まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(1)まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
の続きでございます(やれやれ、どこまで続くものやら)。
今回は文字ばっかりですので、読み飛ばして頂いても結構です(まじっすwww)。
さて、話はちょっとだけ戻りまして「大宜都比売命」を祀る神社についてなんですが。
「玄松子の祭神記」なども参考にしてみますれば、ざっと
一宮神社 徳島県徳島市一宮町西丁237
上一宮大粟神社 徳島県名西郡神山町神領字西上角330
尾針神社 岡山県岡山市北区京山2-2-2
小内八幡神社 長野県中野市安源寺字石原572
太平山神社 境内 稲荷神社 栃木県栃木市平井町659
頤氣神社 境内 農産神社 長野県長野市松代町西寺尾字柳島1006
墨坂神社 境内 養蚕社 長野県須坂市墨坂1-8
熊野出速雄神社 境内 侍従神社 長野県長野市松代町豊栄5454
などなどであります。
尾針神社と小内八幡神社は式内社ではありますが、尾針神社の場合「大宜都比売命」は配祀神となっており、小内八幡神社は御祭神は「應神天皇 大氣都姫神 神功皇后」で、八幡神社という事より主祭神は「應神天皇 」ではないかと考えられます。
変な言い方ですが、メインを張っているのは(笑)「一宮神社」と「上一宮大粟神社 」くらいではないのでしょうか。
ではありますが、ここで知っておいて欲しいのが島根県石見地方の伝説であります。
島根県益田市乙子町に鎮座します佐毘𧶠山神社に伝わる「狭姫(サヒメ)伝説」でありますが、この「狭姫」なんと「大宜都比売命」の娘だというではありませんか。
引用してみましょう。
穀物の種を伝えた狭姫(サヒメ)
むかし、朝鮮半島から日本へと大海原を一羽の赤い雁が飛んできた。その背中には、狭姫という小さな神様が乗っていた。 そしてその手には、母親の大宜都姫(オオゲツヒメ)から形見として手渡された稲・麦・豆・粟・ヒエの五穀の種がしっかりとにぎられていたんじゃ。
「わしが死んだら、わたしの体から穀物の種が生えるから、おまえはそれを持って当方の日本に行って暮らしなさい。」。
母親が乙子(末っ子)の狭姫に残した遺言じゃった。赤い雁に乗った狭姫は、はじめに見つけた小さな島に降りようとしたんじゃが、
「ここでは魚を捕って食うから種はいらん。」といって断られたんじゃ。
それで再び雁の背に乗った狭姫は、比礼振山にやって来て、その里の人たちに種を分けたちゅうことじゃ。
種を伝えたから「種」という名前が付けられ「赤雁」の地名も赤い雁が降りたことから付けられたということじゃ。
出典 「益田の民話」より
社伝として、もう少し詳しい引用はさらに興味深く
高天原にて乱暴を働いた須佐之男命(スサノオ)は、天照大神(アマテラス)の怒りに触れられ、髪を切り、髯を抜かれ、手足の爪も抜かれて高天原から追放される身となった。
その放浪の途中、新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に立ち寄られた須佐之男命は、そこで大宜都姫命(オオゲツヒメ)と出会い、食べ物を求められたが、大宜都姫命は道中の事とて恐れながら口中の飴ならばと差し出すと、須佐之男命は「無礼である」と大いに怒り、その場で大宜都姫命を斬り捨てた。
大宜都姫命は、息絶える前に娘の挟姫(サヒメ)を呼び、全身の力を振り絞って顔・胸・手・足など五体を撫で擦りながら、稲・麦・豆・粟・稗などの五穀の種を生み出された。そして、挟姫にその五穀の種を授けて「母亡き後は豊葦原(とよあしはら)に降り、五穀を広めて瑞穂の国とせよ」と言い残して息絶えた。
挟姫は、母の亡骸にすがって泣き悲しんだが、その時、どこからとも知れず飛んで来た1羽の赤い雁に促され、涙をぬぐって五穀の種を携え、雁の背中に乗って東方へ旅立ったのである。
やがて雲間より、鷹島(高島)という一つの島が見えた。挟姫はその島に降りて種を広めんとしたが、そこに棲む大山祇命(オオヤマヅミ)という荒くれた男達は「この島では魚や鳥、獣を獲って食うので種はいらぬ」と挟姫を追い返した。
挟姫が次の島である須津(すづ)の大島(鷲島)に辿りつくと、そこに棲む足長土(アシナヅチ)という荒くれた男達に「この島では魚を獲って食うから、種などいらぬ」と再び追い返された。
そこで挟姫は大浜の亀島(神路泊)で一休みし、次に豊葦原の本土に渡って赤雁(地名)にある天道山(てんどうざん)に降り、そこから一際高い比礼振山(ひれふりやま)に降り立った。
挟姫は比礼振山を中心として五穀の耕作を広めながら、日々の糧を恵み、民を助け、賊徒を追い、心安らかな国を開かれた。そして、種村(たねむら)、弥栄(やさか)、瑞穂(みずほ)、佐比売村(さひめむら)など東へ東へと進み、遂に佐比売山(小三瓶)まで辿りついた。
最初に耕作を始めた村が、大宜都姫命の乙子(末娘)ということに因んで「乙子町(おとこちょう)」となり、種を伝えたことから「種(たね)」となり、持参した五穀の種を赤雁の背から大空に千振(ちぶり)に振り蒔いたその様から「千振(現・種村町)」となり、「赤雁(あかがり)」の地名も赤い雁が降りたことから付けられたという。
以前にワタクシめが書かせていただきました
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)とは誰なのか」
を、ご覧頂いた方ならば「おお」と言って、布団かぶって寝てしまうでしょうが(笑)
まあ、そういう事なんです。
そして、こういう伝説もありまして
権現山(比礼振山(ひれふりやま))と大麻山の背くらべ
乙子の権現山には杉のきがいっぱい生えていたんじゃ。
浜田の大麻山は石ころの山じゃった。
ある日のこと、「おまえたあ、わしの方が背がたかいぞ。」権現山の神様は、自分の山に生えていた杉をぬいちゃあ放り、抜いちゃあ放りしたんじゃ。
大麻山の神様は、自分の山の石を、拾うては投げ、拾うては投げたんじゃ。
このふたりの神様のけんかは、どっちが勝ってどっちが負けたかは知らんがのう。
このけんかがもとで、権現山には石ころが多いというんじゃよ。
出典 「益田の民話」より
ご存知かと思いますが浜田の大麻山は、阿波忌部の本拠地。
写真は浜田市大麻山神社(おおあさやまじんじゃ)
御祭神 天日鷲命 猿田彦命 大麻彦命(太玉命)
ちなみに下の写真は石見の国三宮 大祭天石門彦神社
阿波忌部が第十五代応神天皇の朝石見の山守部となった時に勧請....云々と由緒に見え。
で、阿波にはこのような伝承があります。
最近振りちぎっておりますawa-otoko様のブログより引用いたします、一宮神社の伝承でございます。
(awa-otoko様引用させていただきたく、伏してお願い申しあげます。文句とか苦情とかございましたなら、ご連絡くださいませ。至急に早急に、ダッシュで御対応差し上げます)
一宮大明神 大宜都比売命
大阿波姫命、伊古那姫命
当社は大宜都比売命を奉祭社に而御座候。
此神粟を作り初め給う故、大粟姫命と申奉る。御神系は伊奘諾尊、伊将冊尊二柱の御神の御子にて、伊予国大三島に御鎮座始めは伊予国丹生之内より、神領村に御鎮座あり、其後鬼籠野村に御鎮座ありといへども年月不分明其後人皇十三代成務天皇御宇日本武尊の御子息長田別皇子阿波国造となり給ひ府中村に在し給ひし時、大宜都姫神を崇敬し給ひ一宮村に鎮座なさしめ給ふよしに候。(略)
其御四十五代聖武天皇勅願として、天平年中諸国に一宮国分寺に建立ましまし候節、大宜都比売命を阿波国一宮大明神と被成由。依而地名も一宮村と申候。
其後 五十二代嵯峨天皇御宇 弘仁年中 弘法大師四国順拝の時一宮大明神を十三番札所に入即詠歌に「阿波の国 一宮とはゆうたすきかけて たのめよこの世 後の世」
其後 元暦の比 源義経平家追討のため讃州八島へ御発向の砌り一宮村滝下と申所御通り被成候時一宮大明神遥拝あり、中指の鏑矢二筋宮御願書等其辺の松に御かけ被成候。由申伝候。
只今其所を伏拝八幡と勧請仕一宮末社にて御座候。
八島の軍勝利を得給ひ凱陣の節 永楽銭三千貫御寄附ありし由申伝え候。其後天正の乱の時 長曽我部のため社を焼失され神耺長門守も歿落の砌 御願書も灰燼と相成候由申伝候。
一社伝云。大阿波姫命 鹿に乗せられ伊予国大三島へ通はせ給ふ御使の鹿も伊予国に毎々通ひけるに女鹿は麻植郡にて殺されけるとぞ。殺人も神罰にて家断絶しけるとなん。故に一宮末社の中に鹿ノ社とてあり。
大阿波姫命伊予へ通はせ給ふ折から高越の神と闘争し給ふ事ましまし互に石を投げ合給ふ中に立て御扱の神あり。
その石歯に中りて甚疼み給ふ故此後歯を疼むものは吾快くして得さすべしと宣ふ御誓ひにて、今に広野村行者野に歯辻明神とて小社あり。
右投げ合いし石 入田村大畠と申所の山上に数万の河原石あり。この争の後は大三島への御通ひ路を深く忍び給ひ候由申伝候。
前に記す女鹿は殺された男鹿まで残り折々は神使に参りしを北方辺にて見たるものも有之由承候然れ共是等の事は神変にて是ぞと申慥なる証拠御座なく候。
右高越神と一宮神と御争の証しと申は今に一宮氏子の者は高越参詣不仕勿論縁組等も不仕候。
大阿波姫命はもちろん「大宜都比売命」、それが「高越の神」つまり忌部の神と石の投げあいをしたと。
浜田では大宜都比売命の娘が住む比礼振山と忌部の住む大麻山が石の投げあいをしております。
妙な一致です。
ここで大事な事を一つだけ
「大宜都比売命」と「忌部」は仲が悪い。
それと、そこに棲む大山祇命(オオヤマヅミ)という荒くれた男達、伊予国大三島に御鎮座始めは伊予国丹生之内より、神領村に御鎮座ありってとこwww。
と、まあホントに文字ばっかです。
ちょっと横道に逸れてしまいましたので、軌道修正して次回へ続く。
にゃあwwwwwwwwwww
0 件のコメント:
コメントを投稿