讀書非爲君子是敕戒之辭。太子薨後王子山代大兄。
日夜六時。後;拜此經 癸卯年十月廿三日夜半º忽失,此
經不.知所、去°王子大怪°復以大憂將精,出汗所十
一月十一日亥時。宗我林臣入鹿等興軍°燒滅宮室。王
子王孫廿三王等。一時解、戶共昇 蒼天 太子生年卅六。
己巳四月八日始製,勝鬘經疏|辛未順 年正月廿五日
了壬申)年正月十五日始製,維摩經疏癸酉 14 九月
十五日了甲戌 -7 年正月八日°始製,法華經009
年四月十五日了制諸經疏·義儻不達太子每夜夢見
金人來授 不解之義太子乃解之以問於慧慈法師法
師亦領悟º發„不思,歎,未曾有 皆稱,上宮疏º 謂,弟子,日。
是義非、凡。持:還本國欲、傳聖趣 庚戌年四月持渡本
國講;演彼士 丙子 | 年五月三日°天皇不余太子
十三
立願延。天皇命立諸寺家卽以平復'諸國國造 造亦
各始誓寺。先是太子巡、國至于山代楓野村草
臣日"此地爲、體南弊北塞°河注其前 龍常守護後世必
有【帝王建,都吾故時遊賞卽於 蜂岳南下,立、宮秦川勝
率己親族,祠奉不.怠。太子大喜。卽敘_ 小德 途以.宮預、
之又賜新羅國所、獻佛像故以.宮、寺°施;入宮南水田
數十町弁山野地等丁丑 20 年四月八日太子講說勝
鬘經三日而畢。其儀如.² 天皇大悅。王子羣臣大夫已
下莫不,信受。 天皇以,針間國佐勢田地五十戶末代奉
施º卽頒;入斑鳩寺中宮寺等太子己卯加年十一月十
五日巡看山西科長山本陵處 經還向之時"卽日申時枉,
道入於片岡山邊道人家 卽有 飢人,臥道頭、 去三丈許。
太子之馬至.此不.進°雖、鞭猶駐°太子自言。哀々用音郎
下馬°舍人調使麻呂握取御杖近飢人,下臨而語.之可
々恰々。何爲人耶° 如.此而臥°卽脫 紫御袍覆其人身
賜.歌曰「科照片岡山爾°飯爾飢天°居耶世屢的其旅人。
可怜祖無爾°那禮韵成利來也°刺竹乃君波也无毋°飯爾
飢氏居耶世屢其旅人可怜。 起首進答日°斑鳩
乃°富乃 小川乃絕者已禁。 我王乃 御名忘也米。飢人之形。
面長頭大°兩耳亦長°目細而長°開、目而看內有非金光,異、
人°大有 奇相º 亦其身太香°命,麻呂,日° 彼人香哉 麻呂
という言葉を残しています。 王子の死後、シャン王子は長兄の身代わりとなった。毎日夜6時に本を読むことになった。 王子の死後、10月23日の深夜に経典を紛失した。 王子は驚き、これから大いなる心配をすることになると、十一月十一日の真夜中に経典に汗を流した。 王子とその息子や孫、23人の王などである。 同時に王の子や孫も天に昇り、36年に王子が誕生した。 "私は思わない、ため息をつく、存在しなかった、すべて呼ばれる、上宮呪咀は、弟子、日を言った。"不 "と "死 "の字の意味である。 天皇は、すべての寺院を設立して直ちに復興するよう命じ、各自が寺院に誓願するようになった。 皇子はまず全国を巡り、鳳閣の村に来た。 皇子は歓喜した。 王子は大喜びだった。 王子は歓喜した。 そして、新羅国に仏像を贈られた。 皇紀二十年四月八日、皇子は三日間、勝利の経典を講義された。 その儀式は次のようなものであった。 天皇は大いに喜ばれた。 皇子の息子、大臣、役人も皆納得していた。天皇は、ニードルモー王国の笹井畑の50家の最後の世代に、この経典を贈った。王子の馬が到着した。 彼は来なかった。 王子は自分に言った、「残念だが、鞭はまだある」。 王子は自分自身に言った、「私は申し訳ないと思っているが、申し訳ないと思っている。 彼は言った、「私は男だ。 男とは何だろう。 そして、ここに横たわったとき、紫の衣を脱いで、体を覆った。 歌に「食に飢えた旅人、世に生きる者よ。餓鬼の国を旅する貧乏人を憐れめよ。というものである。王はその名を忘れた。 飢えた男の姿。顔は長く、頭は大きく、耳は長く、目は小さく長く、目を開くと金ではない光が見える、不思議な姿をしている。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/hoketsuki/fr.htm に、群書類従を底本にして校訂した本文があります。
日本書紀暦録并四天王寺聖德王傳 具見行事奇異之状 未儘委曲而 憤々不尠 因斯略訪耆舊 兼探古記 償得調使膳臣等二家記 雖大抵同古書 而説有奇異 不可捨之 故録之云爾 石余池邊宮御宇天皇 庶妹間人穴太部皇女爲后 后夢有金色僧 容儀太艶 對后而立 謂之曰 吾有救世願 願暫宿后腹 后夢中許諾 自此以後始知有娠 經十二箇月 后巡宮中 至于厩下 不覺有産 女嬬抱持 疾入寢殿 后亦安臥 忽有赤黄光 至自西照于殿内 良久而止 天皇大異 敕群臣曰 此兒必後有異於世 即定大湯坐 若湯坐 沐浴抱擧 數月之後 能言能知人擧動 不妄啼哭 三歳之後 常旦日東向 稱南無佛而再拜 不因人敎 嬭母大奇 至六歳宮中有諸小王子鬪叫之聲 天皇聞著 設笞追召諸王子等 皆悚逃隱 而太子脱衣獨進 天皇問之 兄弟不和 諸小王子等輙以口鬪 今將笞誨皆悉隱避 而汝何獨進 太子合掌對天皇皇后 低首奏曰 不得立橋於天而昇 不得穿穴於地而隱 故自進受笞 天皇皇后大悦 敕曰 汝之岐 朕今知之 皇后披懷而抱 其身大香 香氣非常 皇后大異 乃最加愛 一説云 一抱太子 即數月懐香 故後宮爭欲奉抱 皇后亦屢加抱 太子生年十四 丁未年七月 物部弓削守屋大連與宗我大臣縁佛法興不之論 内忘姻親之義 外蔑君臣之道 發睚眦之怨 興志逆之軍 率己黨類 以稻爲城 調練軍士 擬襲京城 朝廷震恐 事倉卒 大臣奉勸太子 興整軍士 眞難波自後而襲 以平群臣神手爲少軍 自志紀襲於澁川 賊勢二分 東西相戰 大連登榎木 與太子軍爲戰甚強 官軍中矢者衆矣 太子在殿 士卒氣衰 軍政秦川勝率軍奉護太子 見官軍氣衰 馳啓太子 太子立謀 即令川勝採白樛木 刻造四天王像 擎立鋒 太子自率壯士而迫賊 賊與太子相去不遠 賊誓放物部府都大神之矢 中太子鎧 太子亦誓放四天王之矢 即中賊首大連胸 倒而墜樹 衆亂躁 川勝進斬大連之頭 少將軍撃平餘黨 係虜賊首家口 覆奏於玉造之東岸上【在東生郡】 即以營爲四天王寺 始立垣基 大臣與太子還宮覆奏 平群臣神手 軍政人秦造川勝等三人各有等差 後制新位之時 神手叙小德 川勝等叙大仁 四天王寺後遷荒墓村 小治田大宮御宇天王 以太子爲儲君 天下政事決於太子 太子即制十七條政事修國修身事
『日本宗自由雲記』や四天王寺の称徳王伝には、長老を訪ねて古文書を調べたところ、不満を晴らさずに様子がおかしいことに気づき、士鎮ら両家の記録がほとんど残っているが、古代の書物と同じ そして、ユネルシ・ユチ・ビアンゴン・ユユについての奇妙で避けられない物語があると言われました タイブの洞窟にあるユユ皇帝の側室の妹の部屋 王妃は威厳のある容姿の黄金の僧侶がいるという夢を見て、タイジは立ち向かう女王はこう言いました。「私には世界を救いたいという願いがあり、しばらくここにいたいのです。お腹が空いたら夢の中での約束です。これから妊娠期間があることが分かるのは12か月後です」 、宮殿に伺います、馬小屋の子に関しては、産む女がいるとは知りません、腕を組んで寝ることにします、皇帝は大ごとを起こして大臣たちにこう命じました。この子は将来、世界とは違うものになるだろう、つまり、大きなスープはスープのように座り、お風呂に座り、抱き合ったり持ち上げたりするが、数か月後には話せるようになり、人のことを知ることができるようになるが、行動はしない。 6歳の宮殿で、王子たちの叫び声が聞こえ、皇帝は鞭打ちの声を聞き、王子たちと他の人々は皆恐怖のあまり逃げ出したが、王子はそれを聞いて、義母が驚いたからだ。服を脱いで、一人で皇帝の中に入りました 兄弟たちは王子様たちと一緒には行きませんでした 口を開けたまま、今度は鞭打ちの指示をすべて隠しますが、なぜ一人で入るのですか 王子は手のひらを合わせて頭を下げました天皇皇后両陛下に「空に橋をかけることはできない、上に行くことはできない、地面の穴を通ることができない、そして身を隠すのだから、中に入って、 「鞭打ちを受けてください。皇帝の皇后はとても幸せです。ルー・ジーチー、私は腕を組んで体を抱きしめる皇后を知っています。香りはとても違います。王妃はとても違います。私はそれが一番好きです。かつてあったと言われています」あなたは王子を抱きます、それは数ヶ月続きます新年の7月にオブジェクト省は大連の番所を切り倒し、仏教の栄枯盛衰について語った蘇我大臣は内心忘れていました義理の義を主張し、対外的には君主や大臣の道を讒言し、不満の憤りを発し、反乱軍は自党を率いて米を都として兵を派遣し、首都攻撃を計画した。朝廷は慌てており、大臣たちは太子に軍を再編するよう進言しました。その後、難波が攻めてきました。大臣と大臣は神でした。小軍の子治季が川川の盗賊を攻撃しました。人はたくさんいます。王子は宮殿にいます、兵士は弱っています、軍隊が指揮しています、そして秦伝生は王子を守るために軍隊を率います。軍の精神が衰退しているのを見て、王子は励まされます。遠くないところで、泥棒は解放すると誓いました物部の大神の矢、皇太子カイも四天王の矢を放つことを誓い、泥棒の首、大連の胸が落ちて木に落ち、群衆は混乱した。川勝が大連に入り首を斬り、東勝県の弓尾の東岸、すなわち陣営を四天王廟として家族の口が演じられ、基地大臣と太子は帰還した。王位の時、ゴッドハンド徐暁徳伝勝ら徐大仁時天王廟は廃墓村小子天大宮に移り、王裕天王は王子を後継者とした
【在別卷】 爾於天下大嘉
此時高麗慧慈法師慕化來朝 太子悦爲師受業 問一知十 問十知百 不問而知 不思而逹 二年業成 道被幽顯 八人時共聲白事 太子一一能辨 各得情無復再訪 聰敏叡智 是以名稱厩戸豊聰八耳皇子 又奉稱大法皇 太子謂慧慈法師曰 法華經中此句脱字 師之所見者如何 法師答啓 他國之經亦無有字 戊辰年九月十五日 閇大殿戸 七日七夜 不召羣臣 又不御膳 夫人已下不得近習 時人太異 法師曰 太子入三昧定 宜勿奉驚 八日之旦 御机之上有法華一部 驚深加恭敬 出自定後 常有口遊曰 可怜可怜 大隋國僧我善知識 好々讀書 不讀書非爲君子 是敕戒之辭 太子薨後 王子山代大兄 日夜六時禮拜此經 癸卯年十月廿三日夜半 忽失此經不知所去 王子大恠 復以大憂【今在經者 小野妹子所持也 事在太子傳】 十一月十一日亥時 宗我林臣入鹿等 興軍燒滅宮室 王子王孫廿三王等 一時解尸 共昇蒼天 太子生年卅六 己巳四月八日始製勝鬘經疏 辛未年正月廿五日了 壬申年正月十五日始製維摩經疏 癸酉九月十五日了 甲戌年正月八日始製法華經疏 乙亥年四月十五日了 制諸經疏 義儻不達 太子毎夜夢見金人來授不解之義 太子乃解之 以問於慧慈法師 法師亦領悟 發不思歎未曾有 皆稱上宮疏 謂弟子曰 是義非凡 持還本國欲傳聖趣 庚戌年四月持渡本國 講演彼土 丙子年五月三日天皇不悆 太子立願 延天皇命立諸寺家 即以平復 諸國國造伴造亦各始誓立寺 先是太子巡國至于山代楓野村 謂羣臣曰 此地爲體 南弊北塞 河注其前 龍常守護 後世必有帝王建都 吾故時遊賞 即於蜂岳南下立宮 秦川勝率己親族祠奉不怠 太子大喜 即叙小德 遂以宮預之 又賜新羅國所獻佛像 故以宮爲寺 施入宮南水田數十町并山野地等 丁丑年四月八日 太子講説勝鬘經 三日而畢 其儀如僧 天皇大悦 王子羣臣大夫已下莫不信受 天皇以針間國佐勢田地五十戸末代奉施 即頒入斑鳩寺中宮寺等 太子己卯年十一月十五日巡看山西科長山本陵處 還向之時 即日申時 枉道入於片岡山邊道人家 即有飢人臥道頭(以下略)
[別冊] エル・ユー・ティアン・ジア・ジア
このとき、Gao Li Huici Master Mu Huaが教師としてYue王子に求愛し、カルマを受け入れ、10の質問、10の質問、10の質問をしますが、質問しないでください、しかし考えないでください。 , 彼は啓発され、8 人が明らかにされました。愛に戻ることはありません、そして私はコン・ミンと知恵を再訪します。それが名前が安定の家である理由です, フェン・コン、8 つの耳の王子、そして彼はまた、大法の皇太子であり、慧慈先生と呼ばれていますが、2009年9月15日、正殿で7日7晩開催され、大臣は召喚されず、夫人は下山して勉強することも許されませんでした。 、大儀師は、王子はサマーディに入るべきだと言いました、驚き、深く尊敬し、それは自決から出たもので、よく言いました、「かわいそうに、隋の貧しい僧侶。私は良い教師です。もしあなたがそうしないなら」 「本を読まないんだよ、君は紳士じゃないよ」 23日の真夜中、私はこの経典を突然紛失してしまい、どこへ行ったのか分かりませんでした。王子、王、孫、二十三人の王などがいたのです。しばらく解剖して昇天し、嘉緒正月九月十五日、正月八日に法華経が編纂され、益海年四月十五日には全ての経典が完成した。編纂されたが、義は達成されなかった。王子は理解できない義を教えるために毎晩黄金の男の夢を見ました。師もまた、彼が何も考えていないことを理解し、ため息をつきました、そして彼が上公宗と呼ばれたことは一度もありません。彼の弟子たちはそれを言いました「彼は正義であり、並外れた人物です。彼は祖国に帰りたいと考えており、聖なる利益を継承したいと考えています。寺院の設立は王国を平定するためであり、仲間の建設は寺院の設立の始まりでもあります。まず、 , 王子は国を巡回しました. シャン朝の豊渓村については、役人はこの場所が遺体であると言いました. 私が古い場所を訪れたとき、私は豊渓の南に宮殿を建てました. 秦伝生は親戚を率いて、皇太子は大喜びし、暁徳を分け与えたので、宮殿を寺院として使用し、新羅から贈られた仏像に与えた。聖なる花輪を三日間捧げ、儀式は修道士のように完了し、大岳皇帝、太子、大臣、役人全員が降りてきて、大臣と大臣全員が最後の世代の50世帯を受け入れるようになりました。針と瀬田の国、盤九寺中公寺ら諸侯に授与され、建毛年の11月15日、山西省山本廟を視察して帰参し、同日、道家側に入った。無駄に片岡山。
これで見ると、そんなに厄介な漢文とも思えません。手持ちの群書類従を見ると、返り点がついています。近代デジタルライブラリーにもあります。そういうのを参照し、辞典を引けば、大体読めるのではありませんか。新川氏の本があるのはいいですが、そういうのは全くの研究書で、一般向けにやさしい訳文があるとは思えません。だいたい研究書というのは、書き下しまでで、訳文は載せません。それだったら、取り敢えずは、返り点を参考に自分で読む方がいいと思います。専門家でない限りそれで十分です。 丁丑年四月八日 太子講説勝鬘經 三日而畢 其儀如僧 天皇大悦 王子羣臣大夫已下莫不信受 天皇以針間國佐勢田地五十戸末代奉施 即頒入斑鳩寺中宮寺等 これなんか、楽に読めますよ。 丁丑年四月八日 太子は勝鬘經を講説し、三日で終わった。その様子は僧のようであった。天皇は大いに悦び、王子羣臣大夫以下で信受しないものはなかった。天皇は針間國の佐勢の田地五十戸を末代にわたって施入申し上げ、それをそのまま斑鳩寺中宮寺等に頒入された。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1879458/1/176
・ 太子生年十四。丁未年七月。物部弓削守屋大連。與宗我大臣縁佛法興
不之論・・・。太子在殿。士卒氣衰。軍政秦川勝率軍奉護太子。見官軍氣
衰。馳啓太子。太子立謀。即令川勝採白樛木。刻造四天王像。擎立鋒。
太子自率壯士而迫賊。太子亦誓放四天王之矢。即中賊首大連胸。倒而
墜樹。衆亂躁。川勝進斬大連之頭・・・。覆奏於玉造之東岸上在東生郡。
即以營爲四天王寺。始立垣基。
・ 宗我大臣輔政。太子與之興隆三寳。紹發二諦。始起四天王寺。元興寺。
一説法隆寺。 中宮寺。橘寺。蜂岳寺。并宮領賜川勝秦公。池後寺。葛木寺。
賜葛木臣。又制爵十二級・・・。
秦河勝 - Wikipedia
・ 広隆寺 ・ 松尾大社 ・ 大避神社 ・ 伏見稲荷大社 - Wikipedia
上宮聖徳太子伝補闕記(読み)じょうぐうしょうとくたいしでんほけつき
「上宮聖徳太子伝補闕記」の意味・わかりやすい解説世界大百科事典内の上宮聖徳太子伝補闕記の言及
【聖徳太子】より
…当時の太子伝承は《上宮聖徳法王帝説》に記され,太子が一時に8人の言をわきまえた聡敏な人であったこと,《維摩経》や《法華経》の疏を製作中,夢に金人が現れて解答を与えたことなどを記す。この説話は,《上宮皇太子菩薩伝》に夢堂の禅定,《上宮聖徳太子伝補闕記》に大殿の三昧定という形を経て,10世紀に成立した編年体の《聖徳太子伝暦》で夢殿にこもって金人より妙義を聴き,また夢殿入定中に唐へ渡り前生所持の法華経を持ち帰るという説話となる。このような説話の発展が示すように,太子は日本における仏教の伝来と流布を象徴する貴種であった。…
※「上宮聖徳太子伝補闕記」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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