室戸岬から北上する際に、次に重宝された旅の指標は徳島最東端に浮かぶ伊島であったと考えられます。伊島からは淡路島を一望できるだけでなく、西方には西日本で第2の標高を誇る四国剣山の頂上を遠くに望み、東方には熊野の山々を眺めることができます。また、伊島の真北には日本三奇の一つとされる生石神社の石の宝殿が存在します。伊島に紐付けられて生石神社の場所が見出された可能性があります。室戸岬から伊島まで、双方の拠点を海岸沿いに航海すると、100km近くもありますが、その紀伊水道に繋がる航海路は見渡しもよく、高知沿岸から淡路を介して瀬戸内や近畿へと向かう航海路は、徐々に重要性が確立されていくことになります。
https://www.historyjp.com/article/592/竹ヶ島の魅力に迫る
南海からよみがえる古代の聖地
由緒ある古代の聖地「竹ヶ島」
徳島県の最南端、海陽町の沖合に浮かぶ竹ヶ島は、室戸阿南海岸国定公園内にある小さな島です。100mほどの短い橋で繋がっていることから、陸続きの感覚で簡単に往来することができます。島の大きさは南北に1km、東西に700mほど、面積はおよそ0.4km2です。島の周囲は約4km、周辺の近海はイシサンゴの群生地としても知られています。竹ヶ島にはマグロ漁の基地となる港が存在し、漁業が島民生計の柱となっています。また、北西部一帯は竹ヶ島海中公園に指定され、海陽町が運営するマリンジャムでは、シーカヤックや水中ガラス窓付の観光船による海中散策など、海のレジャーに関する様々なサービスが提供されています。
竹ヶ島竹ヶ島の漁港正面、階段上に建立された竹ヶ島神社では、国常立命(くにとこたちのみこと)ら祭神が祀られ、大漁と海上安全の守護神として崇められています。例年5月に開催される竹ヶ島神社祭りの海中神輿は有名であり、神社の境内から「チョー、サジャー」という掛け声と共に神輿が担ぎ出され、そこから階段を下りて東岸の海辺へと向かいます。そして海の中へと入って浅瀬を渡り歩きながら、神が宿ると信じられてきた神社の奥宮となる岩場の周辺にて、大勢の民衆と共に祝うのです。
今日、過疎化が進んでいる竹ヶ島では、お祭りの季節でも神輿を担ぐ若手が足りず、海中神輿の祭りを継続することが困難になっています。そして2017年、残念ながら海中神輿の行事は中止に追い込まれてしまいました。 由緒ある竹ヶ島の海中神輿の背景には、何等かの大切な歴史的イベントが伴ったに違いありません。一説によると、イスラエルから契約の箱が船で運ばれて来た際、その神宝を船から下して陸地にあげる際に、契約の箱を肩に担いで運ぶために海につかったことを記念して、海中神輿が始まったとも言われています。だからこそ、冷たい海中にまで重たい神輿を担ぎ、そして神を祀ることを大切にした人々が存在し、世代を超えて今日まで語り継がれてきたのではないでしょうか。竹ヶ島には多くの魅力が秘められています。
竹ヶ島の地勢
竹ヶ島頂上から太平洋を望む竹ヶ島が由緒ある古代の聖地であることは、あまり知られていません。人里から遠く離れた四国の小島であるが故に、多くの人に知られることなく、今日までそっと守られてきたのではないでしょうか。一見、何の変哲もないような小さい島でありながら、古代、竹ヶ島が密かに注目された理由は、その特異な地勢と、海側から見える島本来の姿にあります。
遠い昔、大陸より日本列島へ渡来した古代人の多くは、船を用いて主に台湾から琉球を経て、南西諸島を北上してきました。九州から四国の南岸を経由して淡路島、及び本州へと辿り着いた海人一族は、まず新天地の基点となるにふさわしい地勢と見晴らしを兼ね備えた重要地点を厳選し、そこに神を祀る社を建立したと考えられます。そして日本の島々はくまなく調べられ、いつしか列島各地に拠点が設けられるようになったのです。その海人一族の航海技術は、遠くアジア大陸の彼方、西アジア地方からもたらされたものと考えられます。
日本列島への船旅の最終到達点となった淡路島は、古代では日本列島の中心と考えられていたようです。何故なら、日本書紀や古事記には淡路島が国生みの原点となる場所であったことが明記されているだけでなく、地理的にも日本列島のおよそ中心に存在するからです。また、南西諸島の黒潮の流れに沿う列島は淡路島で終焉し、そこから北方へは航海できないことから、淡路島が黒潮の流れにのった「海の島々」の最終到達点であったのです。南西諸島から淡路島方面へと北上する渡来者にとって、高知県の南方沖から四国の東岸を経由して紀伊水道から淡路島方面への航海路は重要視されてきたことは言うまでもありません。
古代の航海者は海上から確認することのできる多くの地の指標を用いて、天体の動きを確認しながら船旅を続けました。それら地の指標の中でも、特に四国の室戸岬は大事な拠点でした。室戸岬から夏至の太陽が昇る方角には富士山頂が存在します。そしてこの2つの拠点を結ぶ線上には、伊良湖岬、伊勢神宮内宮、大台ヶ原が並んでいます。また、室戸岬から冬至の太陽が沈むおよそ240度の方角には足摺岬と鹿児島の桜島御岳が並びます。よって、室戸岬を基点に、列島内の各拠点の方角と位置づけを確認することができたのです。天体と地勢を検証しながら旅する古代の航海者にとって、室戸岬は重要な旅の指標でした。
室戸岬から北上する際に、次に重宝された旅の指標は徳島最東端に浮かぶ伊島であったと考えられます。伊島からは淡路島を一望できるだけでなく、西方には西日本で第2の標高を誇る四国剣山の頂上を遠くに望み、東方には熊野の山々を眺めることができます。また、伊島の真北には日本三奇の一つとされる生石神社の石の宝殿が存在します。伊島に紐付けられて生石神社の場所が見出された可能性があります。室戸岬から伊島まで、双方の拠点を海岸沿いに航海すると、100km近くもありますが、その紀伊水道に繋がる航海路は見渡しもよく、高知沿岸から淡路を介して瀬戸内や近畿へと向かう航海路は、徐々に重要性が確立されていくことになります。
その高知県と徳島県の太平洋岸を船で北上する際、室戸岬の北、35km先に見えてくるのが竹ヶ島です。室戸岬から始まる高知県の太平洋岸には、ごく普通の海岸線の景色が連なります。ところが、竹ヶ島周辺に近づくと、景色が一変することがわかります。それまでの穏やかな海岸の風景が、突如として巨石からなる岩場に囲まれた島の姿に変貌するのです。しかも島の頂上、標高およそ100mの場所からは、室戸岬と伊島、そして熊野の山々までも遠くに一望できるのです。古代の展望所としては、まさに絶好の位置づけにあったことからしても、古代人は注目したに違いありません。
竹ヶ島の岸壁は、四国の南方だけでなく、九州から関東までの広範囲の太平洋岸に分布する四万十層群と呼ばれる地層の広がりによって支えられています。その地層部は海底の堆積物が地滑りのように流れるタービダイトによって形成されています。タービダイトは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む際、岩石からはがれて付いてくる付加体が集合して出来上がったものと考えられています。竹ヶ島では、タービダイトにより泥岩と砂岩が交互に連なる互層を、島の沿岸随所にて確認することができます。それら四万十層群の地層に育まれた竹ヶ島の東岸ではいつしか岩石が隆起し、巨石の姿を露わにしたのです。
海洋浸食が生み出した巨石の芸術作品その竹ヶ島の姿は、室戸岬から続く海岸線とは一変して、まさに岩の島と呼ばれるに相応しい巨石により形成された島の様相を呈していたことから、近海を船で旅する人は一目で見届けることができたに違いありません。竹ヶ島の東岸のような巨石が連なり、タービダイトの地層が周辺一帯に広がるような島は、南西諸島から淡路島へ到達する航海路上、後にも先にも存在しません。それ故、室戸岬から淡路島の方面へと北上する途中に浮かぶ竹ヶ島は、暗黙のうちに聖なる島として、崇められるようになったと考えられます。
竹ヶ島の歴史
竹ヶ島頂上狼煙台跡から眺める太平洋室戸岬から淡路島近郊を船で航海する機会が増えるにつれて、高知・徳島の太平洋岸では徐々に集落が栄え、人々が新天地を開拓していくようになります。古代の日本社会においては高地性集落が瀬戸内海周辺の各地に散在したことが確認され、四国も例に漏れませんでした。それ故、海部川の河口には集落が栄え、海部を中心とする集落の発展とともに、いつしかそこに流れる川の上流、那賀郡の北、東は勝浦郡からその西、雲早山、高城山を抜けて剣山の麓に至るまで、高地性集落が築かれるようになったのです。海部に寄港した際、要人らはそこから海部川沿いに、今日の土佐中街道を四国の山麓に向けて旅を続けることもできました。一説では、これら四国の東部の高地性集落が邪馬台国のルーツではないかと言われており、その実態は定かではないものの、古代社会における四国東海岸沿いの位置づけが、極めて重要であったことに変わりありません。
室戸岬と伊島、淡路島を結ぶ中間点として重要な位置づけを占めた海部の港に辿り着く直前に目の当たりにするのが、竹ヶ島です。海部に近い岩なる島であり、太平洋を一望できる地理的条件を有していたことから、その歴史は古代まで遡るに違いありません。だからこそ、海中神輿のような祭事が続けられてきたのでしょう。そして古代、岩は神聖であり、岩なる神として崇められることがあったことから、美しい巨石に満ちた竹ヶ島は古くから祭祀場として用いられ、今でもその名残を何世紀にもわたり続けられてきた海中神輿や、巨石からなるご神体が岸壁の頂上に存在することから見届けることができます。竹ヶ島の歴史については古代の文献に何ら記述がないことから、詳細は特定できません。しかしながら、その特異な位置づけからしても、海人の要所としての重要性は古くから認められていたことでしょう
南方から室戸沖を越えて海上を北方に航海する船乗りにとって、紀伊水道へ向かう中間点に浮かぶ竹ヶ島の存在は重要でした。その山頂からは、太平洋が一望できるだけでなく、南方には室戸岬が、北東には紀伊水道、そして東方には熊野山地を見渡すことができたのです。よって、古代より竹ヶ島は見晴らし台としての役割を担っていたことでしょう。そして後世においては狼煙が通信手段として率先して活用されることになります。その歴史を踏まえた形で、竹ヶ島の山頂には文化4年(1807年)に遠見番所が正式に設立され、狼煙台の基点として知られるようになりました。
竹ヶ島の狼煙場は、船が難破した場合や、外国船の侵入、攻撃があった場合などに狼煙を上げて周囲の民に通報することを目的としました。遠見番所と呼ばれる狼煙を用いた連絡場所は四国の太平洋岸から紀伊水道沿いにまで連なり、その数十か所にも及ぶ遠見番所の最初に竹ヶ島は名をあげたのです。そのため、島の北部の平地では古くから人が住んでいたようです。近世に至っては、1847年には16名が島に移住し、1854年には島内に50戸の家があったことが記録に残っています。
最近では「四国の道」と呼ばれる遊歩道が四国全域に作られ、その道筋に竹ヶ島も含まれています。遊歩道は竹ヶ島の漁港近くの竹ヶ島神社から始まり、山頂を通り抜け、島を一周する形で竹ヶ島神社の奥宮上を通り、再度、漁港まで戻ってきます。その遊歩道の西側で漁港と内地に面しているエリアは島全体のおよそ3割にあたり、今日、海陽町が所有しています。そして遊歩道の外側であり、太平洋側に面しているエリアは狼煙台の責任を遣わされた一族の末裔と考えられる竹崎家が近年まで所有してきました。
竹ヶ島神社
古代の日本社会では、大自然と神、人間との関係が大切に考えられていました。その背景には、アジア大陸から渡来し、日本の島々にて集落を築いた移民の存在がありました。神を崇めるという信仰心と民族宗教のルーツは、アジア大陸の中でも、特に西アジアからのイスラエル移民に由来していると考えられます。紀元前7-8世紀にかけてイスラエルは侵略により国家を失いますが、それを機に、イスラエルの民の中には、日本に渡来して建国の礎を培った人々がいると推測されます。
それら西アジアから到来したと考えられる古代イスラエルからの渡来者にとって、岩は「神」の象徴でもありました。実際、「神」の呼び名のひとつとして、イスラエル人は古代から「岩」を意味する「ツ」という言葉を用いています。岩は神、として考えられていたからです。それ故、海上に突如として見えてくる巨石からなる岩の島が注目され、その岸壁に聳え立つ巨石の一つが聖なる場所として定められ、古代の祭祀場となり、今日まで語り継がれてきたのでしょう。こうして、竹ヶ島は、岩なる島、古代の聖地として、歴史にその名を刻まれていくことに聖地化されていくことになります。
竹ヶ島神社の由緒は不透明ですが、遭難船が神に助けられたという地元の伝承が残されています。ある荒天の夜、竹ヶ島沖で遭難した船が遠くに光を発している何かを見つけ、それを頼りに岸まで辿り着き、無事難を逃れたことができたことから、島の人々が浦磯奥の巨石からなる岩場に祠を建て祀ったことが、竹ヶ島神社の起源と言い伝えられてきたそうです。それ故、いつの日でも航海の無事と大漁を願い、竹ヶ島の人々は島の東岸にある岩場の祠に集い、そこで神の御加護を祈念してきました。そして後世になって、現在の場所に竹ヶ島神社が建てられることになりました。
竹ヶ島神社 鳥居御神体石に纏わる伝承の信憑性に関わらず、竹ヶ島神社の御神体は、島の東方、太平洋岸に佇む巨大な磐座であることに違いはありません。そこには珍しい形状を誇る巨大な岩の壁が並び、遠方の海上から壁が3列に並んでいることを確認することができます。それら岸壁の雄姿は国内でも例のない特異な形状と規模を誇り、その中心となる岩の頂点には、磐座の象徴となる巨石が載せられています。この巨石は、位置や形状からして単なる大自然の働きによる産物と考えるには、いささか不自然なようです。むしろ、祭祀活動を行うための聖なる磐座として、古代、人の手によって岩の頂上に載せられたと考えられます。その場所が、竹ヶ島の聖地となり、その岸壁の頂上にて多くの方が、今日まで神を参拝して集われてきたのです。
後世においては四国の讃岐で生まれ育ち、19歳の時に室戸岬にて霊の目を開眼された空海、こと弘法大師も、四国東海岸沿いを岬に向けて旅する途中に浮かぶ竹ヶ島の存在に気づいたことに違いありません。海岸沿いを船で航海するだけで、その威容なる島の姿が目に映るからです。そして竹ヶ島周辺の地勢と、そこに古代より祭祀場があったことを学ぶうちに、竹ヶ島の存在価値と重要性を知ったのではないでしょうか。
いつしか竹ヶ島では、暴れ神輿の「浜入れ」と呼ばれる行事が執り行われるようになり、大勢の人が例年、旧暦4月16日になると、神輿を担いで島の東方、浦磯へと向井、「チョーサジャ」と元気良く掛け声をあげながら海に入っていったのです。そして、神主の祝詞と共に、島の人々は年寄りから子供まで全ての人が神輿の下をくぐり抜けるのです。神が宿るとされる神輿をわざわざ海の中に入れることからして、海中神輿とも呼ばれるこの行事には、重要な宗教的意味が秘められていたのではないでしょうか。そして神を担ぎながら海を歩き渡る不思議な儀式は、古代より現代に至るまで伝承され続けてきたのです。今日、竹ヶ島では過疎化が進み、若手の担ぎ手が不足したことから、「浜入れ」の行事は2017年開催中止となりました。それまで既に6回、開催を中止していることからしても、今後の継続が危ぶまれます。海陽町の町会議員を務め、神社総代でもある島崎氏は、「島の伝統行事を楽しみにしている人は多い。来年はできるように他の総代や宮司と対策を考えていきたい」と話しています。
南海に浮かぶ聖地、竹ヶ島にて古代から祀られている竹ヶ島神社と、巨石の上に存在する奥宮は、未だにその実態があまり知られぬまま、今日まで至っています。竹ヶ島には夢と古代のロマンにあふれる歴史があるこそ、いつまでも美しくかつ、貴重な観光資源として、残されていくことを期待してやみません。
竹ヶ島の竹林
大正12年に記された宍喰村史によると、竹ヶ島という名称で呼ばれるようになった所以として、「昔は竹林繁茂斧斤(まさかり)を入れず。故に此称あり」と記されています。竹林が生い茂る島だからこそ、竹の島、竹ヶ島と呼ばれるようになったようです。竹ヶ島の地勢を実際に検証してみると、その根底には広く隆起した岩場が広がり、まさに岩の島である様相を極めています。そして面積が0.4km2しかない島でありながら、頂上の標高は約100mということからしても、その斜面はかなり急であることがわかります。 竹ヶ島中心部の美しい竹林竹ヶ島は2つの大きな隆起した岩の丘陵が南北に繋がることによって、ひとつの島となっています。よって、その形状はひょうたんのようにも見えます。その繋ぎ目とも言える窪みが島の中心となり、そこに竹林が生い茂っているのです。南北に1km、東西に700mほどの大きさの竹ヶ島において、竹林が茂っているエリアは、島の中心部分100m四方もありません。美しい竹林が見事に生い茂っている箇所は、実際には50m四方ほどの部分に限られています。それでも、中心部竹林の竹の太さや容姿は見事であり、島を訪れる人に感動を呼び起こします。
竹ヶ島の南部から東方の太平洋岸にかけては岩場が広がり、周辺は大小無数の岩石によって囲まれています。そして島内でも随所に岩石が露出しており、高低差も激しく、太平洋に浮かぶ離島であることからしても、この小さな島の中心地にのみ竹林が自然に生い茂る可能性は極めて低いはずです。
元来、竹林は日本固有の植物ではなく、古代、中国から持ち込まれたものとして知られていることから、もしかすると竹ヶ島の竹林は、アジアから渡来した人々の手によって植え付けられた可能性があります。これらの渡来者は中国人か、もしくは中国を経由して日本にまで到達した西アジアの人々と考えられます。
さらに竹林が島の中心地にのみ生い茂っていること、竹が自然には生えにくい南海の孤島にて竹林となるまで豊かに生えているということ、そして竹林の南北には方角の指標となるような頂上石や方角石と考えられる石の存在があることからしても、竹ヶ島の竹林は、何かしら古代の英知が働いた結果、きちんとしたマスタープランに従って植林された可能性が考えられます。竹ヶ島のロマンは、竹、そのものに尽きます。
岩の博物館
竹ヶ島は、「岩の博物館」と言っても過言でないほど、特異な形状を誇る岩が、島の随所に存在します。まず注目すべきが、島の頂上、展望所の真横に在る「頂上石」です。うっすらと生い茂る雑草に包まれてしまうと傍目では見づらい部分もありますが、実はお坊さんが頭に被る笠のごとく、きれいな姿をしています。島の頂点にある石だけに、果たして自然の産物であるかどうかは疑問です。
頂上石の北方には、「頂上石」と同等の笠の形をした巨石が、上に載せられているように見える「坊主岩」が存在します。その巨石の笠は、真横から見ると巨石本体よりも30cmほど突き出ており、一見、巨石全体の上蓋のような役割をしているようにも見え、その底辺は地面とほぼ水平です。四国の道沿いにあるこの「坊主岩」の場所は、古代、祭祀活動の拠点であった可能性があります。
まず、この場所が、島の聖地である竹ヶ島神社奥宮の磐座から見て、その真上に位置することに注目です。海岸沿いの奥宮から急斜面をまっすぐに上り詰めると、この「坊主岩」に辿り着きます。その真下には環状列石のように直径3mほどの円形に連なる石があります。自然に円の形状を成したのか、それとも人の手によって意図的に円を描くように置かれたかは定かではありません。いずれにしても、島の頂上そばであることから、古代の祭祀場としては恰好の位置づけを有する巨石と考えられます。
「坊主岩」から「四国の道」の階段を下り、途中の山道を西方へと進むと、その道沿いに巨大な「亀石」が見えてきます。一見、何の変哲もない巨石ですが、表面がつるつるの岩がきれいに弧を描き、2連に繋がっていることがわかります。その前方、道の向かい側にも巨石が存在し、急斜面の下には無数の小岩が山積みされていることから、岩が伐られた跡地であることがわかります。
花崗岩のような岩を伐る場合、古代から近世にかけては幅の広い矢を打ち込んで、岩を割っていました。岩に残された矢の跡を検証することにより、岩が伐られた時代をおよそ推測することができます。竹ヶ島の岩は、その矢の跡からして豊臣秀吉から徳川の時代にかけて伐られたものが多いようです。その後、近代に至るまで島の岩は伐られ続け、島の整備をする際にも伐られた岩は用いられました。
竹ヶ島ゆるぎ岩島の南方、太平洋沿岸には多くの岩が散在し、大小様々な形をした岩をもって島の裾野を形成しています。そこで目を見張るのが、御在所岳の「ゆるぎ岩」と同等の形をし、矢のように突き出してぎりぎりに支えられている、竹ヶ島の「ゆるぎ岩」です。これも大自然が成す奇跡の業なのかもしれません。その「ゆるぎ岩」の東方には、木の枝によってがんじがらめに捕獲された「空中石」と、その真下には、木に寄りかかりながら樹木の一部となる「石の板」があります。「空中石」は、岩からはがれた石の表面が樹木によって支えられ、それが枝によって包まれた様相をかもしだすという、大自然の力の結晶です。
竹ヶ島の自然と伝統を守ろう!
由緒ある古代の聖地として、竹ヶ島神社の奥宮となる磐座も今日まで温存されてきた竹ヶ島だからこそ、いつまでも太平洋を見渡す大自然の中に、輝かしいオーラを放つことでしょう。しかしながら、島全体の自然環境を保護するためには、多くの現実的な問題が残されています。
徳島県と高知県の県境にある竹ヶ島周辺の地域では過疎化が進み、高知県や徳島県に名を連ねる他の町と同様に、少子高齢化の波が加速しています。そしてこのままでは20年後、島の人口がゼロになる可能性があります。既に竹ヶ島を訪れる観光人口も激減しており、昨今では島内の「四国の道」を散策する旅行者が誰もいない日も多くなりました。海陽町が運営するマリンジャムも来客数が減り、行政にとって大きな痛手となっています。島に人が寄り付かなければ、せっかくの「四国の道」も、きれいにメンテナンスする必要がなくなり、放置され続けてしまいます。
竹ヶ島は国定公園内に存在することから、本来は徳島県が島のメンテナンスをすることになっています。しかしながら、国定公園の守備範囲は広く、人が訪れない島のメンテナンスまでする予算と余裕は徳島県にはありません。よって、長年にわたり竹ヶ島は放置され続け、その結果、つい数年前まで島内は正にジャングルの様相となっていたのです。倒木や枯れ木、落石により「四国の道」が塞がれていたり、樹木が勝手に伐採されて木の幹が至るところに放置されたり、島全体がジャングル化して雑草と蔓にまみれ、虫や蛇のたまり場となっていたのでした。人が安心して訪れることができる、本来あるべき美しい島の在り方とはほど遠く、変わり果てた姿になっていました。また、頂上周辺も長年、整備されてこなかったことから、せっかくの狼煙台跡として太平洋を一望できるはずが、頂上からは海が全く見えない状況のままに放置されていたのです。
竹ヶ島の大自然と、聖地としての美しさを守り、そこに人が安心して訪れることができる環境の整備は急務であり、行政、民間に関わらず、積極的に施策を実行していかなければなりません。そして事の重要さに気が付くためにも、まず、竹ヶ島の素晴らしさと、由緒ある歴史の存在を知ることが、最初の一歩となります。そこに日本の宝が秘められていることがわかれば、島は見違えるように栄え、古代、人々に崇められたように大切にされるでしょう。早急な対策がいかに重要であるか、その必要性に気がつくことが大事です。
竹ヶ島元旦の日の出
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