2023年2月25日土曜日

書評コーナー/龍樹の遺跡の発見 インド、マンセル・ラームテク遺跡 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

書評コーナー/龍樹の遺跡の発見 インド、マンセル・ラームテク遺跡 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

龍樹の遺跡の発見 インド、マンセル・ラームテク遺跡

著書:アニル・クマール・ガイクワード 著/中村晃朗 訳

発行元: 六一書房

出版日:2018/01

価格:¥5,500(税込)

目次

未だ多くの謎に包まれている、革命的思想家ナーガールジュナ(龍樹)の人物研究を新たな地平へと導き、古代インド仏教史の見直しをも迫る渾身の一冊

 本書は、アニル・クマール・ガイクワード氏による大作『龍樹とマンセル・ラームテクの発見(Discovery of Nagarjuna and Mansar-Ramtek)』(原題)の、中村龍海(晃朗)氏による日本語訳である。原著書はインド・ナグプールに本部を置く龍樹菩薩記念研究協会より、2009年に出版された。ここに本書の日本語版が出版されたことを慶賀するとともに、一大翻訳事業に臨んでそれを完遂し、日本人読者が原著書のもたらす知見に触れるための端緒を開いてくれた中村氏に心より感謝の意を表したい。言うまでもないことであるが、我々が原著書の内容を正確に理解することができるのは、中村氏による優れた日本語訳によるところが大きい。その翻訳の完成度の高さは、翻訳文と原文とを対照させてみると一層明らかになる。同氏は基本的に原文を逐語的かつ正確に訳す一方で、文意が曖昧になりそうな箇所は思い切って意訳を行うことによって、原文の趣意や意図をより明確に伝えようとしている。また、特に専門用語やヒンディー語等英語以外の単語に関しては日本語に翻訳しつつも、単語の横にルビを振るなどの措置を取り、原語のニュアンスが失われないようにする工夫も随所に見られる。
 さて本書評では、評者の専門分野がインド仏教思想史(特に仏教認識論・論理学)であることから、主として仏教学の立場から本書の内容を吟味し、本書刊行の意義を考えてみたい。宮崎哲弥氏が本書の帯文で評している通り、龍樹は空の思想を大成し『根本中頌』等の著作によって中観派の始祖とされる他、日本においても「八宗の祖」と仰がれる存在であるにもかかわらず、その生涯は伝説と神秘的描写に彩られ、現在に至るまでその実像は不明なままである。また国内外の仏教学界においては、これまで龍樹の「思想」や「哲学」は主要な研究対象の一つとされてきたものの、その出生地や活動地、活動年代、どのような人生を生きたかなど、龍樹の具体的な「人物像」については、資料の乏しさと不確実さも相まって、研究が進んでこなかったという経緯がある。そのような状況下にあって、本書は龍樹の人物研究に一石を投じる研究書であるといえよう。特に、マンセル遺跡から発掘された遺物・遺構をはじめとする考古学的資料を精査するにとどまらず、それらを文献資料と照合したり組み合わせることによって龍樹という「ひと」に新たな角度から光を当てようとする試みは、これまでほとんど存在しなかった。本書の刊行によって、歴史上の人物としての「龍樹」に関して具体的かつ実証的に議論することができる基盤が整ったとも言える。

龍樹の人物研究とその難しさ
 それでは、龍樹という人物を研究することの難しさはどこにあるのであろうか。第一に指摘できるのは、ナーガールジュナという人物の実像を捉えるのが非常に難しいという点である。鳩摩羅什による『龍樹菩薩伝』(漢語)、玄奘による『大唐西域記』(漢語)、プトン及びターラナータによる『仏教史』(チベット語)等に龍樹の伝記が収録されているが、それらの作品における記述は、伝説的要素、フィクションと考えられる要素を多分に含んでいる。また、龍樹の最も有名な著作である『根本中頌』には、その後の大乗仏教思想史全体に多大な影響を与えた「空」の思想のラディカルかつ精緻な理論が説かれていることから、これまで龍樹に関しては思想研究が先行してきたという経緯がある。一方、人物研究についてはそもそも実証的に研究するための材料・基盤が乏しかった。日本国内においても早くから龍樹に関する研究がなされてきたが、このような事情から、龍樹の人物像に関しては、ある一定のレベル以上は研究が進展していないように見受けられる。
 本書の原著者アニル・クマール・ガイクワード氏は、執筆にあたって、夥しい数の先行研究を参照また引用している。しかしながら、それらの大部分は、英語あるいはインドの言語(ヒンディー語、マラティー語等)で書かれた論文、研究書、報告書、もしくは新聞記事などであり、残念ながら日本におけるナーガールジュナ研究(特に人物、年代、伝記に関して)の研究成果が十分に踏まえられているとは言い難い。これには、著者のガイクワード氏がインド出身の研究者であるため、日本語で書かれた論文や研究書にアクセスすることが困難であったという事情もあるだろう。
 上にも述べたが、原著書がこうして日本語に翻訳されたことの意義の一つは、龍樹の研究者を含む多くの日本人仏教研究者や仏教に関心を持つ一般読者のみならず、龍樹を祖師と仰ぐ日本仏教の諸宗派―例えば、天台宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗など―に属する僧侶や信徒などの宗門関係者も本書で明かされる内容に触れ、そこからこれまでにない新たな情報や考えを知ることができるようになったことである。以上のことから、まず日本の読者への補足の意味も込めて本書ではあまり触れられていない本邦における龍樹(主として『根本中頌』の作者としての龍樹)の人物研究について簡単に紹介したい。その上で、龍樹の人物像に関して未解明であったり異論がある点に関して本書はどのような答えを用意しているか、という視点から本書を評してみたいと思う。このような視点から論評を進めるのは、ガイクワード氏自身が本書の冒頭において提示している以下の問い:「(1)龍樹は実在した人物か、それとも神話上の人物か、(2)どこで生まれたか、(3)生没年はいつか、(4)両親は誰か、(5)龍樹は二人以上いたのか、(6)同時代の王は誰か、(7)どのようなことに通じていたのか、(8)いかに仏教に貢献したか、(9)文学への貢献はどうか、(10)龍樹はナーランダーの学生か教師であったか、(11)他の僧院とはどのような関わりがあったか、(12)龍樹の友人にして支援者であったとされる王は一体誰なのか、(13)龍樹が書いた手紙は、どの王に宛てて書かれたのか、(14)どこで死んだのか」(本書 p.17-18、表記に評者による変更あり。以下、【問い(1)】~【問い(14)】として言及)が、これまでの龍樹研究において問題視されてきたこととほぼ重なっているからである。また、龍樹に関するこれまでの研究における問題点を踏まえた上で本書を読めば、より多くの発見やより深い洞察を得ることができると考える。

日本における龍樹の人物研究
年代論 【問い(3)】としても挙げられている龍樹の活動年代についてであるが、A.D. 2-3世紀頃(150-250年頃)というのが現在の日本の学界における定説となっている。この年代の最大の根拠は、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ、350-409年または344-413年)による「龍樹滅後百年にして人々が彼をブッダのごとく敬っている」という記述である。日本では宇井伯壽氏がこの年代を最初に提唱した。日本の研究者は概して中国の資料を重視しており、宇井説を採用することが多い。その他、E. ラモット氏は中国資料を慎重に検討し、A.D.243-300年という年代を算出している。しかしながら梶山雄一氏が、「決定的な新資料が見出されるまでは、われわれはナーガールジュナの年代を確定できない。われわれに対して彼はいまだに隠身の術を用いているかのようである」(『梶山雄一著作集第四巻 中観と空I』 p.10)と吐露している通り、龍樹の年代は未確定のままである。
龍樹伝 中国及びチベットにおいて数多くの龍樹伝が伝えられているが、それらの作品はいずれも伝説的・神話的描写にあふれており、決して龍樹の実像を伝えるものであるとは言えない。中国における資料のうち、比較的古く、内容としてもまとまっているのは、鳩摩羅什訳『龍樹菩薩伝』巻五十(大正大蔵経 no.2407)である。他には吉迦夜・曇曜訳『付法蔵因縁伝』巻5(大正大蔵経 no.2058)、玄奘三蔵作『大唐西域記』巻十(大正no.2087)などに龍樹の伝記が含まれている。日本人研究者による現代語訳としては、中村元氏(『龍樹』所収、『龍樹菩薩伝』)、定方晟氏(『カニシカ王と菩薩たち』所収、『付法蔵因縁伝』『大唐西域記』)、水谷真成氏(『大唐西域記』所収)があるが、最新の研究成果として、桂紹隆・五島清隆両氏によるもの(『龍樹『根本中頌』を読む』所収、『龍樹菩薩伝』)を挙げることができる。チベットにおける資料としては、プトン(1290-1364)とターラナータ(1575-1616)それぞれによる『仏教史』、スンパケンポ(1704-1776)による『パクサンジョンサン』等に龍樹の伝記が含まれている。上述の諸々の伝記の内容は全く様相を異にするものの、中村元氏は数々の伝記に共通する点として、龍樹がサータヴァーハナ王朝と何らかの関係があったこと、バラモンの家系の出身であったこと、博学でバラモン系の種々の学問や哲学も修めていたと考えられること、一種の錬金術を体得していたこととなど挙げている(『龍樹』 p.51f.)。以上に加えて梶山氏は、龍樹がデカン高原の「ヴィダルバ」という地で生まれたこと、「出家受戒後、90日のうちに(大乗経典以外の)三蔵(経・律・論の経典の総称)を全て読誦し終えた」という伝記の記述が彼の著作に見られる部派仏教諸派(説一切有部など)によるアビダルマ哲学に対する批判と符合すること、「海の中の宮殿(龍宮)において、大龍菩薩より種々の大乗経典を授かった」という記述は、「正しい教えが世に行われない間、その経典は龍王の管理のもとに海底に秘蔵されるという大乗仏教徒一般の信仰の表現」(『梶山雄一著作集第四巻 中観と空I』p.7)であると考えられること、魔術や忍術などの数々の神通力や神秘的力は高い宗教的境地に至った者が長きにわたるヨーガ修行の中で自然と身につけるものであることなどを指摘している。梶山氏はさらに、サータヴァーハナ王朝の王のうち龍樹と親交があったのは、ゴータミー・シャータカルニー(在位80-104年または106-130年)か、ヤジュナシュリー・シャータカルニー(またはシュリーヤジュナ・シャータカルニー、在位173-199年)のいずれかであった可能性を指摘している(上掲書 p.9参照、本田義央氏はハーラ王に比定している。)。なお桂・五島氏によれば、龍樹に関連して「サータヴァーハナ」の語が現れる資料は7世紀以降のもの(玄奘及び義浄の記述)に限られるという(『龍樹『根本中頌』を読む』 p.342)。
龍樹複数人説 龍樹に帰せられる著作は多数存在するため、これまで龍樹一人説、二人説(顕教・密教別人説)、四人説(仏教哲学者・タントラの作者・医学書の著者・錬金術師)などが主張されてきたが、一人説も依然として根強い(例えば、Jan Yün-hua, "One or Many? A New Interpretation of Buddhist Hagiography", History of Religions 10-2, 1970, pp.139-155)。この点についても、仏教学界においては確たる結論が出ていないのが実情である。
ナーガールジュナ・コーンダの扱い 南インドのクリシュナー川の右岸に位置するナーガールジュナ・コーンダは、イクシュヴァーク王朝時代(3-4世紀)の仏教遺跡として知られる。一般にその名称から、この遺跡がそれ以前に栄えていたサータヴァーハナ王朝との関係で龍樹の故地あるいは活動の地であったと推測されている。『入楞伽経』で言及される「南方のヴェーダリー」をこの地と同定しようとする研究者もいる。しかしながら、ナーガールジュナ・コーンダと龍樹を直接的に結びつける証拠は未だ発見されていない(『龍樹『根本中頌』を読む』 p.342f.参照)。なお、中国資料における「南天竺」という表現から、我々はすぐに「南インド」を思い浮かべがちであるが、例えばサータヴァーハナ王朝の版図は必ずしも現在のアーンドラ・プラデーシュ州と完全に一致するわけではない。そのため、「南天竺」という表現には注意しておく必要がある。「南天竺」が指すのは、アショーカ王時代の版図(現在のインド中南部まで)を基準にすると、現在のインド中部(デカン高原)一帯であったという見方もある(『龍樹と龍猛と菩提達磨の源流』 p.8-10、『必生 闘う仏教』 p.140参照)。
 以上、日本における龍樹という人物に関する先行研究を紹介してきたが、特に異論が多かったり一層の解明が求められる問題は、出生地(【問い(2)】に対応)、主な活動場所と活動年代(【問い(3)】に対応)、没した場所(【問い(14)】に対応)、龍樹は何人いたか(【問い(5)】に対応)、同時代の王・親交のあった王は誰であったのか(【問い(6)(12)(13)】に対応)、といったものである。これらの問題に対して、本書はどのように回答しようとしているのだろうか。以下に見ていきたいと思う。

龍樹の出生地の問題(【問い(2)】に関連)
 ガイクワード氏は、龍樹にまつわる種々の伝承(プトンの『仏教史』など)において龍樹の出生地として「ヴィダルバ」の地が言及されることを重視し、そのヴィダルバ地方(現在のマハーラーシュトラ州東部のナグプール地区及びアマラヴァティー地区に相当、「ヴェラール」とも呼ばれる)の中で龍樹との関連があると考えられる場所は、ラームテクとマンセルであると述べている(本書 p.19)。本書の画期的な点の一つは、マンセルやラームテク等に関して、『インド中央諸州地名辞典』(1868年)やJ・D・ベグラー氏による『旅行報告』(1878年)、R・B・ヒラーラール氏による『ラームテク探訪』(1908年)など、現地への訪問・調査(考古学的証拠を含む)にもとづく地誌・旅行記・探訪記等の資料を積極的に活用している点である。例えばヒラーラール氏による、「龍樹に捧げられた洞窟」の中に「据え置かれた一体の龍(ナーガ)像と、アルジュナを表したと思しき人間の頭部像がある」(本書 p.159)という報告は注目されるべきものの一つである。彼はまた、龍樹窟に見られた遺物などから、この龍樹が中観派の祖としての龍樹であると推測している。ガイクワード氏も、同氏による報告を自らの見解を裏付けるものとして引用しているようである。

ヴィダルバとナーガとアンベードカルの関係
 B・R・アンベードカル博士(1891-1956年、近現代インドにおける不可触民解放運動・仏教復興運動の指導者)が、1956年10月14日にナグプールにて30~60万人の下層民衆ともにヒンドゥー教から仏教への集団改宗を敢行したことは有名であるが、その際の演説の中で、彼が「ナーガ(族)」「ナグプール」「龍樹」などの名称や由来に言及したことは注目に値する。この時のアンベードカルによるスピーチは、インド仏教徒にとって歴史的演説と見なされている。本書のもう一つの画期的な点は、文献資料や考古学的資料のみならず、現在に続く仏教運動の発端ともなったこのアンベードカルの言説についても光を当てようとしている点である。その内容は、アンベードカルが集団改宗式を行う場所としてナグプールを選んだ理由に触れるものであった。その理由とは、(1)歴史的に、龍(ナーガ)族と呼ばれる人々がインドにおいて仏教を広めた人々であったこと、(2)ナーガ族とアーリヤ人たちは対立し、両者の間で何度も戦いが行われたこと、(3)プラーナ文献にアガスティ・ムニが一人のナーガを助けたという記述が見られるが、アンベードカル自身とその同朋たちは彼(ナーガ)の子孫であること、(4)ブッダはナーガ族にとっての救世主的存在(偉大なる人物)として登場したこと、(5)自分たちナーガ族の末裔はナーガ・プーラ(=ナグプール、「龍の街」の意)の住人で、この周辺には龍樹山やナーガ河などナーガにちなんだ地名が多く存在すること(本書 p.177f.)というように要約することができる。ガイクワード氏は、ヴィダルバ地域がサータヴァーハナ王朝によって治められていたという歴史を踏まえた上で、「龍樹は同王朝の同時代人であって、マンセル・ラームテク遺跡は龍樹が生まれ、そしてその生涯のほとんどを過ごした場所なのである」(本書 p.362)と明言している。アンベードカルによる演説をきっかけとして、ヴィダルバにおける仏教文化、ヴィダルバとナーガ(族)、またヴィダルバと龍樹の関係などが、近現代インドを生きる人々によって再発見されたということもできるだろう。

マンセル遺跡の発掘(1) ~アショーカ王時代の遺物と遺構の発見~
 第6章に収録されている各種新聞の諸見解(速報一~三〇)を見ると、マンセル遺跡(及びその周辺の遺跡)の発掘とそこからの発見物がインドにおいてどれほど注目されているかを窺い知ることができると同時に、マンセル遺跡が現在も発掘の途上にあることがことがわかる。本書によると、マンセル遺跡の本格的な発掘は、1994年頃から開始された。その中でも特に注目されるのが、龍樹菩薩記念協会及び当協会会長の佐々井秀嶺師を中心とするチーム(監督:ジャガト・パティ・ジョーシ、A・K・シャルマを中心とするチーム)によるものである。2002年、A・K・シャルマ氏は、「マンセル発掘報告書」を出版した。これによると、マンセルでの発見物は三つの時期:第一期 紀元前200年から250年、第二期 紀元250年から500年、第三期 紀元500年から700年に分類できるという(本書 p.199f.)。まず第一期に属すると推定される発見物の中で最も重要なものは、ブッダが象徴的に表現された菩提樹の素焼き片である(本書 p.549、写真3A参照)。一般にブッダの偶像表現は、紀元1世紀頃にガンダーラ地方あるいはマトゥラーにおいて初めてなされたというのが定説であるため、この菩提樹をかたどった遺物は、仏教文化史上かなり古い時代に属するものであることになる。ガイクワード氏は、アショーカ王の時代にすでにマンセルの地に仏教が伝わり、様々な仏教文化が創出されたと推測している(本書 p.240f.)。さらにマンセル遺跡では、四基の仏塔(ストゥーパ)が発掘された。そのうち二つはマウルヤ朝期すなわちアショーカ王時代のもので、それ以外の二つはおそらくサータヴァーハナ朝期(前3あるいは1世紀~後3世紀頃)とヴァーカータカ朝期(3~6世紀頃)のものとされる。アショーカ王時代のものと見られる仏塔についてガイクワード氏は、宗務大臣(ダルママハーマートラ)の監督の下マンセルを訪れた初期の開拓者たち(=ナーガ族の人々)が仏塔を建立し、その後それが増工された可能性があると述べている(本書 p.270-272)。

マンセル遺跡の発掘(2) ~その他の重要な出土品~
文殊師利菩薩像 その他の注目に値する出土品として、文殊師利(マンジュシュリー)菩薩像を挙げることができる。ガイクワード氏はトゥルシーラーム氏の研究を引用し、文殊師利菩薩像の存在はマンセルに密教(タントラヤーナ)の影響が及んでいたことを示唆していると言う。さらに、同地における密教の影響を考慮すれば、マンセル・ラームテク地域におけるリンガの存在を説明することも可能になるとも述べている(本書 p.302-304)。
舎利容器と遺骨 2000年1月24日、マンセルより独特の舎利容器の破片と二片の焼けた骨が出土したが、それらはブッダあるいは偉大な仏教僧の遺骨であると見なされた。ガイクワード氏はこれを龍樹の遺骨であると比定し、マンセル遺跡で出土された仏塔とサータヴァーハナ王朝、さらにはヴァーカータカ王朝の関係について以下のように分析している。
「今、二基の仏塔の建立と発見された骨壺とを分析するなら、答えを出すことはより容易になる。すなわち、骨は仏陀か、菩薩の位を成就した龍樹のものである。……アショーカ時代の後には仏教庇護者たるサータヴァーハナ王朝が続き、この時代に有名な人物が龍樹であった。同様に、ヴァーカータカ王朝も仏教を庇護し、仏塔を建立した。……ヴァーカータカ王朝は高位の仏僧の骨の上に仏塔を建立し、そう考えられる唯一の人物は龍樹だけなのではなかろうか。歴史と諸伝承とが裏付けるように、龍樹はヴィダルバで生まれて、サータヴァーハナ朝期に同地域で暗殺され、すると彼がそこで荼毘に付されたことをヴァーカータカ王朝が特定し、大いなる畏敬と称賛をもって、彼らがアショーカ仏塔の傍らに仏塔を建立した―すなわち同遺跡で龍樹の骨の上にヴァーカータカ王朝が仏塔を建立したという可能性が残るのである。このように、ヴァーカータカ王朝が龍樹の骨の上に仏塔を建立したと考えるのが、最もあり得そうで正しそうである。」(本書 p.305)

 以上のように、マンセル遺跡から発掘された出土品や遺構は、アショーカ王時代に始まりヴァーカータカ王朝期へと連綿と続く仏教文化の伝統の存在を示している。これらの発見物に対しては様々な解釈が可能であろうが、それらはヴィダルバ地域において一大仏教文化が生み出され繁栄したことの証左となる。本書245頁において指摘されている通り、今後さらに調査が進めば、歴史家や研究者はインド仏教史を書き改める必要に迫られることになるだろう。そう考えると、マンセル遺跡が世界の仏教徒にとって重要な巡礼地となる日もそれほど遠くはないのかもしれない。

サータヴァーハナ王朝の時代
サータヴァーハナ王朝とは ここで、龍樹と関係が深いと言われてきたサータヴァーハナ王朝について押さえておきたい。前1世紀~後3世紀頃、デカン高原において、ドラヴィダ人によって建てられたアーンドラ王国が独立して建てた王朝である。そのためアーンドラ王朝と呼ばれることもある。アショーカ王時代のマウリヤ朝に一時的に朝貢していたが、マウリヤ朝が崩壊するとデカン高原一帯を支配した。紀元前1世紀頃から急速に勢力を伸ばし、後1世紀には北西インドのクシャーナ朝と対抗する勢力となった。同王朝はアーリヤ文化を積極的に受け入れたため、多くのバラモンたちが移住した。彼らはバラモン教を伝えたが、仏教やジャイナ教を信仰する人々も存在した。
サータヴァーハナ王朝とマンセルの関係 マンセル遺跡のいわゆる「王宮複合建造物」と呼ばれるものはどのような経緯で建設されたのであろうか。上に見た通り、マンセルの丘にはサータヴァーハナ王朝以前にすでにアショーカ王によって作られた仏塔が存在していたと考えられる。ガイクワード氏によると、サータヴァーハナ王朝が同地にまず王宮を建設し、さらに僧房を増築したと理解するのは適切でない。「王宮複合建造物」はむしろ、サータヴァーハナ王朝が当初から僧院として建設したものであったと考える方が合理的であり、このことは同王朝が仏教を庇護していた事実によっても裏付けられると言う(本書 p.322f.)。同氏はさらに、龍樹との関係を考慮すると、マンセル遺跡において見られる、王宮のような外観をもった巨大複合建造物は、サータヴァーハナ王朝期にそのいずれかの王によって建立された龍樹の大寺(マハーヴィハーラ)である可能性が高いとも述べる。そして、サータヴァーハナ王朝の衰退後、この寺院複合建造物は反仏教運動家によって襲撃・破壊された。ヴァーカータカ王朝の人々もしくは地方の住人たちは、破壊された僧院の修復と再建を行い、さらに新しい僧房が建立された可能性もある(本書 p.324)。ガイクワード氏が考古学的諸資料にもとづいて立てた以上の仮説は十分な説得力を持つように思われるが、どうであろうか。
ハーラ王と龍樹の関係(【問い(6)・(12)・(13)】と関連) 龍樹と親交のあった王は、サータヴァーハナ王朝のいずれの王なのであろうか。ガイクワード氏は、龍樹と親交のあった王をハーラ王と特定するS・V・ソホーニ氏の研究を引用し、彼の立論を肯定的に受け取っているようである。ソホーニ氏が出した結論は以下のようなものである。ハーラ王と龍樹が同時代人であるとする第一の根拠は、詩人バーナバッタ(7世紀頃)による『ハルシャ・チャリタ』における記述である。第二の根拠は、『勧誡王頌(スフル・レーカ、親友書簡)』における記述であり、ソホーニ氏はこの手紙の送り主は龍樹で、受け取り手はハーラ王であると見なす。第三の根拠は、パーダリプタによる詩にも見られる、サータヴァーハナの王が龍樹とともに龍の島(ナーガ・ドヴィーパ)を訪れたという伝承である。それによると、ハーラ王が龍樹と思しき人物とともに行ったと考えられている場所はセイロン島で、同島にあるジャフナ半島が、「龍の島」とよばれていたことを証明する十分な証拠があるという。さらに、ハーラ王が龍樹と共に訪れたパタラの土地(ローカ)とはセイロン島であったと述べている。ソホーニ氏は最終的に、龍樹が紀元150年-200年の間の時期に影響力をもつようになったと結論づけている(本書 p.363f.)。上述のソホーニ氏の立論に従うとすれば、従来1世紀前半頃とされてきたハーラ王の在位期間を見直す必要があるだろう。一方、ガイクワード氏自身は龍樹がサータヴァーハナ王朝のどの王と親交があったかについて最後まで明確な考えを打ち出してはいない。
サータヴァーハナ王朝以後 ガイクワード氏は、サータヴァーハナ王朝によって建設された僧院等がヴァーカータカ王朝によって修復・増広され、さらにヴィシュヌクンディン王朝によってさらなる増設が行われたという仮説を立てている。そして、マンセルの僧院はナーラーンダー僧院に匹敵する、中央インドにおける仏教研究・学修の中心地となるに至ったという(本書 p.237f.)。すなわち、サータヴァーハナ朝期に建設された僧院は、ヴァーカータカ王朝を経て、ヴィシュヌクンディン王朝に至るまで「再利用」され続け、最終的に仏教研究・仏道修行のセンターとして確立されるに至った、というのである(本書 p.240)。しかしながら、9世紀以降ヤーダヴァ王朝の時代になると、マンセルにあった仏塔や僧院は完全に破壊されるに至ったとも述べている(本書 p.242f.)。以上のように、マンセルにおいて仏教文化が誕生したのはアショーカ王の時代であり、その後、サータヴァーハナ王朝からヴァーカータカ王朝、さらには7世紀のヴィシュヌクンディン王朝に至るまで一貫して仏教文化が生み出され、保持され続けてきた可能性が高いということが説得力をもって語られている。マンセルを龍樹の故地もしくは活動の地であると見なすためにはさらなる調査と検証が必要であろうが、我々は少なくとも同地に仏教文化が根付き育まれてきた場所であることについては認めざるをえないようである。

龍樹が後年に訪れた場所と活動した場所
ナーガールジュナ・コーンダについて ナーガールジュナ・コーンダは、現在のアンドラ・プラデーシュ州に位置するが、龍樹が活動していたと考えられる時代はサータヴァーハナ王朝の統治下にあった。そして、これまで多くの研究者が、その地名との関連性から龍樹の故地もしくは活動地をナーガールジュナ・コーンダであると見なしてきた。しかしながら、同州には古代に仏教文化が繁栄したことを示す遺跡が数多く存在するものの、現在に至るまで、龍樹とナーガールジュナ・コーンダとの関連を立証するような碑文等の直接的な証拠は見つかっていない(本書 p.126f.)。プトンの『仏教史』に登場する「吉祥山(シュリーパルヴァタ)」(龍樹が晩年を過ごしたとされる場所)に関しても、同じ地名がナーガールジュナ・コーンダ近く(クリシュナ河沿岸)に存在するものの、そこで活動したという確たる証拠がない点ではナーガールジュナ・コーンダと事情は同様である。ガイクワード氏自身は「おそらくナーガールジュナ・コーンダが、龍樹の後半生と関わりがあったろうことは明白である」としつつも、一方で「この問題は未解決で、自由な議論に対して開かれたままである」(本書 p.128)とも述べており、この問題に関して明確な結論を打ち出してはいない。いずれにしても、ナーガールジュナ・コーンダと龍樹の関係性については今後再検討される必要があるだろう。

龍樹の入滅とその場所(【問い(14)】)
マンセル・ラームテク ガイクワード氏は本書冒頭において、龍樹の死とその場所について以下のような重要な指摘を行っている。
「同地(=マンセル・ラームテク)こそが、サータヴァーハナ王朝と同時代に出た龍樹に関連する遺跡であり、龍樹の工房と―彼がここで暗殺されたことから―龍樹の遺骨が見出されるかもしれない他ならぬその舞台として、踏査されねばならぬ場所であるということを、今こそ確信の下に言うことができるだろう。」(本書p.21)

そして龍樹の半生については、以下のように簡潔にまとめている。龍樹が600年生きたという伝承は、彼の長生を象徴したものである可能性が高い。ナーラーンダー僧院の運営に携わったあとは、生誕地でもあるヴィダルバ=マンセル・ラームテクに戻り、そこで最期の時を過ごしたが、その時、近隣の丘で暗殺された、と(本書 p.112)。
龍樹による首布施の伝承 玄奘による『大唐西域記』やプトンによる『仏教史』には、龍樹の死にまつわるエピソードとして「龍樹による首布施」の話が現れるが、これに関してガイクワード氏は興味深い考察を行っている。彼は、チャンドラ・ナルナワレー氏の研究を参照しながらも、王子が龍樹に首の布施を依頼したという説話は事実を伝えるものではなく、反仏教運動家たちによって周到に計画された陰謀であり、自殺ではなく斬首による暗殺であったと推測している。その根拠として、マンセルで見つかった石灰像とナルナワレー氏が龍樹山で見たという石像に構造的な類似点が認められること、また像は寝ているような姿をしているが、おそらくこれは龍樹が眠っている時に暗殺されたことを示唆していること、などを挙げている(本書 p.371)。

龍樹は一人か複数か?
 ガイクワード氏は龍樹4人説にも言及するものの、「マンセル・ラームテクの龍樹は中観哲学の開祖、インド化学の父、およびサータヴァーハナの同時代人として賞賛されている最初の龍樹であったということは真実である」(本書 p.336)、また「龍樹の著作について混乱させるのは、古代インド医学とまた文学のなかに、複数の龍樹が描かれていることだ。しかし詳細な情報が手に入るのは、それらの龍樹唯一人についてのみだ」(本書 p.449)とも述べており、基本的には龍樹一人説を支持しているようである。「龍樹」という名を有する複数の人物の存在に関しては、後代の何者かが「最初の龍樹」と彼に連なる伝統に自らを重ね、「龍樹」と自称した可能性を指摘している。その他、龍樹の信奉者たちが、例えば錬金術や密教などに関する著作を権威付けのために「龍樹作」と見なしたことから、後の時代にそのように伝承された可能性も考えられるであろう。

「反仏教運動」について
 ガイクワード氏は本書において一貫して、インドの長い宗教史において「反仏教運動」が存在したと主張している。これは彼本人が仏教徒であることと無関係ではないのかもしれないが、インドの長い歴史の中で、仏教徒とその他の宗教に属する者たちの間で度々対立や争いがあったことは想像に難くない。同氏によると、「反仏教運動」は仏教文化の隠蔽や破壊という形を取ることもあれば、元々仏教遺跡であった場所をヒンドゥー教の遺跡として意図的にもしくは誤って認定したり、仏教遺跡があった場所に新たに寺院を建立するという形を取ることもある。反仏教運動や破壊活動を行うのはイスラム教徒のみではない。マンセルに関してもこのことは例外でなかった。ガイクワード氏は、龍樹という人物が当時仏教復興を担った「菩薩」であったことから、反仏教運動は一層熾烈を極めたのではないかと推測している(本書 p.160f.)。同氏はさらにインドにおける仏教遺跡に関して、「建立、破壊、また建立、そして利用と再利用とはインドにおける重要な一連の出来事で」(本書 p.324)あるとも述べている。

結びに代えて
 ガイクワード氏は、本書において最終的に「今、マンセルの遺跡はサータヴァーハナが龍樹のために寺院(ヴィハーラ)を建立した場所であったという結論を下すことができる」(本書 p.337)と総括するとともに、「龍(ナーガ)達、アショーカ、サータヴァーハナ王朝とヴァーカータカ王朝の関係を確証するだけの、十分な歴史的根拠や考古学的遺跡までもがある。もし全てが理解されたなら、インド化学の父たる龍樹の若い頃や活動の場と、マンセル・ラームテクとの関連を実証することは容易になる。要は真っ当に理解し、解釈するということなのだ」(本書 p.376)との見通しを語っている。本書を通読した読者は、最早、彼のこの確信に満ちた結論と見通しを簡単に否定することはできないだろう。今我々に求められていることは、本書に書かれていることを「真っ当に理解し、解釈すること」("It is a matter of understanding and interpreting it properly." Discovery of Nagarjuna and Mansar-Ramtek, p.199.)なのではなかろうか。

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