2023年8月2日水曜日

タミル語でニギハヤヒとニニギを考える|邪馬台国畿内説のとき天孫降臨地が邪馬台国になる あるいは邪馬台国が高天原となる - 魏志倭人伝その他諸々をひもといて卑弥呼の都へたどりつこう

タミル語でニギハヤヒとニニギを考える|邪馬台国畿内説のとき天孫降臨地が邪馬台国になる あるいは邪馬台国が高天原となる - 魏志倭人伝その他諸々をひもといて卑弥呼の都へたどりつこう

タミル語でニギハヤヒとニニギを考える|邪馬台国畿内説のとき天孫降臨地が邪馬台国になる あるいは邪馬台国が高天原となる

日本語             タミル語

 畠                patukar

 田んぼ             tampal

 畦                accu   cc = s  asu

 稲(ina)             enal  e = i     inal

 早稲                   paccai

 稲(にni)             nel  e = i   nil  

 米                kumai

 粥                kali

 餅                motakam

 穂                po

日本では稲を「ニ」と呼ぶのはいつしか忘れられたようですが、

タミル語では、稲を「ニ」と言うそうです。

天照大御神の命令で天下った孫のニニギノ命の「ニニギ」は、

稲の豊作をもたらす神の名前だそうですが、

この名前の意味が読み解けなかったのが、

タミル語との関係から、稲がニであれば、ニ(稲)ニギ(饒)となって、

いかにもしっくりと来る名前だそうです。

(大野晋著「日本語の起源」から)

にぎ わい 

にぎ やか

にぎにぎ しい

伊都国の官名 ニキ邇芸

大きな国語辞典で「にき」を引いてみますと、

「にぎ」ともいう接頭語で、細かい・穏やかな・熟した、といった意味を添えることばだ、という説明が出ています。たしかに、漢字では「和」や「熟」と書くともありますが、現在の私たちの生活の中では、この「にき」を使うことはあまりありません。
「和」と書いて「にき」「にぎ」と読む例としては、「和魂(和御魂)」があります

《後世は「にぎみたま」とも》柔和な徳を備えた神霊。にきたま。⇔荒 (あら) 御魂

「大和の―は静まりて」〈出雲国風土記

《後世は「にぎしね」とも》もみをすりとった稲。にこしね。

「みかの腹満 (み) てならべて、―、荒稲に」〈祝詞・竜田風神祭

《後世は「にぎめ」とも》柔らかな海草。ワカメの類。

「角島 (つのしま) の瀬戸のわかめは人のむた荒かりしかど我とは―」〈・三八七一〉

ワカメ若布[2][3]和布[3]稚海藻[4


インドのタミル語で読み解く日本古代史

田中孝顕氏より引用

正哉吾勝勝速日天忍穂耳

(まさか・あかつ・かち・はやひ・あめのおしほみみ)

この長い神名をタミル語で解釈すると、面白いことが分かる。

まさかーmattak-amー頭 head

あかつーakatuーーー中央 middle

かちー kotiーーーー末端 end

伊邪那岐が、伊邪那美の死の原因となった迦具土(かぐつち)神の頚(くび)を斬った後に、迦具土神の死骸から神々が生まれた。

そのとき頭からは正鹿山津見(まさかやまつみ)神が生まれているが、この「正鹿」も頭という意味である。

正哉吾勝勝速日天忍穂耳はしたがって

「前中後の神」ということになる。

これは同時に生まれた宗像三女神の「沖・中・辺」と対応する。

忍穂耳の「おし」は

タミル語oc-u[高名(fame)](-c-/-s-対応)、

「ほ」はpon[尊いこと(preciousness)]と、

「みみ」はタミル語vip-u[神(the supreme being)。支配者(lord)、主(master)]と対応する(v/m対応。p/m対応)。

以上から、正哉吾勝勝速日天忍穂耳をすべてタミル語で解釈すると、次のようになる。

正哉(前)吾勝(中)勝(後)速日(輝く霊)天(天の)忍(名高く)穂(尊い)耳(神)

  • 天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) - 『日本書紀』第九段本文、第一の一書、第二の一書
  • 天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと) - 『日本書紀』第九段第四の一書
  • 天津彦根火瓊瓊杵尊(あまつひこねほのににぎのみこと) - 『日本書紀』第九段第六の一書
  • 火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと) - 『日本書紀』第九段第六の一書、第七の一書
  • 天之杵火火置瀨尊(あめのぎほほぎせのみこと) - 『日本書紀』第九段第七の一書
  • 天杵瀨命(あめのきせのみこと) - 『日本書紀』第九段第七の一書
  • 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと) - 『日本書紀』第九段第八の一書
  • 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと) - 『古事記』
  • 天津日高日子番能邇邇藝命(あまつひこひこほのににぎのみこと) - 『古事記』
  • 天津日子番能邇邇藝命(あまつひこほのににぎのみこと) - 『古事記』
  • 日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと) - 『古事記』

一般には瓊瓊杵尊邇邇藝命(ににぎのみこと)と書かれる。「あめにぎしくににぎし」(天にぎし国にぎし)は「天にも地にも親和的である」の意、「あまつひこ」(天津日高)は神をたたえる美称であり、高天原と関わる神であることを示す、「ひこ」(日子)は日神である天照大御神嫡流の男子であることを示す、「ほのににぎ」は稲穂がにぎにぎしく成熟することの意、「ににぎ」は「にぎにぎしい」の意で「にぎやか」と同語源である[6]

なお、ニニギノミコトという名前の神であって、ニニギという名前の神はいない。

天オシホノミミノミコは国譲りの時は

途中までいって様子を見たら、

力ある神たちが争ってるとこなので怖くて行きたくない、自分じゃ無理ですと言ってる。

天孫降臨のときは、

用意をしてたら

子供(ニニギノミコ)が生まれたからこの子を行かせますと言った。

概要[編集]

『古事記』では、神武天皇神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神として登場する。那賀須泥毘古の妹の登美夜毘売(『日本書紀』では三炊屋媛という)を妻とし、宇摩志麻遅命をもうけた。宇摩志麻遅命は、物部連穂積臣采女臣の祖としている。神倭伊波礼毘古(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗した那賀須泥毘古が敗れた後、神倭伊波礼毘古天照大神の子孫であることを知り、神倭伊波礼毘古のもとに下った。

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し、その後大和国奈良県)に移ったとされている。これらは、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

先代旧事本紀』では、天火明命(アメノホアカリ)とニギハヤヒは同一神とされる。 他方、『新撰姓氏録』においてはニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の孫)とし両者を別とする。

ニギハヤヒの墳墓は、奈良県生駒市白庭台にある白庭山である[2]

神名[編集]

古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命、『先代旧事本紀』では饒速日命の名称以外に、別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)、天火明命(あまのほのあかりのみこと)、天照國照彦天火明尊胆杵磯丹杵穂命(いきしにぎほのみこと)と表記される。

他の別名として、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)、櫛玉命(くしたまのみこと)、櫛玉神饒速日命(くしたまのかみにぎはやひのみこと)がある。

降臨に随伴した神[編集]

先代旧事本紀』巻第三天神本紀[3]には、天降ったおりに高皇産霊尊から防衛(ふさぎのもり)として以下の三十二人に命じて随伴させたとある。

さらに五部(いつとも)が供領(とものみやつこ)として副い従った、とある。

さらに、警備のため天物部[註 1]の5名の「造」と、25名の兵杖を持った「部」が伴った。

  • 二田造(ふただのみやつこ)
  • 大庭造(おおばのみやつこ)
  • 舎人造(とねりのみやつこ)
  • 勇蘇造(ゆそのみやつこ)
  • 坂戸造(さかとのみやつこ)
  • 二田物部(ふただのもののべ)
  • 当麻物部(たぎまのもののべ)
  • 芹田物部(せりたのもののべ)
  • 鳥見物部(とみのもののべ)
  • 横田物部(よこたのもののべ)
  • 嶋戸物部(しまとのもののべ)
  • 浮田物部(うきたのもののべ)
  • 巷宜物部(そがのもののべ)
  • 足田物部(あしだのもののべ
  • 須尺物部(すさかのもののべ)
  • 田尻物部(たじりのもののべ)
  • 赤間物部(あかまのもののべ)
  • 久米物部(くめのもののべ)
  • 狭竹物部(さたけのもののべ)
  • 大豆物部(おおまめのもののべ)
  • 肩野物部(かたののもののべ)
  • 羽束物部(はつかしのもののべ)
  • 尋津物部(ひろきつのもののべ)
  • 布都留物部(ふつるのもののべ)
  • 住跡物部(すみとのもののべ)
  • 讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)
  • 相槻物部(あいつきのもののべ)
  • 筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)
  • 播麻物部(はりまのもののべ)
  • 筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)

これらを、船で運んだとあり、操船した者の名が記されている。

  • 天津羽原(あまつはばら) 船長、跡部首(あとべのおびと)らの祖
  • 天津麻良(あまつまら) 梶取、阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 
  • 天津真浦(あまつまうら) 船子、倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖
  • 天津麻占(あまつまうら) 船子、笠縫らの祖 
  • 天津赤麻良(あまつあかまら) 船子、曽曽笠縫(そそのかさぬい)らの祖
  • 天津赤星(あまつあかぼし) 船子、為奈部(いなべ)らの祖

ニニギは、アメノオシホミミ神と
タカギムスヒ神の娘との間に生まれた子供です。

アマテラス大神とタカギムスヒ神は、
「よろしい。ではニニギ命に、
 葦原中国を任せよう。
 いまから天より降りなさい。」
と仰せになりました。

こうしてニニギ命は、
仁紫(つくし)の日向(ひむか)の
高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くじふるたけ)に
天より降り立ちました。



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