2023年9月4日月曜日

穴太衆 高めよう徳島!ふるさとの四大青徳島古事記研究会会長 立石量彦氏 近江の石垣築成者穴太衆



穴太衆(あのうしゅう)について
穴太衆(あのうしゅう) は、 日本の近世初期にあたる織豊時代 (安土桃山時代)に活躍した、 石工の集団。
主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団。古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。
北垣聡一郎の『近江の石垣築成者穴太衆』 (昭和51年(1976年))によれば、 粟田氏の話として、「先祖は阿波国から来た」 と語っていたとしている。
(wikipediaより引用)
江戸時代初期 阿波屋喜兵衛創業×
十五代石匠 代表取締役社長 粟田 純徳


https://dl.ndl.go.jp/pid/6062576/1/11

北垣聡一郎「近江の石垣築成者穴太衆」

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 穴太の地は,大津市坂本町穴太にあって, 京阪電鉄石坂線の終着験坂本から, 西へ約2kmの地点に位置する。
 古くより漢氏系渡来氏族の本貫がおかれたところとして また、のちには石工の里として注目されている。穴太の呼称については, 嵯峨天皇の勅命によって編纂された 『新撰姓氏録』 『未定雑姓右京」 条に 「志賀穴太村主後漢孝献帝之男美波夜王之後也」 とする例や, また, 山城国にも 「未定雑姓」 として「穴太村主曹氏宝徳公之後也」 とみえるところから、 両者が都と里とに居住する, いわゆる両貫を有する渡来氏族であったことをうかがわせるものであろう。また、 少なくとも9世紀中葉には成立したとみられる 『令集解』 のうち, それに引用する「穴記」の著者
としての明法博士, 穴太内人もこの氏族からの自出が考えられる (『三代実録』)。
 いまひとつは『正倉院文書』 にあって, 奈良時代とみてよい史料のなかに収められた, 穴太の 「村主」,「日佐」, 「史」 を有する人名等が散見されることである。
 なかでも穴太村主について, つぎの史料は注目されよう。 すなわち, 『続日本紀』 延暦六年七月条には「右京の人正六位上大友村主広道, 近江国野洲郡の人正六位上大友民日佐亀人, 浅井郡の人従六位上錦曰佐興 蒲生郡の人従八位上錦日佐名吉, 坂田郡の人大初位下穴太村主真広等, 並びに本姓を改め志賀忌寸を「賜う」 とする記事である。
 この 「坂田郡」 に貫を有する 「穴太村主真広」が,「志賀忌寸」 姓に改姓したことについては, 「新撰姓氏録」 「摂津国諸蕃」 に 「志賀忌寸, 後漢孝献帝より「出る」 とするところから理解することができる。 しかし, 「大友村主」, 「大友民曰佐」, 「錦曰佐」については 『姓氏録』 に記載がなく, その祖先伝承はさだかでない。
 ところが 『和名類聚抄』によれば, 穴太の地の存在する湖南 滋賀郡大友郷には大友・志賀両氏族の本貫

北垣聡一郎
があり,さらにまた, 隣接して錦部郷となるが, ここ
は (織) 氏の本貫でもある。
以上のことから, 穴太村主真広をはじめとするこれ
ら三氏族の関係は, 同族, もしくは擬制的同族 (民族
の立場からみて同族) を意味するものであろうか。
このように, 古代の氏族としての穴太氏が保持した
であろうその職掌・性格については, 今日明らかにし
がたい。ただ, いっぽうでは, 穴太を安康天皇の名代
である穴穂部から出たものとする説 (太田亮 『姓氏家
系大辞典』 ) から, 安康天皇が穴穂皇子といわれたの
は, 名代以前に穴穂なる名称があったことを示すもの
で, 穴穂皇子がアナホアナオの氏人によって養育さ
れたところから名づけられたものとする意見 (落合重
信 「地名からみた尼崎地域」 ( 「地域史研究』 1-3
所収))もあることを申しそえておく。
くだって, 中世における穴太氏に関する記録は,現
在のところ全く知ることができない。 わずかに 『康平
記』 の康平五年 (1062) 正月十三日条に, 「屯食八
具」のひとつとして「穴太御園」 の名を知ることがで
きるのみである。
 かかる理由のもとに, 石垣築成者としてその名をと
どめる, 近世の穴太について述べてみたい

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 近世における穴太の初現は, 『兼見卿記』の天正五
年 (4577) 九月廿四日条の 「早々に穴太を召し寄せ,
石懸け (石垣)を普請す, 醍醐清龍の御修理也」 とす
る例であろう。
 いっぽう 『小早川家文書』 によれば, 同十八年 (15
90) 七月十一日秀吉は, 小早川隆景 吉川広家に対し
「穴太三十五人を遣わされ候, 宿伝馬事」 とあって,
穴太のうちより三十五人を相州石垣山城普請のため
に派遣することを要請している。
 さて,近世の穴太がはじめて受領名を冠して現われ
るのは, 『駒井日記』 文禄二年(1593) 十二月廿六日
条に「伏見城の石垣 穴太出雲」 とする例であろ
う。 また, その実体については「一話一言』 所収の
「御材木石奉行支配穴太頭二人由緒書」 によってうか
....

20頁


 古式穴太流石積み技術保持者である栗田万喜三氏(1911年生) によれば, 「私の先祖は阿波国からきた。私はその十三代目を継いでいる。 かつてその盛んなときには, ここ 穴太)も二百から三百人もの穴太衆がいたと祖父や父から聞いている。 また, 私の若いころ(廿才ごろ), 父に連れられ叡山にのぼった (石垣修築) 当時この石組みを眺めるたびに, 先祖の築いたこの石垣のように, 一日も早く築けるようにと今日まで一生懸命がんばってきた」と述べられている。
 そして今, 叡山の西塔 弁慶屋敷周辺に残る石垣の一部は,まさにこの穴太積とみえる。
 前述した大友郷, なかでも坂本は古代の渡来氏族,三津氏の本貫でもある。 この場合, 天台宗を創設した伝教大師最澄もまた, この三津氏より出たものとされることである(『元亨釈書』)。
 以上の伝承は, 城郭の石垣に先行する遺構としての寺院が考えられるのではあるまいか。 しかし, この点にうついては今後入念な調査に加え、 それについての多面的な検討を要することはむろんである。

〔付記〕
最後に≪近世城郭研究からの提言 ≫として, 私案を
提示して大方のご批判を仰ぎたい。
過般, 古代学研究会主催による滋賀里周辺の古墳見
学は, 多くの点で得るところがあった。 玄室内石組み
をみて, これら 「もちおくり」 部分がなぜ崩れないか

書誌情報:出版者古代學研究會出版年月日1976-04
17~21頁













1 件のコメント:



  1. 北垣聡一郎の『近江の石垣築成者穴太衆』 (昭和51年(1976年))によれば、 粟田氏の話として、「先祖は阿波国から来た」 と語っていたとしている。

    《古式穴太流石積み技術保持者である栗田万喜三氏(1911年生) によれば, 「私の先祖は阿波国からきた。私はその十三代目を継いでいる。 かつてその盛んなときには, ここ(穴太)も二百から三百人もの穴太衆がいたと祖父や父から聞いている。 また, 私の若いころ(廿才ごろ), 父に連れられ叡山にのぼった (石垣修築) 。当時この石組みを眺めるたびに, 先祖の築いたこの石垣のように, 一日も早く築けるようにと今日まで一生懸命がんばってきた」と述べられている。》北垣20頁より

    また諸説あるがアヌ、アノはヘブライ語で我々を意味する。

    《20: 25 あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。》出エジプト記
     
    穴太衆のドキュメンタリーはyoutube [Dig More Japan] 石垣を積む男 (サムライ・ウォール短縮版)などで見ることができる。



    https://freeassociations2020.blogspot.com/2023/09/blog-post_31.html

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