2026年3月20日金曜日

ウィリアム・ダラント - Wikipedia

ウィリアム・ダラント - Wikipedia

ウィリアム・ダラント

『文明の話』

ダラント夫妻は彼らの言う「一体の歴史」を創るために『文明の話』を通じて骨を折った。歴史の「特殊化」に対する極におき、「専門家の信仰」と言われてきたものを前もって拒否した。その目的は文明の「伝記」を書くことであり、この場合、通常の戦争、政治、偉大さや悪事の伝記ばかりでなく、文化、芸術、哲学、宗教、さらにはマスコミの興隆までを含む西洋文明を論じた。『文明の話』の大半は、それが検討した2,500年間の毎日の人々の生活状態を検討している。その証言には臆面も無く道徳的な枠組みも持ち出しており、「弱者に対する強者の支配、単純な者に対する賢者の支配」の反復を常に強調している。『文明の話』は最も成功した史料編纂シリーズである。このシリーズはサイモン & シャスターを出版社としてひとかどの会社にしたと言われてきた。全11巻本の省略しないオーディオブックがブックス・オン・テープ Inc. によって制作され、アレクサンダー・アダムズ(別名グロバー・ガードナー)が読み上げた。

『文明の話』はその文体のすばらしさ、さらにダラントが称賛したローマとルネサンスの作家の多くの格言を含んでいることでも注目に値する。「ルネサンス」の章(137ページ)でサンドロ・ボッティチェッリの性格におけるある種矛盾性を論じ、「我々の全てと同様、疑いも無く彼は多くの人物であり、その時の状況に応じて自分をある者に、またある者に転じており、本当の自分は世界から驚くべき秘密を保っている。」と記している。

『文明の話』の第10巻、『ルソーと革命』(1967年)についてはピューリッツァー賞の文学部門を受賞した。1977年、アメリカ合衆国政府から市民に与えられる最高の栄誉の1つ、大統領自由勲章ジェラルド・フォード大統領から贈られた。

『文明の話』の第1巻は『我々の東洋の遺産』(1935年)であり、さらに導入部と3巻に分かれている。導入部は読者の文明の異なる側面(経済、政治、道徳、心理)に連れて行く。第1書は中東(シュメールエジプトバビロニアアッシリアユダヤペルシア)の文明を扱った、第2書は「インドとその近隣」を扱った。第3書は極東まで移動し、中国文明が繁栄し、日本史が世界の政治地図で居場所を見い出している。

その他の作品

1944年4月8日、ダラントはユダヤ教指導者マイアー・デイビッドとキリスト教指導者クリスチャン・リチャード博士から、道徳的水準を上げるための運動」を始めることについて相談を受けた。ダラントはそれではなく、人種差別に対する運動を始めることを示唆し、『相互依存の宣言』のための概念を説明した。その宣言のための運動、デクラレーション・オブ・インターディペンデンス Inc. は、1945年3月22日にハリウッド・ルーズベルト・ホテルでの祝賀会で立ち上げられ、トーマス・マンベティ・デイヴィスを含む400人以上が出席した[8]。この宣言は1945年10月1日に、エリス・E・パターソンによって連邦議会議事録に掲載された[9][注釈 1]

ダラントはその経歴を通じて何度か講演を行った。その中には1948年4月21日、イランテヘランでイラン・アメリカ協会の場での講演として行われた「文明の歴史におけるペルシア」もあった。これは「アジア研究所公報」(元はペルシアのためのアジア研究所公報」、その後「イランの芸術と考古学)第7巻第2書に含めることが意図されたが、結局出版されなかった[10]。その後に『ルソーと革命』が続き、『歴史の教訓』という薄い観察録が出たが、これらはシリーズの梗概であり、分析でもあった。

アリエルとウィリアムのダラント夫妻は『文明の話』を20世紀まで続ける意図があったが、単純に時間不足のために10巻目が最後になると予測していた。しかし1975年に11巻目で最後の『ナポレオンの時代』を出版するところまで行った。さらに12巻目として『ダーウィンの時代』のメモ、13巻目『アインシュタインの時代』の概要も残しており、それで1945年までが含められる予定だった。

ダラントの作品で近年に死後出版されたものもある。『全時代の最大の心と概念』(2002年)、『歴史の英雄: 古代から現代の夜明けまで文明の簡潔な歴史』(2001年)、『落ちた葉』(2014年)の3冊である。

晩年

ダラント夫妻は学術書と同じくらいラブストーリーでも注目され、それを『二重の自叙伝』に残している。ウィリアムが病院に入った後はエリアルが喫食を止めた。ウィリアムはエリアルが死んだと聞いた後に自身も死んだ。1981年10月25日と11月7日であり、2週間しか違わなかった。その娘、エセルと孫は病気で弱っているウィリアムにエリアルの死を知らせないようにしていたが、ウィリアムは夕刊の記事でそれを知り、96歳で死んだ。ロサンゼルス市のウェストウッドビレッジ記念公園墓地で、妻の隣に埋葬された。

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