2023年5月11日木曜日

ロス・マクドナルド

ロス・マクドナルド

ロス・マクドナルド

ドルの向こう側

The Far Side of The Dollar (1964)

ロス・マクドナルド / Ross Macdonald
菊地光訳、ハヤカワ・ミステリ文庫




問題のある子供を収容しているラグナ・ペルティダ──"失われた潟"という名の少年院。ここから、実業家の息子であるトム・ヒルマンという少年が脱走した。少年院の院長からトムの行方を探すよう依頼されたリュウ・アーチャーは、しかし、トムが誘拐され、両親のもとには、身代金の要求があったことを知る。

調査を開始するアーチャーだが、彼の前に意外な事実が浮かび上がる。トムはミセス・ブラウンという女性と(彼の母親と言ってもよいくらいの年齢の女性と)一緒にいるところを何度か目撃されていた。
トムは本当に誘拐されたのか? トムとその女とはいったいどういう関係なのか? 

やがてヒルマン家に身代金の受け渡しの電話が掛かり、トムの父親ラルフ・ヒルマンは金を持って出ていった。一方、アーチャーは、ブラウン夫妻が泊まっているモーテルを訪れるが、そこには殴られナイフで刺されたミセス・ブラウンの死体があった。
アーチャーは、トムの少年院の仲間から、彼が脱走した理由を聞いていた。自分は養子で、本当の両親を探したかった……17歳の少年トムは、そう言っていた。
まやかしを認めないということが、新しい時代の、少なくとも、いくらかでもまっとうな新しい世代の、道徳律なのだ、と感じた。かなり正当な考え方だが、実際には、時によると残酷な結果をもたらすことになる。
── p.325

多少大袈裟に言いたい(何しろ読了直後だ)。この結末には、震撼した、入念なプロットがもたらす悲劇には、心底、震えた。「アメリカン・サイコ」とは、ロス・マクドナルド(とマーガレット・ミラー)にこそ、相応しい命名だ。
今年になってロス・マクは三冊目だが(『ブラック・マネー』、『ギャルトン事件』、『ミッドナイト・ブルー』)、彼の作品は、どれも最後のページを読み終わった途端、これは傑作だ! と唸らせるものがある。しかしこの『ドルの向こう側』は、本当に傑作だと思う。『さむけ』、『ウィチャリー家の女』に勝るとも劣らない素晴らしい作品だ。

(読了一日後)
一日経っても、やはり『ドルの向こう側』はロス・マク作品の中でも『さむけ』、『ウィチャリー家の女』に続く傑作だと思う。 もちろん、「ロス・マクドナルドの作品」なので、ストーリーは他の作品と似ている。ひとことで言えば、テーマは「父親探し」で、具体的な事件は失踪(この作品では「誘拐」絡みだが)である。たしかにワンパターンといえばワンパターンである。
また、前作『さむけ』もそうだが、男たちは「去勢」に怯え、女たちは「ヒステリー」というまさにギリシア語源の「子宮」を意味する病に陥っている。
あいつは、ミッドウェイ海戦以後、神経衰弱でだめになってしまったんだ。男がどんどん死んでゆく最中に、あいつを本国へ療養のために送還しなければならなかったのだ。男が死んでゆく最中に
── p.348
「あのブラウンの娘がイゼベルのような女でした。私の息子の身を滅ぼしたのです。世の中の穢れたことをすべて教え込んだのです」
声が変わった。かすかに頭の狂った何者かが、腹話術で彼女を通して説教しているようである。
── p.199
それにしても、この作品の張り詰めたような雰囲気、やりきれなさは、通常のエンターテイメントを超えているのではないだろうか。非常に暗くシリアスで重い。
しかしここでの感動はかなり深いものがある。文章は悩ましいくらいに魅力的で、そして何よりミステリとしての感興には──謎の真相に至る過程には、まるでエクスタシーのような快感さえ味わえる。

また、この作品では、リュウ・アーチャーの「過去の女性」スザンナ・ドルーが登場する。このスザンナ、ちょっと注目してよいだろう。というのも彼女はワーナーで脚本を書いていた、という設定なのだ。そう、マーガレット・ミラーも若い頃ワーナーで脚本を書いていた経験がある。そう思うとリュウとスザンナの「不思議な関係」は意味深だ。
「ハロー」
「リュウ・アーチャーだ。朝の三時にしては、ばかにばっちりしてるね」
「横になって、あなたやその他の出来事や人のことを考えていたの。誰かが──スコット・フィッツジェラルドだったと思うけど──魂の真の暗夜は、つねに夜明け前の三時のようだ、という意味のことをいってるの。私はそれをひっくり返したの。夜明け前の三時には、魂はつねに真の暗夜に包まれている」
「私のことを考えると、気が重くなる、ということかい?」
「ある考えの系列のなかではね。それ以外ではそうじゃないわ」
「謎のようなことをいうね、スフィンクス」
「そのつもりでいっているのよ、オイディプス」
── p.227
しかしこのスザンナとの邂逅も実は、精巧なプロットの重要な伏線になっている。ラストでの「犯人」に対するリュウ・アーチャーはある意味冷酷だ。それはこのスザンナとの出会いが影響していると思われる。
そしてそれは、ミステリ作家ロス・マクドナルドのシリーズ作品に対するストイックな態度を表明しているのかもしれない。

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