2023年2月25日土曜日

サロジニ・ナイドゥ (Sarojini Naidu 1879-1949)

サロジニ・ナイドゥその1

著者 サロジニ・ナイヅー (サロジニ・ナイドゥ) 阿部保・訳; 出版社 高田書院; 刊行年 昭和19年; 解説 B6; 在庫 在庫切れ(古書 うつつ).



日本語訳 黄金の戸口: サロジニ・ナイドゥ詩集 Kindle版 

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サロジニ・ナイドゥその1

サロジニ・ナイドゥ
(Sarojini Naidu 1879-1949)

+:詩人、政治家、インド独立運動の闘士

-:特になし
 「インドのナイチンゲール」の異名をとったサロジニ・ナイドゥ女史は、独立運動期のインドを勇気づけた詩人であるとともに、独立インドの女性政治家の草分けで、インド国民会議議長を務めた最初のインド人女性です。

まずは背景の話

 サロジニ・ナイドゥ女史(旧姓チャットパーディヤーヤ Chattopadhyaya)は、1879年2月13日、ハイデラバー
ドの教育者/化学者アゴールナス・チャットパーディヤーヤ博士(Aghore Nath Chattopadhyaya 1850-1915)の
長子(長女)として生まれました。
 父親チャットパーディヤーヤ博士は、「サロジニ・ナイドゥの父親」という以外ではあまり有名ではない人物のよ
うですが、興味深い人物であり、また、サロジニや他の子供たちの人生に大きな影響を与えたのは無論のこと、
インド社会に対しても相当な功績を残している人物です。
 そう言うわけで、本題に入る前にまず、少しはチャットパーディヤーヤ博士や、その他の背景について書かねば
ならないでしょう。

 アゴールナス・チャットパーディヤーヤ博士は、ベンガル州ブラフマナガール(Brahmanagar)村で、バラモン階
級(ブラフミン)の中でも最上位に属する「Kulin Brahmin」に属する学者の家に生まれました。この階層は、財産
や権力よりも、ヒンズーの聖典に関する知識やその他の学問を誇りとしているということであり、チャットーパーデ
ィヤーヤ家も貧しい家でした。
 知識欲旺盛な少年だったアゴールナスは、貧しさゆえに苦学しながら奨学金を取ってカルカッタ大学で化学を
学びました。そして、研究業績を認められ、給費留学生としてイギリスへ渡り、1877年、エディンバラ大学でイン
ド人として初めて理学博士(D.Sc)の学位を取得しました。
 イギリスでは、専門分野の研究の傍ら、英語はもちろん、ギリシア語、ヘブライ語、サンスクリット語の知識を深
めました。そしてヒンズー教改革運動「ブラフモ・サマージ Brahmo Samaj」に入信もしています。
 1878年、チャットパーディヤーヤ博士はインドに戻りましたが、ここでどういう心境の変化か、研究業績が高く
評価されていたにもかかわらず、化学者ではなく教育者としての途を選びました。そして博士は、ハイデラバード
藩王国(ニザーム王国とも)の首都ハイデラバードに住み着くと、ハイデラバード藩王、および藩王国宰相アリ・カ
ーンの絶大な信頼と支持を得て、ハイデラバードカレッジ(Hyderabad College 現ニザームカレッジ)およびガー
ルズカレッジ(Girl's College)の設立に尽力し、カレッジ設立後はその学長を務めました。

 さて、このハイデラバード藩王国は、ムスリム系藩王の最高位である「ニザーム」の称号を許された唯一の王国
にして、1000万人以上の人口と総兵力10万人以上の陸軍を持つインド最大の藩王国です(ちなみに、ヒンズー系
藩王の最高位が「マハラジャ」)。
 藩王ら支配者層はイスラム教徒、人口の80%以上はヒンズー教徒と言う社会ではありましたが、国内は安定し
ていました。そして、代々の藩王は進取の気性に富み、一族の蓄財と同じくらいに(笑)、国の発展にも熱心でし
た。
 もともと、このような「藩」というものは、宗主国とうまくやっていける限り、難しい外交や国防をたいして気にしなく
て済むので、気楽に内政に尽力できるものです。ハイデラバード藩王国が好き勝手出来たのは、「インド大反乱
(セポイの乱)」で、名宰相アリ・カーンの主導の下、イギリス側の同盟国として行動し、インド南部一帯の平穏を守
ったところによるのが大きいでしょう(笑)。
 今では民族運動のようにとらえられがちな「インド大反乱」ですが、実際のところは、日本風に言う「末期養子の
禁」のような制度に対する藩王国の反発によるところも大きいです。ですから、冷静にソロバンを弾いてイギリス
側についた藩王国も多くあったのでした。

 そして、アリ・カーン宰相は極めて有能でした。彼は近代的な警察制度と裁判所を整備するとともに、どちらかと
言うと質が悪かった、藩王国軍の主力であるイスラム傭兵の性根を叩き直し、軍を治安部隊として運用すること
で国内の治安を劇的に改善しました。もともと鉱物資源に富んでいた藩王国でしたが、このことによって経済活
動が盛んになります。さらに、アリ・カーンは農業インフラの整備にも尽力しました。
 もちろん、ハイデラバード藩王国にもイギリス人の「顧問」やら監察官やらが居て、内政干渉も多々あったので
すが、それでもインド政庁はハイデラバードには一目置いて、ニザームを独立国家の君主として礼遇しており、藩
王国の意に沿わない決定を押し付けるようなことには慎重でした。
  
ミール・タラブ・アリ・カーン/サー・サラール・ジャング
(Mir Turab Ali Khan / Sir Salar Jung 1829-1883 画像
はWikipediaより)

 23歳の時、叔父の後任としてハイデラバード宰相になり、ハ
イデラバード藩王国史上、最も偉大な政治家と評される。英王
室から「サー」の称号を与えられた最初のインド人の一人。
 地方政権の有能すぎる補佐役ということでは、直江兼続っぽ
いが、インド大反乱の際に勝ち馬に乗った判断力は、直江兼続
にも勝るだろう(笑)。
 もっとも、彼の指導でハイデラバード藩王国が繁栄したがゆえ
に、独立早々にインドが危機に直面することになったのは、歴
史の皮肉であろうか。

 話を戻すとして、チャットパーディヤーヤ博士は、14歳の時に出会っていた女性バラダスンダリ
(Varadasundari)と結婚し、1879年にはサロジニが生まれました。その後、早逝した男児一人も含めて、息子4
人娘3人(サロジニも入れれば4人)の子宝に恵まれました。
 さて、その職業と社会的立場から言って驚くほどの事ではありませんが、チャットパーディヤーヤ博士は、いわ
ゆる「教育パパ」でした。一方、母バラダスンダリは、わりと放任主義で、夫の子育て方針に口は出しませんでし
たが、ベンガル語の詩人、そして音楽家として当時はそこそこ有名な人でした。こういう両親ですから、当然、子
供達が影響をモロに受けました。かてて加えて、教育者としてハイデラバードの名士となったチャットパーディヤ
ーヤ博士の下にはサロンが形成され、有名無名関係なく、学者、政治家、芸術家などがひっきりなしにチャットー
パーディヤーヤ邸を訪れていました。
 ナイドゥ女史のみならず、チャットパーディヤーヤ家の子供達の幾人かが詩作や政治の道に進んだのは、ひど
く当然の事でしょう。


これぞ、バベルの塔のタタリである

Through a mango tree, Gandhiji’s love for nature lives on at Golden Threshold- The New Indian Express
https://www.newindianexpress.com/states/telangana/2019/oct/02/through-a-mango-tree-gandhijis-love-for-nature-lives-on-at-golden-threshold-2042130.html

Through a mango tree, Gandhiji’s love for nature lives on at Golden Threshold

Mango tree planted by Mahathma Gandhi on March 9, 1934 at Golden Threshold in Hyderabad | S Senbagapandiyan

HYDERABAD: There is an interesting story behind the mango tree that has grown profusely at Golden Threshold on Nampally station road in Hyderabad, once the residence of Nightingale of India Sarojini Naidu.  The tree was planted by Mahatma Gandhi during his visit to Hyderabad on March 9, 1934.

Gandhiji loved the mango plant very much and he used to take it in a pot with him wherever he went. He loved it because it was the plant which had grown from the seed of a mango fruit which he ate when he was in Yeerawada prison near Pune about 18 months earlier.

When he saw the plant growing from the seed, he took good care of it and when he was finally released from the prison, he took it along with him. On his visit to Hyderabad on March 9, 1934, he brought the plant along with him. After alighting from the train, he drove to Sarojini Naidu’s residence at Golden Threshold from where he went about the city visiting several places and addressed a huge public meeting at Karbala in Secunderabad in the evening.

Before leaving for the public meeting, Gandhiji decided that the plant would grow better in natural soil and decided that Golden Threshold was the best place and planted the tree on the premises.  The tree now has now grown fully and stands as testimony to Gandhiji’s love for nature.

Gandhiji visited Hyderabad four times, the last visit being on March 9, 1934. The last visit was important not only for the historic Karbala public meeting where he spoke at length on the need for eradication of untouchability and one at Vivekavardini School but also for the generosity of children and the poorest of the poor in contributing their mite for the national movement.

When Gandhi got down from the train at Lingampally on March 9 as advised, since a huge crowd had gathered at Nampally station to see him, a small girl pushed others aside and went very close to him. She removed her anklets and donated them to him.  At the same time, a destitute woman, in torn clothes, forced her way to  Gandhiji and shouting Lokrakshaka, donated him `1. Similarly, another poor woman donated him two annas. Gandhiji was very much impressed by their gesture as they had given him what all they had with them.

Whenever Gandhiji visited Hyderabad, donations used to pour in. On April 6, 1929, when he arrived in Hyderabad along with his wife Kasturba, there was a rousing reception waiting or him. When he got down at Secunderabad railway station, thousands gathered there and welcomed him.  Later he went to Viveka Vardhini School, where, in a matter of hours, donations of `15,000 had poured in for use for the national movement. At Prema Theatre where he addressed about 3,000 women, a donation of `639, 14 annas and two paise was collected. Even before his last visit to Hyderabad in 1934, the administration was very much apprehensive of his visit. The Nizam administration wrote to the police member, who was a representative of the British Raj, to allow Mahatma Gandhi since obstructing the programme would be counter-productive. The issue even went to the Legislative Council where it had been decided to allow only public meeting and that too the subject of his speech should be confined to the upliftment of nimnajatulu (Harijans). That was the influence that Gandhiji had wielded in Telangana.

By K Jitendra Babu, director Deccan Archaeological and Cultural Research Institute as told to R Pridhvi Raj


バックナンバー|TBSテレビ:『日立 世界ふしぎ発見!』
https://www.tbs.co.jp/f-hakken/onair/230225.html

バックナンバー|TBSテレビ:『日立 世界ふしぎ発見!』

激動するインド
熱き想いで新時代を
築く人たちに迫る!

仏像を愛する私にとって、インドはずっと憧れの国でした。お釈迦様の教えは、どのような文化、社会で生まれたのか肌で感じてみたいと。ですが、取材を終えて今思うのは、私のインドのイメージはいささか古過ぎ、ステレオタイプ過ぎでしたね(笑)。取材を進めていくにつれて、今のインドにどんどん魅かれていく自分がいました。お会いしたすべての方たちが、とても生き生きとしていたのも印象的でした。そしてこれからもっともっと魅力的な国になるんだろうなと感じました。

3つの宗教寺院が混在した
世界遺産・エローラ石窟群

全国から全世界へ!
注目が高まるインド映画
そしてIT企業の現場とは?

インドの取材から帰国して、毎日のようにインド映画を観ているんです。でも実はこれまでほとんど観たことがなかったのです(笑)。数々のヒット映画を手掛けたラージャマウリ監督を取材させて頂くことになり、話題の『RRR』を観て一気に開眼しました(笑)。エンタメの魅力がすべて詰まった素晴らしい作品で心底魅了されました。インド映画に激しいバトルや、めっちゃ踊ってる!くらいのイメージしかなかった自分は何と残念だったことか。インド映画のイメージが一新されました。監督にお会いした時の私は、興奮MAX(笑)。そして監督にお話を伺いますますファンになってしまいました。本当に素敵なジェントルマンでしたよ!

世界一大きな映画スタジオ
ラモジ・フィルムシティ

また取材をして初めて知り感動したのは、インドでは映画は生活の一部だということ。単なるエンターテインメントではないんです。教養や道徳を身に付ける手段であり、家族の絆を深めるツールでもある。そんなところも素晴らしいと感じました。少し前まで、ステレオタイプのイメージしかなかった私ですが、今では憧れやマイブームをすっ飛ばして、絶対にインド映画に出たい!!心に火が付きました(笑)。

IT企業での取材も、印象的でした。ITは20世紀に生まれ、21世紀に主要産業になったお仕事ですが、働くみなさんも先進的でした。競争の激しい業界だと思いますが、ピリピリした雰囲気はなく、活気がある。ちょっと先の未来を覗かせて頂いた気分になりました。

今インドで飛躍的に増える仏教徒
その最高指導者は日本人!?

そして、今回の取材で最も情熱的でエネルギッシュだった方、佐々井秀嶺さんを多くの方に知って頂きたい!と思います。インドで活動をなさっている僧侶なのですが、人に寄り添うということの神髄を教えて頂きました。佐々井さんは仏教の教えを説くことだけに止まらず、学校や病院の設立やインフラ整備などもされ、もの凄くたくさんの人たちを、安心して自信を持って暮らしていけるように導いてこられたのだと思います。そしてとってもチャーミングなんです!インドのみなさんから本当に慕われていました。

憧れのインドの今を取材して、インドは仕事したい!住みたい!国になりました(笑)。私もそうでしたが、インドにステレオタイプのイメージを持つ方に是非見て頂きたいと思っています。カレーとか、ガンジス川で沐浴とか、ヨガとか(笑)。インドで今最も熱いところ、そして熱き人たちの魅力をお伝えします!

みほとけさんが、「ご一緒できて本当に幸せでした」と語る佐々井秀嶺さんにまつわるこぼれ話をご紹介します。

みほとけさんが敬愛する
平安時代の上人を
彷彿とさせる佐々井さん

佐々井さんは、年齢を伺って信じられない!と思うほど日々エネルギッシュに活動をなさっていますが、常にとても繊細な優しさを示してくださる方でもありました。密着取材で、仏像の開眼法要が行われるお寺へ車で10時間かけて移動した時があったんです。その時に佐々井さんの車を追っていると、佐々井さんの車が止まることがあるんです。それは2時間おきくらいに必ずあって、私たちのことを心配してくださるんですね、「大丈夫か?」「お腹すいてないか?」と。インドの方たちが心から佐々井さんを敬い慕う気持ちがよくわかりました。そんな佐々井さんとご一緒していて、21世紀の空也上人(くうやしょうにん)だ!と思いました。実は私が最も好きな仏像のひとつが、空也上人立像。空也上人は、平安時代にまだ仏教が貴族など特権階級の人たちの信仰だった時に、庶民にも教えを広めた僧侶で、庶民の暮らしを良くするためにインフラ整備も行っていました。まさに佐々井さんの活動そのものです!現代の空也上人とも言える方を密着取材させて頂き、何ともありがたく貴重な体験でございました!

もっと佐々井さんについて知りたい!と思われた方におススメの書籍と映画を担当ディレクターに教えてもらいました。

●書籍『世界が驚くニッポンのお坊さん 佐々井秀嶺、インドに笑う』白石 あづさ (著)
●映画『ジャイビーム!インドとぼくとお坊さん』



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