参考
https://x.com/slowslow2772/status/1741700627779203537?s=61
「阿波に秘められた古代史の謎」阿波国国史研究会 笹田孝至
目次
はしがき
第一章 阿波倭説の原拠
1古代史通説への疑問
2倭・倭国・邪馬臺国
3倭大国魂神社
4阿波倭説の方法論
5阿波国風土記の伝承と研究の流れ
第二章 記紀神話の舞台
1神話解釈 (通説)への疑問
2国生み神話 (星座図)
3イザナギ・イザナミ神話の発源地
4イザナギの禊祓の地
5 日向の襲の高千穂
6高天原
7 葦原中つ国(出雲)
第三章 邪馬台国と神武東征
1里程記事の解釈(連続式・放射式)
2 水行十日陸行一月
3 里数記事と万二千余里
4「倭人伝」の方角
5女王国東渡海千余里復有国皆倭種
6巨大古墳と大倭国の由来
7神武東征出発地九州説の崩壊
8神武天皇生誕・東征出発地の原拠
9速吸名門と大倭
10 神武東征路 (後半)の舞台
第四章 阿波倭から奈良大倭へ
1香具山
2奈良・難波
3倭の豪族の本貫地
4倭から大倭へ
457
444頁
8 神武天皇生誕・東征出発地の原拠
高天原が阿波剣山地一帯であり、天孫が降臨した葦原中つ国がその麓に広がる阿波の海岸部・平野部であることは、すでに述べて きたところですが、この節では、神武天皇の生誕地及び東征出発地を裏付ける論拠となる、神武の祖母(または母)の豊玉比売命の 痕跡を取りあげます。
天孫邇邇芸命から神武天皇の出生までの物語は、『古事記』神代巻の最後に収められていますが、とくにこの詞章は、神代から人皇 に繋がる重要な意味を有しています。 そこで、この間の記述の濃淡を測ってみますと、邇邇芸命と木花咲夜比売との結婚により火照 命(海幸彦)・火須勢理命・火遠理命(山幸彦・別名は天津日高日子穂穂手見命)を生むまでの字数が四三九文字、次に日子穂穂手見 命と豊玉比売命との出合いと結婚・山幸彦が豊玉比売命やその父綿津見神の霊力を借りて兄の海幸彦との間で行われた海幸・山幸の 物語までの字数が一、一四三字、及び豊玉比売命が鵜葺草葺不合命を出産するときワニに化身し、これを覗いた夫が逃げ帰り、これ を知った豊玉比売命も、わが子を妹の玉依比売命に託して海に去り、のち鵜葺草葺不合命と玉依比売命が結婚して神武天皇を生むま での字数が四四七文字となっています。すなわち天孫三代の総字数二〇二九文字のうち、豊玉比売命にまつわる記事が一五九〇文字 (全体の七八ジ)もあり、この神の神代史上における位置と実在性を物語っています。豊玉比売命が、卑弥呼の死後邪馬台国の内乱 となり、そののち、当時十三才で女王に擁立された臺与に比定されることはすでに述べたところです。
また、豊玉比売命は神武天皇の母とする見方もあります。さきに述べたように、記紀の紀年は第十九代允恭天皇より以前は、かな り年代を遡らせており、神功・応神紀では百二十年紀年を古く記し、また、『古事記』で、神武天皇の崩御は一三七才、第十代崇神天 皇は一六ハオなどと記述され、神代についても代数の加増等が行われている可能性があります。 川副武胤氏は、「記紀が語る古代史」 の中で、天孫「二代目の火遠理命の妃豊玉毘売の本体がワニ(怪異)であったという話があるので、第一代天皇の生母を怪異とする ことを避けるために緩衝帯として一代とその妃を加えたのである。」と述べています。つまり、豊玉比売命の妹玉依比売の代は加えら れたとする見解ですが、たしかに鵜葺草葺不合命と玉依比売命との年齢の開きなどから、私もその可能性は高いと考えております。 氏の説に依れば、豊玉比売命は神武天皇の実母となり、天孫四代の記述の中で圧倒的な字数を費して豊玉比売の説語が語られた背景 も納得されます。 したがって、神武天皇の生誕地や東征出発地を探索する場合、 当然豊玉比売命の崇拝の痕跡が有力な手がかりとなり、また、 天孫 も納得されます。
したがって、神武天皇の生誕地や東征出発地を探索する場合、当然豊玉比売命の崇拝の痕跡が有力な手がかりとなり、また、天孫神話の中心をなすこの神が降臨地や神武天皇の生誕地において、延喜式内社として定められていない筈はありません。ところが、 右に述べたように、今日、天孫降臨地・神武天皇生誕地・東征出発地として、多くの学者が唱える南九州にはまったく崇拝の痕跡は なく、豊玉比売命が祀られているのは、全国三一三二座の式内社中、阿波国の二座だけです。
◯延喜式巻十、阿波国名方郡
天石門別豊玉比売神社
和多都美豊玉比売神社
松前健博士が、霊格自身の母胎地の探究は『延喜式』神名帳における、その神を名とする神社の分布をみることが一番確実である と述べられた、その典型がここにあります。 しかも、この神社の鎮座地は、天照大御神(大日霊命)の神陵そのものである式内大社 天石門別八倉比売神社のすぐ下流部にあたるので、鮎喰川下流域において、皇祖神と天孫三代目の妃(漢籍の記述からは邪馬台国の 女王卑弥呼とそのあと幼歯にして女王となった臺与)が揃うことになります。また、天孫及び神武天皇に仕え、自らの女を妃として 差出した事代主命が、そのすぐ南方の勝浦川下流域に式内勝占神社として祀られているので、神武天皇の生誕地及び東征出発地は、 吉野川南岸河口部(鮎喰川下流部から勝浦川河口部の海に面した地域)にしぼり込むことができるのです。さらに加えれば、天石門 別八倉比売神社・天石門別豊玉比売神社・勝占神社は、それぞれ天照大御神・豊玉比売命・事代主命の葬場に祀られた神社です。 こ のうち八倉比売・勝占両神社はすでに述べてきたので、ここでは綿津見宮跡に祀られた和多都美豊玉比売神社と、葬場を表す天石門 別豊玉比売神社の鎮座地について明らかにしておきます。
和多都美豊玉比売神社は、その冠詞から、この女神の居所である綿津見宮跡に祀られたものと思われます。 現鎮座地は、徳島市国 府町和田のJR府中駅北東方向の水田地帯にあり、その東隣には皇子の鵜葺草葺不合命を祀った王子和多都美神社が鎮座しています。 この一帯は、律令時代、国庁が置かれた国府町府中のすぐ下流部にあたる旧井上郷です。井上郷の名はまた豊玉比売命のゆかりの地 であることを表しています。
兄の火照命(海幸彦)から借りた鉤を無くしてしまった日子穂穂手見命(山幸彦)は、塩椎神の助言で无間勝間の小船を造り、そ の船で流れを下って綿津見宮に向かいます。その出発地は吉野川中流域で、高越山(こうつざん・たかちほのやま)の麓の穴吹町口 山字宮内に父の通邇芸命を祀る白人神社・同葬場の神明神社(『日本書紀』にみえる天孫の天津磐境)があるので、そのすぐ下流の吉 野川に面した舟戸あたりから、徳島市国府町井戸(旧井上郷)まで下ってきたものと思われます。 『古事記』によると、山幸彦は、綿 津見神の宮の御門の「傍の井上」の「湯津香木」の木の上で待っていると、豊玉比売命の従女が玉器を持って水を酌みに井戸までや ってきます。このとき、井戸の水面に山幸彦の面影が写り、驚いた従女が豊玉比売命にしらせ、これが縁となって山幸彦と豊玉比売 命は夫婦となります。 この説話の「井上」こそ阿波国名方郡井上(井乃倍)郷のおこりと思われます。井上郷は現在の国府町の北半 分と推定され、明治二二年に、芝原村他五村が北井上村に、また、井戸村他八村が合併して南井上村になっています。旧南井上村の 井戸の微高地には、現在、四国霊場第十七番札所の井戸寺があり、寺域の中央には伝説の「面影の井戸」が信仰の対象となっていま す。今日ではこれを、空海の伝説として語られ、飼いて水面に顔が写れば、良いことが起こるなどの俗信が付けられていますが、 こ の伝説の基層に、豊玉比売命と山幸彦の面影の井戸の伝承が語り継がれてきたものと思われます。また、周辺の地名に、「井戸」 「城ノ 内」「高輪地」「花園」「日開」「高屋敷」「和田」「居内」「早渕」「西高輪」 「東高輪」や、苗子に「田蒔」(玉城から起こったものか) な どがみられますが、これらは「日本書紀』で、「整頓りて、臺宇玲瓏けり」や「城闕崇華り、楼 壮に麗し」と表現 された、和多都美宮に通づる地名といえます。すなわち今日の井戸寺を中心とする地域一帯が和多都美宮跡と推定できるのです。
井戸寺は、天武天皇の勅願によって創建されたと伝えられ、山号は瑠璃山妙照寺で、一名井戸寺と呼ばれたとあります。寺宝で、 明治四四年に国指定重要文化財に指定された十一面観音像はヒノキの一木造りで、貞観時代(八五九〜八七七)の作品といわれる徳 島県最古級の木彫仏です。 天文十二年(一五四三) 日付の「阿波国井戸寺勧進帳」によると、往時境内は方八町で七堂伽藍が備わり、 子院が十二坊あったと記されています。 今日、井戸寺の隣接地に井上八幡神社が鎮座していますが、本来この神社は式内和多都美 豊玉比売神社であった可能性が残されており、その別当寺として井戸寺が建立されたとも考えられます。
もう一座の天石門別豊玉比売神社は、当時瀬海の小島であった徳島市の城山(標高六二、七話)の東の山頂部が元の鎮座地で、こ こが豊玉比売命の葬場であったと考えられます。 城山は、さきに述べたように、一号~五号貝塚が知られており縄文時代後期から弥 生・古墳時代、ないしはそれ以降の遺物が出土しています。 秀吉の四国征伐ののち、阿波国十七万五千石の領主として天正十三年(一 五八五)に入国した蜂須賀小六正勝の長男家政が、はじめ鮎喰川中流域の一宮城に入り、ほどなく、吉野川河口の三角州に位置する 現在の徳島市城山に城をうつしています。これは、平和時の統治に便利な城地の選定であったと解されており、福井好行氏は、その 城山の地理的条件を、
ここは、阿波の北方と南方との交接点にあたり、 後背地に吉野川流域平野をひかえ、東は紀伊水道を隔てて海路上方に直結し、 西に鮎喰川、北に吉野川(当時別宮川とよんだ)、南に園瀬・勝浦の諸川があって、四方を河海でめぐらした三角州上の要害地 で、領国支配の要衝として阿波随一の場所であった。
と見事に描写しています。 このように、時代は、かなり下るとはいえ、水上交通が中心であった時代における城山の位置の重要性が よく理解できますが、太古、海がさらに陸地を覆っていた豊玉比売の時代には、海人族にとって、さらに象徴的な小島であったと思 われます。つまり、綿津見族 (この子孫は阿曇氏・海氏・凡海連・八木造などを名乗っている)の女王で天孫の妃である豊玉比売命 の葬場として、古地にかなったものといえます。
天石門別豊玉比売神社の鎮座地が城山であったことは、天明(一七八一〜八九)のころ成立した徳島藩最初の史書『阿府志』が、 「天石門別豊玉比売神社... 徳島城内にあり俗に龍王宮と云、祭神一座豊玉姫神は龍宮豊玉彦の姫、火火出見尊の后、鵜萱葺不合尊 の母后也」と記し、また、弘化二年(一八四五)に撰上された『阿淡年表秘録』中に、
元禄五年壬申六月四日 公富田八幡、御城内竜王、北御蔵明神へ御参参。
元禄九丙子年六月八日 公松巌寺、勢見山観音、御城内竜王、北蔵明神へ参参。
がみえることから、ほぼまちがいないものと思われます。そして、藩主自らが式内・天石門別豊玉比売神社(御城内竜王宮)を参詣 していたことが確かめられます。さらに、『県下社寺巡伏記』中の住吉神社旧記の中に「信ずべき口碑に拠れば蜂須賀入国以前渭山(こ こでは城山のこと筆者注)上に二祠あり、一は天石門別豊玉比売神を祀れる竜王宮にして一は即ち住吉神社なり。…」と伝わるこ とから、蜂須賀氏入国以前から城山に鎮座し、さらに入国後も「御城内竜王宮」として尊崇されていたことがうかがえます。
また、「天石門別」を冠することについては、天石門別八倉比売神社のところで述べたように、皇統の繋がりと、その神の居ます御 所または葬場を表す意味で使われており、城山鎮座の天石門別豊玉比売神社が葬場であることを示した神号といえます。さきにあげ た『三代実録』の元慶二年(八七八)二月十九日条で、綿津見神の後裔である山背忌寸大海全子が、氏神に奉幣するため阿波国に向 かっているのは、天石門別豊玉比売神社が葬場であったためと思われます。
詔山城国正税稲三百束、賜従五位下山背忌寸大海全子、以奉幣氏神、向阿波国也。
さて、のぞき見された豊玉比売命は、葦原中つ国から海神の国に帰り、日子穂穂手見命も逃げ退りますが、ともに恋しき心に耐え られず歌を交します。 ここで豊玉比売命の歌に答えて日子穂穂見命が歌います。
沖つ鳥かもとく島に我が率寝し 妹は忘れじ世のことごとに
吉田東伍博士は、『大日本地名辞書』の中で、阿波国に式内の豊玉比売神社が定められていることを挙げ、右の歌の 「かもとく島」が 現徳島市の城山であるとする説を紹介するとともに、「鴨とく島」の句について、此の地は『和名抄』の加茂郷に属し、今も加茂村の 名は徳島市の北部に存す。 海部の遺民其の古を伝えんため、後世鴨の名を此に立てしにやあらん。と説いています。
右の句は真福寺本を底本とする『校本古事記」には、「加毛度久斯麻邇」と表記され、本居宣長の『古事記伝』や「訂正古訓古事記」 以前の訓みでは「かもつくしまに」と「かもとくしまに」の二種が行われています。ところが、小学館版日本古典文学全集 「古事記 上代歌謡」・岩波版日本思想大系 『古事記』とも、これを「鴨着く島に」と訳し、その訓みも「かもどくしまに」としているのです。 両書とも、原本にありもしない 「著」を当てるとは、どういった料簡なのでしょうか。普通の感性の持主なら、この句は「鴨(海神 の後裔を表す氏名の一つである加茂族)の寄り着く島」(かも着く島)か、あるいは豊玉比売命の痕跡が全国唯一明確な、阿波国名方 郡賀茂郷の名の由来たる「賀茂徳島」と仮定してみるのではないでしょうか。 国史研は、この句を「徳島」の名の由来に結びつける ほど史料に不自由はしていないので、ここでも偶然の一致としておきますが、 一般読者が「加毛度久麻」の句を「徳島」に結び つけ、綿津見宮や神武生誕の地として思いめぐらせることのないよう、ご親切にルビまで付けて「著く島」(どくしま)と名訳してい ることに、ただただ感服するばかりです。さらに、小学館版・岩波版とも、この歌をはじめとする豊玉比売命の説話の解説で、唯一 阿波国に式内で豊玉比売命が祀られていることなどは記しておらず、他の説話の解説と趣を異にしています。このように原典を改訳 するなどして阿波国の”封じ込め"ともとれる小細工は他にも数多くあり、それらを集成すれば十分一冊の本になるはずです。
一、二例を挙げておきますと、神武東征の段で、登美の長須根比古を討とうとする久米の子等の歌が『古事記』に収められていま すが、真福寺本では一字一音表記の古歌として次のとおり表されています。
美都美都斯 久米能古良賀 阿波布余波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那芸弓 宇知弓志夜麻牟
この歌を小学館版・岩波版はそれぞれ次のように訳しています。
〈小〉 みつみつし 久米の子等が 粟生には 臭韮一本それが本そね芽繋ぎて撃ちてし止まむ
〈岩〉 厳々し 久米ノ子らが 粟生には 一本其根が本其根芽繋ぎて撃ちてし止まむ
両者とも「阿波布介波」を「粟生には」と訳し、粟畑の意味に解しています。そして小学館版の解説では、… みつみつし久米部の者 たちの栗畑には、臭いの強い韮が一本生えている。その根と芽を一緒に引き抜くように数珠つなぎに捕えて、敵を撃たずにおくもの か…と、まったく意味不明の歌に仕立てています。これは「阿波布介波」の解釈を誤ったために起ったもので、潮の満ちるがごとく 集った久米の子等の着用する衣(阿波布) ・・・・と解すれば意味が通じてきます。 岩利大閑氏はこの歌について、
何がなんだかわからない様な解釈をして通していますが、これがなんで勇ましい出陣の歌なのでしょう。 次の久米歌をみても口にひりひりする山椒をかみしめて敵を撃破するのを忘れないという恐ろしいまでの執念、又石の上を這廻る細蝶の如く這いよっ てでも敵を殺してやるとまで歌ったこれら久米歌の意味にしてはあまりにも適合していません。
みつみつし 久米の子等が 垣下に植えし椒口ひひく 吾は忘れじ撃ちてし止まむ
神風の伊勢の海の生石に這ひ廻ろふ細螺のい這ひ廻り撃ちてし止まむ
私は、この久米歌の意味は「阿波布余波」のとり方にあると思います。阿波布を当時の古代人の着衣多布、多布手と呼ばれ、万 葉の古歌にも登場している久米の子の着衣と解釈しています。 潮の満ちる如く相集った久米の子等が、同じような食糧ながら蒜 と違って臭気が激しく口にて噛むと強精作用があり気付け薬、又この匂いが虫よけともなる山韮を着衣の多布の織目につなぎ激 しい戦斗の合間に噛む用意をととのえ、さあ戦いだ撃ちてし止まん撃ちてし止まんと気勢をあげた歌と思います......
と解説し、神武軍に抵抗する登美の長須泥比古を撃とうとする、久米の子等の鬼気迫るいでたちを復元しています。岩利氏のいう「多 布」とは穀の木の皮から糸をつくりこれで織った布のことで、今日では太布織の伝統技法が伝えられているのは全国で徳島県那賀郡 木頭村一か所のみとなっています。穀の木は剣山地に自生するくわ科の落葉高木で、穀の木の皮から績んで紡いだ糸を木綿といい、 織って布にしたものを太布、鬼皮のついたままの糸で織りあげた布または麻糸から織りあげた布を荒妙(鹿布)と呼んでいます。木 綿・太布・鹿布はともに太古より神事に用いられ、天皇の即位式である践祚大嘗祭には阿波から神具として貢進されています。
◯延喜式巻七
阿波国所 献麁布一端。 木綿六斤。 年魚十五缶。 蒜英根合漬十五缶。乾羊蹄。蹲鶏。橘 子各十五龍。己上忌部所作。
とくに鹿布は大嘗宮の内陣の神座の脇に真えられ、天照大御神の召す神衣と観念されているものですが、 阿波剣山地に自生する木の 皮から織られ、古来阿波人の常用衣服であったため、「阿波布」と呼ばれたものと思われます。 「阿波誌』にも「諸郡山に居る者木皮を 衣、草根を食す家地爐を作り圍繞して居る未だ嘗て火を絶たず」との風俗記事がみられるほどです。また、右の久米歌の中に細螺が みえますが、阿波国那賀郡から貢進される大嘗祭の神饌の中にも細螺が含まれているのです。
痩册五編。瘦鮨十五坩。細螺。棘甲高。石花等井廿坩。 巳上那賀潜女十人所作。
このように、「阿波布奈波」を表記どおり着衣の「阿波布」と解釈してこそ神武東征の久米歌の段が生き生きとした人間の歴史物語 として蘇ってくるのであり、後節ではさらに久米部の本拠地をあきらかにし、東征説話が阿波国内の出来事であることを検証します。
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もう一つの改竄は、阿曇氏の祖神である豊玉比売命の本源地が阿波国であることを示す「三代実録」の元慶二年二月十九日の記事 で、古い研究書に引用された記述では、「詔山城国正税稲三百束、賜従五位下山背忌寸大海全子以奉幣氏神、向阿波国也。」 (傍点筆者) とみえますが、今日刊行されている新訂増補国史大系(普及版) 「日本三代實録』(巻末には安政二年及び六年に校訂・再 訂したと記されている。吉川弘文館発刊)には、後段の記述が「以奉幣氏神向彼国也。」(傍点筆者)となっているのです。 もし「校訂」の名のもとで六国史の記事から「阿波」の二文字を削るとすれば、歴史改竄の許し難い所業といわなければなりません。
阿波国名方郡豊玉比売命を奉斎する阿曇氏の本拠地であったことは、すでに次田真幸氏が説いているところですが、「三代実録』 の貞観六年(八六四) 八月八日の条には、
阿波国名方郡人二品治部卿兼常陸大守賀陽親王家令正六位上安曇部粟麻呂、改部字賜宿祢。粟麻呂自言、安曇百足宿祢之苗裔 也。
とみえており、桓武天皇の皇子の賀陽親王に仕えた栗麻呂が阿波国名方郡に住み、宿祢の姓を賜っています。また粟麻呂は、孝徳天 皇の時代に『播磨国風土記』などに出てくる阿曇百足宿祢の苗裔であると自ら称し、貞観十一年には従五位下を授けられていますが、 これも阿曇氏が、氏神豊玉比売命の本貫地である阿波にのこり、代々居住した痕跡といえます。
なお、山城国の大海全子の里帰りと同じように、大和国の加茂美も氏神に参拝するため、阿波国勝浦郡の式内勝占神社をたずねて います(前掲の「勝占神社舊跡之事」)。
また、大国主命・事代主命の苗裔である長氏等が阿波国勝浦郡内に代々居住していたことも、『続日本紀』の光仁帝宝亀四年(七七 三) 五月条の長費人立の記事などから裏付けできます。
以上のとおり、阿波国名方郡には、神武天皇の母または祖母にあたる豊玉比売命の綿津見宮と葬場が、また、南接する勝浦郡には、 神武天皇を前後で佐けた事代主命の生誕地と葬場の痕跡が、それぞれ確かめられることから、この両者をもって、神武天皇の生誕地・ 東征出発地の原拠としておきます。
9 速吸名門と大倭
速吸名門は、イザナギの禊祓条のほか、神武天皇が東征に出発して白肩津に上陸する間に出遇う潮流の急い水門の名です。 表記は、 「速吸門」「速吸之門」「速吸名門」とあり、通説では豊予海峡説と明石海峡説があります(以後の表記はとくに差支えない限り「速吸 「名門」とする)。
◯乃ち往きて栗門及び速吸名門を見す。然るに、此の二の門、潮既に太だ急し。故、橘小門に還向りたまひて、拂ひ濯ぎたまふ。 (紀神代上五段一書の第十、訳文は岩波版日本古典文学大系)
◯天皇、親ら諸の皇子・舟師を師ゐて東を征ちたまふ。 速吸之門に至ります。時に、一の漁人有りて、艇に乗りて至れり。・・・行き て筑紫国の菟狭に至ります。(神武天皇即位前紀、訳文同右)
◯ ・・・其の国より遷り上り幸でまして、吉備の高島宮に八年坐しき。故、其の国より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて釣為つつ 打ち羽挙き来る人に、速吸門に遇ひたまひき。雨に喚び帰せて、 (記中巻、訳文は小学館版日本古典文学全集)
国史研は、速吸名門を鳴門海峡から吉野川河口部と解釈しておりますが、以下において通説の検証を行いつつ「速吸名門=鳴門海 峡」説を述べていきます。
通説は、禊祓条の粟門を鳴門海峡に、速吸名門を豊予海峡に比定しています。 しかし、「乃往見、粟門及速吸名門。然此二門、潮既 太急。」の句の解釈を、…・鳴門海峡で行おうとしたが見合わせてはるか豊予海峡まで飛んでいったとするのは、はなはだ無理があると 思われます。国史研は、これを移動した記事とはみておらず、両者を一望できる場所から、粟門と速吸名門を見くらべて、さてどち らにしようかと迷った様子を表したのが「見す」と解釈しています。したがって、粟門と速吸名門は近接する水門と考えます。
次に、九州島は松前健博士が指摘しているように、イザナギの崇拝圏には含まれておりません。したがって、禊祓の候補地及び速 吸名門を九州とするのは、いささか無理があり、イザナギの崇拝圏のほぼ中心にあたる鳴門付近が有力といえます。
次に通説は、地名からか栗門を鳴門海峡としています。 最もらしい説のようですが、古代に「粟門」と呼ばれた背景を考えると、 これは鳴門の地理に疎い者の説といえます。 「粟門」とは、「阿波の入口となる海門」の意で、 さきに「其の伊耶那岐 神は淡海 多賀 に坐すなり」と記された「淡海」が「阿波の海」の意味で、 意であると述べたのと同類の呼称です。 すなわち、 奈良大倭・摂津・和泉・播磨・淡路及び難波 (香川県大川郡津田町)方面から海 と、急流の” に潮流が複雑で海の難所として知られる鳴門 他国から阿波国に上陸するときに認識される阿波国 次に通説は、地名からか粟門を鳴門海峡としています。 最もらしい説のようですが、古代に「粟門」と呼ばれた背景を考えると、 あわうみ これは鳴門の地理に疎い者の説といえます。 「粟門」とは、「阿波の入口となる海門」の意で、さきに「其の伊耶那岐大神は淡海の多賀 に坐すなり」と記された「淡海」が「阿波の海」の意味で、他国から阿波国に上陸するときに認識される阿波国沿岸の海の総称が原 意であると述べたのと同類の呼称です。すなわち、奈良大倭・摂津・和泉・播磨・淡路及び難波 (香川県大川郡津田町)方面から海 上ルートで阿波に入国する入口となるのが「粟門」といえます。とすると、急流のうえに潮流が複雑で海の難所として知られる鳴門 海峡が阿波に入る水門とされることはなく、名称・規模ともに大小一対として近接する小鳴門海峡が「粟門」にほかなりません。 鳴門海峡は、大毛島・高島・島田島と、対岸の撫養低地との間にある延長約八の海峡で、最大幅五〇〇、最狭部の幅が一〇 の急流で知られており、讃岐の難波方面からは近道で吉野川河口部の渭之津に入ることができます。 海峡近くには「粟田」 「阿波」「阿 波井」「潮浴」などの地名もあり、『板野郡誌』も小鳴門海峡を「粟門」に当てています。また禊祓の条で、粟門及び速吸名門をともに 「潮既に太だ急し」と記していますが、鳴門海峡及び小鳴門海峡はともに当てはまります。これに対して、通説の豊予海峡や明石海 峡がともに古代において、「潮既太急」と形容されたかどうか大いに疑問があります。
次に神武東征の段にみえる速吸名門は、『日本書紀』が筑紫国の宇佐の手前に、また、『古事記』は吉備より東に表われているため、 通説はこれを追って豊予海峡説と明石海峡説を立てています(なお『古事記』の記述からは「速吸門」を鳴門海峡に解釈できなくは ない)。このうち一方は正しいとする見方もできますが、そうとも言いきれず、記紀編者等の解釈次第で速吸名門の位置が変わり得る 背景があったと思われます。すなわち、東征路と速吸名門は、もともと一体のものではなく、まず東征路を記紀編者の解釈または当 時の編纂意図によって組み立て、そのうえで「旧辞」で伝えられた速吸名門を、それぞれの解釈によって差し挟んだものと思われま す。というのは、東征路の前半は、記紀成立当時の地名を書き加えるなど、あまりにも明確な意識で南九州の日向から吉備地方まで のこととして書かれているにもかかわらず、そこに挟まれた速吸名門の位置(解釈)がまったく異っているからです。 私はさきに、 九州勢力東遷説に対する問題点を十二項目指摘しましたが、十三項目として、速吸名門が豊予海峡や明石海峡に当たらないことを以 下で考証し、東征路の前半が、ある作為によって創作されたか、一説に出発地を九州とするものがあり、これが端緒となって流布し たものであることを明らかにしたいと思います。
「潮太だ急い速吸名門」といえば、急流と渦潮でその名を知られる阿波の鳴門と仮定してみるのが正常な知的反応と思われます。 鳴 門は、吉田東伍博士の『大日本地名辞書』(冨山房発行)に、「又鳴戸に作る、今鳴門海峡と称す、阿波の東北部と淡路島西南部の、両 地角間の隘門なり。…隘門を分ちて二条と為す、東なるは大鳴門と称す、謂ゆる鳴門海峡なり、西なるを小鳴門と称す、撫養瀬戸の 「別名あり」と見えますが、古い史料(平安期~)には「鳴門」「鳴戸」「鳴渡」の表記がみられます。"なると"の名の由来は、激しい 潮流からおこる 「鳴る瀬戸」説が知られていますが、私はその淵源をたずねれば「など」 「なのと」であったと考えており、やがてそ の名の意味が忘れられると、「なの」が海峡の激しい潮流に影響されて「なる」(鳴る)の意味に置きかわり、漢字表記される過程で鳴 門になったと思うのです。いずれにしても「鳴門」「鳴戸」「鳴渡」は、「なのと」が変化する過程で漢写された可能性があり、その点 豊予海峡や明石海峡は、まったく地名の手がかりはありません。 さて、「など」「なのと」の起こりは、「長の地の海の入口」の可能性があると思われます。太古の阿波は、粟の地と長の地の二国か らなっていたと伝えられ、それに通じるものとして、粟凡直や長の氏族が住んでいたことを示す史料が数多く知られています。長の 本拠地は、太平洋に面した徳島県東南部の那賀・海部郡ですが、いわゆる神代にはすでに北上し、紀伊水道に面した鳴門あたりまで が長の地であったと考えられます。鳴門周辺における古代長の痕跡としては、延喜二年(九〇二)の阿波国「板野郡田上郷戸籍断簡」 (田上郷は現在の鳴門市の一部を含む旧板野郡の一郷名)に「海部浄売他十一人」「海部男女他一人」の名がみえ、また、平城京出土 木簡にも「戸主海部馬辰戸同部・・」があります。また、允恭天皇紀には、阿波の長邑の海人の物語が伝えられています。允恭紀十四 年の記事で、天皇は淡路島に猟に出かけますが不猟で、占うと島の神が赤石の海底の真珠を供えよと告げられた。 そこで方々の海人 を集め潜らせたが得られず、ついに「阿波国の長邑」の「海人男狭磯」が海底から大蝮を抱いて浮かびあがり、蝮を割くと桃子大の 真珠があり、これを神に供えると大猟となった。ただ男狭磯は息絶えたのでこれを悲しみ、墓をつくり厚く葬り「其の墓、猶今まで 存。」と伝える説話です。 この説話にみえる「赤石」を阿波の那賀郡に北接する「赤石」(現在の小松島市赤石)とするか、兵庫県の明 石とするかによって、男狭磯の墓の推定地は(那賀郡か鳴門か) 異ってきますが、古くから鳴門市里浦町に、男狭磯の墓や星の井戸 が伝えられ、多くの古歌も歌われています。
里の海士のたく藻の姻心せよ月の出しほの空晴れに免 後鳥羽院
里の海士の塩焼衣立かへり馴れしも知らぬ春の雁かね 西行
磯のまに波荒げなる折々はうらみをかつぐ里の海士人 定家
今日伝わる男狭磯の墓が、いつごろ建てられたかは不明ですが、男狭磯が葬られた伝承が里浦に残っていたために、幾度も墓がつく られ、歌が詠われたとすれば、「阿波国の長邑」は、現在の鳴門市あたりにあったとも考えられ、古代鳴門海峡が「長の門」と呼ばれ た可能性もあります。
もう一つの解釈は、速吸の「名門」が「波門」から起ったとする考え方です。『阿波国風土記』の逸文に、「奈佐の浦。 奈佐と云ふ由 は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。 海部は波をば奈と云ふ。」 とみえます。つまり、阿波の海部は、波を奈と発音 していたことになりますが、記紀と風土記の成立がほぼ同時代でもあり、急流と渦潮によって、常に白波が騒ぐ鳴門海峡を、「波(奈) が立つ門」「奈の門」と呼び、これがのちに、急流と渦潮で海が「鳴る門」となったのかも知れません。
次に「速吸」の意味について考えてみます。
「名門門」の形容詞である「速吸」は、禊祓条で、「潮既に太だ急し」と説明されているので、「速」が潮流の急い意味で使われて いることは論を待ちません。 そこで潮流に関して、再び吉田東伍博士の「大日本地名辞書』によると、「本邦潮流速力の最強は鳴門に て、一時間(平常大潮の際) 七海里乃至八海里半なり、風候によりては十海里以上十一海里(一海里は一八五二―筆者注)に達す ることあり。之に次ぐは下之関、并に早崎瀬戸なり、明石は四海里半、友島は二海里半にすぎず。」とあり、鳴門がわが国で最も潮流 の早い海峡で、明石海峡の二倍以上の早さであることがわかります。因みに、海峡部の幅を比べてみますと、鳴門海峡は一三四〇灯、 明石海峡は約三・八枝、豊予海峡は約十三で、とくに豊予海峡は「速吸」や「潮太だ急し」には皆目あてはまらない並の水道です。 今日刊行されている日本地図をみると、豊予海峡を、「速吸瀬戸」 「豊子(速水) 海峡」などと表していますが、神武東征条の速吸名門 を当てて、このように名付けられたものとすれば、歴史の捏造に組する曲学阿世といわなければなりません。また、豊予海峡の一方 をなす佐賀関半島(豊後国)に延喜式内社の早吸日女神社が定められていますが、この神社も、さきに述べた出雲国の式内社と同じ ように、記紀成立後において加増したものと思われます。記紀でイザナギは、速吸名門を禊祓の候補地とはしますが禊は行わず、ま た、速吸名門で男女いずれの神も生んでおりません。また神武東征説話でも、速吸名門で女性はまったく登場していません。したが って、この神社は、記紀とは何の関係もない神を祀っていることになります。
つづいて速吸の「吸」ですが、「吸い込む」「引き込む」の意味を表したものと考えられ、記紀の表記ですべて「吸」が使われている のは、その海峡の特徴を表したものといえます。すなわち「吸」は、速い潮流が渦を巻いて潮を吸い込む様子を形容しており、まさ に鳴門の渦潮を表現したものといえます。 鳴門海峡は、南北両側にすり鉢状の凹部をつくる双生海釜となっており、北の播磨灘と南 の紀伊水道の潮汐干満の時刻が全く正反対となるため、狭い海峡部分では両側の水位差が最大二にも達するといわれています。そ のため激しい急流が生じ、流速は平常で十三~十五、春秋の大潮時には逆潮(北流)毎時十八・三口、落潮毎時十七・四㌔にも達 するため直径十余り、ときには二十近い渦が生まれるのです。
以上のことから、鳴門海峡は、地名や海流現象にいたるまで、すべてが「速吸名門」に当てはまり、他方、明石海峡や豊予海峡は、 これらすべてが当てはまらず、実は何の根拠も備えていない海峡であったといえるのです。 ただ、通説氏におかれては、以上のことは列島全域における海流の相対的比較であり、古代においては限定的地域での物語となる ので、豊予海峡や明石海峡でも、周辺の海流に比べて「潮太だ急」い門になる、と反論されるかも知れません。 しかし、「速吸名門= 鳴門海峡」説の論拠は他にもあるのです。
神武東征の段(『日本書紀』)で、神武天皇が速吸名門に至ったときに、一人の海人に出会ったのでその名を問うと、「臣は是国神 なり。名をは珍彦と目す。曲浦に釣魚す。天神の子来でますと、故に即ち迎へ奉る」(訳文は岩波版)と答えた。そこで椎橋 の末を珍彦に授してとらせ、皇舟に入れて椎根津彦の名を与え、海導者にしたと記されています。 すなわち、神武天皇が速吸名門で 出会った海人のもとの名は「珍彦」で、その名から、どの海峡を本拠地としていたかは説明するまでもありません。これをあえて説 明すれば、珍彦は鳴門の渦潮からその名を取り、「急流渦巻く速吸名門を支配する海人族の大人」を含意した鳴門の珍彦であったとい えます。
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次に重要な意味を持つ珍彦の出自(姓)の混乱を正しておきます。
『日本書紀』には珍彦を「倭直部が始祖」(「古事記』は割注で「倭国造等の祖」)としています。ところが『新撰姓氏録』では「倭 ―」でなく、珍彦は「大倭直始祖」となっているのです。
◯大和宿禰
出自 神知津彦命也。神日本磐余彦天皇。従日向地向大倭洲到速吸門時。有漁人、乗艇而至。 天皇問日。汝誰也。 対 曰。臣是国神。名宇豆彦。聞天神子来。故以奉迎。即牽納皇船。以為海導。仍号神知津彦,。一名椎根津彦。能宣軍機之 策。天皇嘉之。任大倭国造。是大倭直始祖也。
倭・大倭については第一章で主に取上げ、倭大国魂神社の鎮座する阿波が「倭国」であり、奈良は大倭豊秋津嶋の国名から、 大倭地方に拓かれた倭を意味し、国魂神社も大倭大国魂神社(大倭国に鎮座する国魂神社の意)であることから、国名は「大倭 国」であると説いてきたところです。
珍彦が倭・大倭いずれの始祖であるかは、『新撰姓氏録』からそれらを名乗る氏族の出自をみればあきらかになるはずです。 『新撰姓氏録』は、弘仁六年(八一五)に撰上され、八、九世紀当時五畿内に住む氏族一、一八二氏が、皇別・神別・諸藩(渡来系氏族等) の三体に類別され収められています。その編纂理由については、当時、京畿民あるいは京畿に流入し、重課を忌避しようとする百姓 が、主として絶戸に入って偽名を使うなど、冒名冒蔭を行い、この冒名冒蔭の当否の判定やその防止のために、基準となるべき氏族 書が必要となり、その目的のために、いわば畿内の氏族の戸籍簿として『新撰姓氏録』が編纂されたといわれます。 そこで『新撰姓氏録』から大倭(大和)氏の出自を調べてみます。
大和宿禰 大和国神別出自、神知津彦命,也。臣是国神。 名宇豆彦。 大倭直(祖) 名宇豆彦。…神知津彦。一名椎根津彦。能宣軍機之策。天皇嘉之。任大倭国造,是大倭直始祖也。 大和連 摂津国神別。神知津彦命十一世孫御物足尼之後也。 やまと 次に倭(和)を名乗る氏族を拾ってみます。 夜麻等古命 和泉国神別。 火蘭降命七世孫。 和薬使主 左京諸藩下。出自呉国主照淵孫智聰,也。…欽明御世。 和朝臣 左京諸藩下。出自百済国都慕王十八世孫武寧王也。 和 安部朝臣 左京皇別下。大春日朝臣同祖。彦姥津命三世孫難波宿禰之後也。 和連 大和国諸藩。出自 百済国主雄蘇利紀王 也。 和山守首 和泉国神別神魂命五世孫天道根命之後也。
右からあきらかなように、大倭氏はすべて宇豆彦を祖とし、宇豆彦が賜った姓 (大倭)を名乗っているのに対し、倭氏の出自はさまざまです。つまり、このことからあきらかなのは、宇豆彦は大倭の祖であるということです。なお、倭を名乗る氏族の出自がさま ざまなのは、倭(阿波)から奈良大倭への遷都に際し、諸々の氏族も大倭に移住し、そのうち一部の氏族は、移住後も宗国「倭」の 臣であったことに優越意識をもち、また、新都大後にすでに住んでいた同じ氏族との区別を望んだため、祖先の氏名や掌職名のうえ に倭を冠したものと思われます。たとえば和 安部朝臣は大春日朝臣同祖となっておりますが、 大春日朝臣は第六代孝安天皇より出 で、桓武天皇の御宇大春日朝臣の姓を賜っているのです。つまり同祖でありながらも和 安部朝臣の方が賜姓は古いのです。 また、「和」 を冠していない阿倍朝臣は第八代孝元天皇の皇子の大彦命之後となっておりますが、これも倭 (阿波) 時代に賜姓したのが和 安部朝 臣で、遷都後賜姓したのが阿倍朝臣と思われます。和を冠する氏族で渡来系氏族が多いのは旧都以来の氏族であることを誇示した結 果と思われます。
つづいて、珍彦は、記紀では「倭直部始祖」「倭国造等祖」、「新撰姓等録』では「大倭直始祖」と記され、「倭」「大倭」のどちらが 正しい伝えかが問題となります。ところが『日本書紀』の垂仁天皇三年三月条の注文に、長尾市という人が「倭直の祖」であると記 され、この長尾市は、先帝の崇神天皇の七年の条に、倭大国魂神社の祭主になったとあります。つまり長尾市が、「倭直祖」であるこ とはその掌職から疑う余地はなく、このことからも、珍彦は「大倭の祖」であるといえ、これによって、「倭直の祖」が記紀に二人 (珍 彦・長尾市)あらわれるという矛盾も解消されます(「即以大田田根子、為祭大物主大神之主。又以長尾市、為祭倭大国魂神 之主」)。
以上のことから、速吸名門で神武天皇に出遇った珍彦は大倭の祖が正しく、珍彦は鳴門の海人の大人として大倭の姓を賜わり、や がて奈良県地方を開拓したため、その地は「大倭氏が開拓した地」と呼ばれ、これが大倭国の名の由来になったといえます。これに 繋がる記事はさきに挙げたとおり、『魏志』倭人伝に、国々の市を監督する「大倭」が登場しており、また、女王国(邪馬台国)の東 に海を隔てて国があり、そこには「倭種」が住んでいるという記事にも符合します。この場合、珍彦より以前に、すでに『魏志』倭 人伝の「大倭」が表れていることについては、大倭(氏)の活躍を説話化したのが神武東征の段の珍彦と考えればよく、弥生時代後 期中葉から後葉のころの最後の銅鐸である徳島市国府町の矢野銅鐸と、和歌山県南部川村雨請山銅鐸との近似を、両地域の人々の交 流をうかがう何らかの痕跡と仮定した場合、阿波の鳴門の海人の活躍の時期は、神武の時代より相当遡るものとして捉える必要があ ります。また、珍彦(大倭の祖)の本拠地が阿波(鳴門)であったことを補強するものとしては、さきにあげたとおり、貞観六年に 阿波の土着の海人で海直豊宗ら七人が「大和」の姓を賜っている記事のほか、珍彦を祀る式内大和大国魂神社が、鳴門海峡を挟んだ 淡路国三原郡に鎮座することがあげられます。
阿波国美馬郡 倭大国玉神社 淡路国三原郡 大和大国魂神社 大和国山辺郡 大和坐大国魂神社
すなわち淡路国の大和大国魂神社とは、その地を開拓した大和の神(大和の祖の珍彦)を祀る神社の意味で、速吸逆巻く鳴門海峡を 縄張りとした阿波の海人が、 淡路島を支配領域としていたことが、この神社からうかがえます。また、その名が即海峡名を表してい る「珍彦」の名は、鳴門の海人の大人が代々襲名したものと思われますが、倭人伝の時代には、倭王(卑弥呼)の名代として「大倭」 を名乗り、国々の市を監督し、やがて奈良地方を支配領域にしていったものと考えられます。 大和国山辺郡の大和坐大国魂神社は、 そのことを表したもので、神社名に「坐ー」を挟んでいることは、その神(珍彦)を祀る第二・第三の神社、すなわち淡路の国魂 神社より新しいことを物語っています。
なお、珍彦の後裔を名乗る大倭忌寸五百足が、文武元年(六九七)十一月に遣新羅使に任ぜられ、和銅七年(七一四)二月には、 大倭忌寸一族の氏上となり、大和国山辺郡の式内大和坐大国魂神社の神祭を司っている(丁酉。以従五位下大倭忌寸五百足為氏 上。今主神祭。)ことは、鳴門海峡を支配した速吸の珍彦が、奈良地方を開拓し、それ故に大倭の祖として、山辺郡に大和坐大国 魂神社で祀られ、その姓(大倭)が大倭国の名の由来になったことを示すものです。
以上、これまで述べてきたように、神武の出発地は九州ではなく、また、東征路の前半も作為によって書かれたと仮定できます。 そして阿波にくらべ、九州島における神武天皇にかかわる痕跡は皆無といえます。 神武天皇即位の伝承の本源地は、その母(または 祖母)である豊玉比売命の神蹟(和多都美宮跡に祀られた式内和多都美豊玉比売神社、葬場跡に祀られた式内天石門別豊玉比売神社) 及び神武天皇を佐け、自らの女を后として差出した事代主命の神蹟(生誕地に祀られた式内事代主神社・葬場に祀られた式内勝占神 社)が全国唯一明らかな阿波国をおいて他になく、東征の出発地は、 その神蹟の揃う吉野川下流南岸の神野山 (徳島市勝占町)付近 和路(和多都美宮跡に祀られた式内和多都美豊玉比売神社、葬場跡に祀られた式内天石門別豊玉比売神社) 及び神武天皇を佐け、自らの女を后として差出した事代主命の神蹟(生誕地に祀られた式内事代主神社・葬場に祀られた式内勝占神 社)が全国唯一明らかな阿波国をおいて他になく、東征の出発地は、その神蹟の揃う吉野川下流南岸の神路山 (徳島市勝占町)付近 と考えられます。 また、本節で考証した速吸名門は鳴門海峡から阿波吉野川河口部のことで、神武東征の歴史伝承上の前半の舞台は、 吉野川南岸下流域から出発し、北岸に上陸する手前で速吸名門に遭遇するところまでといえます。
さて、ここで速吸名門を鳴門海峡とした場合、神武軍は速吸の珍彦を海導者として浪速渡を経て、通説のいう大阪湾に上陸したの でしょうか。否、けっして首肯できるものではありません。 第一章でも東征路の後半の矛盾を指摘したとおり、まったく蓋然性はな く、初代天皇の聖征物語としては、あまりにも屈辱的な経路となってしまいます。
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また、通説の説くように、神武天皇が奈良地方を統一し、帝都「倭」の初代天皇として橿原で即位したのであれば、その地域 (奈 良盆地)には、少なくとも延喜の時代に「倭」の国魂神社が祀られていなければなりません。ところが「倭」の国魂神社は阿波国に 鎮座し、奈良盆地には神武の海導者となった珍彦(宇豆彦)が「大倭」の国魂神社として祀られ、神武天皇に替わる奈良盆地の支配 者たる配祀となっているのです。これでは神武天皇が即位後の国見で、「やまとは浦安の国」「そらみつやまとの国」と祝めたたえ、ま た大久米命が神武天皇に、
倭の高佐志野の七行く 媛女ども 誰をし枕かむ
と歌って促した「倭」の地を、奈良盆地に当てることはできません。 今日いわれている奈良県橿原市の神武陵は、幕末に考定が行われたものですが、地名考証でそれまで荒芝のなかに小丘しかなかった小字ミサンザイに決定され、文久三年(一八六三)、七か月にわたる修築工事で水田の中の土檀を基盤に方形の二重の丘を築き、裾 を石垣で固め、鳥居や石燈籠を配し、周囲を柵で囲んだもので、今から百三十年前に出現した近世の陵墓にすぎません(なお文久以 前までの百五十年間、神武陵といわれていた塚山は、その後明治十一年に綏靖陵に治定され現在に至っている)。また、同じく橿原市 久米町の神武天皇を祀る橿原神社は、なんと明治二三年(一八九〇)の創建という新しさです。これに対して阿波板野郡土成町樫原 に鎮座する樫原神社は神倭磐禮比古命(神武天皇)を祭神とし、天保十二年(一八四一)の棟札を今に伝え、創建年代不詳とする古 社です。つまり、太古、近畿地方に渡ったのは、これまで述べてきたとおり速吸の珍彦です。神武天皇は、速吸の珍彦の導きで阿波 吉野川北岸(板野郡)に上陸しその地を鎮撫したもので、倭(阿波)にとどまった天皇といわなければなりません。 板野郡(『和名抄』の板野郡は現在の鳴門市と吉野川下流北岸に位置する七町が含まれる)の地名の起源は、関東の利根川下流に「潮来」の地名があるが) 潮満ちてくる野原を意味する、イタノ (潮野)とする説があり、また、今日、全国第二の出荷高を誇るレンコ ンが、鳴門市大津町・大麻町、板野郡松茂町 徳島市川内町の低湿沼地を中心に栽培されていることからその地形がうかがえるよう に、古代の吉野川河口部は現在よりはるかに広く、また、吉野川上流から東に運ばれる堆積土と、頁岩と砂岩からなる阿讃山脈の浸 蝕土砂の南流によって、流路は変わり、流れも緩急複雑であったことは想像に難くありません。長元二年(一〇二九)正月に、二度 目の阿波守に任ぜられた藤原基房が、「阿波守に成りて、またおなじ国にかえりなりて、下りけるに、こづかみの浦と云ふ所に浪の立 つのを見て詠み侍りける (後拾遺集雑五)として、 木津神の浦に年経てよる浪もおなじ所にかへるなりけり と歌っていることからも、古代の要港木津神浦(現在の鳴門市大津町木津野に北面する撫養町木津あたり)は波打際で、涙が立つほ どの潮の流れがあり、それをはるかに遡る神武の時代に、このあたりを「浪速渡」と形容されたとしても不自然さはありません。 また、神武軍が熊野の邪気に打たれたとき、熊野の高倉下の夢に、天照大御神が武甕雷神に、「夫れ葦原中国は猶聞喧擾之響焉。汝 更注きて征て」とのたまった(『日本書紀』)、とあります。通説はこの熊野の地を和歌山県新宮市または三重県北牟婁郡としています が、右に引用したとおり、『日本書紀』がこの熊野の戦の地を「葦原中つ国」の国内と記していることとどう斉合を図るのでしょう か。この記事ひとつ取上げても、神武の上陸地を近畿地方とすることには無理が生じてきます。 しかも、武甕雷神の別名は建布都神 で、この神が樫原神社の鎮座する土成町の西隣阿波郡市場町に全国で唯一座式内建布都神社として鎮座しています。もちろん和歌 山県・三重県には建布都神の痕跡はまったくありません。 このように、神武東征路の後半に関しても、通説の解釈は付会で、神武天皇が近畿地方に上陸したととれる確かな論拠や痕跡は皆 無にちかく、むしろ倭(阿波)と大倭(奈良)を読み違えた根本的欠陥を持つ説といわなければなりません。 そこで、次節では、記紀の記述にしたがって、神武東征路の後半の舞台の概略を記し、神武東征説話の原伝承が阿波一国内の出来 事であることを明らかにします。
10 神武東征路(後半)の舞台
国史研は、神武天皇の東征出発地を勝浦川下流左岸の神路山(勝占島・敷地神山・鉢伏が峯などとも呼ばれる)周辺に比定する。 この周辺には天神山古墳・鶴島山古墳群・千代ヶ丸古墳・桜間古墳・マンジョ塚古墳・丈領古墳・新宮塚古墳・渋野天王ノ森古墳・ 渋野丸山古墳など県内有数の古墳地帯として知られ、その中には前期古墳も含まれる。渋野丸山古墳は推定全長八〇があり、徳島県 内では最大の前方後円墳で、盾形埴輪・草摺形埴輪・円筒埴輪等の出土から五世紀前半の築造と比定されている。『勝浦郡志』(大正十 二年)によると、渋野町周辺の山畠開墾などによって過去に発見された古墳の伝聞記事が載せられているが、円筒埴輪の出土報告が 極めて多く、県内では最も幾内色の強い古墳地帯とみられています。
神路山は事代主命一族の葬場と推定されるところで、頂上近く(標高七〇)には式内勝占神社が鎮座しています。 事代主命は、 天孫を代々佐けるとともに、自らの女を神武天皇の后として差出すなど、常に神武の影の存在となっています。 この地を出発地とす る理由の一つは、神武の影となる事代主命の痕跡が明らかであるためです。 次に神路山の麓には尾羽丁(おばっちょう)の地名が残 っています。 「尾羽丁」は、国譲りの交渉のため高天原から葦原中つ国に遣わされた建御雷神の父「伊都之尾羽張神」に由来する地 名ですが、事代主命とおわばり、建御雷神の組合せが、阿波国内では吉野川下流域北岸の阿波郡市場町にもう一か所あります。すな わち、市場町の旧地名に「尾開」(おわばり)があり、また、阿波郡の延喜式内社に次の二座が定められています。
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建布都神社 事代主神社
建布都神とは建御雷神の別名で、神武東征の段で神武軍を助けるために降された神です。つまり阿波郡市場町には「おわばり」の地 名と神武天皇の影となって仕えた神 事代主神)・聖征を助けた神(建布都神)が揃っており、東接する板野郡土成町には、神武天皇 かしはら を祀る樫原神社と熊野神社が鎮座しているのです。国史研は、この二つの類似から勝占町を神武東征出発地、市場町及び土成町を 聖征後の即位の地と推定するもので、これが第二の理由です。
次に、神路山の麓には尾羽丁と並んで東西に「方ノ上」(かたのかみ)と「片汐」(かたしお)の地名がありますが、古くは干潟上・ 潟汐で、古代に海が迫っていたことを示す地名です。また、渋野町宮前の西に続く「舟越」の地名も古代の地形を表すものですが、 国史研は、神路山の南麓の渋野八幡神社周辺を、第三代安寧天皇の宮跡に推定しています。 安寧天皇の宮は、片塩の浮穴宮と伝えら れていますが、坂東一男氏が解明しているように、もともと「ふなの宮」を浮穴宮と漢写し、これをのちに「うきあなのみや」と誤 って読んだもので、 「片塩」「ふな」ともに地名が揃うことになります。また、第二代綏靖天皇の宮は、葛城の高岡宮とありますが、こ の地域の地名である勝浦郡 勝占町や勝占神社はいずれも古くは「かつら」と呼ばれています。つまり、「かつらぎ」の名の起りはこ の地であった可能性があり、葛城の高岡宮も、 方上町の「宮谷」「門口」か渋野町の「門」「宮前」「高根」、あるいは日向の地名にこ だわるのであれば飯谷町「日浦」「居内」あたりに推定できます。以上述べてきた三つの理由から、国史研は、東征出発地を神路山周 辺と推定するものですが、なお神路山と、神武天皇の母(または祖母)にあたる豊玉比売命の葬場跡(徳島市城山、式内天石門別豊 玉比売神社の鎮座地)との地域の間で、今後探究していく余地を残しています。
さて、東征路の後半の舞台を『古事記』の記述を中心に据え、これに『日本書紀』の記述を補完しながら検証することにします。
はじめに、第一章で取上げた通説の上陸行路を再確認しておきますと、神武軍は「浪速渡」から「白肩津」(東大阪市)に上陸し生 駒山を越えて奈良盆地 (奈良市三碓町)に入るが登美の長須泥比古に軍を興され進軍を阻まれたため、大阪湾に引き返し、ここから 「紀国の男之水門」(和歌山市の紀ノ川河口)まで下り、さらにそこから海路で紀伊半島を一周し、潮岬を越えて「熊野村」(和歌山県 新宮市)に再び上陸、 ここから十津川を上り、紀伊山地を北に縦走して奈良盆地に再び入り、「橿原宮」 (橿原市)で即位したと解釈さ れています。もともと神武東征説話は、阿波国内の歴史伝承記録であったものを、西日本全域の物語と解釈し、あるいは何らかの意 図から広域の物語であるかのように潤色したものと考えています。したがって、説話に出てくる地名等の一部には、記紀編纂時に書き加えられた広域地名があるものの、大半の地名は阿波の古地名であったと思われます。 記紀をくらべてみると、他の説話にみられ るのと同様、『日本書紀』で加筆のあとが多くみられますが、それはさておき、 舞台の検証に移ります。
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神武軍がはじめに上陸したのは「青雲の白肩津」で、通説はこれを東大阪市日下町付近とする。 阿波説の場合、これを比定する手 がかりは現在のところ見つかっておりません。ただ、上陸後すぐさま登美の長須泥比古が戦を仕掛けてくるので、その場所は、板野 郡板野町大寺から東の鳴門市萩原あたりに推定できます。 このあたりは、南の旧吉野川(浪速渡)に面し、北は阿讃山脈の複合扇状 地が連担する高台で、西から東(下流)に向って阿王塚山古墳、金光明廃寺、大唐国寺跡、前方後円墳の愛宕山古墳、谷口山古墳群、 檜銅鐸出土地、極楽寺跡、平草古墳群、浄土寺山古墳群、ぬか塚古墳、春日神社古墳群、ケンレイサン古墳、 光勝院寺内遺跡、山の 下西遺跡、前方突出部を有する発生期の積石塚古墳を含む萩原墳墓群などが並ぶ遺跡の密集地帯です。
この地域を登美の長須泥比古(登美比古)の本拠地と推定するのは、遺跡の分布や地理的条件のほか、「とみ」の地名群落が認めら れるからで、愛宕山古墳の西の谷を登ったところに、「富の谷」「富の谷口」 「富の谷川」の地名があり、また、大寺の南に「西中 富」、その東の藍住町には「東中富」「富吉」の地名が分布しています。 登美比古の性格については、さきに少し触れたところですが、 私は中臣・藤原氏の祖であったと考えています。もちろんこの仮説は記紀等の伝え(中臣の祖は天石屋戸神事に仕えた天児屋命)と は異なるものですが、阿波吉野川流域における古代氏族の痕跡を探れば探るほど登美比古に近づいてくるのです。ただ、ここではこ れ以上言及せず、通説がほとんど地名のみによって東征路を説明しているので、阿波説も地名を中心におきつつ、通説では揃わない 崇拝の痕跡を加え解説していきます。
東征説話では、登美比古は最後まで神武天皇に抵抗する勢力として描かれていますが、妹の登美夜比売は、高天原から降ってきた 饒速日命と結婚し宇麻志麻遅命を生んだとされています。 国史研は、この宇麻志麻遅命と、中国産の画文帯同向式神獣鏡などを出土した発生期の古墳である萩原一号墳が何らかの繋がりをもつと仮定しています。また、宇麻志麻遅命は、物部連・穂積臣・妹臣の祖 にあたるとされていますが、萩原の西には采女(うねめ)の旧地名が残り、延喜二年(九〇二)の田上郷(現在の板野町あたり)の 戸籍である「板野郡田上郷戸籍断簡」には、物部浄継売等二十二人、物部子益、物部広成等二十五人の名があり、登美比古の本拠地 (推定地)に、宇麻志麻遅命の子孫が住んでいたとも考えられます。
登美比古との戦いで神武の同母兄五瀬命が痛矢串を負い、五瀬は南に廻って紀国の男之水門まで到りますが、この地(男水門)で ついに崩りしてしまいます。通説は男水門を大阪府泉南市の港または和歌山市の紀ノ川河口としています。 阿波説では徳島市上八万 町の大木を男水門とする。この地は園瀬川の中・下流域にあたりますが、『阿波誌』によると、佐那河内村を流れる園瀬川は「木ノ川」 と呼ばれており、また、そのすぐ下流の上八万町「大木」は、古代海人族の阿曇氏が越えた山を意味する「あづり越」と、阿曇氏が 住んだといわれる「御所之内」の地名に挟まれた古代の岐(き・ふなど・泊)にあたります。すなわち、『古事記』の紀国の男水門と は、「木ノ川流域にある大きなふなと」(木の地の大岐)が原伝で、五瀬命は上八万町の大木(大岐・おのみなど) の地で崩りしたと思 われます。そして、五瀬命の陵は紀国の亀山に在りと記され、通説はこれを和歌山市和田の竈山神社としています。 阿波説では五瀬 命の生誕地の寛山に葬られたと考えており、大木から木ノ川を上った徳島市の八多山に推定しています。 竈山とは滝つぼのある山の ことで、八多山には五滝があります。 五滝の名は水が五条に落ちる云々などとされていますが、どうみても付会の説で、五瀬命が葬 られた滝のある山に因んで五滝と名付けられたものと思われます。また、滝を下った麓部には拝所である五王神社が造営されていま す。 神社名の「五王」も五瀬王から名付けられたもので、「寛保御改神社帳』には「八多村五王権現別当同村金龍寺」とあり、また故 事に習い、境内には一切の武具を置くことを禁じ、この神社の祭りには村民相集い農村舞台で芝居をしておなぐさめをするのが習慣 であったといわれています。今日、春秋の祭日には農村舞台での人形浄瑠璃の上演が行われており、境内には船底舞台と、背景が六〇種にも変化する舞台装置が残っています。
神武軍は熊野村に着いたとき、荒ぶる神の化身である大熊がちらりと姿をみせた。神武はこの毒気に触れて正気を失い皇軍もみな 横たわってしまう。このとき熊野の高倉下の夢の中で、天照大御神と高木神が建御雷神に対し、葦原中つ国で神武軍が苦戦してい るので降りて助けるように命じますが、建御雷神は、自分は降りなくても、かつて自分が葦原中つ国を平げた刀があればよいといっ て、建布都の霊剣(佐士布都神・甕布都神・布都御魂ともいう。なお建御雷神の別名を建布都神とも記している)を降ろすことにな ったという。高倉下は朝起きると夢のお告げのとおり刀があり、これをもって神武に手渡すと神武とその皇軍は正気を取戻したとい う。 通説は熊野村を和歌山県新宮市とする。また『古事記』の注文には、この刀が石上神宮 (奈良県天理市布留町)にあると記してい るが、記の成立時すでに石上神宮で刀が祀られていたことになる。
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さて、この段では、熊野村は、かつて建御雷神が降って平らげた葦原中つ国であるという。ところが通説は葦原中つ国を島根県地方に、また、熊野村を和歌山県としているため、記紀のこの記述によって矛盾をさらけ出す羽目になっています。つまりこの記述は、 神武天皇が阿波国内にとどまり、葦原中つ国のかしはらで即位したことを示しています。 記紀のいう熊野村とは、板野郡土成町高尾 字熊之庄あたりで、この地には熊野神社が鎮座しています。 祭神や由来については、今日誤った説が伝えられていますが、地名の高 尾は高倉下に、熊之庄は熊野に通じ熊野神社の山門の屋根には菊の十六弁紋と桐紋(皇后紋)の瓦が使われている)、神邑(みわむ ら)は御所山の麓部にかかる宮川内(みわごうち・みやごうち)に通じるなど、東征路の「熊野」の条件を備えているといえます。 また、建御雷神(建布都神)が降した霊剣を表す建布都神社が、土成町に隣接する阿波郡市場町に式内社として定められていること は、東征路の舞台が阿波吉野川下流北岸であることをさらに補強するものといえます。もちろん通説の和歌山県には建布都神または 甕布都神を祀った式内社は一社もなく、これを奈良県天理市の石上神宮に寄せられた刀ということにしても、熊野の高倉下が、新宮 市から紀伊山地を縦走して奈良盆地に入り、ここで刀を取って再び紀伊山地を南下して新宮市まで帰り、正気を失った神武に手渡さ なければならないので、舞台として成立する余地がありません。また、熊野につづいて宇陀の兄宇迦斯弟宇迦斯の二人が登場します が、土成町を南北に走る宮川内街道の香川県との県境を鵜峠、トンネルを鵜田尾トンネルと呼んでおり、ここでも宇陀=鵜田の地名 が一致するほか、このとき神武のうたった宇陀の高城の歌の中に、前妻と後妻がみえますが、鵜峠を少し下った御所山の東の谷の地 名に「相婦」があり、これも関連しそうな地名です。
さらに、この条で八咫烏が案内するくだりの中に、「吉野河の河尻に到りましき。」 とみえますが、これも阿波の吉野川でなければ当 てはまらず、通説のいう奈良県の吉野川は紀ノ川の上流にあたるので、もとより「河尻」などはありません。 倉野憲司博士は、この 記事について、「吉野川の上流に出るべきであるが、河尻 (下流)に出たとあるのはおかしい。 地理が乱れている。」と解説しておられ ますが、通説の東征コース(奈良県吉野川)に合わないからといって、『古事記』原文が乱れているとされる(通説のコースによると 吉野川の上流に進まなければならない)。また、河尻(到吉野河之河尻。)の解釈は、阿波説の場合、吉野川の支流の宮川内谷川から 吉野川の本流(もとよりこの地帯は吉野川の下流域)に出たとすれば地理も一致してきます。いずれにしても奈良県の山間奥地を流 れる紀ノ川の上流(吉野川)を、「河尻」と表現するとは考えられません。 なお、記紀や万葉集にみえる「吉野」「吉野川」「吉野宮」 は奈良県の吉野とされていますが、原文表記は「三芳野」「三吉野川」「吉野之河」「美与之努」など「よしの」「みよしの」で表わされ ており、このことからも阿波の三好郡を流れる三好の川・吉野川でなければ当てはまりません。
次は、久米の子等がみるみる満ちあふれ、登美比古を撃とうとする久米歌が続きます。
みつみつし 久米の子等が 阿波布には臭韮一本そねが本そね芽繋ぎて撃ちてし止まむ
歌は三首続きますが、この歌については、さきに岩利大閑氏の解説を引き、また「阿波布」の意味を正し阿波の物語であることを述 べたのでここでは省略します。
なお、通説は、登美比古を撃とうとする久米歌の舞台を奈良県桜井市(奈良盆地の南東部)としていますが、さきの登美比古との 戦いの舞台を、生駒山脈を下った奈良盆地の北西部(奈良市三碓町)としているので、登美比古の蟠踞する位置が前後でまったく合 いません(直線距離にして二十数㌔の開きがある)。
また、神武の皇軍を助けた久米の子等は、のちに久米直や久米朝臣を名乗ったものと考えられますが、『新撰姓氏録』によると、久 米直は、阿波忌部の祖である天日鷲命より出で、また、久米朝臣は武内宿禰の後裔となっています。すなわち久米直は阿波忌部の本 拠地である麻植郡から出ていることになります。他方、久米朝臣の祖となる武内宿禰は、伊迦賀色許売命の孫にあたるのですが、 こ の伊迦賀色許売命が、麻植郡川島町伊加加志に、式内伊加加志神社として全国で唯一座祀られ、 また、その遠祖にあたる天神の饒速 日命が阿波郡阿波町の郷司谷に居住していたとする伝承が残っているのです。武内宿禰は『古事記』では成務・仲哀・応神・仁徳の 四朝に仕えた長寿の大臣ですが、通説では実在性について、その可能性はうすく、伝承上の人物とされています。しかし、八世紀 (七 一〇)以降の帝都である奈良大倭を探してみても、武内宿禰の痕跡があるはずもなく、実在性がうすいとするのはむしろ当然の帰結 でしょう。 これに対して旧都の阿波では、吉野川下流域一帯に、仲哀・応神・仁徳天皇の活躍の舞台とともに多くの痕跡が残ってお り、国史研としては、武内宿禰の葬場を眉山の高良峯(加茂名町)に推定しています(その東の名東山には四世紀の積石塚である八人塚古墳がある)。また徳島市応神町の高良神社・武威神社、板野郡北島町の大将軍神社、板野郡矢武の矢武八幡神社など、多くの神社で武内宿禰の痕跡がみとめられ、とくに矢武八幡神社は、嵯峨御所より寄せられた御染毫の扁額の伝記を有し、その寄付文書には 武内大臣のゆかりの地である旨(「阿波国板野郡矢武村者上古武内大臣為緑由之地云々鎮座八幡宮・・・」)が記されるなど、最も色濃く信 の痕跡をとどめており、この地が大臣の居館跡であったかも知れません。またこの神社の別当寺で、天暦二年(九四八)の開基を 伝える応神山仲哀寺と称する名刹があったことが知られ、その後顕徳山仲哀寺、連教寺へと改号・合併したあと、境内の塚を筆塚と 称したことが「板野郡誌』(大正十五年刊)にみることができます。 この筆塚は、仲哀天皇に関係するものかも知れず、仲哀寺は同天 皇の弔寺であったと考えられます。また、妃の神功皇后の痕跡が東接する藍住町住吉字神蔵の住吉神社にあり、神功皇后自ら神主と なって、武内宿禰に琴を撫かせ、中臣烏賦津使主を審神者に問わせて顕れた「淡郡の厳の事代主神」が、上流の阿波郡市場町伊月の 式内事代主神社であることなどから、矢武八幡神社は、仲哀紀にみえる武内宿禰の沙庭の由縁地であった可能性も残されています。 また、皇位を獲ろうとした香坂王・忍熊王を、武内宿禰が破った場所が『日本書紀』では「逢坂」であるとしていますが、板野町大 寺から香川県引田に出る讃岐街道沿いの板野町側が旧大坂村で、今日でも「大坂越」 「大坂峠」 「大坂」などの地名も残っています。 さ らに、このとき武内宿禰のうたった歌に
淡海の海 瀬田の済に潜く鳥 田上過ぎて菟道に捕えつ
とありますが、淡海は阿波の海で鳴門から吉野川河口部の海の総称です。 田上は現在の板野町あたりを指す旧郷名の田上と一致しま す。また、延喜二年の「板野郡田上郷戸籍断簡」にも、武内宿禰の後裔氏族である宗我部・錦部・久米・葛木の名がみえます(同断 簡には天日鷲命の後裔苗氏である語部・忌部もある)。
なお後章でも取りあげますが、「板野郡田上郷戸籍断簡」には、男女合わせて五四五人、二九苗氏が書かれていますが、わずか郷の 一部の地域の中に、古代の天皇や倭の主要豪族の部民が多く含まれており、まさに板野郡は八十氏の住む地域なのです。 現在、徳島 市の吉野川に面した地域に矢三(やそ)の地名がありますが、これも八十氏と関連があり、菟道(うじ)・八十氏川・八十島・八十の 湊なども阿波吉野川河口部の呼名で歌の枕詞としても用いられています。
淡海の海 湊はパヤちいづくにか君が船泊て 草結びけむ(万巻七一一一六九)
磯の崎 漕ぎたみ行けば 淡海の海 八十の湊に 鶴多に鳴く (万巻三二七三)
百伝ふ 八十島廻を漕ぎ来れど 粟の小島し 見れど飽かぬも(万巻九一七一一)
鯨魚取り 淡海の海 沖抜けて 漕ぎ来る船辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ檻 いたくなはねそ辺つ櫂 若草 夫の思ふ鳥立つ(万巻ニー一五三)
淡海の海 瀬田の済に潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕えつ(神功紀)
通説は、淡海(近江)を琵琶湖のこととしていますが、はたして琵琶湖に多くの湊や多くの島が浮かんでいたというのでしょうか。 また、琵琶湖の沖で鯨(勇魚)を漁る歌と解釈することに何の疑問も抱かないのでしょうか。 すでに右の歌中にみえる「粟の小島」 や、名勝として歌人に知られる鳴門の「磯の崎」からも、淡海・八十島・八十氏川・八十の湊・菟道が、鳴門から吉野川河口部にか けての名称であることはほぼ察しがつくはずで、武内宿禰の歌もすべて板野町周辺の地名を歌ったものといえます。
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このように、久米直の祖である天日鷲命や、久米朝臣の祖である武内宿禰・伊迦賀色許売命・饒速日命が、ともに阿波吉野川下流 域を本貫の地としていることは、その周辺に両祖神の子孫となる久米の子等が居住していたことになり、その一部が延喜年間に、板 野郡田上郷で久米姓を名乗っていたととることができます。 神武の皇軍を助けた久米の子等の居住区は、当然、登美の長須泥比古と の戦いの舞台か、その後神武が即位したかしはらの地の近隣でなければ辻褄が合いませんが、国史研では板野町 登美の長須泥比古 の本拠地)の対岸の名西郡石井町に推定しています。 石井町は、西(上流)に天日鷲命の本貫地たる麻植郡と接し、東(下流)は豊 玉比売命(神武天皇の母または祖母)の本貫の地たる名方郡井ノ上郷に接する地域で、大日霊命(天照大御神)の鎮まる気延山の北 麓部にあたります。 また、石井町は、神武天皇の兄の五瀬命が登美比古の痛矢串を負ひ、南のおのみなと (徳島市上八万町の大木(大 岐〉)に返す途次に西接する地域となります。
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この説話が歴史伝承であるならば、久米の子等は、この伝承を氏族の誇りとし、 代々一族に語り継ぎ、「久米」を名誉ある氏名とし て名乗ってきたものと思われます。 十六世紀に阿波の勝瑞城主細川持隆の家臣で芝原城主(現在の徳島市国府町芝原) の久米安芸守 義弘や、その弟で石井町城の内に居住した久米石見守義正等の武将も、久米の子等の子孫であったかも知れません。安本美典氏が、 西暦九二七年に撰上された「延喜式」の九州地方の九十五の郡名について残存率を調査され、千年後の現在も郡名としてそのまま残 っているのが五十五郡(残存率五七・九%)、郡名や市町村名、その他の地名で多少の変化も含め、何らかの形で残っているのが八十 二郡 (八六・三%)にのぼるとされていますが、古代の地名が時の流れにも磨滅せず、今日に多く伝えられていることに、今更なが ら驚かされます。 ことほど左様に、古代の氏姓についても、本枝関係や分家移住による改姓はあるものの、直系の氏姓については、 地名以上の正確さで今日まで継受されてきたものと考えられます。 阿波においては、記紀にみえる地名や姓と同じ名が、今日珍らし い苗字として、たとえば「日下」(『古事記』序文で「日下を玖沙詞と謂ひ」として独特の訓みをことわっている。「日下」は神武東 征説話の登美比古の条にも「日下の蓼津」として出てくる)、「日浦」(日向と同音同義)、「馬来田」(天照大御神の第三王子天津日子根 命の後裔氏族である馬来田国造)、「溝杭」(神武天皇の后の祖父に三島の溝杭とある)、金村(継体天皇の即位にあたって豪族等の意見 をまとめた大伴金村大連がみえる)など、その説話の舞台の比定地周辺に残っていることがしばしば見受けられますが、久米姓の分 布についても、記紀の久米の子等に通じているのかも知れません。
これは、名西郡石井町に在住する久米勝夫氏が、昭和五五年ごろの電話帳から、全国の久米姓の分布を調べたものですが、電話帳 にみえる全国の久米姓は五、四五七戸、うち徳島県は全国の約十にあたる五四〇戸(総世帯数では、徳島県は全国の〇、六八%に 過ぎない)、通説の登美の長須泥比古の舞台とされる奈良県は四三戸、再上陸地とされる和歌山県が三一戸、 出発地とされる宮崎県は 四九戸、鹿児島県四六戸、大分県十戸といった有様です。 徳島県内で久米姓が集中するのは、やはり石井町と東接する徳島市ですが、 時の経過とともに人の移動の総和は大きくなり、古代の居住地の復元は困難といわねばなりません。しかし、久米の子等の本貫地を、 今日分布する久米姓と関連づけて探究することは、決して無意味ではないと考えられます。
さて、登美の長須泥比古を討とうとする久米の子等の歌のあと、兄師木を撃ち、ここで皇軍は疲れ、歌をうたいます。
楯並めて 伊那佐の山のこのまよもい行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養がとも今助けに来ね
通説では小学館本『古事記上代歌謡』は、伊那佐の山を奈良県宇陀郡榛原町の山とする。岩波版『日本書紀』はこれを疑わしいとし、 伊那佐の山は不詳とも述べている。つまり、奈良県には伊那佐の山の地名の手がかりはないことになる。ところが、阿波ではその手 がかりが存在するのです。
『阿波郡誌』の「伊那佐和庄」の項に、「本郡伊澤村伊澤氏系譜に、家景治承元年より右大将源頼朝卿に随従し諸所に於て軍功あり、 …阿波国日鷲山に向ふ、伊那佐和庄に居住せしめ同三年一千町の采地を賜ひ伊那佐和を伊澤と改めす云々」とあり、阿波町の旧伊 澤村のあたりは、治承三年(一一七九)まで「伊那佐和」と呼ばれていたことになります。 また、『阿波誌』にも、「伊澤山・・・伊澤村に 在り」「伊澤川・源伊澤山に出づ三里にして芳野川に入るその西に大窪川あり」とあるのは、それぞれ治承年間までは「伊那佐和山」 「伊那佐和川」と呼ばれていたことになり、歌にうたわれた「伊那佐の山」に通じるのです。
このとき、天から饒速日命が天降りし神武天皇に神宝(天津瑞を献上したとありますが、天孫邇邇芸命の異母弟とされる饒速日 命の本貫地の伝承が、 同じ阿波町に伝えられているのです。前掲の『阿波郡誌』に、「本郡林村郷司谷に宮居せる神ありて、河畔に梅 林をつくり給ひ、自ら慰みておはせ事ありき其後開化天皇の御宇、伊香色雄命来りて同村日吉谷に宮居し給ひし頃、梅林を東西に分 ちしと伝ふけだし命の領地がありし為か後の研究に任す。」とあります。ここでは郷司谷に宮居せる神の名はすでに忘れられ、また その後にあらわれた伊香色雄との関係も明瞭に伝えられておりません。ただ、この伝承の原形について復元を試みれば、『新撰姓氏録』 の伝える「饒速日命の六世孫・伊香我色雄命」に重なります。また、この地は『和名抄」にいう「拝師」 (波也之) 郷にあたり、その 名は「東拝師荘・西拝師荘」 「林村」「林町」として受け継がれています。とくに、郷司谷に宮居せる神と日吉谷の伊香色雄命がともに 「林」の伝承にかかわっているのは、両神の系譜が繋っていることと、 忘れられた神の名が 「はやし」 に関係することを暗示してい ます。すなわち、「にぎはやひ」の神の名が語り継がれる過程で「にぎはやし」 「にぎ (賑立派に繁った) はやし」となり、梅林が、 東(梅) 林西(梅)林に拡大されていったものと思われます。 岩利大閑氏は、これを阿波国風土記の伝承の一つであろうとしてい ますが、まさに、古伝承が摩滅する過程の姿がそのまま書き記された、饒速日命の伝承とすることができます。 このように、神武東 征条の伊那佐の山と天降りした饒速日命の痕跡は阿波町内で揃うことになり、一方の奈良県は双方の手がかりが、まったく存在しな い地域といえます。
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郷司谷及び日吉谷は、阿讃山脈から南に伸びる数本の舌状丘陵を形成する谷で、並行する西丘陵の西長峰からは、弥生中期後半を 中心とする集落遺跡が発見されており、堅穴住居十六棟、掘立柱建物七棟や吉備との関連がうかがえる分銅形の人面土製品などが出 土し、とくに集落の中央部には、五、五✕十二、一緒の高床式建物が確認されています。 また、阿波吉野川中流域において、饒速日命・伊迦賀色許姉弟・武内宿禰の痕跡が揃うことは、天孫降臨から神武東征、さらには、 第十代崇神天皇を経て倭の五王時代までを一つの舞台で繋ぐことになり、連綿たる倭の百伝ふ歴史の片鱗をうかがうことができます。
このあと神倭伊波礼比古命は白榛原宮で即位することになります。通説は奈良県橿原市とし、阿波説は板野郡土成町 樫原とする。 奈良県の橿原神宮は明治二十三年の創建に対し、阿波の樫原神社は創建年代不詳の古社で、天保十二年(一八四一)の棟札が残って います。また、『土成村史』(大正七年刊)によると、「当社は後方山を負ひ、境内老樹鬱蒼たりしが、 明治三二年山岳崩潰のため、社 殿樹木とも埋没の災に罹りき、今は仮殿を作りて奉祀す。」とありますが、岩利氏はこの崩潰を不審とし、歴史抹殺に組する何者かの 仕業ではなかったかとしています。
また、樫原神社は現在、鈴川山の麓部に鎮座していますが、鈴川山の背後の山が御所山で御所の地名もあり、そこから流れる谷が 宮川内・宮川内谷川で地名にも興味深いものがあります。 樫原神社の麓部の扇状地上には弥生時代中期後半から後期にかけて営まれ た北原遺跡が知られ、円形の住居跡や、土器を十数個体分を底に並べた土壌や楕円形の集石土壌が発見され、その土器内からは穀物 とみられる炭化物が多量につまったものや、祭祀を行った跡などが確認されています。また、麓部に近い山塊は古墳地帯、扇状地に は集落遺跡や寺院遺跡が集中し、東の上板町や板野町と同じ様相を呈しています。 樫原神社を中心に神武東征説話(後半)の主要な とみだとみながすねひこ 痕跡を拾ってみると、東の板野町富谷が登美の長須泥比古との戦いの舞台で、このとき神武軍を助けた久米の子等の居住地が対岸(南 岸)の石井町の久米の庄、熊野の戦いが土成町高尾字熊之庄の熊野神社、 このとき建布都神(建御雷神)から降ろされた霊剣の地が 西の市場町香美の式内建布都神社、同じく、神武天皇の影の存在となっている事代主命は市場町伊月の式内事代主神社で鎮座、歌に うたわれた伊那佐の山が阿波町の伊那佐和山、このとき天降ってきた饒速日命は阿波町長峰の旧はやし郷の郷司谷ということになり、 阿波吉野川北岸の中・下流域一帯ですべて揃うことになります。また、浪速 渡は、吉野川下流域の急流で古代の地形を復元すれば説 明がつき、速吸の宇豆彦は、鳴門海峡から吉野川河口部を縄張りとする海人族の大人で、このあたりの説話を語る場合、水上交通を 押えていた宇豆彦を外すことはできず、歌の枕詞並みに時代を超えて登場させたものです。また宇豆彦は、その名が速吸うず巻く鳴 門海峡を表す誇り高き名であったため、代々襲名したものですが、武内宿禰の母にあたる山下影比売の兄が宇豆彦を名乗っているこ とからもそのことがうかがえます。また、阿波で武内宿禰を高良神社・高良峯で祀っているのは、亀の甲に乗り打ち羽挙き来た宇豆 彦の子孫故に、こうら (亀の甲) と呼んだのでしょう。 なお山下影比売とは、板野郡 「山下郷」出身の比売を表しています。
神武天皇は橿原で即位したのち、阿多の小椅君の妹阿比良比売を妃としますが、『古事記』では橿原即位の次にこの記事を配してい るので、倭国内の阿多に住む姫と解釈できます。一方、『日本書紀』は東征の出発の前にこの記事を挟み、「日向国の吾田邑の吾平津媛 を娶きて」とし、あきらかに九州のこととして潤色しています。
この「吾田」については安本美典氏が精密な考証をされ、薩摩の旧名としています。また、岩波版日本古典文学大系『日本書紀」 阿多は薩摩国 (鹿児島県西部)とし、「和名抄」にも「薩摩国阿多郡阿多郷」 とみえ、まさに南九州説は、金城湯池の観がありま す。しかし、これは阿比良比売の古い伝承記録を剽窃して南九州に阿多郡阿多郷を創作し、これが記紀成立時に伝承の一つに数えら れたものと思われるのです。
神功皇后紀で、審神者に顕れた神の中に「尾田吾田節之淡郡所居神」が出てきますが、「釈日本紀」は「尾田吾田」を地名とし、 「淡郡に居る神」を、阿波国阿波郡に定められた延喜式内の建布都神社としています。 この解釈が正しいというより、列島六十数か 国中、淡郡内で沙庭に顕われるほどの神といえば、阿波国阿波郡の式内建布都神社と式内事代主神社以外に該当する神はなく、素直 に解釈すれば、むしろ当然の帰結といえます。 「和名抄」でも「あわ郡」は、四国の阿波国阿波郡と阿波忌部が拓いたとされる安房国 (千葉県南部) 安房郡の二郡しかなく、神功皇后の説話では東日本は対象とならないので、阿波国を指すことになります。つまり、 阿波の吉野川北岸は、「尾田吾田節の淡郡・・・」の記述から「吾田」と呼ばれていたことは明らかなのです。
次に「三代実録」の貞観十四年(八七二) 十二月二十九日の条に「阿波国正六位上伊比良咩神従五位下」 とみえます。 この神社は 現在、板野郡藍住町徳命に鎮座する伊比良神社で、祭神は神武天皇の妃阿比良比売命です。 「いひらひめ」と「あひらひめ」の違い が気にかかりますが、 仙覚律師が文永六年(一二六九)に著した『万葉集註釈』巻一に、「伊は発語詞也。梵語には阿字を以って発語 の詞となす。和語は伊字を以って発語の詞となすなり。」 「天竺にては、阿字を以って発語とし和語は伊字をもって為す。」とあり、発 語詞として「伊」であることを述べています。つまり「阿比良比売=伊比良比売」で何伊は同位で互いに代用でき、藍住町に は平安時代すでに神武天皇の妃が祀られていたことになります。また、『古事記』に、阿比良比売は「阿多之小椅君妹」とあります が、この「阿多」は、神功皇后紀の「尾田吾田節之淡郡」とも一致し、阿波吉野川下流北岸に比定できます。また、「阿多之」の「何」 は和語の発語詞「伊」に通じるので「いたの」(板野) となり、『古事記』の「阿多之小椅君妹阿比良比売」は「板野郡) 小椅君 の妹伊比良比売」を指していることになります。
他に阿・伊が代用されている例としては『播磨国風土記』揖保郡の「伊和大神」があり、これは明らかに「阿波の大神」を指し ています。古代の阿波と播磨との関係は、大倭や摂津に劣らぬ深い関りがあったと考えられます。このように、阿比良比売の崇拝の 痕跡は全国でただ一か所阿波国板野郡藍住町で確かめられるだけで、奈良大倭にもなく、また「阿多郡阿多郷」の地名まで揃えられ ている南九州(薩摩国)でも、まったくありません。 さきに私が、「阿多郡阿多郷」は記紀成立のころに創られたと記したのは、南九 州には阿比良比売をはじめとして神武天皇やその他生誕地・出発地に伝えられるべき神々の崇拝の痕跡が全く認められないからに他 なりません。
これまで私は、九州諸説 (禊祓地九州説・高天原九州説・天孫降臨地九州説・神武生誕地九州説・神武東征出発地九州説等) を、 地名を唯一の依り拠とする八世紀の創作説であると指摘してきましたが、この段の「吾田」をもって、 九州諸説の主張する地名はすべてが揃ったことになります。
◯日向
阿波剣山地の日当りの良い場所にのこる 「日浦」(ひうら・ひゅうら)の地名と同音同義。現在徳島県内で約三十か所、高知県山 間部にも数か所残っている。
◯高千嶺
式内伊邪那美神社の鎮座する高越山のこと。高越山は現在、「こおつざん」と呼ばれているが、たかちほ(高千)が漢写される過 程で「高越」となったもの。 なお天孫邇邇芸命は高越山の麓部の神明神社・白人神社で鎮まる。もとは、伊邪那美神の鎮まる高 く聳える聖なる山から「高千嶺」の名が生まれたと考える。
◯襲
襲の高千穂) 『阿波国風土記』逸文の高天原伝承である「天ヨリ降リクダリタル山/大キナルハ阿波国に降リツキタルヲ天ノモト山ト、ソノ 山ノクダケテ・・・」の「モト山」「ソノ山」が源である。 阿波剣山系には、その名残りとして祖山・祖谷・祖川・左右山(そうや ま)・曽根川・元山の地名があり、高知県山間部にも本山が残っている。
◯吾田
阿波吉野川中・下流域の名で、板野郡はその名残りの地名である。阿・伊は梵・和の発語詞として互いに代用されるので「吾田 の小椅」は「板野小椅」となる。
今日の古代史研究の世界では、九州諸説をはじめ、通説の神武東征行路は、ほとんど唯一地名を依り処としています。 しかし、「日 向」「高千嶺」「襲」「吾田」をはじめとして、今日多くの研究者や国民が長年にわたって縛られてきた地名の呪縛は、以上によって解 除できるのではないでしょうか。 私には、九州諸説や通説の神武東征行路から、地名以外の注目すべき根拠は見出すことができませ ん。そればかりか、これまでに指摘してきたように、行路の蓋然性などはまったく認められないのです。安本美典氏は、千年以上前 の地名が、多少の変化はしているものの八十以上も今日まで伝えられていることを述べておられますが、九州諸説や、通説の神武 東征行路が、記紀に述べられた真の歴史伝承上の舞台や行路なら、地名と密接な関わりを持つ一方の崇拝の痕跡が、なぜ空白のまま で何の手がかりも得られないのでしょうか。否、崇拝の痕跡は、その神にまつわる神話や伝承の源泉地なら必らず残っている筈で、 記紀の説話の史実性をたずねるうえで地名よりはるかに重要といわなければなりません。
阿波説の場合、すでに述べてきたように地名だけを比較しても、九州諸説や通説の神武東征行路以上に揃っており、しかも人間の 歴史物語として説明できる舞台上で拾うことができます。 この章の括りとしていえることは、阿波は国生みの星座図[コンステレーション ]で北極星の位置に据えられており、神々の生まれた国であり、高天原であり、葦原の中つ国であり、神武聖戦の舞台であり、また倭の国であるこ とを、地名・崇拝の痕跡・地理地形・伝承等とからめて説明できる唯一の国ということができます。
461頁
第三章 脚注
1 安本美典「邪馬台国論争は終盤戦に入った」(『歴史Eye』平成四年八月号所収、日本文芸社刊)
(14) 榎一雄「邪馬臺国の方位について」(昭和二三年八月『オリエンタリカ』、佐伯有清編「邪馬台国基本論文集Ⅱ』所収・一九八一年創元社刊)
(③) 白崎昭一郎「邪馬台国十の論点」(『季刊邪馬台国』十六号所収、一九八三年梓書院刊)による。 この中で白崎氏は、論拠を三点にしぼるにあたって、高橋善太郎 「魏志倭人伝の里程記事をめぐって」(『愛知県立大学文学部論集』 120号)などをもとにされている。
張明澄「一中国人の見た邪馬台国論争」(『季刊邪馬台国』十二号所収、一九八二年梓書院刊)
注③に同じ
謝銘仁『邪馬台国中国人はこう読む』(一九八三年立風書房刊)一〇三ページ~
注③に同じ
⑧ 注④に同じ、九六九七ベージ、以下の引用文も同じ
⑨ 頼惟勤 「<魏書 東夷伝・倭人条〉の文章」(松本清張編 「邪馬臺国の常識』所収、昭和四九年毎日新聞社刊)
10 鈴木武樹「「邪馬臺国の常識」(松本清張編「邪馬臺国の常識」所収、昭和四九年毎日新聞社刊)
1
高橋善太郎 「魏志倭人伝の里程記事をめぐって」 (「愛知県立大学文学部論集』1・20号、昭和四三・四四年、佐伯有清編『邪馬台国基本論文集』 所収二六一ページ~、一九八二年創元社刊)
1/4 注4に同じ
16 注1)に同じ
(44) 注1に同じ
148 山尾幸久「魏志倭人伝」六六〜七〇ページ(昭和四七年講談社刊)
1 注④に同じ
17 注⑥⑥6に同じ、九三~九五ページ
144 佐藤鉄章「「三国志」における〈歩〉は〈長里・長歩〉にもとづく」(『季刊邪馬台国』十二号所収、一九八二年梓書院刊)、
左の引用記事も同じ
(144 注1に同じ、七九ページ
24 岡田英弘「倭国」 (昭和五二年中央公論社刊)
24 注1に同じ、六ニページ~
2 注1に同じ
18 山尾幸久「「魏志』倭人伝の道里記事」 (「季刊邪馬台国」 十二号所収、一九八二年梓書院刊)
24 白崎昭一郎 「邪馬臺国の里程」(『季刊邪馬台国』十二号所収、一九八二年梓書院刊)
154 注2に同じ
16 富来隆「魏志「邪馬台」の位置に関する考察」 (「大分大学学芸学部研究紀要」 第二号・昭和二八年、三品彰英編著 『邪馬台国研究総覧』所収・昭和四五年創元社刊)
55 片山正夫「倭人伝中の方向里程等の考察」(『日本歴史』第七〇号・昭和二十九年、三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』所収・昭和四五年創元社刊)
1 白崎昭一郎「邪馬台国は桜井市の付近である」(『季刊邪馬台国」 十三号所収、一九八二年梓書院刊)
(24) 注1に同じ、九〇・九一ページ
100 奥野正男「邪馬台国はここだ』二三一、二ページ、昭和五六年毎日新聞社刊
10 森浩一 「巨大古墳出現への力」(森浩一編「前方後円墳の世紀」所収、昭和六一年中央公論社刊)、後段の引用文も同じ
(11) (10) (9) (8) (7) (6) (5) (4)
461
(2) 森浩一「巨大古墳の世紀』二六、七ㄑㄧy、一九八一年岩波書店刊、前後の記事屯同U
(33) 「特集、天皇陵匕宮都の謎」(昭和六二年六月臨時增刊『歷史読本」所收新人物往来社刊)上
(30) 松前建 『日本の神々』一一ㄑ丨沙(昭和四九年中央公論社刊)
35 『式内社調查報告」第二十四卷「西海道」(昭和五三年皇学館大学出版部刊)
68 安本美典「研究史邪馬台国東遷說(三)」の中引用九八子(『季刊邪馬台国』四号、一九八〇年梓書院刊)
(7) 安本美典氏仕「倭王讃=应神天皇說の発展」の中飞、干支二一二〇年の延長分南石匕明ㄅㄤLLTW(「季刊邪馬台国』七号所収、一九八一年梓書院刊)
川副武胤「記紀語古代史」(昭和六一年一月「別冊歷史読本」所収、新人物往来社刊)
(389 昭和三五年名東郡自治協会発行『名東郡史」 L上弓「校本古事記」倉野憲司編・古事記学会藏版(昭和四十年続群書類従完成会刊)
(41) [角川日本地名大辞典36徳島県』三二五心汐(平成三年角川書店刊)
4 注4に同じ、五四一ページ
(3) 佐伯有清 『新撰姓氏録の研究」本文篇四心丨沙、昭和三七年吉川弘文館刊
今尾文昭「山陵絵図!仁見天皇陵古墳」(昭和六二年六月『歴史読本」所収、新人物往来社刊)
倉野憲司校注『古事記」八二〇〇、一九六三年刊岩波文庫
(46) 安本美典「高天原の謎』一五七.八心丨沙、昭和四九年講談社刊
(7) 「西長峰遺跡現地說明会資料」(平成二年十二月十五日徳島県教育委員会文化課発行)、平成三年十二月十一日付徳島新聞朝刊
記事より
(49) 安本美典「高千穂論争(①)」(『季刊邪馬台国』二三号所収、一九八五年梓書院刊)
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