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阿波海部と日向・丹波から考察 ①
籠神社(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。式内社(名神大社)、丹後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。現在まで海部氏が神職を担当している。丹後国総社は不詳だが、当社が総社を兼ねたとする説がある。
◆主祭神 彦火明命 (ひこほあかりのみこと)
「天火明命」、「天照御魂神」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命」ともいうとする。社家海部氏の祖神。
◆相殿神 豊受大神(とようけのおおかみ) - 「御饌津神」ともいうとする。
天照大神(あまてらすおおかみ)
海神(わたつみのかみ) - 社家海部氏の氏神。
天水分神(あめのみくまりのかみ)
祭神については古くより諸説があり、『丹後国式社證実考』では伊弉諾尊、『神社明細帳』では天水分神としている。
●創建
社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。そして白鳳11年(671年)彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ)が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという。その後養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える。
伊勢神宮外宮の旧鎮座地が丹後国分出前の丹波国であったという伝承は古く、その比定地には諸説がある。延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』では「比治乃真名井」から伊勢に移されたとし、『神道五部書』以来の伊勢神道では旧地を丹波国与佐宮としている。籠神社をその地にあてたものとしては、建武2年(1335年)の文書の「豊受太神宮之本宮籠大明神」という記載、天和年間(1681年-1684年)の籠神社縁起秘伝の「当社籠大明神ハ即豊受大神也」とし「与謝宮ハ則是籠大明神也」とする記載がある。
●神職
籠神社の神職(社家)は、古くより海部氏(あまべうじ)の一族が担っている。海部氏とは海人族を統括した伴造氏族で、全国に分布が見られ、籠神社社家はそれらのうち「海部直」姓を称して丹後に拠点を持った一族である。
一族には、現存では日本最古の系図「海部氏系図」(国宝、平安時代の書写)が残されており、彦火明命を始祖(初代)として82代の現宮司までの名が伝えられている。また海部氏一族が丹波国造を担ったとも伝えているが、丹波国造について『先代旧事本紀』の「国造本紀」では尾張国造と同祖で建稲種命四世孫の大倉岐命を祖と記し、同書「天孫本紀」では饒速日尊(天火明命)六世孫の建田背命を祖と記すように、天火明命を祖とする尾張氏系と彦火明命を祖とする当一族との関連性が見られる。
◆摂末社
奥宮(境外摂社)
・真名井神社 (まないじんじゃ、眞名井神社)
鎮座地:京都府宮津市江尻 - 本宮の北東約400m
磐座主座(上宮)祭神:豊受大神
相殿神:罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神
磐座西座祭神:天照大神(主神)、伊射奈岐大神、伊射奈美大神
「下宮」とする本宮に対して、奥宮の主座は「上宮」に位置づけられる。社殿は桁行一間、梁行二間の神明造で、檜皮葺。天保3年(1831年)の造営で、京都府の有形文化財に指定されている。社殿裏に2つの磐座がある。
◆摂社
●蛭子神社(恵比寿神社)
- 祭神の彦火火出見命は、大化以前の本宮主祭神。社殿は一間社流造銅板葺で、京都府の有形文化財に指定されている(真名井神社の附)。
◆祭神:彦火火出見命、倭宿彌命
●天照皇大神社
◆祭神:天照大神の和魂あるいは荒魂
●真名井稲荷神社
- 明治末期まで奥宮真名井神社に鎮座したが、1991年に本宮境内に移転再建。
◆祭神:宇迦御魂、保食神、豊受比売
●末社
いずれも境内社。
春日大明神社 - 祭神:春日四神
猿田彦神社 - 祭神:猿田彦神
また、海の奥宮として冠島・沓島を神域とし、天火明命と市杵島姫命を祀る。傘松公園には冠島・沓島の遥拝所がある。
●祭事
・葵祭(例祭)
例祭は4月24日に行われ、「葵祭」と通称される。古くは4月2の午の日に行われており、『宮津府志』には大きな祭であった様子が記されている。祭事では近隣の集落から笹ばやし・太刀振・神楽が奉納される。京都府の無形民俗文化財指定。
●文化財
国宝
・海部氏系図(附 海部氏勘注系図)(古文書)
宮司家の海部氏の系図。神社側では「籠名神社祝部海部直等之氏系図」と呼称。平安時代初期の書写で、現存では日本最古の系図とされる。1976年(昭和51年)6月5日指定。なお、系図の所有者は籠神社ではなく宮司家である。
●その他
指定文化財以外の宝物
海部直伝世鏡「息津鏡」「辺津鏡」息津鏡(おきつ)は後漢代の作と伝えられ直径175mm、辺津鏡(へつ)は前漢代の作と伝えられ直径95mm。「海部氏系図」の勘注系図にも記載があり、天祖が火明命に授けたという。出土品でない伝世鏡では日本最古という。なお、鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致するが、関係は明らかでない。 (wikipedia 籠神社より抜粋)
詳しくはコチラ ⇒ 丹後一宮 元伊勢 籠神社HP
阿波忌部の東征にも関わると考えられる、いわゆる「羽衣伝説の天女の話」から、その出発地である徳島県海部郡、そして島根県を経由して丹後国籠神社に至るまでの経緯考察に付きましては以前に書いておりますので一応リンクを貼っておきますのでそちらをご覧ください。
『羽衣伝説 Vol.阿波 ①』『羽衣伝説 Vol.阿波 ②』『羽衣伝説 Vol.阿波 ③』
今回は阿波海部から日向国、丹後国との共通点について、考察をしていきたいと思います。
まず、丹後国一宮である式内社 籠神社の神職は、現在に至るまで邇邇芸命の兄である天照国照彦火明櫛玉饒速日命と同神とされる天火明命の後裔の海部氏です。
この「海部(あまべ)」なのですが、全国各地に「海部郡」として点在が確認されますが、阿波国のみ"あまべ"と読まず「海部(かいふ)」と読みます。
「かいふ」の考察についてはまた別にしたいと思いますが、この阿波国海部郡にある県下一勇壮との呼び声高い大里八幡神社の秋祭りは有名です。⇒鞆奥と八幡神社の関係について
御祭神は、天照皇大神、誉田別命、天児屋根命。
今回は当社の紹介ではないので詳しくは割愛しますが、毎年10月第3日曜日の大里八幡神社の秋の例大祭前日に、海陽町鞆浦では、「赤ちゃんの土俵入り」が行われます。
この神事は、当地にある港柱神社のお祭りとして、現在は鞆浦字山下(さんげ)の広場中央に土俵をつくり、この一年間に生まれた男の赤ちゃんが土俵入りをします。
港柱神社のご祭神は、速秋津彦命と速秋津姫命で、二神は大綿津見神の兄弟神と河口を司る水門女神です。
この「港柱神社」を調べてみますと、やはり予想通り日向国(宮崎県)に同呼名の「湊柱神社」が存在します。
創建不詳、ご祭神も同じく、速秋津彦命と速秋津姫命。
高鍋藩の著した「続本藩実録」に文化元年(1804)八月八日立岩湊権現にお上(秋月藩主種徳)より銀一匁、雨乞いのお供料として奉献あった旨が記載されており、両神とも水戸を司り、また水戸にあって祓除を掌る神であるとされています。
◆地図での位置関係はこんな感じ(日向国版)
水戸(門)の神ですから、耳川河口に湊柱神社が鎮座しており、川を挟んで対岸から南に、「立磐→愛宕→八坂」の神社名が確認できます。
ちなみにこれを徳島県海部郡海陽町鞆浦と照合してみますと、海部川河口から南が鞆浦の地ですが、更にその南側に「立岩→愛宕山」そして…
和奈佐(現那佐湾)を挟んで日本三祇園である宍喰八坂神社が確認できるのです。
海部川河口の地形を旧海部町史から確認してみますと、
往古の海部川は、実は立岩川とに分かれており、鞆城(海部城)のあった場所は小島となっていて、城山周辺で合流しています。
八幡神社旧社地である大宮には、式内社 和奈佐意富曾神社が既に鎮座していたとされます。
再度日向国側の地図を見直してみますと、河川河口付近の地形や川の位置関係なども海陽町鞆浦の地と酷似しており、一見すると見間違えてしまう程です。
そして、更にここで目を惹くのが、北側の耳川と南側の石並川との間に「神武天皇御舟出の地」の文字が見えますが、通説によると当地、美々津から神武天皇は船出をし、東征が始ったとされています。
また、神武天皇が船出をする際に、しばし腰掛けて身を休めたという岩が「御腰掛岩」のある場所が現在も立磐神社の境内に残されているそうです。
立磐神社(たていわじんじゃ)宮崎県日向市美々津町3419
◆こちらがその「御腰掛岩」
御祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神武天皇。
神武天皇以外はいわゆる「住吉」の神様です。
そしてひっそり徳島県海部鞆浦字立岩にも、その地名の由来となる大岩があり、
「南無阿弥陀仏」云々と刻されていますが、
現在は幾度と襲い掛かる南海地震による津波の石碑となっています。
海部町史によれば、大正4年に、神社合併によってそれまで鞆浦各地に存在していた小社を、この立岩のある通り一本北の筋にある徳神社境内に合祀したとありますので、恐らく下記の社の何社かが合祀されたものと思われます。
・徳神社 祭神 若年命 農事を司る穀物守護の霊神。
・港柱神社 祭神 速秋津彦命、速秋津姫命。
・住吉神社 祭神 三筒男命(底筒・中筒・上筒三柱の神)海上守護の神。
・小島神社 祭神 小童命 漁猟の神。
・蛭子神社 元蛭子谷に鎮座していたのを東町波止崎に遷した。事代主命を祀る豊漁の神で漁民の信仰が篤い。
・かさ神さん 高倉鞆坂の上にあって、おでき・皮膚病の神として信仰され、よく土の団子が供えられている。昔ここは奥浦へ越える唯一の通路で、険しいが相当人通りのある坂道であったので、坂を司る天之狭土(あめのさつち)・国之狭土(くにのさつち)の二神を祀り、さかの神がかさの神に転化したのではあるまいか。あるいは病を癒す神である大巳貴命・少彦名命の二座が祭神であるかも知れない。
・船戸神社 小那佐にある神社で、由緒や創建年代は不明。祭神は船魂命である。
(※海部町史より鞆浦の神社の項から抜粋)
かさ神さんの解釈はそれではないとは思いますが…。
地元の人はここの神社を通称「すみよしさん」と呼んでいて、そこに神社を集めているといいます。
googlemapsでは分かりませんが、確かに当地は鞆浦住吉地区と呼ばれています。
隣に善称寺というお寺もありますが、やはりgooglemapsでは卍マークは見えませんね(´・ω・`)
大正四年一月一日と書かれていますので、恐らくここが町史にある徳神社境内のはず。
ちなみに地図にある鞆浦内の赤線の町(北町、仲町、南町、東町)は、それぞれ秋の八幡神社のお祭りの時に出される赫船やダンジリの各部落です。
この場所から鞆浦の町並みや港が一望できるところになっていますね。
さて、通説の説話をそのまま徳島県南部に置き換えますと、地形の位置関係等から、海部川と宍喰川との間に位置するのは、海陽町鞆浦字那佐(旧和奈佐)で、ここから神武天皇が東征したと考えられる一つの材料になりうるのではないでしょうか。
以前少しお話しましたが、宮崎県と鹿児島県(旧日向国域)に位置する地形や地名等は、徳島県旧那賀郡の海側、(旧長國)と非常に酷似しており、また「薩摩」に至っては、少なくとも平城京木簡の出土品等からも、徳島県海部郡海陽町に実際に「薩摩」が存在していたこともわかっています。(「薩摩から考察」)
◆地形の類似
地図の無い時代、地形を頭の中で描くことができるのは、巧みに船を操り諸外国まで行き来することができる「海人」以外他なりません。
そして、この港柱神社で行われている赤ちゃんの土俵入りなのですが、実は全国でたった二ヶ所しか行われていないたいへん珍しい神事なのです。
そのもう一ヶ所の場所が、丹後国与謝郡に鎮座する山王宮 日吉神社に摂社されている式内社 杉末神社なのです。
式内社 杉末神社(すぎのすえじんじゃ)京都府宮津市宮町滝上公園1408
赤ちゃん「初土俵入」は山王宮境内にある杉末神社の例祭に執り行われる神事で、化粧廻しを付けた幼児が見えない神様を相手に相撲を取るという、全国でもきわめて珍しく、また可愛らしい神事といわれています。(宮津山王宮日吉神社HPより抜粋)
宮司に聞いたところ「杉末」とは杉の木の先っぽとのこと。
阿波でいうところの「杉尾」と同意なのかも知れませんね。
これが一体何を意味するのかは私はまだチョットわかりませんが(´・ω・`)
御祭神は、大物主神、大己貴神、少彦名神で、宮津郷内唯一の式内社ともいわれています。
宮津の「宮」は、この杉末神社のことだといわれていて、杉末神社のある「津」=港という意味となり、つまりは「宮津」の地名の由来となっているのが当社であるということです。
「室尾山観音寺神名帳 与謝郡六十八前」では、「従二位
「宮津府志」によれば、「敏達天皇元年に大和の三諸山(三輪山)より丹後国余謝郡杉末に降った、今は山王社(日吉神社)の傍らに僅かに摂社としてあるが、元はここが杉末神社を祭った地である。」という。
先に鎮座していた杉末神社を差し置いて日吉神社が宮津の地の総鎮守の地位を奪った旨が記されています。
山王宮 日吉神社(ひよしじんじゃ)京都府宮津市宮町滝上公園1408
こちらの御祭神は、大山咋神、大己貴神。
他にも、事代主命を祀る恵比寿神社や、
大年神を祀る年徳神社、
他にも猿田彦命を祀る船魂神社、大物主命を祀る琴平神社、大山祇命、句々廼馳命を祀る山神社が末社としてあります。
やはり殆ど阿波の、しかも鞆浦の地と似通っていますね。
また、分宮(和貴宮神社)を東の町の氏神とするに対し、杉末神社は西の町の氏神としたようです。
和貴宮神社(わきのみやじんじゃ)京都府宮津市宮本428
御由緒に、宮津海辺の岩を神の依代とした。神殿は室町以前の創建である。古記に一宮別宮大明神・丹後国別宮総社・子守神・分宮大神宮とある。
分社のはずですが、チョット御祭神が違いますね。
主祭神は天御中主神のようで、他に面白いのは我野姫命辺りでしょうか。
天御中主神は、やはり、天-御中主-神という意味かな。
和貴宮と水越岩(宮津市字宮本)
和貴宮は宮津町東部の産土神とされるが、宮津の町の成り立ちを考える上に、この付近は興味深い場所である。伊勢外宮御師の御壇家帳によると、十六世紀前半には概に「宮津市場」が開け、宮津谷の支配城主小倉氏は配下千賀氏をこの地に配していた。「宮津えのしま」も開けていた。当社の創立は少なくともその頃まで遡る。社殿棟札の一つに、永正二年(1505)九月十二日造営の伝を記しているのがあるのも事実に近いと思われる。
細川氏時代に「脇ノ宮」に悦山正善なる社僧がいたことを盛林寺過去帳は伝えている。その頃この付近に「わきの宮かじ」があったことは慶長七年(1602)検地帳から知られる。この社の裏から海岸に通ずる通路を「勘左衛門小路」とつたえているのは猟師勘左衛門が細川氏から頂戴した道と伝えられている。いわば「わきの宮」はそれらかじ町、猟師町の産土神として祀られたのであろう。境内にわだかまる大岩は水越岩と呼ばれて、かって海辺であった跡と伝える。「宮津え(江)の嶋」のあとかも知れない。
現社殿のうち本殿は文化四年(1804)、拝殿は文政三年(1820)建立。本殿は藩主の援助もうけて、大工棟梁の職人町(宮本町)清水清助、後見万町富田弥四郎らの許に多くの諸職人・講中の力を結集して建てられた。全体的に装飾に力を注ぎ、ぶどう籠彫りなど技巧を凝らし、妻飾りも美しく組み立てられている。
宮津市教育委員会 宮津市文化財保護審議会(境内掲示板)
境内社には、波越稲荷など、
他、恵美須神社、兵主神社、弥智俣宮(道俣神)、勲宮、秋葉社、永代宮となっています。
お、こんなものまであるのね。
さて、例の如く阿波国にも旧海部町奥浦(地名由来は鞆浦の奥にあることから)に、脇之宮神社が鎮座します。
脇之宮神社(わきのみやじんじゃ)徳島県海部郡海陽町奥浦字脇ノ宮
・脇宮神社 阿波志に「脇宮山、在奥浦、上有脇宮及水神祠、出薪木」とある。天児屋根命及び弥都波能売命を祭神とし、本殿・通夜堂鳥居二基と境内に相撲場がある。海部川の水禍を恐れて水神を勧請したことは楠神社の場合と同じであるが、天児屋根命を併祀した意味はどうであろうか。
古事記によれば、天児屋根命は中臣氏の祖神で、岩戸隠れのとき天香山の鹿の骨をははかの木の皮で焼く鹿卜をして日の神のお心を尋ね、そのお出ましを乞う祝詞を奉し榊にとりつけた鏡を捧げた神である。脇宮は古くから鍛冶の盛んな所であったから、有力な刀鍛冶が鍛刀場を潔め心身の不浄を祓うために祭祀の神としてこの祭神を勧請したのであろうか。
当地方の住民は、古くからこの社を勝負の神として崇める風があって、七月十九日の例祭にも山麓の境内に造られた土俵で盛んな奉納相撲が行われていた。(海部町史より抜粋)
相変わらず狛犬は面白い顔をしてますが、脇にある石が気になるところ(´・ω・`)
様々な共通点・類似点、そして更なる考察材料などが出てきたようにも思いますが、このような共通点は単なる偶然ではなく、当地に元より住んで居た海人達が後に進出した地に、郷里の地名や神社として痕跡を残したと推測できるのです。
また、九州の日向の国に関しましては、700年頃にようやく大和政権に併合された後、律令され造られた比較的新しい国であり、「記紀」作成時には恐らく海部の地の海人が当初入植・開拓したであろうと思われます。
地形の類似以外でも、薩隅方言にも似ている部分を有しており、特に海人と密接している漁業の言葉では、魚のことを「うお」と呼びますが、これを海部では「いお」と呼び、薩摩の地でも同じく「いお」と呼びます。
鎌倉時代から薩摩を治めた島津氏も、元を辿れば秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の島津荘の荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大、その子の惟宗忠久が、新興勢力である源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされ、のちに薩摩国出水平野に城を築き、拠点を移しています。
惟宗氏(これむねうじ)は、日本の氏族のひとつ。平安時代に始まる氏族で、秦氏の子孫とされる。
家系としては朝臣または宿禰の姓をもつもの、また
また系譜は必ずしも明らかでないが在庁官人や郡司などに多くの名が見える。惟宗広言もしくは惟宗忠康の子・忠久は日向国に下って土着し、当地にあった荘園「島津荘」をちなんで島津氏と名乗るようになったとされる。ただし忠久は源頼朝の落胤と自称して(後世の伝承)、島津氏は(名目上は)清和源氏ということになっている。
また対馬の宗氏も惟宗氏の子孫とされる(のちに桓武平氏知盛流を自称する)。そのほか神保氏や安芸氏などが惟宗氏の出とされる。(wikipedia 惟宗氏より)
つまり、平安期に讃岐に居た秦氏をルーツに持つ惟宗氏が、少なくとも鎌倉期に日向・薩摩を治めていた。
現時点では推測に過ぎませんが、それ以前は、阿波国の鞆浦の海人の長が治めていたのではないでしょうか。
つまりこれが天皇家や忌部氏に繋がる筋から分派していった物部氏ではないかと思われるのです。
時代を経て四国の有力氏族も畿内へ進出し、更に全国へと勢力を伸ばしていきます。
物部氏(海人)の痕跡と邪馬台国時代に書かれてある国々とを照合させていけば、面白い発見があるかも知れませんね。
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