朝鮮半島の古代史年表
中国史料に確認できる新羅の初出記事は、
『三国史記』や『三国遺事』によれば | ||
前37年 | 夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。『魏書』と『三国史記』 | |
32年 | 高句麗は後漢の光武帝に朝貢した際に、光武帝より高句麗王に冊封された。 | |
59年 | 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。 | |
73年 | 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。 | |
73年 | 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。 | |
121年 | 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。 | |
123年 | 春三月に倭国と講和した。 | |
158年 | 倭人が交際のために訪れた。 | |
173年 | 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」) | |
193年 | 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。 | |
197年 | 第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。 | |
219年 | 高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵攻し、高句麗は敗退して村々が焼かれたほか、伯固の長子発岐、涓奴部ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。 | |
夏四月に倭人が金城を包囲。 | ||
五月 倭兵が東辺を攻めた。 | ||
西安平で寇掠を働き魏の将軍毌丘倹による侵攻を招いた。 | ||
1回目の侵攻が行われ、東川王(位宮)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。毌は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属しなかった。 | ||
再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。 | ||
夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。 | ||
287年 | 夏四月に倭人が一礼部を襲う。 | |
289年 | 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。 | |
292年 | 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。 | |
294年 | 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。 | |
295年 | 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 | |
300年 | 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。 | |
312年 | 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。 | |
312年 | その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用することで技術的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に都を落され、臣従した。 | |
344年 | 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。 | |
345年 | 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。 | |
346年 | 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。 | |
355年 | 前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などが伝わった。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。 | |
364年 | 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した | |
372年 | 前秦の苻堅が高句麗に仏像や経文を送り、高句麗は官史養成のために太学創立、朝鮮半島を支配下に置いていた国家では最も早く仏教を受容した。 | |
375年 | 肖門寺・伊弗蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮半島での仏教の始まりと考えられている。 既に東晋の僧・支遁(366年没)が高句麗僧に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の主導した仏教受容は国家的な取り組みであったことと見られる。 | |
391年 | そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。(好太王碑文) | |
393年 | 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。 | |
397年 | 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。 | |
399年 | 百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。(好太王碑文) | |
5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。(好太王碑文) | ||
五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。 | ||
三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。 | ||
春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。 | ||
倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。(好太王碑文) | ||
倭兵が明活城を攻める | ||
春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。 | ||
春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。 | ||
高句麗は倭(日本)と敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。この時期の高句麗が倭と敵対したことを示すものとして、宋の順帝に対して、478年に倭王武が上表した「而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至」との文言点からも裏付けられる。 | ||
倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した。 | ||
夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。 | ||
高句麗と倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰った。 | ||
倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。 | ||
広開土王の時代には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。高句麗の仏教は老荘思想を介して神仙信仰と習合していたと見られている。神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも窺える。 | ||
長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した | ||
倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。 | ||
倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。 | ||
夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。 | ||
夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。 | ||
夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。 | ||
倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。 | ||
百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。この時期は満洲南部、遼東半島、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。 | ||
倭人が東辺を攻める。 | ||
倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。 | ||
五月に倭人が辺境を攻める。 | ||
夏四月に倭人が辺境を攻める | ||
百済と新羅の連合により南部の領土を奪われている。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や突厥などとも手を結ぶ戦略を採った | ||
春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。 | ||
589年 | 中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するため突厥と結ぶ。このため隋から4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍もあってこれらすべて撃退した。 | |
608年 | 隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した | |
618年 | 隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。 | |
624年 | 唐に願い出て、『道徳経』などを下賜されるとともに道士の派遣を要請し、高句麗の国内で道教の講義を開いてもいる。また仏教寺院を道観に転じることもあった。 | |
653年 | 秋八月、王は倭国と修交した。 | |
660年 | 新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果、百済が滅亡。 | |
662年 | 七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。唐新羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた倭軍の軍船400艘を白江に焼く。 | |
663年 | 倭国の水軍が来て、百済を助ける。 | |
663年 | 白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、高句麗は孤立した。さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、高句麗の国力消耗。 | |
668年 | 淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを機に唐・新羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、宝蔵王は投降。ここに高句麗は滅亡した。 滅亡後は北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。剣牟岑[8]など高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。 旧領に残った者は、後に勃興した女真の金に取り込まれていき、歴史から姿を消した。 遺民の一部には倭へ逃れた者もいる。例えば『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており。高麗神社・高麗川・日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。 | |
670年 | 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。 | |
698年 | 三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。 | |
703年 | 日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。 | |
722年 | 日本の賊の路を遮断した。 | |
731年 | 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。 | |
742年 | 日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。 | |
753年 | 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。 |
『三国志』魏書東夷伝 倭人の条 | ||
卑弥呼(ひみこ、175年 - 247年あるいは248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。後継には宗女の壹與が女王に即位したとされる。 時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。名を卑彌呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。 | ||
卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。 | ||
帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。 | ||
倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。 | ||
難升米に黄幢を授与。 | ||
倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。 | ||
卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。 | ||
(西晋の泰始2)11月、倭の女王(壱与か?)遣使し、西晋に朝献する(『日本書紀』神功66年条に引く晋起居注、晋書武帝紀)。この後、413年まで中国の史書には倭の関係記事見えず。 壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都に上り、男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ |
0 件のコメント:
コメントを投稿