『人倫の形而上学』として新岩波書店全集第11巻で前半に収められていたが入手困難になった「法論の形而上学的原理」が新訳、しかも文庫で入手可能になったのは喜ばしい。早速買って注の誠実さに感嘆している。
自分はカント哲学のうちの何も理解していなかったのではないかと反省している。
第二部の「徳論の形而上学的原理」も新訳で近刊予定だという。『道徳哲学』のタイトルで岩波文庫にあったが何故か「法論」の方は文庫化されなかったからこれを機に2部同時新訳は時宜にかなっている。
内容的なことを言えば本書はヘーゲル『法の哲学』*と重なる。
一般の読者にとってもヘーゲルとカントの比較は多分とっつきやすいし本質的な論点を含むだろう。
簡単に言えばヘーゲルは「現実」の人倫、制度によって法と徳の矛盾がアウフヘーベンされると考えている。一方カントは常に矛盾の中にいる(幸福と義務)。
無論カントにも問題がある。それは人格主義への過度の傾斜だ(と自分は考える)。
カントの人格主義はゾンバルトが『ユダヤ人と経済生活』で評価したような「無記名証券」を評価出来ない。無記名証券評価はマクロの視点を通過しないといけないからだ。
カントはミクロ、というより私法に債権を位置付けている。
人格を目的とするカントは正しいが永遠平和への道筋としては媒介に乏しい。
例えばケインズの世界通貨案などがカント的に再評価されなければならない。
(フィヒテの「閉鎖商業国家」における反カント的名目貨幣論、信用貨幣論を想起すべきかも知れない。)
とは言えカントの道徳論には人格を内側から解体する視座もあるのでカント哲学の重要性、特にヘーゲルとの比較におけるそれは揺るがない。
*
ちなみにヘーゲルは契約重視のカントの結婚観に批判的である。結婚、世帯に関してカントはこう述べている(中公版ヘーゲル『法の哲学』脚注では上記のカントの考え方がヘーゲルと対比的に解説される)。
《性的共同体 (commercium sexuale) とは、ひとりの人間が他の人間の生殖器ならびに性的能力を相互に使用すること (usus membrorum et facultatum sexualium alterius) である。》(172頁)
ちなみに以下はカントの国家観、
《国家 (civitas)とは、法の諸法則のもとにおける人間たちの集合の統合である。 》(250頁)
近刊の徳論では友情が定義されている。どのような訳語が使われるか興味深い。
返信削除以下宮村新訳より
206頁
第四十六節
友情(その完全なありかたにおいて見られた)とは、ふたつの人格がひとしい相互的な
愛と尊敬によって結びつくことである。