仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
書かない言い訳は無限にできるんで(笑)とにかく書ける時に頑張って書いちゃいます。以前に 仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)とは誰なのか」で
素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)、其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)を帥(い)て、新羅國(しらぎのくに)に降り到り、曾尸茂梨(そしもり)の處に居(いま)す。
について五十猛神が祀られている神社を元にして新羅ルートマップを作ってみましたがよく見てみれば「帰り」のルートが出雲までしかないではありませんか。
また新羅の位置もなんか変ですし (笑)
これでは帰りつかないんじゃないかと考えて(笑)その先のマップを書こうとした時にこのような本が手元に出現したではありませんか。
著者の長野博士、工学博士なんで歴史にはちょっと疎いのか(失礼)神武東征が紀元前660年頃とか仰っていたりいたしますが、納得できる点も多数ございました。
例えば
「瀬戸内海を航行できるようになったのは、五世紀「雄略天皇」の時期だ」
というのには納得。
「風待」港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備しないと航行できなかったのは当然でしょう、そして「それ」が整備されたのは、雄略天皇の在位がいつ頃からかの議論は別にして五世紀頃であったとの推測は的を射ているように思われます。
つまり一般的に言われる神武東征ルートは、一般的に言われる神武期には航行できなかったルートなのです。
また、長野博士の説によれば日本海側に鉄と翡翠の航路があったとのこと。(下図)
まあ、これについては例えば下図、阿波国矢野古墳から出土した「碧玉」「管玉」の原産地を分析した資料からの転載ですが、「管玉」は出雲産であることが判明しておりますし、比較に使用された佐渡の猿八遺跡の「管玉」「碧玉」は出雲まで運搬されたことも判明いしております。
つまり3世紀(矢野古墳造作時期)より日本海側に「鉄」「翡翠」「碧玉」等の運搬ルートは厳然と存在していたのです。先に書いた瀬戸内海航路が存在していなかったこと、日本海ルートが存在していたこと、素戔嗚尊が新羅から帰るとき出雲に到着したこと、などから推測して「新羅」あるいは「加羅」からの帰途は日本海ルートを使ったことは確度高いと思いませんか?
では、日本海側から「阿波」(納得できない人は「奈良」でも「難波」でもいいけど)へどのように帰ってきたのか?
その一説として「敦賀」→「大阪湾」ルートを挙げておきましょう。
「敦賀」から「琵琶湖」へ渡り「琵琶湖」経由で「淀川」「大阪湾」へ出るというものです。
そう聞くと、当然「敦賀」→「琵琶湖」はどうするんじゃい。
との疑問が、うじゃうじゃと湧き出てくるでしょうが、長野博士はこう仰います。
「船を曵いて渡った」のだそうです。
丹後の国にはこの「船曳道」が縦横に走っていたと。
全部を引用することはできませんが、例えば「丹後半島」には下図のような横断ルートが存在していたと。
河川を遡行するときは船を曳き、それでも動けない場合は「人手で船を運ぶ」のだそうで、その場所が「船越」の地名として残っているのだと。
確かに京都の保津川でも「曳舟」があります。 1949(昭和24)頃までの保津川では木造船が川を下り、帰路はその船を下した船頭の力で乗船場迄曳き上げられていた。
乗船場から嵐山までは約2時間なのに対し、曳き上げには約4時間を要する。川を下って来る筏や船との衝突を避け、岩場にへばりついて船を曳き上げる。
いつから作られたかは定かではないが、そんな船を曳綱(小指位の細い麻のロープ)で曳いて走り歩く為の道が川岸に設けられた。これを綱道という。今も残る綱道を辿ってみれば、川岸の土の上に石を積んで崩れないようにしっかりと作られたものもあれば、藪の中の獣道のようにやや痕跡が残るだけの道もあった。急な斜面の岩場には片足をかけるのがやっとという、岩を削ったわずかな窪みだけが残る所もある。曳舟の水路(ミト)も川下りの時のミト、曳き上げる為の上がりミトも分けていたそうだ。
また岩には船頭のさす竿の跡やもどり舟を人力で引きあげた綱の跡が、ところどころについており舟下りの歴史を物語っている。
(保津川下りのサイトより)
案の定、丹後半島に五十猛神が祀られている「売布神社」があったりして(笑)
そこで、もう一回マップを作り直してみました。 阿波説を疑う方は、「琵琶湖」から「奈良」へでも「難波」へでも線を引いてもらって結構なんですよ。
単に素戔嗚尊と五十猛神が新羅より帰ってくるときに、日本海ルートで「敦賀」から「琵琶湖」を通って帰ってきたという説を紹介したいだけなんですから(笑)。
ところで唐突なんですが、晋の泰始二年(西暦266年)倭の女王、臺与(とよ)が中国王朝の西晋に朝貢いたしました。
その時の記録が636年成立の「梁書(りょうしょ)」にこうあります。
「復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命」
卑弥呼の宗女である臺与が王位に立てられた後、男王が立った、(臺与が朝貢した時)並んで中国王朝の爵位を受けた。
また801年成立の「通典(つうてん)」においても「立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢」との記録があり、「梁書(りょうしょ)」の記載が裏付けられる。
当然、臺与(とよ)も晋より帰還するときはこの日本海ルートを採ったと推測いたします。
では、この「並受中國爵命」の男王とは誰なのでしょうか?
ここで、もう一つの仮説が登場いたしますが、この話は後日ということで.....
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