカザルの西方)。「マルトゥの結婚」では、イナブ(ニナブ)の有力者としてヌムシュダ神が言及されているのだから、イナブ(ニナブ)が実在するとすれば、それはカザルにきわめて近いということになる。カザルの主神もヌムシュダであった。
この物語には「神話」的要素はほとんど欠如しているけれども、主人公マルトゥには、一貫して「神」を示す決定詞が添えられている。シュメール語マルトゥ(アッカド語アムル)とは、ほんらい、西方にすみ、シュメール人やアッカド人とはことなる言葉を話し、ことなる生活様式・風俗・習慣をもつ人々を指す。したがって前3千年紀、シュメール人が民族的実体を失わなかった時代にシュメール人が「神たるマルトゥ」を文書に記すことは、ほとんどない。「神マルトゥ」とは、マルトゥの人々(アムル人)の祖先を象徴的に示すために創造された概念Heros Eponymosなのであろう。
これらの問題については、とりあえずD.O. Edzard, Martu (Mardu) A Gott, B Bevölkerungsgruppe,Reallexikon der Assyriologie 7 (1987-1990), 433-440を参照。
「マルトゥの結婚」は、イナブ(ないしニナブ)の町の外に住むマルトゥが、結局、町の有力者(神)の娘と結婚するという物語であるが、ウィルケは、これを前3千年紀の末アムル人がしだいに南部メソポタミア諸都市に浸透していく状況に重ねあわせて、理解しようとしたことがある。アムル人イシュビ・エッラはウル第3王朝の5代王イビ・シンから独立してイシン王朝を開いたが、彼は、自立するにあたってはやくからカザルを占領していたふしがあるからである。C. Wilcke, Zur Geschichte der Amurriter in der Ur-III-Zeit, Welt des Orients 5 (1969), 22. むしろ私は、クラインらのように、民話的要素を重視して、この物語を理解したい。

3.2
この物語を理解するために重要なポイントは、マルトゥが母親にたいして訴えるセクション2、3であるが、個々のシュメール語章句の解釈は、研究者によっておおきくことなる。
たとえば第19行以下について、クラインとオックスフォード・グループは次のような訳を与えている。

[ クライン]
19) u4-ne u4-te-na u[m-ma-te]-a-ra, 20) ki-nig2-ba-ka um-m[a-te]-a-ra, 21) igi-an-se3 uzu-du ni2-ba na-ni?-ga2?-ga2, 22) nig2-ba lu2 dam-du12 min-am3 i3-ga2-ga2, 23) nig2-ba lu2 dumu-du12 es5-am3 i3-ga2-ga2, 24) nig2-< ba> gurus-sag-dili as-am3 i3-ga2-ga2, 25)dmar-tu asa-ni min-am3 i3-ga2-ga2
19) ある日夕刻が近づいたのちに、20)分配の場所で(夕刻が)近づいたのちに、21)アン神の前に肉の分け前がおかれ、22)妻帯者の分け前として2倍がおかれ、23)子もちの男の分け前として3倍が置かれ、24)独身者の分け前として1ポーションが置かれる。25)ただマルトゥにだけは、2倍がおかれる。

[ オックスフォード・グループ]
21) 彼らはES.LIL.DU神の前で配当(量)を確定した。22)彼らは妻帯者への配当を2倍と確定し、23)彼らは子持ちの男への配当を3倍と確定し、24)独身者への配当を1倍と確定した。25)しかしマルトゥへの配当は、彼が独身であるにもかかわらず2倍と確定された。

  クラインも、オックスフォード・グループも、夕刻、狩猟の獲物の分配(nig2-ba)が神の前で行われたのだという。とりわけクラインによれば、マルトゥは実質的には部族長シェイクの役割をはたしているにもかかわらず、独身という理由で、彼だけ家族をもっている男とは差別されたことの不満を訴えたのだという。
 これにたいしてクレイマー(1990年)だけは、ki-NIG2-ba-ka(20行)をki-ninda-ba-kaと読み、「パン貢納bread-offeringの場において」と理解している。つまりクレイマーは、マルトゥは独身者であるにもかかわらず、妻帯者と同じ量の負担を強いられていると不満を持ったというのである(e.g. 22:"Bread-offerings - he who has a wife places two of them")。
 シュメール語nig2-ba の本来の意味からすれば、クラインらのように「分配」と理解したほうがよい。ki-ninda-ba-kaという読みはやはり無理であろう。そしてもしクラインのように、21行にuzuduが復元でき、これに肉のポーションの意味を認めることができれば、ここで集団狩猟の獲物をどのように分配するかが述べられているとするのは、たしかに有力かつ、魅力的な解釈であろう。いっぽうクレイマーは、マルトゥが不満をもった理由として、独身者マルトゥが2 倍の負担量を要求されたと考えたのであろう。
 マルトゥはすでに他の独身者とちがって2倍をもらっている。だから、クライン訳によっても、まだ問題はすべて解決するわけではない。マルトゥが結婚させてほしいと訴える理由として、1)結婚し、子供をもつことで、2倍でなく3倍の獲物分前がほしい、あるいは2)結婚することで、他の妻帯者の差別意識を払拭したい、という理由を想定しなければならない。テキストをすなおに読むかぎり、マルトゥは2倍という数字自体に不満をもっているようにみえるから、おそらくわれわれは第1の説明を採用しなければならなくなる。これは、あまり明快な説明ではない。たしかにNIG2-ba をクレイマーのようにninda-baと読むことはできないが、だからといってnig2-baを神々に分配するためにガゼル狩猟民たちが持参する獲物と解釈する考えも、まだ完全に捨て去られるべきではない。
 クラインとクレイマーの考えの違いはおおきい。クラインらにしたがえば、マルトゥはすでに部族内で有力な役割を果たしているにもかかわらず、独身であるが故に(他独身者よりはおおいが、それでも子供をもつ男よりは)配当が少なかったという。いっぽうクレイマーの訳は、マルトゥは部族内で低い地位しか与えられていないということを前提としているようにみえる。クライン説では、すでに部族内で有力であったマルトゥが、のちイナブ(ないしニナブ)の町の有力者の娘と結婚することになる。いっぽうクレイマー説をおしすすめていけば、部族内でよい処遇をうけていない若者マルトゥが部族を飛び出して、町の有力者の娘と結婚するというプロットが想定される。プロットはまるで違ってくるであろう。
 第32、33行の解釈も、未解決のままのこっている。マルトゥは母親にたいして、「わたしの町では友人、仲間はみな妻帯しているが、私だけ妻も子供もいない」と訴える(26-31行)。問題はその次の行である。

[クライン]
32) gis-sub us2-sa dirig-ku-li-ga2-se3, 33) mas du10-s[a] bi2-dab5 dirig-du10-sa-ga2-se3
33)定められた配当分は私の友人より大きい。33)仲間は1ガゼルを得た(が)、私の分け前は仲間のそれよりも大きい。

[ オックスフォード・グループ]
32)定められた割当分は、私の友人(のそれ)を凌駕して、33)私の仲間よりもはるかに多い。(にもかかわらず)私は半分を受け取った(だけだ)。

 33行冒頭にみえるmas をクラインは「ガゼル」と、オックスフォード・グループは「半分」と解釈しているのである。
この個所にかんしては、まだ訳を確定することは困難だといわざるをえない。あとひとつの解釈として、両行を、私への分け前は友人たちより多く定められているにもかかわらず、(神ないしイナブの町が私から)私の友人たちより多くの税を取り上げた、と考えてみる、すなわちmas を「ガゼル」、「半分」でなく「税」と解釈してみることができるかもしれない。〔ただこれは、前提として、21行以下は狩猟者たちへの獲物配分量のちがいを記述していると解釈している。〕

3.3
 33行にみえるmas、第17、18行のmasをガゼルと訳すとしても、それはけっして通常の用法ではない。前3千年紀末の行政文書では、ガゼルは通常mas-da3 (masda) [= MAS.GAG]と表記される。
〔ただし後代のシュメール・アッカド語辞書テキストでは、mas が「ガゼル」と訳されることもある。〕この物語でなぜガゼルがmas と表現されているのか、その理由はわからない。なお、文学テキストではガゼルとともに狩猟の対象として描かれているのはシリア・ノロバ(anse-edin-na「平原のロバ」)であるが、「マルトゥの結婚」ではシリア・ノロバは言及されていない。

3.4
 マルトゥがヌムシュダ神の娘と結婚するにあたって、イナブ(ニナブ)の人々に財宝が分配されている(112~)。テキストでは主語は明示されていない。とりあえず私は、マルトゥが人々を懐柔するために高価な贈り物をしたと考えてみたが(マルトゥは若い、豊かな部族民であることを前提としている)、娘の結婚にあたって、ヌムシュダ神が「気前の良い」富者として、人々に金品を分与したと解釈することも、もちろん可能である。

4.

 ガゼル狩猟は、さまざまなジャンルのシュメール語文学テキストに断片的に言及されているが、ガゼル狩猟民そのものを描いた作品は他には存在しない。この物語の重要性は、はかりしれないのである。
 この物語はいくつもの読み方が可能である。まず、これをガゼル狩猟民と都市民の対立と共存、妥協の物語として読むことができる。母親がマルトゥに与えた助言は、結婚の勧め以外に、都市のすぐ外に居を構え、仲間とともに生活しなさいというのであった(50~52)。母親は都市内に住むことは勧めていない。けれどもテント生活をしろと命令しているのでは、けっしてない。町のすぐ外で家をもち、果樹園(?)をもち、井戸を掘れと助言しているのである。
 ヌムシュダの娘とマルトゥの結婚話がまとまったとき、娘の女友達は娘に結婚を思いとどまらせようとして、都市民がもつ典型的な差別意識を述べたてる。サルの容貌をもち(127)、たえず放浪する人であり(128, 130)、知的に劣っていて、周囲に問題を引き起こし(132)、テントに住んで、祈りは行わず(133)、山岳地帯に住み、神々の場を知らず(134)、山のきのこを食べ(135)、生肉を食べ(136)、家を持たず(137)、死ぬとき埋葬もされない(138)。ここで女友達に語らせているのは、非都市生活者にたいしてシュメール文学がしばしば採用する差別表現である。このように非難されるのは、アムル人だけではない。非難はそのまま、東方エラムの人々にも向けられてもよい。要するに、非都市民の特性としてシュメール文学がすでに確立している表現がここで採用されただけである。
 ヌムシュダの娘の答えは簡潔である。「私はマルトゥと結婚しようと思う」(141)。

 非都市民の特性を示す表現にかぎらず、この物語にはシュメール文学がもつ常套句(ストック・フレイズ)が各所にちりばめられている。たとえばマルトゥの母は「あなたの選択(基準?)にしたがって妻を娶れ、あなたの心の望みに応じて妻を娶れ」と教える(47~48)。この表現が具体的にどのようなことを意味しているかはまだ議論の余地があるが、これは当時の人々にはよく知られていて、「ことわざ」集をはじめ、おおくの文学テキストにあらわれる。
 マルトゥは娘の父親による褒賞提供を拒否して、「あなたの銀、それはいったいどのような意味があるのか、あなたの(宝)石)、それはいったいどのような意味があるのか」と言いかえす(81)。
これを、銀や宝石はガゼル狩猟民にとって縁のないものだとマルトゥが言い放ったとは理解しない方がよい。むしろこれは、もともと、メソポタミアの都市生活者が持つ、ある種の無常意識(ヴァニタス)を表現しているのではないか。私は81行と同一の表現が他テキストにみえる例をまだ知らないが、仮にこれがまったく異なるコンテキストであらわれたとしても、けっしておどろかない。

5.

  この物語を一種の民話として理解するのが、もっとも実りおおい。シュメール語文学作品のなかでは、若い男による嫁探しを主題とし、しかも民話的特徴をもつ物語は、この「マルトゥの結婚」いがいには、「スドの結婚」(ないしは「エンリルとニンリル2」)をあげるのみである。じっさい、当時の婚約、結婚の手続きをこれほど詳細に記述している文献は、この2テキスト以外には、存在していない。後者にかんしては、オックスフォード・グループ電子出版(ETCSL 1.2.2) 以外に、シヴィルの優れた研究(翻字、訳、注釈)がある。M. Civil, Enlil and Ninlil: The marriage of Sud, Journal of the American Oriental Society 103 (1983), 43-66. この物語はつぎのようなプロットをもつ。若きエンリルがケシュの町にやってきて、ニサバ女神の娘スドを見初め、結婚を申しこむが、侮辱されたと感じたスドは拒否する。母親ニサバの助言(スドへ、エンリルへ)もあって、結局、婚姻は成立する。結婚ののちスドはニンリルとよばれるようになる。
 「マルトゥの結婚」でも「スドの結婚」でも、若者はみずからの居所(ガゼル狩猟民の世界、都市世界)を出て、都市の有力者の娘とめぐりあう。結婚にあたって二つの物語とも母親が重要なアドヴァイスを与える。ただし「マルトゥの結婚」では若者の母親が、「スドの結婚」では娘の母親が重要な役割をはたす。「マルトゥの結婚」では、おそらく娘の母親は登場しない。また婚約ないし結婚にさいして、膨大な数の家畜が娘の家に送られるのは、二つの物語に共通する。
 「マルトゥの結婚」では結婚にさいして、娘の女友達を登場させていた。結婚にあたって男性側の友達の意義を記述した物語として「ドゥムジとエンキムドゥ」を参照することもできる。後者については、セファティのすぐれた訳、注釈が参照できる。ETCSL 4.08.33 およびY. Sefati, Love Songs in Sumerian Literature: Critical Edition of the Dumuzi-Inanna Songs (1998), 324-343 (The shepherd and the farmer: suitor's rivalry).ここでは気まぐれなイナンナ女神が、牧羊の神ドゥムジとは結婚せず、小水路と堤(すなわち灌漑農耕)の神エンキムドゥと結婚したいと言いだしたため、ドゥムジとエンキムドゥのあいだに不和が生じる。ついてテキストでは両者がイナンナに差し出すべき産物が列挙される、すなわち農耕と家畜飼育の世界が対照される。結局、耕地近くでドゥムジが家畜放牧することをエンキムドゥが認め、和解が成立する。そしてテキストでは、ドゥムジは来るべきイナンナとの結婚式にエンキムドゥを友人として招待しているようにみえる。

  名祖Heros Eponymosであり、神たるマルトゥが主人公として、わかりやすいプロットをもつ「民話」にあらわれる。「マルトゥの結婚」の魅力はそこにある。この物語を読んだ(聞かされた?)
バビロニア人たちも、その魅力を感じとっていたにちがいない。

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