全集11
日本の人物鉱脈
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日本ユダヤ教総本山・滋賀県 日本人ばなれした近江人
前に大阪のところで私は、大阪は日本の中国で、東京その他で活躍している大阪人は阪僑で
ると書いた。また、岡山県のところでは、岡山人は日本のユダヤ人と見られているともいっ
た。
だが、近江商人のことをいろいろと調べているうちに、近江人こそ、まさに日本の中国人で
あり、ユダヤ人であることを知った。 大阪商人といっても、その中核体をなしているのは、ほ
とんど近江人である。したがって、かれらは "阪僑" でなくて"江僑"なのだ。 近江人が大阪
のヒサシを借りて商売をしている形は、中国人が東南アジア諸国で国籍をえて、その商権をにぎっているのと同じである。同化性が強く、それでいて郷土意識や団結心を失わぬところは、
中国人そっくりである。
大阪ばかりではない。東京、京都、
京都、小倉、博多、盛岡、 その他の商業都市の中心に、デンと
店をかまえて、何代もつづいているというようなのは、ほとんど近江人である。ロンドンやニ
ューヨークの富豪、大企業家、金融界の元縮などが、たいていユダヤ人であるのと似ている。
国籍はちがっていても、 ユダヤの血をひいていることにかわりはなく、いわば“金権インター
ナショナル"を結成しているが、日本における近江人、少なくとも過去の近江人はこれに類す
るものであった。
しかし、大阪が日本の中国で、中国が東洋のユダヤだとすれば、近江人は中国人というより
も、本家のユダヤ人に近いということになる。あとでくわしく述べるように、典型的な近江人
には、どこか日本人ばなれしたところがある。事実、近江人には古くから外国人の血が相当入
っているようである。
昔朝鮮半島と直結していた敦賀と最短距離にあるだけに、ここへは古くから半島人、大陸人
がどしどし流れこんできた。 天智天皇の時代には、百済から七百人、高麗から三千人、仁徳天
皇の時代には高麗から四百人きて、主として湖東に定着したという記録が残っているが、 この
ほかにもまだまだ半島や大陸の亡命者や移民がやってきたにちがいない。神功皇后の父息長宿
禰(おきながすくね)も朝鮮人で、長浜の北に住んでいた。 野洲(やす)から八幡(やわた)を経て彦根に通ずる曲りくねった道は、
も〝朝鮮人街道"と呼ばれている。 彦根の宗安寺が朝鮮人の宿舎になっていて、そこまでつ
れていくのに、狭い日本を広く見せるため、わざとジグザグ・コースをつくったのだという。
まるでモーロー・タクシーのようなやりかただ。
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近江の中でも特に、これら朝鮮の帰化人の多く定着した地方が、 近江商人の発祥地となって いる。かれらはその商才を利用して、巧みに権門にとり入り、いろいろな特権をえて、 近江商 人として天下に名をなしたというのだが、今もこの地方には、民家の構造や風習に朝鮮的なも のが残っているという。鼻の先がたれ曲る
近江人とユダヤ人の関係にも、いろいろな伝説や風説がある。その昔、エルサルムがタイタ
スのために占領されてから、 ユダヤ民族は、七つにわかれて世界を流浪した。このうち、六つ
の方面へいったものは、歴史に残っているが、もう一つの一団はどこへいったかわからない。
これが日本に流れついて近江人になったというのである。また織田信長が安土城を築き、仏教
の勢力をそぐために天主教を援助したところ、貿易船にのってやってきた若干のユダヤ人がと
れにまぎれて江州へ入りこんだという説もある。 容貌の上からいっても、近江人の中には、ユダヤ人のように鼻の先がたれ曲っているも少なくない。また東京であるユダヤ商人が、 近江商人の家へ仕入れにいったとき、取引上の符号が一致していることを知って驚いたともいわれている。 近江商人の拝金主義があまりにも徹底しているので、こういう伝説や風説が創作されたのかもしれない。
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それにしても、日本中どこへいっても、地方気質というものはあるが、近江人のようにそれ
が原色的な強烈さをもって一色にぬりつぶされているところはない。
琵琶湖という名は、琵琶に似た形からきていることはいうまでもないが、こんど開通してま
もないドライブ・ウェイで比叡山にのぼり、見晴台からその全貌を見て、この湖の形は子宮に
似ていることに気がついた。すると、その周囲をふちどっているわずかな耕地は、処女膜のよ
うなもので、これに大小の川が流れこんでいるところは、この湖が処女でないことを物語って
いるともいえる。
それに、この処女膜の厚さは、どこも同じというわけではない。北岸、西岸はほんの申しわ
け程度にすぎないのに反し、南岸から東岸にかけては、幅がひろい。いわば処女膜肥大症とも
いうべきものだが、 近江商人はこの肥大地区から生れたもので、一口に近江人といっても、住
民の性格は、東西南北によってすっかりちがっているのだ。
一言で批評すると、湖東は敏捷、湖西は質朴、湖南は浮薄、湖北は猜疑ということになって
いる。この狭い土地で、北と南では、気候もまるでちがっていて、南はカラリと晴れているの
に、北は雪に埋もれて交通も途絶し、寒冷手当もつくというから、性格もちがってくるわけ
だ。
しかし、近江人にガイガー管をあてる以上、重点はどうしても近江商人におかねばならな
い。 近江人が日本の中国人だとかユダヤ人だとかいっても、それは近江人ぜんたいでなく、 近
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江商人を意味することはいうまでもない。
近江商人がユダヤ人だとすれば、滋賀県はイスラエルであり、比叡山はエルサレム、琵琶湖
はガリラヤの湖水ということになる。現に近江商人の聖地八幡市で、メンソレータムの工場を
経営しながら、キリスト教の伝道に生涯をささげてきたメレル・ヴォーリズの近江兄弟社の持
ち船は"ガリラヤ丸"と名づけられている。
つどいしは
われらの湖畔に
ナザレのイエス
キリストの
み旨かしこみ 神の国
うちたてめとて来りたり
これは「近江兄弟社」の社歌であるが、この中の"神の国"を"金の国"と訂正すれば、そ
のまま近江商人の歌となる。「八幡はナザレに比すべきもの」と折紙をつけているのはほかな
らぬ賀川豊彦氏である。
イスラエルのある中東地方は、東西交通の要衝で、しばしば戦場となり、今も煙硝の匂いが
たちこめているところであるが、近江もいたるところ、戦跡と城趾だらけである。京都に攻め
入るためには、どうしてもまずここを手に入れねばならなかったのだ。そのために徳川家康
は、天海和尚の説をいれて、この狭い土地を百四十余に細分して統治したのである。
この土地の戦略的、政治的重要性を経済的、商業的重要性に切りかえて成功したのが近江商
人である。その発生の歴史は、鎌倉時代にさかのぼることができる。というのは、この時代に
日本の商業、工業が発芽したからである。
その前の王朝時代までは、朝廷、貴族、社寺その他の権力者は、お抱えの技術者をあつめ、
屋敷内に仕事場をもうけて、必要な品々を生産させていた。むろん主食は、領地からとりよせ
ていたのである。 琵琶湖の魚なども供御人"といって、無償で朝廷や領主に提供する義務を
負わされていたのが、後にその一部を商品として流すものが出て、漁師は商人を兼ねるように
なったのだ。
近江商人の起源
問屋という制度も、このころからはじまった。もともと問屋というのは、滋賀大学経済学部
長江頭恒治氏の著書によると、荘園の年貢を領主に運ぶ役人であったのが、武士が勃興して、
これを現地であつかうようになった。一方、京都の領主たちの方でも、年貢がとどこおりがち
になって、使用人の俸給不払におちいり、かれらを手放さざるをえ なった。かくして工
商業がおこったのであるが、京都に近い近江人にとっては、まさに活躍のチャンスであっ
た。定期的に商品交換をおこなう場所を〝〟といったが、当時すでに近江では、全国に類の
ないほどたくさんな"雨"があったという。
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