プルードン「日曜礼拝論」(初期プルードンにおける経済学的諸命題について)後藤修三 1967
中京商業論叢
1967年1月15日
Vol.14 No.3
初期プルードンにおける経済学的諸命題について (後藤)
(1) 「日曜礼拝論」 ([序文]。〔はしがき〕。 I II 。 )
後藤修三
《労働するための時間と休息するための時間とがある・・・・・・。 あなた がたのうちのいくにんかが全然休息をもっていないということは, 他のものたちがあまりにも多く暇をもっているということである。 人々よ, 真実と正義を探究せよ。》
(P.-J. プルードン 「日曜礼拝論」)
問題の所在。 -II 「日曜礼拝論」 の位置および主題。
- III, 内容検討 〈i〉。 Ⅳ, 内容検討 《II》
プルードンは1865年1月19日午前2時に死去した。 それで, 1965年は かれの死亡百年に相当した。 フランスはプルードン死亡百年記念事業2) を 行なっただろうか。 わたくしは寡聞にして知らない。 ただ, ジョルジュ・ ギルヴィッチ教授の百年記念書) をもったのみである。
日本では, プルードンは主としてマルクスとの関係において見られてき た。 しかし、 最近, 「プルードンの思想を「その成立過程をあわせた現実的 な全体』 という観点のもとに」4) 把握することを目的としてかれの諸著書 に関する内在的研究5) がなされはじめた。 わたくしは,後述するごとく, ブルードンの思想の十全な理解はマルクス経済学についての高度な知識と 経済学史研究の確固たる方法なしには不可能であると思う。ところで, 日本ではこれらが2つながら備わっているのであるから, 多くの人が試み だれもが成功しなかったこの「プロテウスたるプルードン」7)の全体像の 把握がなされるのは, 日本をおいてはないとわたくしは信じている。 さて,プルードンの経済理論の特徴は,不完全な形ではあるにせよ,フ ランス社会主義, イギリス古典派経済学, 8) ヘーゲル弁証法を統一して資 本主義批判を行ない, かれなりに経済学体系価値論, 貨幣論,資本概 念,利子論,信用論、恐慌論を構築した9) ことであろう。 かれはこの 意味では,根本的なへだたり (とくに方法論, 商品論, 歴史観)はあるに せよ,マルクスに一歩先んじていたといわねばならない。 10)
プルードンが集中的に古典派経済学研究をはじめた11) 時代は,スミス, リカードゥの見なかった資本主義の矛盾が表面化しつつあった時で, イギ リスでは古典派経済学は内部分裂しリカードゥ派社会主義者たちを生み, ドイツ, アメリカでは古典派経済学はそれぞれの国情によって批判される ことになる。とくにアメリカでは,D・レイモンド (Raymond), アメリ カ時代のリスト, ヘンリー・C・ケアリー (Carey) によって「アメリカ 体制」 派経済学が確立され, 古典派批判がなされる。 12 )
この時代にプルードンは生きることになる。 かれは, 新しい事態を目撃 しながら,現存の生産関係と乖離しはじめた古典派経済学の理論でもっ て, 当時の事態を説明し批判しようとする。 また同時に, そうすることに よってかれ自身の経済学体系を形成して行く。 プルードンは, 古典派経済 学という体系的に解体した理論的武器でもって,しかも矛盾が表面化した 現実にたちむかったわけである。 それゆえ, かれは4乗された矛盾の中に いたことになる。
プルードンは矛盾に満ちている, といつもいわれる。 それは以上の理由 による。 そのことでかれは責められるべきではない。 かれは, 古典派経済 学の武器でもって真実の非常に近くまで接近している。 しかしその方法の 欠点のために (古典派経済学を克服できなかったために) それを把握でき ずその発見をマルクスまで待たねばならなかった思想家として経済学史上 特異な地位を占める。 このような意味をもつ人物を克服することによっ て, マルクスの経済学, 方法論が成立することになる。13)
われわれは, プルードンの矛盾の解明 (これはメダルの一面で,他の一 面はマルクスの経済学の成立) , 「資本論」 研究の成果とすでに経済学史 学界の共有財産となっている内田義彦氏の業績である経済学史研究方法で もって, 行なわなければならない。 そして, その成功によってまた 「資本 「論」 理解が深められ, 経済学史の方法が完成するであろう。 われわれは, シュムペーターとともにプルードンを「ニューヨークで見るのが珍しい荷 馬車」と同一視し, かれの経済学を 「分析能力, 換言すれば経済理論の用 具を取り扱う能力を完全にもっていないために疑いもなく背理である...... 結論に到達するがごときタイプの推理」14) と断罪することを止めなければ ならない。 われわれはかえって, プルードンの経済学をかようなものとし でしか把握することのできなかったシュムペーターの経済学史研究の方法 に深い疑問をいだかざるをえない。
かように考えると, プルードン研究の経済学史研究に占める意義は,き わめて大きいものといわねばならない。 私はまずプルードンの矛盾の森の 中へ迷いこむことによって出発する。 すなわち, 彼の初期の主著に関して 15) を行ない, そこにおけるかれの主題, 関心 事, 議論を, 主として経済学的な命題を中心にまとめてみようと思う。 い わば,「曇った眼」16) でプルードンの主著を研究しようと思う。 「澄んだ 眼」でもって拙論を読んで下さり, 御教示を下されば, 望外の栄誉であ る。
1) たとえば, George Woodcock: Pierre-Joseph Proudhon, 1956, Routledge & Kegan Paul, p.268. 葬儀の模様について同書は, 4
2) かかる記念祭の思想史研究に対してもつ意義については, 大塚金之助著「解 放思想史の人々」 (昭和24年, 岩波書店) 参照。
3) G. Gurvitch: Pour le centenaire de la mort de Pierre-Joseph Proudhon Proudhon et Marx: Une confrontation (Cours public 1963. -64), 1966, Centre de documentation universitaire.
4) 森川喜美雄著 「平等」 の原理による私有財産批判 P.-J. Proudhon, » Qu'est-ce que la propriété ? 」 1962年 2月, 専修大学論集 第28号。
5) かかる研究に限定せず, 戦後のわが国でのプルードン研究文献を挙げると, つぎのとおりである。
(1) 小野重雄訳「労働権と財産権。 連合主義論。」 (解説約40ページを含 む。) 昭和24年, 社会思想史研究会出版部。
(2) 橋本純二著 「プルドンから見たプルドン」 1956年, 徳島大学学芸紀要 (社会科学) 第IV巻。
(3) 山川丈一著 「アナルコ・フェデラリストの生涯。 書評ウッドコック 『P.-J. プルードン」 1959年8月, 思想の科学 No.83
(4) 五十嵐豊作著 「権力への幻想を絶つ。 プルードン著「財産とは何か」。 古典の眼」 昭和36年8月28日, 日本読書新聞 第1119号。
(5) 佐藤茂行著「プルードンにおける分業と機械ーマルクスのブルード ン批判について」 経済学研究第12巻 第1号。
(6) 森川喜美雄著, 上掲論文。
(7) 拙著「プルードンの連邦主義の成立過程について 序説的な試 み」 三田学会雑誌 第56巻第8号。
(8) 抽訳 「P.-J. プルードン著 「もし1815年の諸条約が存在しなくなれ ば? 来るべき会議の諸行為』 (1)~(4) 〔完〕」 中京商学論叢 第11巻 第1号, 第2号, 第12巻第2号, 第13巻第2号。
(9) 拙著 「プルードンのウィーン体制観 (土) (下)」 三田学会雑誌第60 巻1号, 第4号。
(10) 北条喜代治著「プルードンの行動と思想」 1967年4月, 思想 No.514。
(11) 佐藤茂行著 「プルードンにおける財産批判の方法と経済理論」 昭和42 年7月, 経済論集17号。
(12) 訳 「P.-J. プルードン著 『イタリアにおける連邦と統一」 (1)~ (3)」「マッチーニとイタリア統一」 「ガリバルディとイタリア統一」 の論文のみ訳了。 中京商学論叢第13巻第3号, 第4号 第14巻第2 号。
わたくしの入手できたのは以上であるが,他の多くの貴重な研究文献を見逃 していることと思う。 お気づきの方はわたくしに御一報下さることを懇願する 次第である。
6) 従来のプルードン研究者たちの方法の欠点については、拙著「プルードンの ウィーン体制観 (上)」 (本稿注5の9参照) における 「はじめに」 の注(4) 注 (5) 参照。
7) C. Bouglé: Socialismes français du 8) 当時 1830-48年のフランス社会主義者たち (フーリエ主義者, サン・シモン 主義者, 共産主義者) が経済学的分析方法に欠けていたことおよび当時にあっ てプルードンのみがそれをよくしたことについては, 佐藤論文 (注5の11) pp.101~4 および pp.105~6 参照。 ••••••当時のプルードンはフランス社会 主義者のなかでは唯一の経済学に精通した存在であり、 彼はその経済学を用い て 「財産とは何か」 の中で経済現象と財産制度の結びつきを証明し,これによ って彼独自の財産批判の社会主義理論を展開したのである。 (p.106)。
9) かれの経済学体系を概説したものには, つぎのものがある。 ジイド・リスト 著宮川貞一郎訳「経済学説史」 (上巻,昭和11年, 東京堂) の第2編第5章 「プルードン及び1848年の社会主義」 (pp.411~459)。 ローゼンベルク著直井武 夫,広島定吉訳 「経済学史」 (第3巻, 昭和12年, 白揚社) の第三篇 「プルー ドン主義」 (pp. 250~417)。
10) この点についてのべられているもののうち. 北条論文 (注5の10) 2. マ ルクスとプルードン (pp.61~63) をあげておく。 「マルクスの著作〔哲学の貧 困〕 の真に意味するものは, いたるところで私が, 彼と同じように考え, しか も私がその考えを彼より先にのべたことを、 彼がくやしがっているということ だ。」 「ほんとうは, マルクスが嫉妬しているのだ。」 【プルードンのマルクスの 著作に対する書き込み。 (p.61) また, 「〔ブルードンに対するマルクスの批 判のはげしさは, この場合、 むしろ両者の距離のちかさをあらわすものとみる 「べきであろう」という水田洋氏の言葉を引用しながら, 北条氏はつけくわえて いる。 「......サン・シモンやフーリエなどの「空想的社会主義者を高く評価 したマルクスが, 「科学的」 社会主義者にずっと近いブルードンに対して, 逆 になぜあれほどきびしいのか, という疑問にも一つの回答がえられるように思 われる。」 (p.63)。
11) この点については上掲佐藤論文が示唆的である。 「……ここで (la pension Suard を得たプルードンは1838年11月来パリ在である引用者) プルード ンは,スミス, マルサス, リカード, セー, シスモンディー, ロッシなどを 『校正工の精密さをもって』 読破し, これらの経済学説については, フーリエ 以上に深い知識をえたといわれる。……ブルードンは「財産とは何か」を携え て社会主義者として登場したときには,フランス社会主義者のなかでは, 経済学に精通した唯一の思想家として注目されるに至ったのである。」(p.103) 「マルクスによれば『プルードンはこの最初の著書の出版後にはじめて経済学 の研究を開始したのであって、 彼は彼の提起した問題を解決するためには, 嘲 罵によってではなくて, 近代経済学の分析によって回答しなければならない, ということを発見したのである』と述べているが,この指摘は, ・事実問題 としては不正確である。」(p.122)。
12) 久保芳和著 「アメリカ国民主義経済学」 (小林昇編 「経済学史小辞典」, 1963 年,学生社, pp.238-240)。
13) たとえば, 森川論文 (注4) 参照。 「Proudhon の 『社会主義』は,市民社 会についての彼なりの経済学的分析をその基礎にしており, したがって Marx にとって Proudhonisme の克服はなによりも彼の経済学の克服を意味したの である。」(pp. 34 - 35 ) 「…..…いわゆる初期 Marx 研究も単なる社会思想家 Marx の研究としてではなく, Marx における経済学的思惟の成長過程として 把握せねばならぬという筆者の視点では, Marx の社会主義のこの成立過程は Proudhonisme との対決のうちにこそ、もっとも明白に示される,と考えら れるからである。」(p.35)。
14) シュムペーター著,東畑精一訳「経済分析の歴史」 (1957年,岩波書店) P.965。
15) P.-J. Proudhon: De la célébration du Dimanche, p.38. 16) 内田義彦著「経済学史講義」(1961年,未来社) p. 130, および同著 「眼の はなし」(「図書」 1967年3月号)。
II
プルードンの初期の作品のうちもっとも抜きんでた巨峰は, 「財産とは 何か」(1840)と「経済的諸矛盾の体系または貧困の哲学」 (Système des contradictions économiques ou philosophie de la misère, 1846)であ る。とくに前者は当時の社会に大きな衝撃を与え, 1) プルードンの出世作 となったものだけに,それを中心とする前後の作には充分の注意が払われ なかったように思える。 日本におけるプルードン研究も, 「財産とは何か」 をかれの処女作と見なして, 2) これの解明に集中している。 しかし,プ ルードンの財産論を中心とした初期のかれの議論は,年代的にも連続した 4つの作品においてそれぞれ視角を変えながら結実しているのであって, かれの初期の を検討しようとするものはこの4 つの作品を全体として把握しなければならない。 3) その4つの著作とはつ ぎのものをさす。
1, 「公共衛生 道徳 家庭と社会との諸関係との関連のもとに考察さ れた日曜礼拝論」 (De la célébration du dimanche, considérée sous les rapports de l'hygiène publique, de la morale, des relations de famille et de cité, 1839) 〔以下, 「日曜礼拝論」 また は Célébration と略す。]
2, 「財産とは何か? または権利と支配の原則に関する諸研究, 第1論 文」 Qu'est-ce que la propriété ? ou recherches sur le principe du droit et du gouvernement. Premier mémoire, 1840.) 〔以下, 「財産とは何か」 または Propriété と略す。〕
3, 「財産とは何か? 第2論文, 財産に関するブランキ氏への手紙」 (Qu'est-ce que la propriété? Deuxième mémoire. Lettre à M. Blanqui sur la propriété, 1841) 〔以下, 「ブランキ氏への手紙」 ま たは Lettre à M. Blanqui と略す。]
4, 「財産所有者たちに対する警告または財産の一弁護に関するヴィク トール・ (Avertissement aux propriétaires コンシデラン氏への手紙」 ou lettre à M. Victor Considérant sur une défense de la propriété, 1842) 〔以下,「コンシデラン氏への手紙」 または Lettre à M. Considerant と略す。〕
これらの諸論文における力点の推移, およびわたくしがこれらを4部作 として考察すべきであると主張する根拠は, プルードン自身のこれらの作 品に対する言及によって示される。 これらの関連を知るためにも, 少々 くなるが引用しよう。
「編集長殿 〔コンシデランのこと。 当時かれはフーリエ主義者たちの 機関紙 Phalange の編集長であった。 一引用者), ここにおいてすべて の解答としてわたくしの一連の公刊物を思い起こすことを許していただ きたい。このことは, わたくしが今日まで財産についていってきたすべ てのことの要約にもなろうし, またその問題の現在の所在を決定するこ とにもなりましょう。
「1839年に公刊された最初の論文 〔「日曜礼拝論」 のこと引用者。〕 において, わたくしは、諸条件の平等の原則をその初原的な自然発生的 な形態において, 提起した。 わたくしは, 社会諸思想の秩序においてこ の原則が自然の最初の霊感であり, 哲学者の最初の思想であったことを 示した。つぎに, かかる命題の歴史的証拠として, わたくしは,最古の そして最も有名な古代の立法者 〔モーゼのこと引用者。〕の政治一宗 教的体系を思い起こした。
「プラトンやルソーのような古代と近代の哲学者たちが開陳している ような形での諸条件の平等の命題を再びとりあげることによって,すな わち諸条件の平等を科学的真実 (vérité scientifique) としてではなく 本能的な思想 (idée instinctive) として提起することによって, わたく しは古いユートゥピアを復活させたにすぎなかった。 そのようなユート トゥピアではすべての異論の解決にはならなかった。 ひとはいう, 諸条件 の平等は不可能である, 政治経済学の諸法則, 諸能力と諸気性との多様 性は、諸条件の平等に対立している. 他方, 財産は心理学, 法学, およ び歴史によって証明されている, と。
「そこで, これらに対する反対命題, すなわち財産は正義を破壊すると いうこと, 財産は政治経済学の攪乱要素であるということ 諸条件の不 平等の原因は性質の不平等ではないということ, 等々を正確に論証する ために, わたくしの第1論文 〔「財産とは何ぞや」のこと引用者。〕が 出版された。
「ここにおいて, 1つの反対論が提起された。 あなたの推論はすべて 正当であり, あなたの弁証法の否定的部分はすべて真実である, しかし 諸事実は厳としてわれわれを支配しており, あなたのいうことを否認し ている, 歴史は形而上学に反している, すべての時代かつすべての場所 の現実は理論と対立している, と。
「すぐさま, わたくしは, 歴史を概観することによって, 社会の運動と 諸科学の進歩は,財産を堅固にする傾向にあるどころか, 反対に財産を 破壊する傾向にあるということを証明した。 これが, 第2論文〔「ブラ ンキ氏への手紙」 のこと引用者。 〕 の主題であった。 そこで教説の修 正がおこなわれたとはだれも非難できない, しかしその表現形式がより 穏やかになったということが2種類の人々を憤慨させた。 すなわち, 独 占者 (monopoleurs) の半数または4分の3をギロチンにかけなければ 自由は危機におちいると信じている極端な平等主義者たちと, 暴力より もはるかに理性を恐れる特権階級側の理論家たちであった。 しかしすべ ての公平な読者にとっては,財産は弱まって行くということ, またその とき以後は財産を追撃するには及ばず, それを解明するだけで十分であ るということは, 明白であった。」 4 [したがって, 「真実を財産所有者に いわなければならない。」5) これが「コンシデラン氏への手紙」 の主題で ある引用者。]
かかる異なった視点から検討された初期プルードンの財産論,その裏返 しとしての平等論を中心的論題とする4部作を,この一連の研究の対象と したい。 この4部作の先頭をなす6) 「日曜礼拝論」 はプルードン作品中い かなる地位を占めどのような諸主題をもつか, 内容検討にさきだって見て おこう。
この論文の生い立ち7) であるが, Académie de Besançon が 「公共衛 生道徳家族と社会との諸関係との関連のもとに考察された日曜礼拝 の効用について」 (De Putilité de la célébration du dimanche, sous les rapports de l'hygiène, de la morale, des relations de famille et de cité)8) という論題で懸賞論文を一般から募集したことに端を発している。 このことが発表されたときプルードンは同アカデミーから Suard 奨学金 をもらって1838年11月以来パリに遊学中であって, そこでのかれの研究も 最初の言語学研究から自分の社会的経験植字工, 校正係, 印刷工場経 営そして破産の解明をそこにもとめた経済理論の研究に向けられてい たところであったので,この懸賞論文を正義と平等についてのかれの諸思 想を開陳する機会と考えた。 そして, かれはこの論文を, アカデミーの判 定の如何にかかわらず, 公刊するつもりであった。 それゆえ, この論文は, かれがこれまでの言語学研究を放棄して社会批判の道, 反社会的態度をは じめて公にとることになるそして生涯それをつづけることになる。
最初の論文として注目されねばならない。 かれじしんこのことをはっきり 述べている。 「しかしわたくしがこの論文の著者だと公に世間の人が知っ たなら一寸した大騒ぎになりましょう。 わたくしはルビコン河を渡った (passer le Rubicon) ばかりだともいえましょう。」 9) かれの論文はアカ デミーの審査の結果銅賞 (une médaille de bronze) を得た。10) つぎに かれはこれを初志どおり発行する。 この出版にあたってかれは, 思想は断 じてまげなかったが文体は訂正する。 というのは, かれはじぶんの身を検 察庁の手のとどかぬところにおくために, 文体に関しては 「純粋に科学的 な形式」 (la forme purement scientifique) をとる。 とはいえ, かれの esprit de combativité (闘争心) は少しも減少していない。 「わたくしの いわねばならない恐るべき諸事物 (les effroyables choses) のためにわ たくしを起訴しようとするのならそうしてみるがよい」11) という心構えで あった。
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このような理由でかれの懸賞論文自体と1839年にプルードン自身の手に よって200 部印刷された論文とは異なっている。 しかも,これら両者とも ブザンソンアカデミーおよびブザンソン図書館においても紛失して現存 していない。 われわれの見ることができるのは1841年版と1850年版および それ以後のものである。 1839年版と1841年版との大きな差異は,12) 1841年 版の Préface (序文) の内容が大きく変更されたと推察できることであり そこで1839年版に対する批判についての言及と有名な (財産とは何か? それは盗みである) という言 葉が見いだされることである。 したがって, プルードンの思想形成を問題 とするとき,この 「序文」 はかかるものとして味読する注意が必要であ る。 13) われわれの吟味するテキストは, 1850年 Garnier frères 出版のも のである。
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さてこの作品のプルードン全著作に対してもつ意味は, ここにおいてか れがのちに発展させることになるほとんどすべての命題が素描されている ことである。 「この論文においてプルードン的思想の根本的大綱の多く, すなわちかれの平等主義, かれの財産理論, かれの自然的内在的正義につ いての諸思想が形成されている・・・・・・。 かれは経験も研究も比較的にたいし て蓄えることなしにかれの経歴のまさにその発端から, かれの全生涯をつ うじてかれがとりつづけることになる社会的態度を展開したのである。 か れが後年においておこなうことはその態度を洞察および研究によって拡大 し明確にすることでありそれを新しい思想の諸分野に拡張して行くことで あった」14) と, ウッドコックも述べている。
この論文における主要な議論は以下で詳説されるが,ここにそれらを列 挙しておこう。 まず, かれの社会科学に対する考え方が明白にあらわれて いる。 それは証明可能なもの, したがって証明の対象とされ, 芸術とか権 威とか専断的なものとは次元を異にすると考えられる。 そしてその科学の 方法は批判的観察の方法である。 たとえば, かれはいう, 正義と平等と は,数学的真理と同様に, われわれの同意 (assentiment) から独立した 2つのものである。 それらを実施するには, それらを認識しさえすれば充 分である。 それらを目に見えさせるには, 思索と研究のみしか必要でな い,あるいは,人間とその諸機能の性質およびそれらの諸関係にもとづく 絶対的な, 厳密な, 社会に関する科学, すなわち発明するのではなくて発 見しなければならない科学が存在するにちがいない, と。 また, かれの方 法には諸対立をはっきりと暴露しこれらを総合しようとする努力がすでに 見られる。 このことは, Grün と Marx をまたずしてすでにヘーゲル的方法を理解していたことを示している。いわば,すでにこの時期にかれの 哲学的基盤は固められていたのである。
この論文の基調はモラリストとしてのプルードンである。 これは 「日曜礼拝論」 をよむものの第一印象であって, 政治学者または経済学者として よりもモラリストとしてのかれが強く浮かびでている。 もっとも後述する ごとく,私見ではとくに〈II〉においては, モラリスト・プルードンとエ コノミスト・プルードンが一体化している感じである。 モラリストとして かれは, 諸条件の平等は理性と一致しキリスト教の精神とも一致している が, 財産がそれをさまたげていると主張し, エコノミストとしてかれはこ の主張を経済学的知識によって正当化しようとつとめている。 また, 同時 にかれの求める社会的平等の状態の説明とそれへの移行が言及されてい る。 要するに, 「平等, 自由, 財産の諸濫用の訂正, 労働権の認識が, ま さにそこにおいてプルードンの社会政治学の基本的諸命題である。 かれは それらの諸命題の諸対立を融合させそれらの諸矛盾を解決するためにかれ の一生を過ごすことになろう。15)
以上の諸命題はプルードンをとおして持続して行くことになるものの初 期の形態であるが,のちに発展させられるべき諸理論の暗示も多く見い出 される。 たとえば, 集団的生産およびその諸結果という事実に対する認 識, 正義の実現のための力の法に対する訴え (「〔財産正当化のために] あ なたがたは占有,譲渡, 時効・・・・・・を援用している。 ではよろしい, われわ れは力に訴える。財産所有者たちよ, みずからを防衛せよ。」) 権威に対 する批判 (1個人の命令はそれが理性と一致しないかぎり無である。 王制 たとえそれが諸規則に服従されていようと. 善意で保護的であろう と一が存在するところでは, いたるところで, それは濫用であり横領で しかない。 同じことはすべての貴族政治, 民主主義についてもいわれなけ ればならないであろう。」), 市民たちの意志と勇気とによって実現される であろう社会進歩に対する信念 (「宗教の創立者たちの時代と同様に偉大 な改良家たちの時代も永久に去ってしまった。 社会自体が決断しなければ ならないのであり, 社会はみずからの手で自己の救済をしなければならな い。」), 等々が, それらである。 さらに, 実際的解決法ははっきりと提案さ れていないが, この論文の最後のところ16) で暗示されている。 財産論の後 に展開される部分, すなわち用益権的で世襲的に譲渡しうる占有の諸理 論,自然的不平等を訂正する教育論と富の平等についての諸理論はすでに 考えられていた。 また, ルソー, サン・シモン, フーリエ批判, 教会ない しは宗教批判17) も展開される。 かくも多様な諸命題を含みもつプルード ンのこの 「日曜礼拝論」 についてはまさに, オゼラリベ氏の名言が捧 げられるべきである。 「熱心な読書家であり, 思索と批判のすばらしい才 能を与えられたプルードンは若いときから新しい諸思想で豊富になってい るかれの体系をほぼ所持していたようにわれわれには思われる。 山の湖の ようにそれは山頂からくだりおりるすべての小川と雲の降らすすべての水 滴とで溢れんばかりであった。 それはそこにあつめたすべてのものを,も はやおのれのなかに, 保つことはできない。 湖水はたえきれず溢れでる, そして奔流となって平野を水びたしにし肥沃にさせる。18) われわれは以 下, プルードンの論旨に沿いながら, これらの諸命題がいかに開陳されて いるかを詳しく検討しよう。
1) たとえば, Karl Marx: Die heilige Familie (1844) におけるつぎの評 言を参照。 「プルードンの著作『財産とはなにか?』 は近代経済学にとり, シェースの著作 『第三身分とはなにか?』 が近代政治学にたいしてもったの と, おなじ意義をになっている。」 (マルクス・エンゲルス全集2, 大月書店, p.29)。 「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言であり, したが って批判的批判家やなにかの文学的駄作とはまったくべつの歴史的意味をもっ ている。」 (同書、p.39)。
2) 前掲森川論文において氏は「1840年に書かれた Proudhon (1809~1865) の 事実上の処女作たる , Qu'est-ce que la propriété" (p.34) と書かれてい る。
3) 前掲佐藤論文 (T, 注5の11) において 「財産とは何か」 を中心としながら もこれら他の3著に対しても言及しておられる (pp.108-8, pp.122-3)。 し かし充分に論をつくされてはいない。
4) Lettre à M. Considérant, pp.225-6.
5) op. cit., p.172.
6) しかしこの 「日曜礼拝論」 をもってしてもブルードンの処女作とはしがた い。 これ以前および同年代にかかれたものにつぎのものがある。
(1) 「一般交法試論」 (Essaide grammaire générale, 1837).
(2) 「シュアール奨学金への志願書」 (Lettre de candidature à la pension Suard, 1838).
(3) 「文法的諸範疇とフランス語の若干の語源に関する研究」 (Recherches sur les catégories grammaticales et sur quelques origines de la langue française, 1839).
(4) 「カトリック百科全書」 (Encyclopédie catholique, 1839) [プルード ンの署名のもとに書かれた諸項目は Analyse から Application に至 る29項目である。]
14
(1), (3), (4) t extraits Oeuvres complètes de P.-J. Proudhon, nouvelle édition (Librairie Marcel Rivière), Ecrits sur la religion, 1959 に所収, (2) は同全集 Qu'est-ce que la propriété ?, 1926 に収録され ている。
7) この間の事情は, George Woodcock: op. cit., pp.36-44. あるいは, 同著: Anarchism, A history of libertarian ideas and movements, 1962, Penguin Books, pp. 103-4, 参照。 8) プルードンのこの書物の題名については多少疑問がある。 わたくしの推論で は、ブザンソンアカデミーに提出した草稿と1839年版の題名は, アカデミー の指示した論題どおり, De l'utitité de la célébration・・・・・・ となっていた にちがいない。 ところが, プルードンがく再検討し訂正し······ 縮少した> 1841年版において De l'utilité が削られ De la célébration. となったと思 われる。 この推論の根拠はプルードンが Qu'est que la propriété ? (1840年) においてじぶんのこの書物を De l'utilité・・・・・・ として引用していることによっ ている (Propriété, p.121)。
9) Lettre à son ami Hughenot, le ler juin 1839, citée par M. Michel Augé-Laribé, dans son Introduction à p.19, わたくしの ここでの説明はかれの Introduction によっている。
10) ブザンソン図書館の管理人, Gazier 氏によると, プルードン論文の審査経 過はつぎのとおりである。 主査 l'abbé Doney はプルードンにく真に優秀な る才能を認めたが, 主題とは無関係な政治経済学 (économie politique) お よび社会組織 (organisation sociale) の諸問題に接近していることを非難し た (Intro., p.20)。
11) Lettre à Ackermann, Besançon, 9 septembre 1839. Correspondance, t. I, p.150, citée par M. Michel Augé-Laribé, Intro., p.21.
12) プルードンは, 1839 と 1841年版の差異をつぎのように説明している。 Intro., p.22) とは矛盾しない か。 あるいは, Augé-Laribé 氏の la préface は la 〔même] préface と読 むべきか。
13) 小野氏は, 「日曜礼拝論」 に対する言及 (注5の1) において, 「さてプルー ドンは西欧文明史上における近代思想の意義を述べることから筆を起こす」と 書かれ, Préface の文面を, かかる考慮なしに, 本文と直接的にむすびつけら れる。
14) George Woodcock, P.-J. Proudhon, pp. 39-40.
15) Augé-Laribé: Intro., p.27.
16) Célébration, p.94.
17) Augé-Laribé 氏は, つぎのごとく書いている。 「地上に正義を探すプルー ドンは, 特権を支持している教会とは非常に早くから決別し,施しを説いて正 義を無視する教説を拒否せざるを得なかった。 そのかわりに理想に対するかれ のはげしい熱愛, 絶対的なものに対するかれの追求はかれを理神論者にするこ とができた。 実際, 神はこの論文と初期の諸論文の言葉において非常に大きな 地位を占めている。 しかし神に対する訴訟はすでに始まっていた。 『日曜礼拝 論』 の序文において神は永遠の X (un X éternel) と定義されている。 『財産 とは何か』 のおわりのところで神は自由と平等の神 (Dieu de liberté et d' égalité) として祈願されている。 それはプルードンによって創造された神であ る。」(pp.29-30)。 以後の諸著作におけるかれの神に対する考えから推して もこのことは正しいと思われるが, 佐藤氏が P. Louis と J. H. Jackson に よりながら,「当時のフランスのほとんどすべての革命思想はキリスト教, ま たは理神論にとりつかれており,プルードンだけが例外であった」 といわれる のはどのような理由によるのであろうか (佐藤氏前掲論文 p.109)。
18) Intro., p.30.
III
「序文」 は前述のごとく1841年に書かれたものであるのでここでの考察 では省き,最後のところで展望として取りあげることにしよう。 「日曜礼 「拝論」 は I~Vの諸節からなり第1節の前に 「はしがき」ともいうべきも のがある。 われわれはそこからわれわれの検討をはじめよう。
十戒1) (Décalogue) の名のもとで知られているモーゼによってヘブラ イ人たちに与えられた憲章 (la Charte) の第1条の第4パラグラフに日 曜礼拝の規定があることをプルードンは指摘し,これについて論じること はモーゼの立法の全精神を論じることであると主張し, 懸賞論題と十戒の 検討とを結びつける。 そしてつぎのようにこの論文全体のテーマを示して いる。 「ユダヤの立法者の目的が,第7日目の礼拝に関するかぎり, 4重 であるということ,すなわち同時に市民的, 家庭的, 道徳的かつ衛生を考 慮したものであるこの目的は, したがって, 国民の創立者の思想が包括す ることのできるもっとも広大でもっと普遍的なものであるということをわ たくしが確証することに首尾よく成功するならば, つづいてわたくしが, われわれの時代には知られていない哲学のいかなる諸原則によって第4の 戒律が考えつかれたか, それはいかにして認められたか, それは人民の運 命にいかなる諸結果を及ぼすことになるかを示すならば, わたくしは課題 のすべての条件を満足させることになると信ずる。 そしてモーゼの諸制度 の崇高さを示すことによってわたくしはわたくしの検討する問題の深みに 達するであろう。」(p.37)
かかる観点から第1節ではモーゼの立法の形成, 精神, 社会に対しても つ意義, その意義の消滅が論ぜられる。 モーゼの諸法を考察する場合も全 体と切りはなして1つの法 (たとえば日曜礼拝に関する規定)を問題とし てはその法の真意はつかめないから, モーゼの諸法全体が考察されねばな らない。モーゼは弁証法的構築物を打ちたてるのに専念したのではない。 かれは人民の要求に応じて, また解決をせまられる問題が起こるに応じ て,法を発令した。 それではかれの諸法は支離滅裂かというとそうではけ っしてない。 それらは神意によって与えられたもっとも単純でもっとも荘 厳な体系の原基的思想である。 すなわち, 十戒は「モーゼの五書」 (le Pentateuque) に散在している詳細な一群の法令の縮少された表現, もっ とも一般的な定式であって, その戒律の数, 順序も偶然的なものではな い, というのは,それは道徳諸現象の発生学であり, 巧妙に発展させられ た賢明な分析にもとづく諸義務と諸犯罪の分類表2) であるからである。 ひ とのすべての義務はこの表によって表現されており, これと一致しないす べての戒律は専断的で不正で不道徳的である。 ひとはアリストテレスの諸 範疇をほめそやすがモーゼの諸範疇については一言もいわないのである。 かような確実な基盤にささえられたモーゼの十戒は神の作ったものと同じ 地位をしめる。 ここでの課題はかかる諸戒律の第1法のそのまた一部分, すなわち第4番目のものについてにすぎない。
このようにモーゼの十戒がすぐれたもの, 絶対的なもの, 神の作ったも のと同資格なものであるのは, モーゼが直観力と同時に観察力をもってい たことに帰せられる。 すなわち, 「自然の観察にもとづき, 物理学概要の諸 公式が諸物体の諸現象から推論されるのと同じやり方で道徳的諸現象から 推論された諸法則および諸制度は不動であった。 そして, それらを変更し たり取り除こうと提案したもはすべて極刑に処せられた。」 (p.40) 社会の 諸法則を絶対不変なものととるかかる観点から, ルソーおよび民主主義批 判がなされる。 Contrat social においてルソーはいう。 くある定まった日 に人民が合法的に法律によって召集されて, そしてその召集のために何ら の他の形式的な召集状をも必要としない, 何によっても廃止されたり, 延 されたりすることのない定まった定期的な集会があるべきである,と。 ルソーは人民をこの集会に出席させ主権者としての行為を行なわしめよう としたのであるが, このルソーの要求をモーゼは立法化した。 しかし, 審 議会 (assemblée délibérante) を開くためにモーゼはそうしたのではな い。 というのは、権利の返還要求をすべき必要もなく特権を廃止する必 要もなかったので審議すべきものは何もなかったからである。 3) 「ヘブライ 人たちの政治は、若干のものたちが想像しているような社会契約方式の 民主主義 (démocratie) では全然なかった。 それはまた僧侶たちの支配 (gouvernement des prêtres) という意味での神政 (théocratie) でもな かった。 人民に神との盟約 (Alliance) に忠実であることを誓わせること によってかれの共和国を創設したモーゼはかれの体系を大衆の判断に従わ せたのではけっしてなかった。 正義それじたい, 絶対的真実は承認や協約 の対象とはなりえない。 一切の責任を引き受けてその良心の声に従うのが 自由な人間はその声に背くことができないようになっていた。 かくしてユ ダヤ人民は法に従ったのである。」 (p.40) 科学と研究によってしか解決で きないような問題について起立と着席によって決定するということはまさ に近代の驚異である。 大多数の優位 (la prépondérance des majorités) は当時にあっては最高にばかげたもの (souverainement absurde) に思 えた。
18
ルソーの一定の日に集会を行なうべきであるという要求をモーゼは立法 化したが, それはそこで討議をし票決をするためになされたのではない。 それではなぜモーゼはそれを定めたのか。 その理由はモーゼの深い人間観 察にもとめられる。 モーゼは人間の性質をつぎのような矛盾に満ちたもの と見なしていた。 すなわち, 人間というものは社会的なものとして生まれ できているものの, かれを孤独の方へ連れ戻す獰猛な本能 (un instinct farouche) によって知らず知らず支配されている。 理性, 利害関係, 友情 すら, 人間の自然的な怠惰 (sa paresse naturelle) に打ち勝つには必ず しも充分ではない。 苦悩と労働 (la souffrance et le travail) は人間を その同胞たちに近づけるどころかかれをかれらから引き離す。 人間の暗澹 たる悲しみはかれの思考の活発さや沈思によっていや増す。 モーゼはかか るものとして人間を見, 40年の孤独な放浪生活ののちに、 突然 (tout à coup) 悟る。 「人間は1人で生きるために造られたのでは全然ない。 かれ はみずからをその同胞に負っている。 内的生活はこの世のものではない。 この地上には行動がなければならない......」, と。 そこで, モーゼがかれの 若い国民に欲したのは, 民会 (comices) でも戦争のための会合 (champs de mai) でも集会 (rassemblements) でも定期市 (foires) でも政治の統 一でも習慣の共通化でもなかった。 これらはモーゼの欲したものから生じ た諸結果にすぎない。 モーゼの欲したのは何らかの具体的な事物ではなく _ (le signe) であった。 かれがかれの人民の中に創造しようと欲したの は,愛と信念の共有 (une communion d'amour et de foi) であり、知 性と感情の融合 (une fusion des intelligences et des coeurs) であっ た。 それは,人々の間に同じ祖国に対する愛, 同一神に対する崇拝, 同じ 幸福な家庭条件, 運命の連帯性,さらに同じ記憶, 同じ希望が作り出すと ころの, 物質的諸利害関係よりもはるかに強力な目に見えないきずな (lien invisible) であった。 つまり, モーゼは諸個人の集中体 (une agglomération d'individus) ではなくて, 真に友愛的な社会 (une société vraiment fraternelle) を欲したのである。 ところで, この誕生させられ るべき社会感情を維持して行くには目に見える何物かが必要であった。 す なわち, 徴 (le symbole) が有効であるためにはすべての意識をそこへ引 きつけなければならない。この役目をになうものとして, 安息日の制度が 制定されたのである。 「すべての法と制度の全体系はその体系を包容しそ してそれを1つにまとめる特殊な1制度, すなわちその体系の王冠であり 基盤である制度によって保護される必要がある・・・・・。」 (p.41)。 モーゼの制 度の王冠が安息日の制度である。
この安息日には, 労働は中止され, 民衆の教育と普遍的な競争の日とし て人々の接近によって人々を関係させ, 利益を追うことをやめ理性をより 高貴な対象に向けさせるようにした。 また, 風習を温和なものにし、 相互 の福祉を刺激し、 国民的性格を発展させ, 富者をより自由主義的にし, 貧 者には福音をとき, すべての人々の心に国家の愛を高揚した。 かように, 安息日の制度によってモーゼの精神は維持される。 この制度の最大の結果 は教育であった。 その教育にあっては,調話学的な学問ではなく宗教と道 徳が教えられた。 また子供やひまな好事家たちではなく全人民が教育され た。 この時代の宗教というのは, 支配についての科学であり行政的市民的 諸義務の認識であり権威の原則であり規律の義務であり秩序および均衡の 諸条件であり自由の諸保障であり平等であった。 すなわちこの時代の宗教 は初原的な諸学問の混淆であった。 われわれのキリスト教はかかるものと はほど遠いものといわねばならない。 また, 異教徒から改宗したキリスト 教者の中にサン・ポールが作り出そうとしたのはかかる精神であったが, それをよくなしえなかった。 というのはかれの時代から富の傲慢さと享楽 の贅沢さがユダヤ人たちの集会の中にすら忍びこんできたからである。 す なわち, あるものは飽食し他のものは飢え死にするといった貧富の差がは げしくなってきて 安息日の集会は何ももたぬ人々を侮辱するだけのもの となった。 日曜日の主な催しは施しと憐憫の諸行為となった。また, パリ サイ人たちの間にあっては安息日の遵守が非常に綿密におこなわれたので キリストは, 《安息日は人間のために作られたのであって人間が安息日の ために作られたのではない (Le sabbat a été fait pour Thomme, et non Phomme pour le sabbat)> (p.45) とかれらを非難したほどである。 今 日では安息日は都会では動機も目的もない祭日になりさがっている。 田舎 ではなるほどそれは形式的には荘厳な宗教的雰囲気を示す。 しかし日曜礼 拝のすべての効果は発揮されていない。 かかる堕落の原因として2つの説 明がなされている。 1つは宗教自体の堕落であり,もう1つは,モーゼの 見なかった事態が生じたということである。 「モーゼにとっては全然存在 していない・そして時代がいまだ消滅させていない 不可避な諸環境がそ の制度の発展を止めていなければ, 日曜日の制度もまたかかるもの[その 本来の姿であったにちがいない」 (p.46) 「宗教は心に対する影響力を全 部が全部失っていないにせよ, 長い間にわたって, それは理性に話しかけ ることを止めてしまった (強調引用者)。 そしてわたくしはそのことで宗 教を責めようとは思わない,というのは宗教はその性質上不動であるから である (同上)。 それは長い間をおいてそして無限の遅れののちになって はじめてやっとその教説を修正する。 そのうえわれわれの習慣やわれわ の社会関係の中におこる突然の諸変化が,いわば、宗教の不意をおそう (同上)。 宗教は新しい事態に順応しまたはそれと調和する時をいまだ持っ 「ていない」 (p.47) なるほど牧師は道徳を説く。 「しかしかれは, 社会秩序 の諸条件や,かれが予告する楽園における至福者たちの秩序において平等 が支配しているのと同様に市民たちのさまざまの諸階級の間でこの世にお いて支配すべき平等の諸条件について語るであろうか。 ······かれは進歩に ついて,すなわち宗教的諸教説や政治的諸制度のたえざる変化について, 語るだろうか」 (ibid)。
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ここでのプルードンの立論は, 日曜礼拝の制度は絶対的真理たるモーゼ の体系の王冠であるというテーマを中心として一方では民主主義批判を行 ない他方では宗教ないし教会批判を行なうという形で, なされていると ころで,われわれはここでつぎの3点を問題とせざるをえない。 (i) 絶対 的真実とは何か。 (ii) それと歴史との関連はどうか。 (iii) 歴史的真実を プルードンは認めるのか。 (i) についてはプルードンはくりかえしいって いる。 これは新しい科学 = 社会科学によって発見されるものであって 発 明されるものではない。 絶対的真実は承認や協約の対象となるものではな い。 それはプルードンにあっては正義, 自由, 平等であるが, 数学の真理 と同様に,われわれの同意とは無関係なものである。 ところで, この真実はいかにして発見されるのか。 新しい科学における批判的観察によってで ある。 ところが, 古代にあってはすなわち初原的形態にあっては, 天啓, 直観力, 観察力を与えられた天才によってであるとされる。 たとえば,絶 対的法を創造したモーゼ自身は何であったかと自問して, プルードンは答 える, 「神の霊感を受けた人、 すなわち聖者, 哲学者, 詩人であった。 そ の法を創設したかかる叡知の解説者であるかれは, さらに, かれの熱狂と かれの徳によってその叡知の伝令使であり, 象徴である」 (p.46) と。 こ の永遠の絶対的な真理という概念にとらわれているかぎり, プルードンは 当時の古典派経済学者たちと全く同列である。 プルードンはかれらを克服 できないであろう。 (ii) については、両者の関連は明白でないが, 現実が 絶対的真理から乖離して行くことはのべられている。 たとえば,上述の日 曜礼拝が、 貧富の差の出現によって異なった意味をもってくるという陳述 がこれである。 真理が絶対不変で, 現実が変化して行くものであるなら ば, 現実とそまちがっているという考えがでてくる。 (iii) については前 述の宗教と現実との関係でこれを認めてはいないか。 すなわち, 宗教とい えども時間の遅れをともなって現実に順応すべく教説を修正するというこ と,また, 宗教の教説の変化を進歩と同一視しているということはこのこ とを示してはいないだろうか。 この3点はプルードン全体にわたって考察 されるべき論点であるが, この時点では上の指摘を越えるわけには行かな い。ただ,このことと関連して, 小野氏のつぎの指摘は暗示的である。 「彼が永遠的なる真理を求めながら同時に, 現実の時代と社会に即応する ごとき真理を求めんとしている態度にも留意せねばならないであろう。 そ れはプルードンが18世紀以来の合理主義的自然法的思想の影響を多分にう けながら,同時に, 「歴史の世紀」 とさえ云われる19世紀の空気をも呼吸 していたからであろう。 いずれにしても永遠的なるものと歴史的なるもの との調和は遂にプルードンには不可能であったように思われる。」4)
1) 十戒の区別については神学上の諸説があって, プルードンの考えているもの と合わないものも多々あるが, つぎのように区分づけられたものはプルードン の考えていたものとほぼ一致するように思えるのでここにかかげておく。
I. I am Yahweh, thy God, who brought thee out of the house of slaves Thou shalt have no other gods before me.
II. Thou shalt not make unto thee a graven image.
III. Thou shalt not take the name of Yahweh thy God in vain.
IV. Remember the Sabbath day, to make it holy.
V. Honor thy father and thy mother.
VI. Thou shalt not kill.
VII. Thou shalt not commit adultery.
VIII. Thou shalt not steal.
IX. Thou shalt not bear false witness against thy neighbor.
X. Thou shalt not covet.
(The Encyclopedia Americana. vol. 8, 1962)
2) ブルードンによるその分類表はつぎのとおりである (De la célébration, p.39 )。
犯罪および軽罪 (commandements). (crimes et délits) 戒律 第1. 第2.第3. 第4. 1. 不敬虔。 (Impiété) 第 5. 第 6. 第 7. 2. 親殺しの罪。 (Parricide) 3. 殺人, 傷害, 等々。 (Homicides, blessures, etc.) 4. 淫乱。 (Luxure) 徳および義務 (vertus et devoirs) 1. 宗教, 祖国。 (Religion, patrie) 2. 孝行, 服従, 規律。 (Piété filiale, obéissance, discipline) 3. 隣人愛, 人間性。 (Amour du prochain, humanité) 4. 純潔, 羞恥心 (Chastété, pudeur)
第 8. 5. 盗み, 掠奪。 5. 平等, 正義。 (Vol, rapine) 第 9. 10. 6. 嘘,偽りの誓い。 (Mensonge, parjuré) 7. 現世の欲。 (Concupiscence) (Egalité, justice) IV 6. 誠実 , 誠意。 (Veracité, bonne foi) 7. 心の清らかさ。 (Pureté du coeur)
3) この文のすぐあとに, toutes les affaires privées ou publiques devaient se traiter en vertu des principes constituants et par une espèce d'algèbre casuistique (nous soulignons). とあるが,両者とも同意とは独 立した科学的方法であろうと思われるが, プルードンはどのようなものを考え ていたのであろうか。
4) 小野氏前掲書, pp.233~4.
IV
第1節では安息日の市民生活における影響がのべられたが第2節では安 息日の経済学的な意義が語られる。 これはある意味では懸賞論題からの脱 線であるが, プルードンのもっともいいたかったことはここに集中してい るように見える。 かれののちに発展させられる多くの経済理論の萌芽が, かれの強い倫理感に深く覆われた形においてではあるが, 見い出される。 われわれはまずプルードンの立論を跡づけ, あとで問題点を検討しよう。 かれはモーゼの体系の整合性を賞賛しその絶対性を確認してじぶんは絶 対的真実の追求に従事しているということを暗に示す。 モーゼの制度の賞 賛すべき簡潔さとその制度のすべての諸部分の密接な結合はすばらしいも ので,その制度を研究しているとひとは人間精神の案出物よりもむしろ物 理学の説明に従事しているように思えるほどである。 その制度にあっては すべてが集中しすべてが整合しすべてが調和している。 その1つの網の目 (Une seule de ses mailles) をとりあげてみよ, あなたは網全体 (tout le réseau) を引き出すことができる, と。
この体系の上にモーゼは国家の安定 (la stabilité de l'Etat) の基礎を おこうとしたのであるが, かれの制度が守られて行くには絶対的な真実と いえどもいつもそこに「人民のすべての階級」の注意を集中させておかね ばならない。 このために安息日の制度が導入されたのは前述のとおりであ る。したがって, かかるものとして安息日の制度は厳密に守られなければ ならなかった。 そこで, その日には, 祭礼に出席すること, 若干の宗教的 義務を遂行することのほかに, すべての筋肉労働は中止されることが要求 された。このことに対していかなる口実もいいわけもかれは認めなかっ た。 このことをはっきりさせるために, かれは第4番目の戒律に 「なん じ, 労働するなかれ」 (Tu ne travailleras pas) とつけくわえた。 要す るに、 なんじはじぶん自身でも他人によっても労働すべきではないという ことが命ぜられていた。 当時の家父はいろいろの特権があたえられていた のであるが, 安息日の規定に関しては絶対服従しなければならなかった。 申命記 (le Deutéronome) にも, 「おまえの召使や女中はおまえとおなじ ように休息しなければならない。 おまえもまた奴隷であったことを思い起 こせ」と書かれている。 かくして 安息日には 「日曜日の喜びはすべての もののうえに広がり」 (p.50), 「すべての条件において人間はその威厳を らもどす (Phomme ressaisit sa dignité), そして...... かれはかれの高貴 さ (sa noblesse) は犯すべからざるものなので身分の区別もそれを堕落さ せたら申しめたりはできないということを悟る」 (強調引用者) (p.51)。 「人間の形をした家具」 (meuble à figure humaine) たる召使も人間とし て威厳 (dignité d'hommes) をとりもどす。 かかる安息日の厳格な遵守 に人口の5分の4 (Les quatre cinquièmes de la population) は関心を もった。 あとのものたちはどうしてその遵守に冷淡だったのか。 モーゼが安息日の制度を上述のように厳密に定めたのは, それに対する 根強い抵抗があったからである。 それを制度化するにあたってのもっとも 危険な敵は, 貪欲 (la cupidité), すなわち富裕な農業者たち (riches agriculteurs), 製造業たち (manufacturiers), 商人たち (commerçants) たちの貪欲であった。 かれらは聖職者 (lévite) にいう, 1週間にもう1 日つけたしてくれ, さもなくばおまえたちが収穫物を納屋に入れたり畑を 耕したりするのを引き受けてくれるとよいのだが・・・・・・・。 もしひとがわれわ れから注文をとり消したり、 もしわれわれがこの投資をやり損ったりした ら, おまえたちはどのような損害賠償をわれわれに提供してくれるのか... ・・・。 どうかいつもおまえたちの犠牲を捧げてくれ, そして集会ではわれわ れのかわりに祈ってくれ, というのはわれわれはそこへ行く暇がない、わ れわれの職業がわれわれにそれを許さないのだ・・・・・・・」 (p.51), と。
プルードンはかかる反対論の一例として, 「前世紀の政治家, 聖職者であ る」 サン・ピエール (Saint-Pieue) の日曜礼拝反対論かれはよい僧 院を享受し、 何もせずにいたので, かれが日曜日に休息する義務を道理に あっていないと考えたのはまちがいではたぶん絶対にないを紹介, 批 判する。 サン・ピエールによれば, 日曜日に貧しい人々の家族に, 7~8時 間の労働によってかれらの必要物やかれらの子供たちの必要物を援助して やる方法やまた朝の3~4時間の間に教会でみずから学びまた子供たちを 学ばせる方法を, 与えてやることは, 単なる日曜礼拝という儀式よりもず っと神のお気にめす大きな慈悲であり, 善行であろう。 かれらにとって労 働がつづけられるということがどんなに家計のたしになるかを理解するに は,フランスの5百万世帯について, 自分の労働による以外には収入の途 のない家族が少なくとも百万世帯いるということを考えさえすればよい。 これらの貧しい家族は, 1年の80いくつかの休日と日曜日に平均して半日 につき、少なくとも5スーかせぐことができるであろう。 それゆえ,これ らの家族の各々は, 1年で少なくとも20フラン ( 5スー×80日/20スー 20フラン) かせぐであろう。 これは, 百万家族にとって, 2千万リーヴ ル以上になる。 もっともまずしい者たちの上に等しくばらまかれたこの2 千万リーヴル以上の施しがあるであろうか。 日曜日における労働の禁止に ついて最初の法令が作られたとき,もし司教たちが居酒屋や遊び場が建て られるのを予見していたならば,はたまた, 無為がひきおこすにちがいな い不秩序を予見していたならば, 日曜日における労働の禁止などしない で, かれらは, ミサを聞くことと朝の説教を規定することだけに甘んじて いたであろうに・・・・・・。 これらの計算は実に立派でこの慈悲の原則は非常に 賞賛すべきである。 ただ, 常識が少しばかりないというものである。 とい うのは, 一方では日曜日は人間に休息を与えるために制定されているとい うことを認め他方ではこの休息が人間に損害を与えるということを主張す あるのはばかげている。 また, 貧者の生計の資を供給しようとするのはよい としても, かれの道徳的かつ知的要求をも考慮に入れなければならない し, かれの体力にも限界があることも知るべきである。 この僧衣の博愛主 義者は貧者を日曜日ごとに7~8時間働かせ, そのうえ 3~4時間ミサと説 教に出席させようとする。 このことは, 他人が休んでいる日に全部で11~ 12時間仕事をせよということを意味する。 しかも, 日曜日にかせがれたこ の5 スー, すなわち過剰労働のこの成果, 窮地においとまれた人々のこの 報酬を,サン・ピエールは慈悲深くも施し (une aumône) というのであ るとプルードンは批判する。
26
ところでどうしてかかる日曜礼拝反対論はでてくるのか。 それは, 貪 欲,その結果としての貧富の差, すなわち財産の不平等にその基盤をもっ ている。そこでプルードンはかかる財産制度に対立するものとして古代イ スラエルの状態を, Fleuryl) によりながら, 綿密に描写し, そこでいか に諸条件の平等が保たれ, 不平等が生じないように行きとどいた配慮がな されていたかを力説する。 ここにプルードンにおける以後の平等実現策の 初原的形態がみとめられるのでこのイスラエルの状態についての論及を見 ておこう。 「イスラエル人たちは······住所を変えること, 過度に裕福にな ったり破産したりすることはできなかった。 その理由を発見するのは容易 である。 かれらのあいだでは, 少なくとも相続財産分配の不安定性や思わ ぬ出来事が許す範囲で,不動産は平等であった。 1家族の財産が他の家族 の手に移るのを禁止する法律もあった。……初めから土地は平等な分配に 従わされていた。 1種の総検地がョシュア (Josué) の配慮によって実施さ れ、若干の地方においては土壌の自然的不毛はより大きな面積の土地ある いは他の同等物を与えることによって相殺されるように計られた。 法律に よって, いかなる不動産の永久譲渡も認められなかった。 立法者は城壁内 の諸都市の家屋のみはこの法の適用外とした。 そしてこの制限の動機は一 目瞭然である。 かれは, 人民の増大に好意をもちつつも,人民が大都市に 密集し堕落するのではなく領土に一様に広がるのを望んだからである。 そ のうえ,この点にかれは国民にとっての独立と安全の保証を見いだしたの である。」 (p,53) かくしてイスラエル人たちは,財産を保持することを強 制され, 一般的繁栄のうちに, じぶんのぶどうの木といちじくのもとで生 活して (manger sous sa vigne et sous son figuier) 行くことが可能 となったのである。 そこにはいかなる大経営も大領地もなかった。 また, かかる財産の平等が保たれる工夫として, イスラエルでは50年 ( l'année jubilaire) ごとに貸借関係がすべて無に帰すという制度があったことをあ げている。 かかる諸制度のために, 「〔物を〕獲得しようとする情熱はその 根源において絶たれ, 労働と活動と勤勉は市民たちのあいだで必然的に維 持されたのである。」 (p.54) さらに, サン・ピエールやその他の反対者た ちのいう日曜日における労働についていえば, 「利用しうる材料」 (la matière exploitable) すなわち 「世襲の土地」 (le sol patrimonial) が 拡大不可能であるために, 「労苦」 (la peine) はだれに対しても増大され えず,その結果, だれもじぶん自身の過労の追加もなしえない。 商人た ち, 仕事場の職人, 親方たちに対しても安息日における仕事の中断は徹底 させられた。 いかなる負債返済も, いかなる商品引渡しも,いかなる労働 も強要されはしなかった。 モーゼの思想においては諸条件と諸財産の平等 (Pégalité des conditions et des fortunes) という考えはかくも強力な ものだったので、かれの諸市民法と諸改革の大部分はこの目的のためにな された。 しかし, モーゼは個人的財産の自由な発展の権利を傷つけること なしに合法的に財産権を制限することができたであろうか、換言すれば, 諸条件の平等は, 自然的制度であろうか、 それは公正なものであろうか, それは可能なものであろうか, とプルードンは自問し, おのおのの点につ いてあえて Oui と答えるとかれはいう。 そして, かれはこの答の根拠を, 友愛と連帯という源泉 (sources de la fraternité et de la solidarité) からのみ引きだされた諸命題という形で示す。 その結論はモーゼが引き だしたものと同じものとなろう。そのうえ, プルードンが「すべての労働 の独占者たち, プロレタリアートの搾取者たち, 産業の独裁者たちと産業 封建貴族たち, 3重の鎧に身をかためた兼職者たちと財産所有者たち」 (tous monopoleurs de travaux, exploiteurs de prolétariat, autocrates ou feudataires de l'industrie, cumulards et propriétaires à triple cuirasse) に単に証明しようと欲することは, それを享受していない大勢 の人々に帰さるべき 「労働し生きる権利」 (le droit de travailler et de vivre) は, ひとがなんといおうとも, 受益者たちの側からの心付けでは なく返還要求であるということである。」(p.55)
これらの諸命題とはつぎのものである。
1, この世に生まれてくる人間は横領者や侵入者ではない。 かれは,人 類の大家族の構成員として, 共通の食卓に坐る。 社会はかれを受け入れた り拒んだり自由にできる女主人ではけっしてない。 かれは,自己の誕生の 事実によって, かれの同胞に対する支配権を与えられることもなければ, いわんや,その同胞の奴隷になることもない。
2, 生きる権利 (le droit de vivre) はすべての人に所属している。 生 存は,その権利の取得 (la prise de possession) である。 労働は, その 権利の条件であり,手段である。
3, 生活手段を独占することは犯罪である。 労働を独占することは犯罪 である。
4, 子供が生まれた場合, かれの兄弟のいかなるものといえども, 父の 富への平等な参与を新来者に (au nouveau venu) 否認する権利をもたな い。 同様に, 1国民の中に年下の者 (cadets) は存在しない。
5, すべての兄弟は家族の維持に同じように義務を負わねばならない。 市民たちの間にあっても同様であるべきである。
6, 父の死後, 相続において, だれも,自己の年齢,自己の力量,自分 に与えられている才能, 自分が行なったと主張する用役に, 比例した分け 前を要求することは,できない。 というのは, 分け前の不平等は, 本質的 に家族の精神に反する。 甲の人を歓迎することは,乙の人を否定すること である。 同じように, 社会は諸機能および諸職業の優先や特権を認む べきではない。 社会はすべてのものに同一の好意と同一の報酬を与えるべ きである。
7, 人間は土地の上を過ぎ行くものである (L'homme est passager sur la terre)。 というのは, かれを養っているその同じ土地がかれの父を 養ったし, またかれの子供を養うであろう。 したがって, その人間の土地 所有権は, それがいかなるものに基づいているにせよ, けっして絶対的な ものではない。 土地の享受は法によって規制されるべきである。
8. 自分の家を焼いたりあるいは自分の収穫物に火をつけたりするひと は罰せられる。 このことによって, ひとは,単に, 隣人や客人の安全を意 図しているばかりでなく, 人間は社会から, 自分がそれに対して返し得る であろうよりも,いつもより多く得ているのであるから, 自分の作ったも のも, もはや自分には属していないということを暗示しようとしてい るのである。 職人も、作家も, 芸術家も、 おのおの, 自分の仕事に関する かぎり, この法則にしたがわねばならない (pp.55-57)。
これらの命題は市民たちの諸権利を家族的体制 (le régime familial) のうえにうち建てようとするものであって, ルソーの考えとは根本的に異 なっている。 ルソーはそれらを慣習と契約のうえにうちたてようとする, すなわち, 意志の表現を立法化しようとする, 一言でいえば, 正義と道徳 を大多数の決定と過半数の意見に従わせようとする。 こうすることによっ て, ルソーは悪循環におち入り, かれが脱出しようと思った奈落の底へま すます深く踏みこんで行く。 そして, かれはかれが非難している社会を無 罪としたのである。 かかる考えは専制の芽を含んでいて, 独裁制を発生さ せる。 だから社会改革はあくまでも上述の諸命題に沿って根本的に行なわ れるべきである。 最近の労働者の友たる博愛主義者たちの説教は軽蔑の念 をわたくしにもよおさせる。 かれらは安楽に暮しながらかれらの同胞たち の不幸について考え, 居心地のよい無為のなかで貧者が6日しか疲労しな いことで心を痛め, 貧者の収入が不充分なことから,きまってつぎのよう な同じ結論しか引きださない。 労働しなければならない, 節約しなければ ならない! (il faut travailler, il faut épargner!)。 かれらは, 腺病患 者の患部にいつも新しい塗り薬を適用することに夢中で血液全体を純化し たり病源を究めようとしない医者ににている。 かれらが根本を究める研究 に従事するのを恐れないようにしよう。 そうすれば,その研究はかれらが 正視するにたえぬような結論に必ず導くであろう。 かれらは、かれらの資 本, かれらの機械 かれらの特権でもってすべてを侵略してしまう。そし つぎにかれらはひとが労働者から労働を奪っていると憤慨してみせる。 かかる博愛主義者たちの説明は問題の解決には全然ならない。 むしろ, 聖 書の精神が根本的解決に触れている。 たとえば, サン・マティユーの第20 章にのべられている寓話である。その中で, イエス・キリストは,自分の ブドウ園に労働者たちを雇い入れるために朝早くから起きている家父を, モデルとして示している。 その家父は毎日1デナリウス銀貨を労働者たち に与える。 1日に何回もブドウ園に来る機会があるので, かれは仕事のな い労働者を見つけるごとに, かれはかれらを自分のブドウ園でやとってや っていた。 夕方がやってくると, この家父はかれの労働者のすべてのもの に1デナリウス銀貨を与えた。 ところが,悪口と不平の声が起こった。 かれ らのうちのあるものたちがいう. われわれはあくせく働いた (nous avons porté le poids du jour et de la chaleur) のに, あいつらはほとんど何 もしないでわれわれと同じように取り扱われているなんて! わが友 よ, とその家父は不平家たちの1人にいう, わたしはおまえに全然まちが ったやり方をしてはいない。 おまえはわたしとデナリウス銀貨で協定し たのではなかったか。 それゆえ, 自分の分だけを受けとり引き退ってく れ。 わたしは甲も乙も同じだけ与えるのが好きなんだから。 わたしは自分 に正しいと思うことをすることができないであろうか。 おまえが欲張りで あるからといって, わたしが人間的であるのを止めなければならないであ ろうか。 わたしのところでは最劣等のものも最優等のものと同じであり, 最優等のものも最劣等のものと同じである。 この教訓談のことを考えるで とにわたくし自身もこれはけしからぬことだと反発を感じないわけではな い。 ところで, この寓話の真に意味するところのものは、 前述の諸命題で 提起された真実, すなわち, 誕生,年齢, 力量, または能力のすべての不 平等は, ひとの生計の資 (subsistance) を作り出す権利の前では無とな るということである。 そして, その権利は、諸条件と諸財産の平等という ことによって表明される。
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かかる平等主義的主張は, プルードンのいわゆる集団的生産力という経 済的理由づけによって正当化される。 すなわち, 労働者における適性ある いは熟練の差異, 就業における量的または質的差異は, すべての構成員た ちが全力を尽したときには, 社会的行為 (1' ceuvre sociale) の中へ消え てしまうというのは, 全力を尽したときには, かれらは, かれらの義 務をはたしたのであるからーということである。 すなわち, 一言でいえ ば,諸個人における能力の不均等は, 全体的な努力によって中和される (se neutralise) ということである (p.58)。 そして, この観点から, サン・ シモン主義とフーリエ主義2) への挑戦がなされる。 サン・シモン派の分配 は業績と能力とに比例するという理論およびフーリエ派の資本, 労働, あ るいは才能にしたがって増減するという理論は, 論駁されるべきである。 そして, それらの理論の不道徳性はだれの目にも明らかである。 というの は,市民法の基礎たる家族法にまっとうから (diamétralement) 対立して いるからであり, またそれらの理論は労働者の自由を侵害し, そしてすべ ての相対的な優越性の誇大視に対する唯一の防柵である集団的生産の事実 を無視しているからである。 これらの理論はもっとも卑しい感情ともっと も低俗な情熱にもとづいている, というのはそれらの理論の枢軸はまさに エゴイズムであるからである。 このような考え方をすることによってかれ らはかれらが非難している文明の蘇生をはかっていると論難する。 諸条件と諸財産の平等という思想は,実は, 十戒の中にも現われている と主張し, プルードン一流の言語学的知識でこれを裏づけようとする。と こに, 一年後の 「財産とは何か。 それは盗みである」 という公式の原型は すでにみられる。 諸条件の平等は, 理性に一致しており, 権利として否み 難いものである。 その平等は, キリスト教の精神の中に存在しており, そ れは社会の目的である。 モーゼの立法はこの目的が到達しうるものである ことを証明している。 今日かくも恐れられているこの最高の教義は,意識 の最も奥底の深み——そこではその教義は、正義と権利の観念自体と同体 になっているに根ざしている。 「なんじ盗むなかれ」 (Tu ne voleras pas) と十戒はいっているが, それは 《lo thignob という原典の言葉の 語勢から考えれば, 《Tune détourneras rien, tu ne mettras rien de côté pour toi.》 (なんじ横領するなかれ, なんじみずからのために貯える なかれ)という意味である。(プルードンによれば, ganab という動詞は 文字通りには mettre de côté (横にのけておく, 貯える), cacher(隠 す), retenir(保持する), détourner (そらせる, 横領する) を意味して いる)。このモーゼの立法は,暴力や好略によってなされた盗みや詐欺 (escroquerie)や強奪のみならず,他人の同意なしに他人から得たすべて の種類の利益もまた禁止する。 要するに, 「分配の平等に対するすべての 違反 (toute infraction à Pégalité de partage), すなわち交換において にせよ,他人の労働からにせよ, 独断的に要求されたりあるいは独裁的に 徴収されたりするプレミアムは、 交換正義の侵害であり、 汚職であるとい うことを、その立法は,暗示している。(p.59)。 聖書の精神は,平等を主 張し賞揚している。 そして, 平等こそ、真実なのである。 そこでプルード ンはつぎのように叫ぶ。「古代人にはつぎのようなことがいわれてきた。 『なんじ盗むなかれ』 と。 そこでわたくしは〔現代人たちに〕いってやろ う。 『自分の兄弟の畑や牛やロバや衣服に課税する人はだれでも盗人であ (p.60)。 このように, 諸条件と諸財産の平等の問題はすでに提 起されてきた, しかし諸原則のない理論としてであった。 ふたたびその間 題をとりあげ、 それをその真実の中で深めて行かねばならない。その過程 は,他の多くの教説がとったのと同じ道をたどる。すなわち,「その教説 はまず最初はやじられ呪われるであろう, つぎにそれは考慮されてくるで あろう,そして検討がなされるであろう。 つぎにひとはそれを根本におい て正しいものとして認識するであろう, しかし時機尚早であると思うであ ろう,そしてついに最後にはそれは勝利を得るであろう。」(p.61)。 しかし, 問題はまさにこのときに生ずる。 「共産制でもなく, 独裁制でもなく,分 割でも,無政府でもなくて, 秩序の中での自由および統一の中での独立で あるべき社会的平等の状態を発見すること」。 さらに,この点が解決されると第2の問題がでてくる。 「移行のもっともよい方法を指摘すること。(ibid)。 ここに人類のすべての問題があると, プルードンはかれの目標を明確にしている。 そして, この問題はプルードンがかれの全生涯を通じて 探究するものとなる。
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さて, ブルードンは, かように懸賞論題の主題から離れたことに対して, 「わたくしはわたくしの主題を根本的に取り扱うために, 以上のすべて の 諸考察に視野を拡げなければならなかった」とのべ, 最後にイスラエル 社会における安息日制度の実施につくしたレヴィ (聖職者) の使命につい て詳しい論及を行なっている。 レヴィの役割は広範であった。 かれらは宗 教,行政, 軍事, 医務 (当時はほとんど栄養学と衛生学であった) のすべ てを担当する官吏 (fonctionnaires publiques) であった。 このことか ら,国家におけるレヴィの勢力は非常なものであろうと推測されるが実際 はそうではなかった。 というのは, かれらはかれらの役目の必要から全国 に広がっており, cosmopolites であった。 そのうえ, かれらは不動産所 有を全然許されていなかった。 しかも, かれらの生計の資は犠牲と奉納と いう形での人民の喜捨によった。 モーゼが自分の使命を実行するレヴィに このように厳格であったのは、かれの憲法の基礎をなす平等の原則は,諸 財産や諸地位を重複してもつことと相容れないと考え, 聖職者 ( =官吏) の秩序に財産相続の可能な個人を承認するということは官職の中に私有財 産を導入し国民の均衡を破壊することになると考えたからである。 そし て, ブルードンは, その現代(当時)の対応者たる僧侶に, レヴィとの比 較において, 嘲笑を与えて, 第2節をおえている。
「日曜礼拝論」においてはプルードンの後になって展開される多くの命 題が初原的な形で現われている。 しかもかれの経済学的な諸命題はかれの 全生涯を通じてこの節ではじめて現われてくるのである。 ここで,われわ これはつぎの諸問題を検討しておこう。 (i) われわれはまずプルードンが安 息日をなによりも人間がその威厳をとりもどす日として規定していること に注目しよう。ということは,労働する日々においては人間は威厳を失っ ていることを意味する。召使は人間の形をした家具として存在する。 安息 日における休息は,厳格に守られなければ, 貪欲によっておし流されて労 働日となってしまう。 したがって, 製造業者等々の貪欲からきびしい規定 によってその制度は防衛されねばならなかった。 このことは, プルードン が資本主義社会かれはいろいろの社会, ヘブライ社会, ギリシア社 会, ローマ社会などを考察するが, かれの頭の中にあるのはいつも資本主 義社会であるにおける日曜日という特殊な事態 (その日には資本主義 的生産が中止されるという)を資本主義社会における異常事態として (あ るいは逆に人間社会の本来の姿として) 観察することによって, 資本主義 社会の本質に迫っているのではなかろうか。 すなわち, かれは, 日曜日に 人間がその威厳をとりもどすということは労働日において人間が人間でな くなっているということ, マルクスの言葉では疎外がおこなわれていると いうこと, 同時に, 日曜礼拝反対論者たちの貪欲が日曜日の労働禁止反対 という形であらわれることは実は労働日延長の強要であるということ,ま たこのことは商人たちの利益は労働日延長によって引き出されてくるとい うことを,まさに直観的に, 見抜いていたのではなかろうかと推察され る。 したがって, 博愛主義者たちが日曜日の労働をみとめて貧者の生計の たしにしようとする提案にかれは激怒する。 かれにとって, これこそまさ に改革しようとしている社会の悪を激化させる行為として映る。 改革は 根本的に行なわれなければならない。 後述のごとく, プルードンの労働観 は歴史的観点の欠如によってマルクスのそれに比ぶべくもないが, 「日曜 「礼拝論」 におけるプルードンのかかる論述は「資本論」 第3篇 「絶対的剰 「余価値の生産」 第8章 「労働日」をわれわれに思い起こさせる。 4) マルク スが資本制的生産過程のまっただなかの労働時間の考察においてつかんだ ことをプルードンは資本主義的生産過程がまさに中断される日曜日の意義 の検討から直観した。 これこそまさしくプルードン好みの paradoxe では ないだろうか。 (ii) プルードンによって現実の社会と対立するものとして 描かれた古代イスラエルについてのかれの言及は多くの点でわれわれの興 味をひく。 かれによると, 財産の平等の実現のためにイスラエルではいろ いろの制度が工夫された (かかる諸制度は一言でいってしまえば資本発 生, すなわち剰余価値発生を阻止することが目的である。)ので, 「獲得し ようとする情熱はその根源において絶たれ, 労働と活動と勤勉は市民たち のあいだで必然的に維持されたのである。」 われわれの考えでは, 獲得欲 =利己心 (self-interest) = 利潤追求こそ, 資本主義社会における生産の 動機である。 これが根源においてたたれると, 活発な労働は行なわれな い。 したがって, 資本主義社会においては, プルードンの上述のパラグラ フは,前段と後段において矛盾している。 しかし, これは古代イスラエル 社会についていわれていることなのであるから, プルードンは何の疑問も なしにこれを書いている。 このことは, かれが獲得欲利潤追求のない. 労働をするのは「必要労働時間」だけである世界, じぶんのぶどうの木とい ちじくの木のもとで食する世界, すなわち独立小生産者しかも競争の 行なわれない,というのは競争は獲得欲に根ざし貧富の差を生ぜしめ階級 社会を誕生させるのであるから(とはいえプルードンは労働技術上での競 争は奨励するのであるが)の世界をかれが考えていたことを意味する。 そうすると, 後述の集団的生産力との関係はどうするのであろうか。 プ ルードンにあっては,このような矛盾は多く見うけられる。 これらはかれ のどのような理論によって統一されるのであろうか。 かれはこのことを直 観していたためか, 「モーゼは個人的財産の自由な発展の権利を傷つける ことなしに合法的に財産を制限することができたであろうか」 と問い, 背 定的な答えをしている。 しかし, その方法はなんら示されていない。この 統一をかれは探し求めることになる。 (iii) これは, (i) および (ii) 深 く関連するところであるが、 同じイスラエルの状態に関する論述におい て, 「利用しうる材料」 (la matière exploitable) が制限されているため に, 労働は拡大されえず, 労苦 (la peine) も拡大されえないというパラ グラフがある。この「利用しうる材料」 の制限の理論は, 「財産とは何か」 で平等論の経済学的一論拠として発展させられる。 5) こどで, プルードン は明らかに, 労働を苦しいものとしてとらえている。 かかるとらえ方は, われわれのプルードンの論述の整理のなかにも見うけられる。 かれにあっ では, 超歴史的に, travail = souffrance (p.40) peine (p.54 であった のだろうか。 この時点では, モーゼについてのべるとき (p.40) も古代イ スラエルについてのべるときも (p.54) 労働を労苦ととっていることは明 らかである。 この時点において, ブルードンは古典派経済学と同じ誤りを 犯しているといえる。 これは前述の永遠の真理という古典派的把握の誤り に対応するものである。 (iv) プルードンは資本と労働の対立関係をたし かに見ている。 かれが博愛主義者たちの改良のやり方を非難したパラグラ フにおいて、かれらはかれらの資本, かれらの機械, かれらの諸特権で もってすべてを侵略する。 そして, つぎにかれらは,ひとが労働者から労 をうばっていると憤慨してみせる」 と書く。 この意味は, 一方では, 資 本家は資本, 機械でもって小生産者, 労働者を駆逐する, そして, 失業者の 群を形成する。 他方では, 日曜日には労働が禁止されていることに憤慨し てひとは労働者から労働をうばっていると非難するということである。 こ の文からもわかるとおり, プルードンにおける資本と労働の関係は,資本 家と失業者との関係でとらえられる。 かれの頭にあるのは, 生産過程の中 の資本と労働の対立ではなくて, 失業者の救済 = 労働し生きる権利の返還 要求ということである。 この点に関するかれの論及は, 生産の外部の考察 に終始して生産内部という神秘をときあかす要所を衝かないために, 隔靴 掻痒の感がある。 (v) 集団的生産力の理論はかれの平等論の経済学的理論 づけの根本となるものである。 この理論は, 「財産とは何か」 において 発 展させられ精密化される。 6) 後者におけるこの理論はマルクスによってほ とんど同じ論理講造で 「資本論」 第1部第4篇 「相対的剰余価値の生産」 第11章 「協業」 のところで述べられている。 (vi) 最後に, プルードンが おわりのところでとりあげたレヴィの社会における役割であるが, これは 単に当時の聖職者への揶揄のみではなく, 平等の実現した社会における管 理者、知識人のあり方を示唆したものとして注目する必要がある。 また, 「財産とは何か」 で展開される天才の報酬の決定を思い起こさせる。 この書物はプルードンのすべての命題を含んでいるといわれるだけに, 問題もそれだけ多いといわざるを得ない。 われわれは以上の諸点を吟味し たが御検討いただければ幸いである。 〔なお, われわれのいわゆるプルー ドンの 「四部作」 に関するこの一連の研究はわたくしの1959-60年代に執 筆した修士論文を基礎としている。 それ以後, わたくしの関心はプルード ンの後期の時局論に移ったが, 「資本論」 百年との関係から, ピルーのいっ た 「マルクスとプルードンの人気は反比例する」 という言葉にもかかわら ず, プルードン研究が日本でも活発になされはじめた折から, 初期プルー ドンにおけるかれの作品の問題点を整序し, かねてからの疑義をのべて, 先学の御教示を仰ぐ次第である。 (10X-1967)。
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1) L'abbé Claude Fleury, Opuscules publiés par L. E. Rondet, Nismes, 1780-1783, 4 tomes en 5 volumes. T. ter: Les moeurs des Israélites et les moeurs des chretiens. Les Devoirs des maitres et des domes- tiques.
2) フーリエ主義からの, かかる平等論に対する応答として, Claude-Marie -Henri Dameth の匿名の書 が1841年に現われている。 この書物に対するブルードンの反駁書が, 1842年の Lettre à M. Considérant となる。 cf. Lettre à M. Considérant, PP. 158-9.
3) 前掲佐藤論文, p.108, 参照。
4) とくに, マルクス著長谷部訳「資本論」 青木書店, pp. 473-5 (Das Kapital, t. I, pp.287-9) 参照。 マルクスも書いている。 「新教は,ほとんどすべての 伝統的休日を作業日に転じたことだけによっても, 資本の発生史において重要 を役割を演じている。」 (p.475, 注124)
5) Propriété, p.224, 英訳 p.137.
6) op. cit., p. 215, 英訳 p. 127.
7) マルクス前掲書, pp.558-9. (Marx, op. cit., p.349)。 マルクスがここ でブルードンの理論を指摘しなかったのは unfair ではなかろうか。 もっとも かれは「哲学の貧困」 ではそれはサドラーのものであるという指摘をしている が・・・・・・。 (この点に関しては前掲佐藤論文, p.121)。
8) Proudhon, op. cit, p.228, 英訳 p.141.
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