2024年1月28日日曜日

別宮・伊雑宮:斎王 08 – 偲フ花

別宮・伊雑宮:斎王 08 – 偲フ花

別宮・伊雑宮:斎王 08

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彼女は朝日信仰を大切にした。
朝日を拝むには、東向きの海岸が良いと考え、伊勢国に移住を決意する。
彼女は信仰を広めるため、伊勢の各地を転々と移動した。

志摩国に伊雑宮あり。
当宮の社家は「井澤富彦」といった。
彼は出雲系の登美家出身だという。
鳥羽に志摩国一宮「伊射波神社」(いざわじんじゃ)があり、井澤富彦が「伊佐波登美命」の名で祀られている。
延喜式神名帳には「粟嶋坐伊射波神社二座」と記されている。
「粟嶋」とは出雲国において事代主が枯死された聖地の名であった。
松坂市にも伊佐和神社がある。

旅を続けた大和姫は伊勢からさらに志摩国に行き、伊雑宮で井澤富彦の支持を受けた。
ある時、富彦は大和姫を伊勢国の五十鈴川のほとりへと案内した。
そこはとても清らかな土地であったので、姫は当地に内宮を建て、そこに太陽の女神を祀った。

彼女は最初の斎王となった。

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伊勢神宮の「遥宮」(とおのみや)、志摩の別宮「伊雑宮」(いざわのみや)を訪ねました。
そこは海に近く、田園風景広がる中にあります。

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伊雑宮は一般には、大和姫が御神饌を奉納する「御贄地」(みにえどころ)として建立し、古来から、伊勢神宮の修繕費や神事の費用などは、この伊雑宮の周辺の田の収穫で得た利益で賄われてきたと云います。
そこにある田は「御料田」(ごりょうでん)と呼ばれ、千葉の香取神宮、大阪の住吉大社と合わせて日本三大御田植祭「御田植式」(おたうえしき)が執り行われています。

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伊雑宮は瀧原宮と同じく、内宮より遥か遠く離れていて、「遥宮」と呼ばれる所以となっています。
その伊雑宮は鬱蒼とした杜の中にありながら、爽やかな明るさに満ちているように感じました。

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伊雑宮は古字で「伊雜宮」と書かれることも多く、一般には「いざわのみや」と呼ばれるものの、「いぞうのみや」や「いぞうぐう」という呼び方をする時もあります。
伊勢の地元では、「磯部のお宮さん」と愛嬌を込めて呼ばれていますが、古来より「海女」や「漁師」がこの伊雑宮のお守りである「磯守」を身につけ漁へ赴き、神の加護を授かっていたことに由来しているそうです。

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伊勢神宮は別名で「五十鈴宮」(いすずのみや)と呼ばれますが、古くは「磯宮」(いそのみや)とも呼ばれていたと云います。
宮川下流に「磯神社」が鎮座しますが、「磯宮」と「磯部のお宮さん」「伊雑」の間に関連があると唱える人も少なくありません。

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わりと有名な話に、伊雑宮の裏神紋「籠目紋」(かごめもん)の由来の話があります。
籠目紋とは竹編みの籠に似た紋のことで、いわゆる「六芒星」(ダビテの紋章)のことです。
この六芒星が伊勢神宮の一部の石灯籠などにも見られ、イスラエルとの関連を示唆する声も聞かれます。
また丹後の元伊勢「籠神社」の奥宮「真名井神社」の石碑にもかつて六芒星が刻まれていたというのも有名な話で、この2社が同じレイライン上にあるというので、一部のオカルトマニアが様々な説を唱えているところです。
気になる方は、検索してみるといくらでもその手の話を見ることができます。

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日本の神社に稀に刻まれる六芒星について、出雲王家の末裔である富家には、次のように伝わっています。
往古に2度渡来した秦国の「徐福」は故郷の住民数千人を率いて日本に移住させました。
その故郷の民とは秦の始皇帝に最後に滅ぼされた「斉」の国の民でした。
その斉の祖先というのが「イスラエルの失われた十支族」なのだそうで、彼らは時に「秦氏」と名乗り、イスラエルの六芒星を記したと云います。
徐福の最初の渡来で移住した人たちは丹後で「海家」を名乗り、やがて「尾張家」「海部家」と広がっていきます。
そして2度目の渡来で移住した人たちは筑紫で「物部家」を名乗りました。

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伊雑宮の社家で当主の「井澤富彦」は大和の登美家の人間でしたが、登美家は出雲王家の血筋を濃く受け継ぎながらも、磯城・大和王朝の海家の血も引き継いでいました。
それで富彦らが、伊雑宮の裏社紋に六芒星を用いたのかもしれません。

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伊雑宮は別宮の中でも格式が高いそうで、本来の伊勢「本伊勢」と呼ぶ人もいるようです。
伊雑宮の主祭神は、「天照坐皇大御神御魂」(アマテラシマススメオオミカミノミタマ)いわゆる内宮で祀られる「天照御大神」の分霊とされます。

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正殿は内宮・外宮と同じ「唯一神明造り」で南向きに建てられています。
僕には一般的な神明造りとの違いがイマイチわからないのですが、この唯一神明造り、日本で最も尊い宮とされる伊勢の内宮外宮と他の神社と一線を画す意味合いで、敢えて「唯一」が付されているということです。
つまり他の神社が内宮・外宮の御正殿と同じ造りにできない、まさに"唯一"の造りであるという設定になっているのです。
ところが、ここ伊雑宮だけは例外で、その唯一神明造りが残され続けています。

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そのようなことも含め、伊勢神宮の本宮は「内宮」ではなく、実はこの「伊雑宮」なのだと囁かれているのです。

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境内を散策すると、一つの建物が目につきます。
ここは御神饌を調理するための「忌火屋殿」(いみびやでん)です。

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「忌火」とは「清浄な火」と言う意味です。
忌火屋殿は内宮・外宮ともにありますが、別宮で存在するのは伊雑宮のみです。(瀧原宮にもありました)

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玉垣で囲われた、古井戸もありました。
この井戸の水は、大和姫も飲んでいたとの由来もあると云われています。

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延宝7年(1679)年江戸時代に伊雑宮でとある事件が起きます。
当時、当社の神職であった「永野菜女」(ながのうめね)という男性と黄檗宗の高僧「潮音道海」(ちょうおんどうかい)らが、伊雑宮の書庫から「先代旧事本紀大成経」という書物を発見しました。
その書物には、「伊雑宮こそが、真に天照大御神が鎮座する社であり、内宮は星神(瓊瓊杵尊)、外宮は月神(月読尊)が鎮座する社である」旨の内容が記されていたと云います。

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それを江戸の書店の店主「戸嶋惣兵衛」(とじまそうべい)が編集し出版したところ、その内容に江戸中が騒然となりました。
この話を聞きつけた当時の伊勢神宮の神官は、すぐに幕府へ申し入れ、幕府はこの書物を「真っ赤な偽物である」と公言し、先代旧事本紀大成経の内容を記した書は偽書・禁書とされました。

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騒動はそれだけに終わらず、戸嶋惣兵衛は追放、永野菜女、潮音道海他、これに関わった伊雑宮の神官らも全員流罪となりました。
実は「伊勢三宮説」を唱える声は江戸時代以前からあったと云い、朝廷・幕府側との因縁は深いものがあるようです。
1625年には伊雑宮の神人・役人が幕府に直訴して、数10人が流罪になり、1663年には将軍家綱に直訴、40人が国外追放になっています。
そして1679年に『大成経』が出版され、当の事態に至ります。
また1682年に伊勢三宮説の中心人物だった「中村兵太夫」が毒殺されたと云うことです。

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伊雑宮の境内に、「勾玉池」があり、往古よりその姿のままあると伝えられています。
勾玉は出雲王国時代から王族が身につける、大切な宝玉でした。

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そして境内で一際目につく御神木が「巾着(きんちゃく)楠」です。

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推定樹齢700年といわれる巨楠の、そのなんとふくよかな根元からは、たおやかなエネルギーを感じることができます。
伊雑宮には他に伊勢の海女が海から持ち帰った「玉手箱」が祀られているという話や、「御田植祭」の日に、7匹のサメ(鰐)が海から川を遡り、7匹のうち、1匹は死に絶え、残る6匹は蛙や蟹になって、陸を歩いて伊雑宮へ参拝したとの伝承が伝えられています。

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大正12年、伊雑宮から200m北の千田寺跡から、石棺が発掘されました。
そこは「倭姫命の旧跡地」であると伝えられています。

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そこにある祠には、イザナギ・イザナミ両神に加え、大和姫を世話した「井澤富彦」が祀られています。

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当地で発掘された石棺には勾玉・矛・2面の鏡と、いわゆる「三種の神器」が入っていたそうです。
当時「これは大和姫の遺跡か」と騒ぎになったそうですが、すぐさま官憲がやって来て持ち去り、矛と勾玉は行方知れずになったと云います。

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白銅鏡は、志摩市歴史民族資料館に保管されましたが、「室町時代」のものとされ、それら神器を納めたのが石棺状だったことを知る村人ももはやいないのだそうです。

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ここにあった楠の根元から鏡が出土したので「鏡楠」と呼ばれているようです。
ということは、天井石は石棺の上蓋だったのでしょうか。

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敷地の一角に縄張りをされた場所があります。

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ここは「千田の御池」と呼ばれ、大和姫が稲穂をくわえた真鶴を見て、苗代をつくった場所であると伝えられています。

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旧蹟地の先の民家の隙間に「風呂屋の谷」と呼ばれる、小さな池があります。

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ここは往古より禊を行っていた場所のようで、大和姫もここで禊いだのかもしれません。

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数分ほど住宅街のある丘を上っていくと「谷社」跡と呼ばれる場所がありました。

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そしてさらにその先に「上之郷の石神」という場所が。

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そこには神籬らしき神木を囲むように置かれた、ストーンサークルがありました。

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先述の「先代旧事本紀大成経」は、かの聖徳太子が編集させた書物であり、聖徳太子の没後、表世界へ出ることなく封印され続けてきたという触れ込みもついています。
しかし僕はやはり、当書は偽書であろうと判断します。
なぜなら神武天皇ら歴代の天皇の姿が「龍型人間・爬虫類人」で奇怪だった旨など記されていて、オカルトチックに寄った内容となっているからです。

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しかし書は偽書であっても、伊勢三宮説まで当時の伊雑宮社家が抱いた妄想だったとは思いません。
度会氏が外宮に豊姫を祀るまでは、そこは月読みの神が祀られていたと云います。
そして大和姫は太陽の女神を東の海岸に祀るため、伊勢に至り、伊澤富彦の元までやってきました。
その富彦か、何某かに五十鈴宮の聖地を紹介され、大和姫は太陽の女神を当地に祀ったと云いますが、現在の内宮は伊雑宮よりも随分内陸に入った場所にあり、果たして伊雑宮よりも太陽を迎えるにふさわしい場所なのか、疑問が湧きます。
大和姫はヒバス姫の娘でありますが、物部王イクメの娘でもあります。
物部は道教の方士「徐福」の末裔であり、道教は星神を祭祀します。
信仰心厚く、三輪山に祀られた出雲の太陽の女神を、はるばる旅して、より相応しい場所まで移そうとした姫が、それと合わせて父の祖神の名で星神を伊勢の地に祀ったとしても、それほど不思議な事ではないと思います。

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もはや神代の真の歴史など、解明されることもないのかもしれませんが、丸く並んだ石神は固く口を閉ざし、ひっそり秘密を隠し続けているように思われました。

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