戦地で友を焼いた中曽根氏の悔恨
中曽根康弘元首相が101歳の天寿を全うした。「戦後政治の総決算」「ロン・ヤス関係」「不沈空母」「国鉄民営化」など、中曽根氏をしのぶメディアの報道があふれた。中曽根氏の知られぬ人となりにスポットを当てることにしたい。
徳富蘇峰との出会い
中曽根氏がまだ30代の青年代議士だった1950年ごろ、中曽根氏は戦前「近世日本国民史」を書いた徳富蘇峰に会うため、蘇峰が住んでいた熱海に赴いた。
中曽根氏は右翼の大立者で、戦争を鼓舞した蘇峰が、敗戦をどう受け止めているか、歴史的にどう捉えているか知りたかったのが当初の目的だったという。
会ううちに、中曽根氏は蘇峰の言葉に取り込まれていく。中曽根氏はこう諭されたという。
「中曽根さん、勝海舟の言に『天の勢いに従う』というのがある。政治家は救世軍の士官ではないのだから、イデオロギーや既成概念に固執する必要はない。これからの時代は流動するから、大局さえ失わないなら、大いに妥協しなさい。西郷南洲(隆盛)くらい妥協の好きな男はいなかった。中曽根さんも見習いなさいよ」
後年、風見鶏と呼ばれる中曽根氏の性格を見抜いての発言だったのかもしれない。
蘇峰は49年10月1日に成立したばかりの中華人民共和国の指導者・毛沢東に触れ、「(ユーゴスラビアの)チトーみたいになる。いつまでもソ連に屈従している中国民族ではない。必ずチトーみたいにスターリンに対して反逆的になる。中国民族は独自性を回復してくる。中国文化とはそういうものだ」と喝破した。このことを後に中曽根氏は「蘇峰は世界をよく知っているし、よく見ている」と振り返っている。
そして、中曽根氏は蘇峰に当時の日本国内の有力政治家の人物月旦をせがんだ。中曽根氏の人間観察欲のなせるわざだった。彼が著書「自省録」に書き残したのは次の通り。
・緒方竹虎(吉田茂内閣副総理。故緒方貞子氏義父)=「悪いところがないのが悪いという男。引っ張る力はないが、押せば進む。大きな太鼓のようで、大きく叩(たた)けば大きく鳴り、小さく叩けば小さく鳴るよ」
・吉田茂(首相。麻生太郎副総理兼財務相の祖父)=「黒白をはっきりさせる男だが、近頃は灰色になって存在を失った、もう歳(とし)だね」
・鳩山一郎(後に首相。鳩山由紀夫元首相の祖父)=「温室のお坊ちゃんで、吉田のお坊ちゃんの方が皮が厚い。根が善人で人にだまされる」
などなど。徳富蘇峰は57年に94歳で死去するが、中曽根氏が政治家としての青春時代に出会った蘇峰の言葉はその後の政治活動に大きな示唆を与えたと言ってよさそうだ。
後年、筆者が中曽根氏にインタビューした際、筆者は「徳富蘇峰終戦後日記」(講談社。御厨貴東大名誉教授解説、2006年刊行)を中曽根氏のもとに持っていった。中曽根氏の「自省録」を読んでいたからだった。
「中曽根さんの青春時代の思い出の方が残した日記です。新刊です。昭和天皇への苦言や近衛文麿、東条英機への批判など興味深いですよ。ぜひお読みください」
米寿を迎えたばかりだった中曽根氏はしばらく黙ってページをめくり、「この本はいただかずに、僕がお金を出して買うことにするよ。でもお心遣いありがとう」と言って、メモ帳に書名、出版社名などをメモしていた。今の自分の年齢とほぼ同じだった当時の蘇峰と若き自分を思い起こすような表情が印象的だった。
憲法改正、岸との不一致
憲法改正といえば中曽根氏の信念であったことは言うまでもないが、往年の改憲派の巨人、岸信介元首相とは決してそりが合う間柄ではなかった。
中曽根氏は59(昭和34)年6月、第2次岸改造内閣の科学技術庁長官として初入閣したが、岸の直系・後継者で、岸が重用した福田赳夫(元首相。福田康夫元首相の父)が中曽根氏にとって選挙区(衆院。当時は中選挙区の群馬3区)の不倶戴天(ふぐたいてん)のライバルであったことも影響してか、憲法改正で手と手を取り合う関係にはならなかった。
岸の中曽根評が残る。「なかなか頭のいい男ですよ。ただ『風見鶏』という批評は言い得て妙だよ。一つの信念というものを貫いて動くという人物ではない。ただ三木武夫君のように陰気臭くはない。中曽根君は陽気だから。最近は少し落ち着いてきたけれど、常に政治的な立役者になろうとしているね」(81年、政治学者、原彬久氏のインタビューで)。冷ややかな空気が伝わってくる。
一方、以心伝心というか、中曽根氏も岸への反感を持っていた。中曽根氏は太平洋戦争開戦を主導した東条英機内閣の商工相だった岸の「戦争責任」を見逃していなかった。
中曽根氏はこう書き記している。「一面において、この人たちには戦争に対して相当の責任があったことも確かです。戦後、共産主義に打ち勝つためにも追放解除はぜひとも必要だった。この点でアメリカの思惑と一致したことで、戦争指導者の戦争責任を不問に付すという方向へ流れができていった問題が顕在化したのが岸内閣の誕生時です。岸さんには力量がありましたが、東条内閣の閣僚として開戦の閣議に参加した岸さんが総理になるのは早すぎるという気持も私にはあって、総裁選では私は岸さんに一票を投じなかった。岸さんは戦争末期に東条打倒の行動を取っていますが、開戦の閣議に出席していた比重はやはり重い」(自省録)
60年安保改定の時は岸内閣の科学技術庁長官だったが、後に共同通信の政治記者だった内田健三が「戦後日本の保守政治」(69年、岩波新書)の中で「岸内閣某閣僚日記」として中曽根氏の日記を紹介している。
中曽根氏は当時予定されていたアイゼンハワー米大統領の来日延期を強く主張。「目下は政局の安定が最大課題である。米大統領来日と二兎(にと)は追えない。アイク来日は延期すべきだ」と岸に迫り、岸を鼻白ませた。
そして東大生の樺美智子さんが死亡する事件が起きると、中曽根氏は閣議で大演説をぶっている。
「本日以降、社会情勢は一変するであろう。死とか血とかを見ることは日本人には非常なショックを与える。死んだ女子学生と同年の娘を持つ父兄も異常に影響されるだろう」
中曽根氏はこの場面を日記で「この言により一座は白け」と記している。岸にとって初入閣の中曽根氏の発言は神経を逆なでするものであったに違いない。
「国定忠治の血を受けた」
岸への反感は、太平洋戦争中の中曽根氏と肉親の激烈な戦争体験がもたらしたものといえるだろう。
中曽根氏は海軍主計中尉として従軍、ボルネオ島のバリクパパンでの戦闘を経験する。中曽根氏の部下だった「古田班長」が砲弾を浴び、足が皮一枚でつ…
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