2023年8月2日水曜日

マリオ・マレガ 「修二会(おみずとり)の行法と西アジア・原始キリスト教の儀式」


バチカン図書館所蔵

マリオ・マレガ資料の総合的研究

The Marega Collection in the Vatican Library

A Comprehensive Study

大友一雄 (編

太田尚宏

Kazuo Otomo

Naohiro Ōta


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序章  
―本書の狙いと論文紹介大友一雄本書は、2011(平成23)年にローマ教皇庁バチカン図書館において発見された17世紀前期から19世紀後期に及ぶ豊後国(大分県)のキリシタン関係資料群に関する調査・研究の成果をまとめたものである。以下、プロジェクトの経緯なども踏まえながら、本書の狙いなどについて記したい。バチカン図書館による資料の受入れは、1953(昭和28)年、宣教師マリオ・マレガ(1902〜78)が布教活動のかたわら任地の大分などで収集したものを寄贈したことによる。

マレガは1929年12月、27歳で来日し、豊後地方のキリシタン史料を収集・研究したことで知られている。

1942年には『豊後切支丹史料』を、1946年には『続豊後切支丹史料』を刊行しており1)、これらは、現在に至るまで重用されるが、そこに収録された収集史料の原本は、永く所在不明となっていた。2012年に大分県立先哲史料館が、続いて国文学研究資料館が資料群の存在をバチカン図書館において確認し、関係諸氏の取組みを通じて2013年11月にバチカン図書館と人間文化研究機構が調査・研究についての協定を締結した。同機構では、日本関連在外資料調査研究事業のなかに位置付け、共同研究「バチカン図書館所蔵マリオ・マレガ収集文書の保存・公開に関する調査・研究」(代表大友一雄)を発足させ、バチカン図書館と日本側関係機関、そして内外の研究者による「マレガ・プロジェクト」を開始した。日本側の機関では、人間文化研究機構国文学研究資料館・同国立歴史民俗博物館・東京大学史料編纂所・大分県立先哲史料館が参加し、国文学研究資料館が代表機関を務めた。

ペルシア文化渡来考 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2001/4/1 

上を介して以下、

お水取り―入江泰吉作品集 (1968年)


1968「修二会の行法と西アジア・原始キリスト教の儀式」入江泰吉『お水取り・入江泰吉作品集』東京 三彩社(1968)"The・Oldest・Buddhist・Ceremonies・in・Japan:・the・Shu'nie・修二会Ceremonies."・Transactions of the International Conference of Orientalists in Japan,・no.・XIII,・1968,・pp.・102-104.



修二会(おみずとり)の行法と西アジア・原始キリスト教の儀式
マリオ・マレガ


二月堂 
 東大寺が出来上った頃、東大寺や附近の寺々の地図が残っ
ており、そこに良弁は自分の名前を記しているが、 東大寺の東側に
羂索院(けんさくいん (三月堂)と千手観音の堂が描かれているが、 二月堂の図がな
い。 春日宮の代りに「神の地」と書いてあり、 二月堂の図だけがな
いのは不思議なことである。
 昔のキリスト教会の聖堂はみな東に向って礼拝する。 というのは
祭壇が東の端で、礼堂が西の端ということである。 奈良のすべての
寺は南に向いている。 東大寺大仏殿、薬師寺、西大寺、唐招提寺、
法隆寺 大阪の四天王寺などみな南大門から北方に建てられている。
しかし二月堂だけは礼堂が西にあり、内陣は東側に建てられている
のは興味あることである。


神名帳(じんみょうちょう)
 神名帳は昔の古いお宮の目録である。その中に秦の大明神
というのが三回となえられる。 昔、秦の馬賊がペルシャ (Partia=
Pata) から日本に来たことは佐伯好郎教授の説である。 東大寺の
大仏が出来あがった時、支那から中臣名代(なかとみのなしろ)が十九人の外国人を連れ
て渡ってきた。その中に三人の波斯(ペルシヤ)人がいたのである。

六時(ろくじ)
 十一人の練行衆は毎日二十四時間の内に六回日中、日没、
初夜 半夜、後夜、晨朝(じんじょう))、参籠所(さんろうしょ)から祈願のため二月堂に上って
行く。 これは「六時」と称する。 しかし昼の十二時にも食堂に集ま
って約一時間近くの祈りを唱えて十五分位の食事をすませる。 この
時も生ける人々と死せる人々のためにお祈りするのである。つまり
六時(六回の祈)だけでなく七回の式があるといってよい。
 キリスト教の神父たちも昔から毎日、ダビドの詩教会や修道
院などで、 一堂に七回集まって唱える。 「日没」の集まりをキリス
トでは日暮と称える。 修道院の夜の第一のつとめは「初夜」にあ
たる。 第二の夜のつとめは「半夜」にあたり、夜の第三のつとめは
「後夜」にあたる。 修道院の人々は今でも夜三回起床して、礼拝堂
に集まり、一緒に夜のつとめの祈りをする。朝早くの分は朝課とい
い「朝」にあたる。 昼の部を讃歌といい「日中」にあたる。 修二会
で祈りの行をこのように分けてあることも珍しいことである。ヨー
ロッパでは神父たちが詩篇を唱えることを 「時の行(じのぎょう)」と称している。
一徳火(いっとくび)
 修二会では三月一日の朝三時半頃から「一徳火」の行があ
る。 童子は礼堂のすべての灯が消された後に、火打石をもって新し
い火をつくり、つけ木によって常灯に火をともす。 この常灯は大き
な体に油を一杯満たしたもので、長さ二米の心の束が浸してあり、
それに火がつくので、周囲まで大変明るくなる。 次に堂司という僧
がその燃える常灯を内陣の中の祭壇の西側(礼堂に向って) におく、
この時からすべての祭壇の灯 その他廊下などの灯は皆この常灯の
火からとられる。現在キリスト教では、火打石で火を起すのは復活
祭前日の土曜日の午後十一時から十二時頃のことである。 教会の門
の前の地面で、消炭のようなものや木屑などをおき、火打石で火を
つくる儀式である。現在どこの教会でも油の灯の代りに、二米また
は三米位の高い蠟燭に火をつける。その蝋燭をイースター(復活祭)
の蠟燭と称し、復活したキリストのシンボルとしている。
~~~~

修二会(おみずとり)の行法と西アジア・原始キリスト教の儀式
マリオ・マレガ

 修二会という珍しい行法は、日本中で唯一ヵ所奈良の二月堂で行
われるもので、この行法の起源については、次のような伝説がある。
そもそもこの儀式は日本で始まったことでなく天国で始まったとい
う。天平の昔、実忠和尚という東大寺の僧侶が笠置山で龍の洞窟を
渡って天国についたところ、おみずとりのような儀式を見たという
のである。 そしてこのような式をたてるためには生身の本尊が必要
だと教えられた。 そこで和尚は浪速の油で熱心にお祈りしたところ
神からピカピカ光る七寸程の小観音(こかんのん)が海を渡って来た。 それが人は
だのような温かさをもった小観音像だったので、 二月堂にまつって
修二会の本尊としたということである。


東大寺四至古図による (天平勝宝8年)

二月堂
 東大寺が出来上った頃、東大寺や附近の寺々の地図が残っ
ており、そこに良弁は自分の名前を記しているが、 東大寺の東側に
羂索院(けんさくいん (三月堂)と千手観音の堂が描かれているが、 二月堂の図がな
い。 春日宮の代りに「神の地」と書いてあり、 二月堂の図だけがな
いのは不思議なことである。
 昔のキリスト教会の聖堂はみな東に向って礼拝する。 というのは
祭壇が東の端で、礼堂が西の端ということである。 奈良のすべての
寺は南に向いている。 東大寺大仏殿、薬師寺、西大寺、唐招提寺、
法隆寺 大阪の四天王寺などみな南大門から北方に建てられている。
しかし二月堂だけは礼堂が西にあり、内陣は東側に建てられている
のは興味あることである。

過去帳
 修二会の行われる期間中、毎日の儀式の一つ「六時(ろくじ)」と称
する勤行の中には主に観音菩薩に対する祈りがあるが、 その他に
去帳と神名帳の朗読がある。その過去帳の中に青衣(しょうえ)の女人(にょにん)の名が記
されている。出現した婦人についての説の中には、源頼朝に関係の
ある女性であったろうとか、彼は他の高貴の婦人であったろうと、
色々の説がある。私どもにはこの青い衣を着た女性は、 聖童貞女マ
リアを連想させる。

神名帳(じんみょうちょう)
 神名帳は昔の古いお宮の目録である。その中に秦の大明神
というのが三回となえられる。 昔、秦の馬賊がペルシャ (Partia=
Pata) から日本に来たことは佐伯好郎教授の説である。 東大寺の
大仏が出来あがった時、支那から中臣名代(なかとみのなしろ)が十九人の外国人を連れ
て渡ってきた。その中に三人の波斯(ペルシヤ)人がいたのである。

神道的行事
  三月一日の幕方に咒師(悪魔を祓う僧)が中臣大祓(なかとみおうはらい)を唱
え、最後の日には咒師が二月堂の東南にある道の祠で豊年祈願を
行う。 この祈願には色々の異なった穀物の種をささげて祈願する。
キリスト教の国では春の満月の後、即ち復活祭後に全ての穀物がよ
くるように大祈願祭が行われる。 その折には諸聖人の連祷といっ
修二会の神名帳と似たことが行われる。

六時(ろくじ)
 十一人の練行衆は毎日二十四時間の内に六回日中、日没、
初夜 半夜、後夜、晨朝(じんじょう))、参籠所(さんろうしょ)から祈願のため二月堂に上って
行く。 これは「六時」と称する。 しかし昼の十二時にも食堂に集ま
って約一時間近くの祈りを唱えて十五分位の食事をすませる。 この
時も生ける人々と死せる人々のためにお祈りするのである。つまり
六時(六回の祈)だけでなく七回の式があるといってよい。
 キリスト教の神父たちも昔から毎日、ダビドの詩教会や修道
院などで、 一堂に七回集まって唱える。 「日没」の集まりをキリス
トでは日暮と称える。 修道院の夜の第一のつとめは「初夜」にあ
たる。 第二の夜のつとめは「半夜」にあたり、夜の第三のつとめは
「後夜」にあたる。 修道院の人々は今でも夜三回起床して、礼拝堂
に集まり、一緒に夜のつとめの祈りをする。朝早くの分は朝課とい
い「朝」にあたる。 昼の部を讃歌といい「日中」にあたる。 修二会
で祈りの行をこのように分けてあることも珍しいことである。ヨー
ロッパでは神父たちが詩篇を唱えることを 「時の行(じのぎょう)」と称している。

別火
 イエズ・キリストが春の最初の満月の金曜日に殺され、次の
日曜日に墓の中から復活したことを記念するために、毎年その復活
祭に適当な準備をするために三週間断食を続けることがあった三
世紀頃)。この断食は一日一回だけ食べるが、肉類、玉子、牛乳を遠
慮する。
 修二会の三週間の僧侶たちの別火と、三世紀頃のキリスト教信者
の断食とよく似たところがある。無論、現代のキリスト教にはこん
なに厳しい規則は廃止された。

小観音(こかんのん)
 三月七日に行われる小観音の儀式と同様な式が、東西西洋
のキリスト教会にある。 すべての教会の主な祭壇の上には二月堂内
陣の須弥壇の上にある厨子と同じように、キリスト教でも聖櫃があ
り、その中にパンのかたちの下に生けるキリストが在わす。即ち復
活祭前の木曜日に、当日のミサ聖祭が終った後、そのミサを行った
導師が、祭壇の聖櫃にある御聖体 (生きたキリスト)を礼堂の左側(主
祭壇の左側)の小さな祭壇に運ぶ、 そこには沢山の 花をもって
飾り、神父たち信者一同はそこの御聖体を礼拝する。
 この式は二月堂で小観音の厨子を礼堂外陣の左側に運んで礼拝
するのと同じである。また二月堂では厨子の中に七寸位の小観音が
おわし、それは暖かな体をもって生きていられる。
 

 十一面観音
 この観音菩薩という名は、セイロン島の小乗仏教の一
切経にはでていないが、西暦三四百年頃から大乗仏教の書物に見ら
れる。この哲学の神が全知全能であることを現すために、昔の人が
それをアヴァロ・キテスヴァラ (かんのん)と呼んだ。
 斯様なアイデアを現すために、仏像に沢山の手をつけたり、いろ
んな表情の顔をつけたりしたのは、神が人の善行に対して喜び、悪
行に対し反対し怒り、改心しないと地獄の罰を与えるということな
どを示すためである。
 二月堂での祈りの中に十一面観音菩薩の顔についての説明がある。
一つのアイデアを示すため、物質的なものを使うことは、聖書の中
にもその例がある。例えば、旧約聖書の中に、神の全能の代りに、
神の腕が罪人を減すとか、 神の角が敵をおさえるとか......。 しかし
神は霊であるから腕や角など実際にはない。ただ一般人にわかるよ
うに腕とか角とか書いている。 十一面とか千手とかの言葉も同じで
ある。

涅槃(ねはんこう)
 カトリック教会では、キリストである本尊(聖体)を主な祭
壇から小観音のように向って左側に移し、主祭壇に神は不在である。
またそれぞれの祭壇から花瓶、花、蝋燭、祭壇の掛布などまで取除
き、そのままの状態を翌日の夜まで続ける。 これは修二会の涅槃講
によく似ている。
 復活祭前の金曜日にはすべての教会でキリストの涅槃講が行われ
る。即ちキリストが我等のために十字架上で殺されたことである。
この儀式の時は、花も蠟燭も使わないで、導師と他の司祭がみな白
色の長い衣だけを着て本尊のない祭壇の上に「五体投地」を行う。

一徳火(いっとくび)
 修二会では三月一日の朝三時半頃から「一徳火」の行があ
る。 童子は礼堂のすべての灯が消された後に、火打石をもって新し
い火をつくり、つけ木によって常灯に火をともす。 この常灯は大き
な体に油を一杯満たしたもので、長さ二米の心の束が浸してあり、
それに火がつくので、周囲まで大変明るくなる。 次に堂司という僧
がその燃える常灯を内陣の中の祭壇の西側(礼堂に向って) におく、
この時からすべての祭壇の灯 その他廊下などの灯は皆この常灯の
火からとられる。現在キリスト教では、火打石で火を起すのは復活
祭前日の土曜日の午後十一時から十二時頃のことである。 教会の門
の前の地面で、消炭のようなものや木屑などをおき、火打石で火を
つくる儀式である。現在どこの教会でも油の灯の代りに、二米また
は三米位の高い蠟燭に火をつける。その蝋燭をイースター(復活祭)
の蠟燭と称し、復活したキリストのシンボルとしている。

お水取り
 三月十二日に若狭井から二月堂まで水を運ぶ儀式がある
が、ヨーロッパにもアジャにも、復活祭前の土曜日(籠松明) 復活の
キリストの燭の式がすんだ後、外から厳かに水を教会に運ぶ儀式
がある。その水を内陣にある大きなたらいの中にいれ、 大導師がそ
の水の上に色々の祈りを唱え、その中にオリーヴの油と香をまく、
その水を行列をもって洗礼堂に運ぶ。 残った水は、 すべての信者に
分ける習慣があり、その木のことを聖水という。
 以上は毎年(昭和三十六年より) 修二会を拝観してきた私の所見の
一部であるが、 今年、私と一緒に修二会を拝観した一外人は、この
行法に見られる熱心な勤行を我らの信仰の模範としたいと辞を送
った。

走行(はしりぎょう)
 エルザレムではシリア、レバノンなどの東洋キリスト教の
司祭は復活祭の前日に「走行」を行う。 聖福音に、弟子のヨハネ
とペトロが市内からキリストの墓まで走ったと記されているのを記
念して行われている。その時の声明(しょうみょう)と音楽は日本の歌と音楽に似て
いる。

(神学博士)




1933年には海星幼稚園(大分市)を設立、初代園長を務めた。

1938年、イタリア語訳「古事記[2]を出版。

1950年、大分・臼杵教会より東京・目黒のカトリック碑文谷教会へ転任。東京赴任中のマレガは、長期休暇には奈良の東大寺二月堂「お水取り」の取材をし、その後は大分で休暇を過ごすことが定番であった[5]

5
  1. a b 「マレガ神父の実像紹介」『大分合同新聞』2016年12月6日、4面(夕刊)。

マリオ・マレガ

マリオ・マレガ
Mario Marega
教会キリスト教
聖職
司祭叙階1927年
個人情報
出生1902年9月30日
死去1978年1月30日(満75歳没)
教派・教会名カトリック教会
教育神学博士(サレジオ大 1929年)
受賞イタリア騎士隊勲章
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マリオ・マレガ(Mario Marega、1902年9月30日 - 1978年1月30日)は、イタリア出身のカトリック神父サレジオ会士。

生涯

1902年9月30日、イタリア北東部フリウリ地方ゴリツィアに生まれる。1919年にサレジオ会に入会し、1927年司祭に叙階された。 1929年ローマのサレジオ大学神学部を卒業。神学博士号を取得した。1929年10月、サレジオ会宣教師として日本に向け出航、12月14日、兵庫県・神戸に上陸[1]。その後、九州に到着した。1932年から大分県で司牧にあたり、「信仰の根本」「カトリックは答へる」などを日本語で出版。1933年には海星幼稚園(大分市)を設立、初代園長を務めた。 1938年、イタリア語訳「古事記[2]を出版。ヴィンチェンツォ・チマッティ神父により、教皇ピオ11世に、イタリア語訳「古事記」が手渡され、祝福を受けた。 1942年には『豊後切支丹史料』を刊行した。日本のキリスト教の歴史に関係する古文書を収集・研究し、キリシタン史跡の発見にも努めた。また、日本の文化・風習を研究する目的での史料も収集した。第二次大戦中の1945年7月16日カトリック大分教会大分大空襲で焼失し、多くの収集資料を失った。戦後1946年には『続豊後切支丹史料』を刊行[3]

1947年、イタリアに帰国。1947年-1948年、米国にて大分教会再建のための寄付を募り、1948年に再度渡日命令が出て来日する[4]。大分赴任中のマレガは、大分の社会に溶け込み研究に励んだ。教育や報道、警察関係の知人が多く、商業学校の教員たちにラテン語、病院の医師にドイツ語を教えていた。武徳会大分支部では弓道を習い、大分史談会の外国人会員でもあった。別府女学院(現別府大学)創立者の佐藤義詮と親交があり、戦後別府市に駐留していた米軍のエスポジット隊長と佐藤義詮の仲介役をし、大学の土地取得に尽力した[5]。キリシタン関係の資料収集の本来の目的は殉教者を福者に列することにあったため、当初は弾圧の記録を重視していた[6]

1950年、大分・臼杵教会より東京・目黒のカトリック碑文谷教会へ転任。東京赴任中のマレガは、長期休暇には奈良の東大寺二月堂「お水取り」の取材をし、その後は大分で休暇を過ごすことが定番であった[5]1961年に「落穂集」を、1968年には「キリシタンの英雄たち」を刊行している。1962年3月、イタリア騎士隊勲章在日イタリア大使館にて受章。 1974年、帰国。1978年1月30日ロンバルディア州ブレシアで死去。死去後、2011年にマレガ・コレクション(マレガ収集文書)がバチカン図書館で発見された[7][8]

マレガ・コレクション

マレガは、豊後でのキリシタン弾圧・統制に関する古文書を収集し、『豊後切支丹史料』(1942年)、『続豊後切支丹史料』(1946年)という2冊の史料集を刊行した。

マレガは収集した古文書群「マレガ・コレクション」を教皇へ寄贈することを望み、駐日バチカン公使に史料を託した(1953年)。横浜からイタリア北部ジェノバに船便で送られ、バチカン図書館で保管されてきた。長年所在不明と考えられていたが、2011年のバチカン図書館の再整備の折に発見された。マレガ・コレクション(マレガ文書、マレガ収集文書)は、2冊の史料集のもとになった原史料をはじめ、史料集に収録されていない多数の史料を含んでいることが確認された。

1万点を超える「マレガ・コレクション」は発見後、21の袋に分けられている。古文書群は、マレガが大分赴任中に弓道仲間の臼杵藩旧家臣を通じて、古書店から購入した臼杵藩の古文書などが中心で、豊後・臼杵藩の元キリシタンの改宗誓約書や、住民相互監視のための「五人組」の確認書、棄教・改宗したキリシタンの子孫「類族」を管理する台帳[9][10]、その他の古文書類、マレガの手稿や原稿、メモなどが含まれている[3]。古文書の読解には、日本人の協力が必要不可欠であった。マレガは『続豊後切支丹史料』の序文で感謝を綴っている[4]

マレガ・プロジェクト

2011年にコレクションが発見された後、バチカン図書館から日本へ調査協力の依頼があり、2013年、バチカン図書館と人間文化研究機構が、この史料群の調査協力についての協定を締結した。マレガ文書の調査・整理・保存・デジタル化を目的とした「マレガ・プロジェクト」が発足し、日本側は、人間文化研究機構、国文学研究資料館大分県立先哲史料館国立歴史民俗博物館東京大学史料編纂所が参加し、共同研究が行われた。

教皇フランシスコは、禁教下に信仰を守り伝えた日本の潜伏キリシタンを讃え、2015年9月、ローマで開催された「マレガ・コレクション」のシンポジウムにあたり「共同研究により、17世紀初頭の日本におけるキリスト教徒共同体の迫害に関して理解が深まるだけでなく、迫害が社会にどのような影響を与えたのかが明らかになるよう望む」とメッセージを寄せた[10][8]

2021年、データベース化された史料は、オンラインで一般公開された[3][11]

著作

著作

  • 『信仰の根本』 1933
  • 『オザナム』 (翻訳) 1933
  • 『カトリックは答へる(1)』 1933
  • 『カトリックは答へる(2)』 1934
  • 『日本の思想とカトリックの思想 』 1934
  • 『Ko-gi-ki, Vecchie-cose-scritte, libro base dello shintoismo giapponese』 1938
  • 『Memorie Cristiane Della Regione Di Oita』 1939
  • 『Il Giappone nei racconti e nelle leggende』 1939
  • 『豊後切支丹史料』[1] 1942
  • 『續豐後切支丹史料』[2] 1946
  • 『Il Ciuscingura, la vendetta dei 47 ronin』 1948
  • 『Oci-bo-sciu : quaderni storici del Giappone』 1961
  • 『キリシタンの英雄たち』 1968

雑誌論文

  • 『E-Fumi』 1939
  • 『Akogi. Ballata in un Atto di Seami Motokiyo』 1939
  • 『Okina. Il vegliardo. La Ballatta piuûu antica tra il No-gaku, la più sacra』 1940
  • 『Dal Piccolo Veicolo [Hina-yana] al Grande Veicolo [Maha-yana]』 194?
  • 『Minase. Ballata No^-gaku della scuola Kita-ryu^ Versione e note』 1941
  • 『Tracce del cristianesimo nell'era di Nara』 1941
  • 『大分天主公教史』 1941
  • 『豊後切支丹の書簡に就て』 1942
  • 『臼杵藩第十四、十五第藩主に関する文献』 1943
  • 『Le leggi anticristiane dei Tokugawa』 1944
  • 『La letteratura classica Giapponese』 1947
  • 『Saggio sui riti esoterici della setta buddista giapponese Shingon-Shu』 1949
  • 『On the Trail of Xavier』 1949
  • 『Documenti sulla storia della Chiesa in Giappone. Gli editti di persecuzione del 1619. Testi e note critiche.』 (Editto di persecuzione dei cristiani indigeni e editto di espulsione dei missionari del governatore japonese.) 1950
  • 『豊後大分郡津守村の五人組手形』 1954
  • 『The Christian tombs in Bungo』 1955
  • 『Development of Buddhism』 1956
  • 『The Kirishitan Rosyashiki』 1962
  • 『The First Martyrs of Nagasaki』 1962
  • 『The First Martyrs of Edo』 1962
  • 『Pre-Xaverian Christians in Japan.』 1963
  • 『The Kirishitan yashiki』 1963
  • 『Omizutori : dramatic buddhist ceremonies』 1968
  • 『The Oldest Buddhist Ceremonies in Japan: The shu'nie 修二会 ceremonies』 1968
  • 『大分県大野郡緒方町字馬背畑の珍しい二重の洞窟について』 1970
  • 『The Nakatomi harai 中臣祓 and the remben 蓮弁 at the Todai-ji 東大寺 temple』 1972
  • 『Dante ed il Kogiki』

原稿

  • 『L'ulitimo Gruppo di missionari in Giappone』
  • 『I martiri di Unzen, 17 Maggio 1627』
  • 『La Chiesa Cattolica in Giappone』

脚注

  1.  ヴィータ シルヴィオ「豊後キリシタンの跡をたどるマリオ・マレガ神父 : マレガ文書群の成立過程とその背景 (特集 キリシタンの跡をたどる : バチカン図書館所蔵マレガ収集文書の発見と国際交流)」『国文学研究資料館紀要. アーカイブズ研究篇』第12号、国文学研究資料館、2016年3月、149-169頁、doi:10.24619/00001858ISSN 1880-2249NAID 120005752772none
  2. ^ Ko-gi-ki, Vecchie-cose-scritte, libro base dello shintoismo giapponese(1938)
  3. a b c 「マレガ・プロジェクト」『カトリック新聞』2017年8月13日。
  4. a b 「バチカンの風」『大分合同新聞』2015年9月27日-10月3日、4面(夕刊)。
  5. a b 「マレガ神父の実像紹介」『大分合同新聞』2016年12月6日、4面(夕刊)。
  6. ^ 「進むマレガ・プロジェクト」『大分合同新聞』2017年11月21日、4面(夕刊)。
  7. ^ マリオ・マレガ神父|マレガ・プロジェクト 国文学研究資料館
  8. a b 貴重なキリシタン史料、バチカン図書館「マレガ・コレクション」をめぐるシンポジウム バチカン放送局、2015年9月14日
  9. ^ プロジェクトとコレクション|マレガ・プロジェクト 国文学研究資料館
  10. a b キリシタン弾圧:江戸時代の臼杵藩古文書 マレガ神父収集、バチカンが史料初公開”. 毎日新聞 (2015年9月15日). 2015年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月22日閲覧。
  11. ^ バチカン図書館「マレガ文書」、日本との文化外交の実りとして”. Vatican News (2022年3月1日). 2022年3月2日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


① 仏語。一昼夜を六分した六時(晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜)の一つ。辰(たつ)の刻。現在の午前八時頃。 ... ② 仏語。寺院で行なうの勤行。 ... ③ 「じんじょう ...

《「しんちょう」「じんちょう」とも》六時の一。卯 (う) の刻。現在の午前6時ごろ。また、その時に行う勤行 (ごんぎょう) 。の勤め。 - goo国語辞書は30万8千件語以上 ...


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