徐福は日本に何をもたらしたか?
「徐福の三つの顔」
これまで『宮下文書』を読んできましたが、そこに書かれた『徐福学』とは一体何だったのでしょうか?
それは武内宿禰をも熱狂的な信者にしたというのですが、その内容を解説してくれている書物がなかなか見つかりません。
徐福は、多分「ペリーの黒船来航」に匹敵するほどの大変革を、我が国にもたらしているのですが、それは一体どういうことだったのでしょうか?
そこで、私がこの本から得られた啓示をもとに、徐福が伝えた思想とその影響力について再現してみました。
それは、ひとことでいえば徐福の持つ「三つの顔」ということになります。
これはあくまでも素人の書いたフィクションということでお読みください。
第一の顔、【神仙思想】の伝授者としての徐福
徐福があこがれ続けていたもの、それは仙人になることでした。
神秘的な大自然からパワーをもらい、霊験あらたかな妙薬を飲んで、修行を重ねることにより、人間としての限界を克服してゆくこと、つまり「超人へと進化すること」、即ち「成仏すること」、最近の言い方では「アセンションすること」なのでした。
中国人のあこがれていた「神仙思想」こそ、徐福に日本渡航を決意させた原動力であったことは確かです。
徐福が命がけで探していたものとは、蓬莱・方丈・瀛洲という「三神仙」(霊験あらたかな三つの神の山)であり、そこに自生する植物から採れる「不老不死の妙薬」なのでした。
その証拠として、徐福は大切に持参してきた「薬師如来」をご本尊として崇拝していました。
即ち、人間の健康と寿命を司る仏様・薬師如来の教えを忠実に実践する「医師または薬剤師」を、その天職としていたのです。
ちなみに、徐福が7年間インドに留学して仏教を学んでいたことはあまり知られていません。
ただし当時の医学は、神通力や占い、さらに呪詛などを行うシャーマン的な要素を含んでいたため、彼には「魔術師」としての一面もありました。
だからこそ、秦の始皇帝は、徐福を重く取り立てていたのです。
『後漢書倭伝』では、徐福のことを「方士」と称しています。
【参考】http://tacchan.hatenablog.com/entry/2017/05/27/035301
つまり方士とは、権力者に仕えてスピリチュアル的な分野を補佐する黒幕的な存在であったということです。
日本に初めてやってきた「中国の仙人」を、当時の弥生人たちは歓迎をもって迎えたに違いありません。
だからこそ、日本各地に「徐福渡来の地」の伝承が残されているのです。
『ウエツフミ』にも、"富士山の麓にいた豪族の娘と、天皇の弟が結婚して、東の富士と西の富士(鶴見岳)から国民の健康を見守った"という記述がありますが、もしかしたらこれが徐福の一族のことかもしれません。
ここで、徐福は「日本の神秘主義」、特にその根本思想である「神道」を徹底的に研究しました。
そして、徐福の目から見た日本の古代史解説書である『十二史談』を執筆します。
この書物をひとことで要約すると、日本に古代から伝わってきた神々の歴史と、徐福らの信じる神々の歴史との融合であったとみることができます。
ここから、「神道」+「仏教」+「神仙思想」の3つが融合した新しい思想体系が開花してゆくのです。
それは、日本においては神仏習合の「修験道」となり、「密教」となり、日本流の仙人である「修験者」や「陰陽師」へとつながってゆきます。
それでは、徐福の信じる神々とは、一体誰だったのでしょうか?
第二の顔、【善悪二神信仰】の伝授者としての徐福
ちまたには、徐福は「ユダヤの失われた10支族である」とか「秦氏」であるとか「ウバイド」であるとか、様々な解釈が乱れ飛んでいます。
しかし私の研究では、徐福の祖先たちは長きにわたり中国の歴代皇帝に仕えてきた、「中国人の名門一家」であるという結論になります。
この解釈がいちばんすっきりするようです。
徐福が、孔子の一番弟子であった「子路」の六世の孫であるという事実もあまり知られていません。
そのルーツが何人であろうと、もはや関係無いのではないでしょうか?
徐福はすでに国境を越え、言語の壁を越え、人種を越えた「国際人」へと進化しているのです。
問題は、徐福が何の神を信仰していたのか?ということなのですが、それはどこにも書かれていません。
ただし、彼の信仰には一定の傾向がありました。
それは、ひとつには「火山と聖なる火」を信仰していること、もうひとつは「善悪二神の存在」を前提としていることです。
徐福が、富士山を最も神聖な山「神仙」として信仰していたことは有名ですが、そこには「悪魔が棲む」という記述が『宮下文書』にはたびたび登場します。
いわく、「富士の悪魔が吐く悪煙により」「聖なる火が焼き尽くす」云々。
一体これを「何教」と解するべきなのでしょうか?
私は徐福の教えを伝える「阿祖山大神宮」の門をたたいた訳ではありませんが、おそらくそこには「秘儀」として、善悪二神信仰が伝わっていたと考えざるを得ません。
世界で最も古い宗教である「ゾロアスター教」は、世の中の全ての事象を「善神であるアフラマズダと悪神であるアーリマンとの戦いである」と教えています。
ここから、「景教」やその一派である「ネトリウス派キリスト教」が発生し、真言宗にも影響を与え、最近の日本でも「ミロク信仰」や「光の勢力と闇の勢力との戦い」として生き続けています。
アセンション系の人たちも「悪い宇宙人・レプティリアンと銀河連邦の戦い」であるとして、「ライトワーカー」を自称する人たちも実在しています。
いわゆる『陰謀論』も、闇の勢力が存在することを前提として語られています。
徐福が伝えた宗教が「何教」に属するのか?そこには全く証拠はありませんが、「善悪二神の戦い」を前提とする宗派であったことは間違いありません。
ただし、ここから日本の神道にもやっかいな影響が出始めます。
日本においては、悪神を代表するのはスサノオの命です。
徐福自身が伝えているように、スサノオはもともとイザナギ・イザナミの子どもではありませんでした。
原始神道においては、「天照大神(太陽の神)」、「月讀(月神こと山の神)」、「蛭子(エビスこと別名オオワタツミ、すなわち海の神)」の三姉弟を信仰する「三宮信仰」だったのです。
ところが、『古事記』『日本書紀』の時代になると、天照大神とスサノオの二神信仰へと変化してきています。
つまり、徐福が伝えた「善悪二神信仰」が日本の神道にも影響を及ぼしているとしか思えないのです。
もうひとつ、徐福らの「善悪二神信仰」を裏付ける証拠としては、大元神として「天之峰火」を置いていることです。
つまり「天之御中主」以前に「アメノホヒ」の治世が存在したというのです。
ご存知のように記紀およびウエツフミでは、アメノホヒは天照大神の御子でありオシホミミ(ニニギの父)の弟でしたが、天孫降臨を嫌って数年間で高天原に帰ってしまいます。
ところが、このアメノホヒを祖先として崇拝しているのが、出雲国造であり、その子孫の菅原道真や毛利氏、そして最近では出雲大社の宮司を務める千家家なのです。
つまり、アメノホヒ信仰とスサノオ信仰は表裏一体をなしているということです。
ちなみに「峰火」という名前が、「神仙の峰に宿る聖なる火」を象徴しているとしか思えないのですが?
以上のとおり、日本においてはもともと善神三姉弟の「三宮信仰」であったものが、徐福一族の影響により「善悪二神信仰」に変えられているということです。
でも、これだけではありません。
徐福最大の影響力は、もうひとつの側面に顕れてきます。
第三の顔、【皇帝学】の伝授者としての徐福
徐福が子路の子孫であったことは、前述したとおりです。
では孔子が始めた「儒教」とは、一体何を教えていたのでしょうか?
福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と『学問のすすめ』で書いていますが、これこそが原始日本人の基本的な考え方でした。
古代の農耕社会では「平等と対等」こそが、人間関係のベースとなっていました。
だから、天皇も「人民を代表して神々と対話する立場」にあった訳です。
聖徳太子も「和を以て尊しとなせ」と教えています。
ところが、この「平等・対等思想」は、福沢諭吉自身により完全に否定されています。
「世の中の実態はそうなっていないではないか? 貧富の差が生じるのは、学問をしないからだ!」と言っています。「だから学問をせよ!」と・・・・。
つまり「競争社会」と「勝ち組/負け組」の存在を前提としているのです。
儒教を重んじているとされる韓国人は、現在でも「超序列社会」です。
つまり、「人間が横一列に平等に並ぶということはあり得ない。どんな世の中でも争いごとがつきものだから、最初から序列をハッキリと決めて、もめないようにしておこう!」というのが、韓国人たちの考え方の根本にあるようです。
「天は天たり、民は民たり」「君は君たり、臣は臣たり」「親は親たり、子は子たり」
これが儒教の最大の教義です。
つまり、この教義を具体化してゆくと「ピラミッド型の序列社会」が誕生します。
そして、その頂点に君臨するのが、皇帝なのです。
だから、孔子が説いていた儒教とは、ある意味「絶対的な権力者が、人民を統治するための教え、つまり皇帝学」とも言えます。
そもそも弥生時代には、厳格な意味での封建領主は存在していませんでした。
つまり、農民の育てた農作物を搾取する権力者は存在しなかったのです。
なぜなら、天皇家こそが日本最大の「農家」だったからです。
ところが、日本で最初にこの「皇帝学」を実践したのは、第10代・崇神天皇です。
その権力者としての統治機構(そこには当然、武力による脅威もありました)の内容は、『日本書紀』にも詳細に記されています。
詳しくは、こちら。
崇神天皇と徐福との関係は明らかにされていませんが、徐福という中国人が富士山の北側に住み着いたことにより、その後、大陸から多くの外国人が徐福を訪ねて渡来したことは想像に難くありません。
そのなかに、崇神天皇という政治家と景行天皇という職業軍人が居たとしてもおかしくありません。
つまり、農民だけの対等・平等で平和な社会を、領主による封建体制に変えていったのは、徐福らが呼び寄せた中国人の影響によるものであると断定してもよいと思います。
ところが、この中央集権国家の始まりは悪いことばかりではなかったのです。
『ウエツフミ』によると、弥生時代には各地域ごとに【建(たける)】と呼ばれる国司が存在していましたが、その横の団結力はそれほど強くなく、あたかも小国家による共和制の体裁を採っていました。
例えば、新潟(越の国)にロシア軍が攻めて来た時も、当時の天皇は「まず自分たちで防いで、ダメだったら高千穂から援軍を送る」ことを約束しています。
つまり、自衛のための軍事力を中央国家が保持するというような一元管理体制が出来ていなかったということです。
だから、日本最初の皇帝である崇神天皇と、その権力をサポートする軍事力の長としての景行天皇が登場したことにより、本当の意味の「統一国家」が誕生したともいえるのです。
ところが残念なことに、ここから約一千数百年の長きにわたって、日本では「封建主義」が続いているとみることも出来ます。
そもそも、戦国時代の武将たちは、軍事力を武器に領土の吸収合併を繰り返し、それを引き継いだ江戸幕府も「藩主」というお殿様の存在とその経済基盤である「年貢」を認めていました。
明治維新になってから、この藩主は解体させられたハズでしたが、それに代わる「財閥」というものが登場し、戦後はそこから資本家と呼ばれる人たちが社会の「勝ち組」をおう歌し始めました。
つまり、依然として徐福の伝えた「ピラミッド型の社会構造」が、そのカタチを変えながらも続いている訳であり、搾取される側はサラリーマンや非正規労働者という名前の新たな奴隷階級として、株主となった金融資本家たちにせっせと貢いでいるという状態から脱却できていません。
私は、資本主義を否定する訳ではりませんが、資本主義は下記の構造欠陥を内在しており、完璧なシステムではないということを認識しておく必要があります。
(1)マーケットは有限であり、経済成長、あるいは企業の成長はいつしか頭打ちとなる。
(2)貨幣価値の増大を追及してゆくと、一瞬にしてその価値が消滅してしまうことがある。
(3)完全な自由競争を容認すると、最強の1社しか生き残れない。
とはいえ、「皇帝」という一個人による専制国家が消滅したのは、唯一の進歩と呼べるかもしれません。
北朝鮮の現状を見れば、日本が歩んできた進歩の大きさが実感できるはずです。
くれぐれも国際社会が、戦国時代のような武力行使による陣取り合戦に逆戻りしないことを祈ります。
現代の戦争とは、上記の資本主義の構造欠陥を強制的に解決するための「悪神の名を借りた」間違った解決方法だからです。
さてさて、壮大な話になってきましたが、「金融資本主義」が崩壊の兆しを見せ始めた現代、次の社会をけん引するイデオロギーは一体どこにあるのでしょうか?
そのヒントが、徐福が渡来する以前の弥生時代、あるいはさらにその前の縄文時代にあることは多くの人たちが気づき始めています。
つまり、「良い神」しか居なかった時代です。
残念ながら、学問としてのこの時代の研究はまだだ遅れていると言わざるを得ません。
天才の登場を次世代に期待したいのは、私だけでしょうか?
徐福のもたらした「善悪」と「勝ち負け」の二元論が、共存共栄の「良心と叡智による多元論」へと進化している、そんな時代がもうそこまで来ているような気がします。
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