2023年5月22日月曜日

アメノヒボコ - Wikipedia

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アメノヒボコ

アメノヒボコは、記紀等に伝わる朝鮮半島の新羅からの新羅人または渡来神。

アメノヒボコが将来した神宝の神霊、およびアメノヒボコの神霊を祭神に祀る。

主要伝承地の分布

日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。

『日本神話』・『古事記』等では渡来人、『播磨国風土記』では渡来神と位置づけて記述される。

記録

日本書紀

垂仁天皇3年条

日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。その際に次の7物、

  • 羽太の玉(はふとのたま) 1箇
  • 足高の玉(あしたかのたま) 1箇
  • 鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇
  • 出石の小刀(いづしのかたな) 1口
  • 出石の桙(いづしのほこ) 1枝
  • 日鏡(ひのかがみ) 1面
  • 熊の神籬(くまのひもろき) 1具

を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたという[1][2]

垂仁天皇紀3年条一云の系図

太耳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知古天日槍

 

麻多烏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

但馬諸助

 

 

但馬日楢杵

 

 

清彦

 

 

田道間守

同条に記された別伝によると、天日槍は初め播磨国に停泊して宍粟邑にいた。これに対し、天皇は大友主(三輪氏祖)と長尾市(倭氏祖)とを播磨に派遣して天日槍の尋問をさせた。この時、天日槍は新羅王子であると自称し、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語った。そして次の8物、

  • 葉細の珠(はほそのたま)
  • 足高の珠
  • 鵜鹿鹿の赤石の珠
  • 出石の刀子
  • 出石の槍
  • 日鏡
  • 熊の神籬
  • 胆狭浅の大刀(いささのたち)

を献上した。そこで天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。近江国鏡村[注 1]の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったのは、これに由来するという。また天日槍は但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、麻多烏との間の子に但馬諸助(もろすく)を儲けた。そしてこの諸助は但馬日楢杵(ひならき)を儲け、日楢杵は清彦(きよひこ)を、清彦は田道間守を儲けたという[1][2]

垂仁天皇88年条

垂仁天皇紀88年条の系図

前津耳
(前津見/太耳)

 

 

天日槍

 

麻拕能烏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

但馬諸助

 

 

 

 

清彦

『日本書紀』垂仁天皇88年7月条によると、新羅王子を自称する天日槍が持って来た但馬の神宝を見たいと天皇が言ったので、使者を遣わし天日槍曾孫の清彦に勅命を下して献上させた。その神宝とは次の5物、

  • 羽太の玉 1箇
  • 足高の玉 1箇
  • 鵜鹿鹿の赤石の玉 1箇
  • 日鏡 1面
  • 熊神籬 1具

であった。ただしこれらとは別に「出石(いづし)」という名の小刀1口があったが、清彦は献上を望まなかったので袍の中に隠して身に帯びていた。しかし天皇が清彦を遇しようと御所で酒を与えたとき、その小刀が袍の中から出た。清彦は隠し通すことを断念し、これが神宝の1つであることを言上すると、天皇はこれと他の神宝とを一緒にして神府(みくら:奈良県天理市石上神宮の神府か[3])に納めた。そのしばらくのち、天皇が神府を開くと小刀が自然になくなっており、清彦に人を遣わして問いただすと、清彦は小刀が自然と清彦の家に来たがその日の朝にはなくなったと言った。天皇は畏れそれ以上は小刀を求めることをやめたが、一方の小刀はのちに自然と淡路島に至り発見されたので島人により祠に祀られたとする[注 2][4][2]

また、同条では続けて昔話として、新羅王子の天日槍が小舟に乗って但馬国に停泊し、そのまま但馬に留まったと伝える。そして天日槍は但馬国の前津耳(一云に前津見または太耳)の娘の麻拕能烏(またのお)を娶り、麻拕能烏との間に但馬諸助を儲けたとし、これが清彦の祖父であるという[4][2]

その他

後述の『古事記』では、比売碁曾社(比売許曾神社)の由来が天日槍と阿加流比売神の伝承として記述されるが、『日本書紀』では垂仁天皇2年条の注において都怒我阿羅斯等とその妻の伝承として記述されている[5]

古事記

応神天皇記の系図

多遅摩之俣尾

 

 

前津見

 

 

 

天之日矛

 

阿加流比売

 

 

 

 

 

 

 

多遅摩母呂須玖

 

 

多遅摩斐泥

 

 

多遅摩比那良岐

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多遅麻毛理

 

 

清日子

 

 

 

当摩之咩斐

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酢鹿之諸男

 

 

多遅摩比多訶

 

 

 

菅竈由良度美

 

 

 

 

 

 

葛城之高額比売命
息長宿禰王妻)

 

 

息長帯比売命
(神功皇后)

仲哀天皇皇后)

古事記応神天皇記では、その昔に新羅王子という天之日矛が渡来したとし[注 3]、その渡来の理由を次のように記す。

新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した[6]

天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという[6]大阪府大阪市比売許曾神社に比定)。

天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える(系図参照)。また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、

  • 珠 2貫
  • 浪振る比礼(なみふるひれ)
  • 浪切る比礼(なみきるひれ)
  • 風振る比礼(かぜふるひれ)
  • 風切る比礼(かぜきるひれ)
  • 奥津鏡(おきつかがみ)
  • 辺津鏡(へつかがみ)

であったとする。そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという[6]兵庫県豊岡市出石神社祭神に比定)。『古事記』では、その後続けてこの伊豆志大神についての物語が記される。

風土記

播磨国風土記

播磨国風土記』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。

  • 揖保郡揖保里 粒丘条
    客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近か[7])の川辺に着き、当地の長たる葦原志挙乎命(あしはらのしこおのみこと)に宿所としての土地を求めると、志挙は海中に宿ることのみを許した。これを受けて天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。志挙はその霊力に畏れをなし、天日槍命よりも先に国を抑えるべく北上し、粒丘に至って食事を取った。その時に口から飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されるという(たつの市揖保町揖保上の北のナカジン山に比定[7][8][2]
  • 宍禾郡比治里 川音村条
    天日槍命が村に泊まって「川の音がとても高い」と言ったので「川音村(かわとのむら)」と称されるという(宍粟市山崎町川戸付近に比定[7][9][2]
  • 宍禾郡比治里 奪谷条
    葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合ったので、「奪谷(うばいだに)」と称されるという[9][2]
  • 宍禾郡高家里条
    天日槍命が「この村の高さは他の村に優っている」と言ったので「高家(たかや)」と称されるという(宍粟市山崎町庄能から山崎付近に比定[7][10][2]
  • 宍禾郡柏野里 伊奈加川条
    葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、いななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称されるという(菅野川に比定[7][10][2]
  • 宍禾郡雲箇里 波加村条
    伊和大神の国占有の時、天日槍命が先に着き、大神は後から来たが、大神が「対策をはかりも(考えも)しなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるという(宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近に比定[7][11][2]
  • 宍禾郡御方里条
    葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう(宍粟市一宮町の北半部に比定[7][11][2]
  • 神前郡多駝里 粳岡条
    伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集まって稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また「城牟礼山(きむれやま)」というとする(姫路市船津町八幡の糠塚に比定[7][12](別伝は省略)。
  • 神前郡多駝里 八千軍条
    天日桙命の軍兵が8,000人あったため「八千軍野(やちぐさの)」と称されるという(神崎郡福崎町八千種付近に比定[7][12]

筑前国風土記

『筑前国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)によると、足仲彦天皇(仲哀天皇)による球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲)征伐のための筑紫行幸の際、怡土県主(いとのあがたぬし:福岡県糸島市付近の県主)らの祖の五十迹手(いとで)が出迎えた。五十迹手はその言の中で、自分を高麗国(朝鮮の総称か)の意呂山(不詳。一説に蔚山[5])に天降った日桙の後裔としている[13]

その他

アメノヒボコの名はないが関連伝承として、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)によると、応神天皇の時に新羅国の女神が夫のもとを逃れ、筑紫国の「伊波比乃比売島」に住んだ(豊後国ながら大分県姫島[注 4][14])。しかしこの島はまだ新羅から遠くないため男がやって来るだろうと、さらに摂津国の比売島松原に移った。そしてその地名「比売島」は元の島の名を取ったことに由来する、という[5]

また『豊前国風土記』逸文(『宇佐宮託宣集』所引)では、新羅国の神がやって来て田河郡鹿春郷の付近に住み「鹿春の神(かはるのかみ/かわらのかみ)」と称されたとする伝承を記す[5]福岡県田川郡香春町香春神社に比定)。

古語拾遺

大同2年(807年)編纂の『古語拾遺』では垂仁天皇条において、新羅王子の海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し、但馬国出石郡に大社(出石神社)をなしたとする[3][2]

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